かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

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馬場あき子の外国詠280(中国)

2014年08月31日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の旅の歌【李将軍の杏】『飛天の道』(2000年刊)177頁
              参加者:Y・I、T・K、曽我亮子、T・H、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
               レポーター:T・H
                 司会とまとめ:鹿取 未放


220 隴西(ろうせい)の雲暗き日の李将軍物思ひ埋めし敦煌の杏

     (まとめ)(2010年6月)
 前述のエッセー「李将軍の杏(あんず)」によると、『和漢朗詠集』に、「隴西(ろうせい)雲暗く李将軍家に在り」という詩句があるそうだ。エッセーの中で、馬場はこう書いている。「将軍が家に居るかぎり戦争はない。そんな平穏なある日、李将軍は何を思って砂漠の広がる辺土に杏を植えたのだろう。」と。
 Wikipedia等で調べると、一説には作物の乏しい貧しい民の飢餓対策として杏や桃を植えたとある。李広は勇猛な武将だったので匈奴からは「飛将軍」とあだ名され恐れられたが、必ずしも政治的には恵まれなかった。そんな李広が戦いのない日日鬱々と物思いに沈みながら植えた杏の苗。もちろん、民の飢餓を救いたい純一な思いの他にも、世に思うように入れられない暗いたぎりがあったであろうその複雑な胸中を思いやった歌である。(鹿取)


     (レポート)(2010年6月)
 「隴西」中国甘粛省南東部。蘭州の南東部約140キロメートルにある県。李将軍の物語は『史記』下巻列伝参照。彼は幾多の匈奴との戦いに出征し、武功を立てたが、晩年はあまり恵まれなかった。馬場先生は敦煌の杏をご覧になって、その李将軍の心中を思いやっておられる。物思いを埋めたとの言葉に、深い哀愁を覚える。(T・H)


* 219~222番歌の李広についての記述は、本史氏の小説『飛将軍李広』や
  Wikipediaの記事等を参照した。ちなみに、本史氏は本邦雄の御子息である。



     
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馬場あき子の外国詠279(中国)

2014年08月30日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の旅の歌【李将軍の杏】『飛天の道』(2000年刊)176頁
               参加者:Y・I、T・K、曽我亮子、T・H、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                レポーター:T・H
                司会とまとめ:鹿取 未放


219 敦煌の杏乾びて早き秋『史記』は李将軍の杏を載せず

     (まとめ)(2010年6月)
 馬場あき子の朝日新聞に載ったエッセー「李将軍の杏(あんず)」(2001年12月19日付け)によると、敦煌の休日、自由市に山盛りの干し杏が売られていて「李広杏」と書かれていたという。上記エッセーの中で干し杏は「天然の蜜の粘りを泌ませていかにもおいしそうに燿いている」とあるので、もう早い秋が来ている敦煌で「乾びて」いるのは木に残った杏のことだろうか。以前から好きだった李将軍の名を冠した杏が名産として売られていた発見と興奮がこの歌から読み取れる。それなのに『史記』の「李将軍列伝」には、李将軍が杏を植えた記事が出ていない、それが疑問なのだ。
 ネットによると、「西漢時代の名将李広が大宛を征伐した後、新疆からもちかえった」
(中国現代グルメ情報)ことから李広杏の名が付いたとある。


     (レポート)(2010年6月)
 今、馬場先生は、敦煌の街中で、いろいろな果物を売る店頭の景観を楽しんでおられる。するとそこに「李広杏」と記された果物を発見された。「ホウ、李広将軍とは『史記』にあるアノ李広将軍のことか。」と。シルクロードの果物と言えば、西瓜と葡萄、それにマクワウリなどがよく写真で見受けられるが。(T・H)

* 219~222番歌の李広についての記述は、本史氏の小説『飛将軍李広』や
  Wikipediaの記事等を参照した。ちなみに、本史氏は本邦雄の御子息である。

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馬場あき子の外国詠278(中国)

2014年08月29日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の旅の歌【李将軍の杏】『飛天の道』(2000年刊)176頁
              参加者:Y・I、T・K、曽我亮子、T・H、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
               レポーター:T・H
                司会とまとめ:鹿取 未放


218 杏仁水あえかに冷えてのみどゆく鳴沙山の月見しは嘘ならず

     (まとめ)(2010年6月)
 出だしが、杏仁水、あえかにと頭韻を踏んでいる。あえかに、の柔らかな語感が、一首に夢のようにはかない気分を醸し出している。216、217番歌では「鳴沙山」に昇る怪異のごとくおそろしい月を見ていたのだが、それがはるか異界のできごとだったように、あるいは夢の中のできごとだったように感じられたのだろう。だから「嘘ならず」とだめ押しをしているのだ。どこかオアシス都市に移動してからの感慨だろうか。夢から覚めて放心したような気分を、上の句の柔らかなフレーズがよく伝えている。(鹿取)


     (レポート)(2010年6月)
 今、先生は、中華料理の後に出される杏仁水を召し上がっていられる。それは冷たく心地よい。私が鳴沙山の上に上った月を見たのは、夢ではない、本当なのだ、と信じられないような仕合わせを感じておられる。(T・H)


*219~222番歌の李広についての記述は、本史氏の小説『飛将軍李広』や
  Wikipediaの記事等を参照した。ちなみに、本史氏は本邦雄の御子息である。

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原田禹雄の京都大学皮膚特研と本邦雄

2014年08月28日 | エッセー


 「京都大学皮膚病特別研究施設前庭のリラは今年も花開いただらうか。あるひは夙(と)うの昔に木も庭も消え失せてあの真夏もひいやりと翳る空間は私の記憶にだけ存在するのだらうか。」(本邦雄『白き西風の花』解題より、1974年)

 この魅惑的な本の文章を、かりんの勉強会で大井学さんに教えられて以来、「京都大学皮膚病特別研究施設前庭のリラ」をどうしても見たくなった。上記文章はこんなふうに続いている。

 「―中略―『極』の創刊号の生まれたのがその特別研究施設の実験室内であつたことを知るのは当時も今も彼と私だけであり、その編輯校正其他百般にわたる雑務のために週に一度訪れる私を無愛想に実は欣然と迎へてくれた一時期の央部に、リラの花房はあえかに匂つてゐた。」

 それは1960年の冬と春のことで、「思へば私が最もよく生きたのは、真に生きてゐたと言ひ得るのはあの半歳の時間ではなかつたか。」と本は書いている。1960年といえば安保の年だが、本は40歳、2年前に第3歌集『日本人靈歌』を、翌年に第4歌集『水銀傅説』を上梓している。一方の原田はこの年32歳、横書きの第2歌集『錐体外路』を出している。

 原田がらい医学を専攻した若き皮膚科医として京大に勤務していたのは1952年から本と頻繁に会ったこの1960年までらしい。翌61年には国立療養所邑久光明園医長として転出している。(筑摩書房「現代短歌全集」第一四巻)
 
 それでようやくリラの話に戻るが、本が皮膚特研に原田を訪ねて通っていた7年後の1967年から69年の間、私は事務官として京大病院に勤務していた。本がこの解題を書いたのは更に7年後のことである。私が勤務した67年にはまだ皮膚特研の前庭のリラは咲いていたかもしれないと思うと、同じ病院構内の建物なのに見に行かなかったことが何とも口惜しい。
 高校を卒業したばかりの私は、まだ短歌を始めておらず、原田の名はおろか本の名も知らなかった。しかし、結研と呼ばれる結核研究所が近代的な病院から離れてじめじめした敷地に建っているのは見たし、若き日の瀬戸内晴美がそこで働いていたという噂も聞いていた。そして行ってはみなかったが、更にその奥に皮膚特研という建物があるのも知ってはいた。まれに、らいの患者さんが受付にいらっしゃることもあったからである。当時の皮膚特研の建物の写真がないか、ネットで探してみたがうまく見つけることができなかった。
 
 京大病院近辺は京都に戻る度によくぶらぶら歩きをするが、病院そのものも私の勤務時代とは建て変わっている。先日、塔のシンポジウムついでに諦めきれず立ち寄ってみたが、もちろん何の面影もなかった。病院の隣は大きく囲って丈高いクレーンが2台、作業中であった。どうも先端医療の施設が建つらしい。

      

 写真は病院構内西端近くに建つ古びた建物。皮膚特研にはかかわりがないが、夕立の直後でもあり、前庭の樹木の茂りが何だかわびしげで、ふっと懐かしく感じた。もちろん、リラの樹などはなかった。

 サモサタのパウロスを愛したる少年のなれのはてなる髭を剃らん
                        原田禹雄『錐体外路』
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馬場あき子の外国詠277(中国)

2014年08月28日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の旅の歌【李将軍の杏】『飛天の道』(2000年刊)176頁
               参加者:Y・I、T・K、曽我亮子、T・H、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
               レポーター:T・H
                司会とまとめ:鹿取 未放


217 鳴沙山に怪異のごとき月出でてアメリカにうすい朝かげさすや

      (まとめ)(2010年6月)
 「砂のみを照らし来しおそろしさもつ」月だから「怪異のごとき」なのだろう。
『青椿抄』には「人間はいかなる怪異あざあざと蛸切りて食ふを蛸はみてゐる」というこわい歌がある。『青椿抄』では人間を「怪異」な存在とみているのであるが、この歌では月が「怪異のごとき」と形容される。
 アメリカに朝かげが射すのは時差とか厳密なものではなく、あくまで感覚的な把握だろう。アメリカ、朝かげと頭韻を踏んで軽い仕上がりになっているが、怪異とアメリカはどこか奥深いところで繋がっているのであろう。


     (レポート)(2010年6月)
 鳴沙山に出た月が「怪異のごとき月」とは、どんな様相の月であろうか。きっと大きな満月で、日本では見られないような、透明な大きさで、眼前に迫ってきたように思われたのであろう。そしてその月をご覧になって、なぜ「アメリカにうすい朝かげさすや」とお感じになったのだろうか。アメリカと敦煌では、時差が12時間ぐらいなのであろうか。なぜアメリカなのか。今、自分は平和な日本に生きて、敦煌の遺跡で大きな平和な月を見ている。しかしすぐ近くには、アフガニスタンと言う戦火にまみれている国もある。そこで「アメリカにも平和を」と祈る気持ちを込められたのであろうか。(T・H)

*219~222番歌の李広についての記述は、本史氏の小説『飛将軍李広』や Wikipediaの記事等を参照した。ちな
  みに、本史氏は本邦雄の御子息である。
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塔60周年記念全国大会公開シンポジウム

2014年08月27日 | 日記


 8月23日(土)、「塔60周年記念全国大会」の一環として一般公開の現代短歌シンポジウムが京都・新都ホテルで開催された。前半が高野公彦氏の講演、後半が鷲田清一氏と内田樹氏と永田和宏氏の鼎談。

 写真はシンポジウムが始まる直前(800人収容の会場の最後列近い席だったので、こんななさけない写真)。始まる前から会場は活気と熱気で盛り上がっていて、圧倒された。

 講演も鼎談も内容が濃く、それぞれ大いに示唆を受けたが、いずれ「塔」の誌面に再録、あるいはダイジェストが紹介されるだろうし、著作権の問題もあるので具体的に書くのは憚られる。それでほんの一部だけ。

 高野氏は「曖昧と明確のはざま」というテーマで、短歌の読み方について話された。書いてあることだけを読み、書いてないことは読まない、また、初出に戻って読むことが大切とのこと。正岡子規の有名な歌「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり」について「伊勢物語」を背景にして解釈されたのが圧巻であった。

 鷲田、内田、永田各氏の鼎談は、敬愛する鷲田、内田の両氏の生まな姿に初めて接するので楽しみだったが、後方の為、お顔が全く見えなかったのが残念だった。現代短歌にはあまりなじみがない両氏を相手に司会の永田氏がご苦労をされていたが、とてもとても実のある抜群に面白い鼎談だった。
 鼎談のテーマは「言葉の危機的状況をめぐって」。言葉そのものをめぐって鷲田、内田の両氏の深い考察の一部を感じ取ることができた。鷲田氏については冒頭に話された「人の心にさざ波を立てるような、ざらつきのある言葉を大事にしたい」という言葉が胸に沁みた。内田氏については、仕舞を舞台で披露する場面の話だったと思うが、氏の言葉をうまく再現できそうにない。「舞台である時、空間の密度が変わった、ゼリーのようなものが空間に詰まっている感じで、空間に何も無いと感じていた時と違って、全身の運動が精密に行える感じがした。」というような内容だった。年に数回だが、能を鑑賞する私は、なるほどそうであろうと、いたく感動した。

 ところで、京都出身で大学のゼミが一緒、今も付き合っている友人のK・Fの名前を、大会直前、外部参加者一覧の中に見つけてびっくり、(彼女は小説は書くが短歌は詠まない。)それであなたも行くの?と思わずメールしたが、同姓同名だった。どんな人か見てくる、というミッションがあったのだが、直前の受付は大混雑、会場もやっと空席を見つけて坐ったのだが、顔も年齢も知らない人を800人の中から探し出すのは無理とすぐに分かった。開始の1時間半も前に京都駅に着いたのに、自分が宿泊する駅から4分のホテルに、30分も掛かってたどり着いたのも敗因のひとつ。アイウエオ順の受付だったので、受付開始と同時に行って見張っていればあるいは見つけられたかもしれない。

 また、会場にご挨拶したいお顔は何人もあったが、皆さん、お忙しそうであった。「イソヒヨドリ」を教えていただいた永田淳さんにもお礼を言いたかったが超多忙そうで断念。結局、この大会用に作った名刺は1枚しか使用できなかった。

 シンポジウム終了後、大混雑の会場出口付近で「かりん」の8名が合流、京都駅前でさきほどの鼎談等を肴に賑やかに飲んだ。日帰り組の大井、辻と、一木母子を送り、残った松村、中津、私が遠藤宿泊のホテルの喫茶で女子会。一次会の酒の力も手伝ってヒミツの本音トークでおおいに盛り上がった。
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馬場あき子の外国詠276(中国)

2014年08月27日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の旅の歌【李将軍の杏】『飛天の道』(2000年刊)175頁
               参加者:Y・I、T・K、曽我亮子、T・H、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                レポーター:T・H
                 司会とまとめ:鹿取 未放

*219~222番歌の李広についての記述は、本史氏の小説『飛将軍李広』や Wikipediaの記事等を参照した。ちなみに、本史氏は  本邦雄の御子息である。
     
216 鳴沙山を静かに上る秋の月砂のみを照らし来しおそろしさもつ

      (まとめ)(2010年6月)
 厳密に言えば、もちろん月は地球全てを照らしているのであるが、そして砂漠にもオアシスがあり、建物もあるのであるが、鳴沙山のふもとに立つ旅行者の気分としては「砂のみを照らし来し」という感じなのだろう。戦争の絶え間ない荒涼とした沙漠の月をうたった漢詩も古来作られているが、この歌、もっと殺伐としている。大自然の深淵にコミットした精神が感じたおそろしさなのだろう。

     
      (レポート)(2010年6月)
 鳴沙山は、莫高窟がある背後の砂山である。時は秋。先生はそこからしずかに上がってくる大きな月をご覧になって、「砂のみを照らし来しおそろしさもつ」と言われる。なぜ「砂のみを照らし来し」月は「おそろしさ」をもつのであろうか。
 鳴沙山は全山細かい砂でできていて、その砂は、止まるところを知らず、四六時中、さらさらと莫高窟に降り注いでいるそうだ。「鳴沙山を静かに上」ってきた月は、莫高窟をも隈無く照らしていたであろうに…先生は「砂のみを照らし来し」月と言われる。そしてそれが「おそろしさもつ」とは、どういうことなのだろうか。天体はこの地球に生命をもたらすものである筈。しかし今、この敦煌で見る秋の月は、植物一つ無い砂山である鳴沙山を照らしてきた。そこには命は感じられない。そこに「おそろしさもつ」の意味があるのか。(T・H)


      (発言)(2010年6月)
★恐怖ではなく、畏敬の念を伴った恐ろしさ。(T・H)
★孤独に耐える強さをもった月(曽我)

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馬場あき子の外国詠275(中国)

2014年08月26日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の旅の歌【飛天の道】『飛天の道』(2000年刊)174頁
            参加者:曽我亮子、F・H、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
            レポーター:渡部 慧子
            司会とまとめ:鹿取 未放


215 近江の飛天駿河の飛天みづいろの天にしばらくありて離(か)れしと

      (まとめ)(2010年5月)
 「飛天の道」を締めくくる抒情的な一首。近江や駿河の伝説はいずれも飛天は舞いながら天に昇ってゆく。そのおり別れを惜しんで天にしばらく留まっていてから去っていったという。「みづいろの天」が効いており、はろばろとしたさみしさがただよう。(鹿取)


          (レポート)(2010年5月)
 羽衣伝説のある近江、駿河ともに美しい風光が頭をよぎる。「近江」には琵琶湖の水の映える天、「駿河」には富士の峰を青が漂う天がある。どちらもまさしく「みづいろの天」のもと、「飛天」たちの物語が想像される。双方の「飛天」は羽衣伝説のように人間と縁をもったであろう。しかし来たる別れに想いを込めて「天にしばらくありて」舞うのであるが、人間と暮らしたであろう期間までも、このフレーズにこめられていよう。このように想いが広がるのは、結句の最後、伝聞の「と」の効果だと考える。さて、仏教伝来に伴い、シルクロードの空を来たのであれば日本は最終地のように思うが、どこへ「離れし」なのだろう。生まれ国へ帰ったのであろうか。枕草子26段に〈舞は駿河舞〉とあるが、飛天の舞をイメージして仕立てられたものだとすれば、古代のロマンがかきたてられる。(慧子)

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馬場あき子の外国詠274(中国)

2014年08月25日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の旅の歌【飛天の道】『飛天の道』(2000年刊)174頁
                参加者:曽我亮子、F・H、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                レポーター:渡部 慧子
                  司会とまとめ:鹿取 未放

214 丹後風土記の小さき湖のかなしもよ老仙は樵(せう)となり飛天娶りき

     (まとめ)(2010年5月)
 私がネットで調べた丹後風土記は、いずれの記述もおおよそ「天女の羽衣を隠したのは老人だったので養女にした。天女は酒造りに才を発揮して養父母は大金持ちになるが、自分の本当の娘ではない事を理由に追い出し、天女は各地をさまよう」というものだった。この歌では老仙は天女をめとった。仙人のままでは飛天との結婚はタブーだったので、木こりに身を落として結婚したというのだろうか。湖はその天女夫婦が住んだ近くにあったのか。余呉の湖と天女の話は記憶にあるが、丹後風土記とこの湖の関係はよく分からない。(鹿取)


          (レポート)(2010年5月)
 風土記は713年詔により、地名の由来、旧聞、伝承について各国庁が報告したもの、出雲、常陸、播磨、豊後、備前の5カ国が完本として現存し、一方「釈日本紀」「万葉集注釈」などに逸文が収められている。そのなかに丹後風土記もある。
 掲出歌の丹後とは現京都府北部にあたる。そのあたりの「小さき湖」とはどこであろう。そこで「飛天」である天女は水浴びをしていたであろう。天女の水浴びは水遊びではなく、身を浄めるためであろう。そこからいつも物語が始まるのだが……。「老仙」というのも213番歌とは違った意味で詠われていよう。たとえば中国では道教に生きる人、日本では修験者、そんな匂いがするのだが、道を外れてしまったのか、とにかく「樵となり飛天娶りき」というお話が「小さき湖」のほとりに生まれ、風土記に伝えられている。夫婦となる二人の縁、その後を語らず、「かなしもよ」と全てを「小さき湖」に託して、余情漂う一首である。(慧子)

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馬場あき子の外国詠273(中国)

2014年08月24日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の旅の歌【飛天の道】『飛天の道』(2000年刊)173頁
                参加者:曽我亮子、F・H、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                 レポーター:渡部 慧子
                司会とまとめ:鹿取 未放

213 老仙は哈密(はみ)の黄土を打つ人なり水精(みづは)棲む大き瓜を売りゐつ

     (まとめ)(2010年5月)
 哈密は甘くて美味しい哈密瓜で有名だが、その瓜を育む地は黄土なのだ。老人がその黄土を耕し、瓜を作って売っている。飛天図を見てきた余韻からか、老人が仙人に見える。仙人が作る水分たっぷりの甘い哈密瓜には水の精が棲んでいるのだという想像が楽しい。(鹿取)


       (レポート)(2010年5月)
 天山南路と西路の分岐点として繁栄する地に作者はいる。はるばる来て西王母に想いを馳せ、飛天芸術にも接した。ここで老人にあえば「黄土を打つ人なり」であっても、それはもう老爺ではなく「老仙」と呼びたい気分であろう。土地の代表的産物の瓜を作り、売っているというのだ。しかしながら、そこは老仙の商い物「水精棲む大き瓜」というのも、なかなか楽しい。瓜からうりこ姫誕生のお噺しもあることから、水分の多い瓜に作者らしい空想を点じた一首である。(慧子)

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