かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

馬場あき子の外国詠 162(スペイン)

2014年03月31日 | 短歌一首鑑賞
   【西班牙 4 葡萄牙まで】『青い夜のことば』(1999年刊)P68
                               参加者:N・I、T・K、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
                               レポーター:T・K
                                 まとめ:鹿取未放
  

118 まだ少し騒がしきもの好きなれば葡萄牙まで海を見にゆく

     (レポート)(2009年3月)
 モスクワ空港、西班牙の青、オリーブと歌の旅を続けてきたがまだ少し心騒ぐものを求めて葡萄牙の海を見にゆくというのである。ポルトガルの海、それは「地の終わり海の始まる」ところであり、大航海時代を思わせる海でもある。しかし作者は天正、慶長の遣欧使節として渡った人々を想う海だったのかもしれない……読む者の心も騒ぐ一首である。また、「騒人」は、中国で詩人の意味である。(T・K)

馬場あき子の外国詠 161(スペイン)

2014年03月30日 | 短歌一首鑑賞
   【西班牙 4 葡萄牙まで】『青い夜のことば』(1999年刊)P67
                             参加者:T・K、T・S、崎尾廣子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
                             レポーター:T・S
                               まとめ:鹿取未放

 ◆ものを書くことや鑑賞に不慣れな会員がレポーターをつとめています。不備が多々ありますがご容赦ください。

117 コルドバの町の樹下に椅子ひとつ置かれてセネカ忘れられたり

        (まとめ)(2008年11月)
 セネカの像はコルドバのメスキータの西門脇にあるという。おそらくここはそれとは違う何でもない街角か小さな公園の風景ではなかろうか。よって目の前にはセネカの像は無い。樹下には憩うための椅子が一つ置かれている。そして町の人々は遠くセネカを忘れた日常生活を送っているのだ。考えてみればセネカは2000年ほど前の人である。しかし、彼はたくさんの悲劇と哲学についての随筆などを遺した。『幸福な人生について』『心の平静について』『人生の短さについて』などの書名を眺め、現代の人々の忙しい日常を思うと、なかなか感慨深いものがある。(鹿取)

     
      (レポート)(2008年11月)
 コルドバにはイスラム教とともに古代ギリシャ・ローマの多くの文献がアラビア語によって伝えられ、これらを学ぼうとする人たちがヨーロッパ各地からあつまり、やがてここで開花した多くの学問がラテン語に翻訳され、アリストテレスやプトレマイオスの業績を後世に伝えたのだった。そんな町の樹木の下に椅子一つ置かれてある。作者はセネカを重ねたのである。樹木の下が異様な広い空間を感じた中に椅子ひとつが置かれている。完結で深閑な空想。そこには不思議さはない。   (T・S)


      (発言)(2008年11月)
★レポートは全体に何を言いたいのかよく分かりませんでした。前半部分の町の説明は、この歌と
 ほとんど関係ないよう思えます。後半の「完結で深閑な空想」の「完結で」はたぶん「簡潔で」
 のまちがいでしょう。「深閑な空想」とも思えませんが、もしかしたら「深閑な」も別の漢字で
 しょうか?それから、この空想はレポート文中の「樹下に椅子ひとつ置かれ」を指しているので
 しょうか?ここが空想だと「セネカ忘れられたり」の説得力がなくなってしまいます。私は「樹
 下に椅子ひとつ置かれ」ているのは実景、あるいは実景でなくても実景として歌の上では設定 
 していると思います。次に「異様な広い空間」ってどういうものか分かりません。「異様」も別
 の漢字の間違いでしょうか?「異様」なのに椅子がひとつ置かれている光景には「不思議さはな
 い」というのではよく繋がらない気がします。レポートはなるべくテキストの歌の言葉にそって、
 誰にでも分かるように書いてください。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞  85

2014年03月29日 | 短歌一首鑑賞
【寒気氾濫】『寒気氾濫』(1997年)50頁
                              参加者:崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                               レポーター:崎尾廣子
                              司会と記録:鹿取 未放


118 ときに樹は凄まじきかなおうおうと火を吐くごとく紅葉を飛ばす

      (レポート)(2014年3月)
 芽ぶき、新緑、夏の緑、紅葉とときに樹はその持つ力を現す。造形の美をきわめつくし樹は紅葉を散らす。その光景に噴火する火山を見ている。上の句は、「おうおう」と詠われているこの歌の力強い調べの前奏曲のようだ。「飛ばす」は樹の底力を詠っているのであろう。(崎尾)
           

      (発言)(2014年3月)
★64頁に「紅葉を振り放てずに苦しめる樹に馬乗りになってやりたり」という歌があってこの歌
 と逆の表現になっている。紅葉を飛ばす凄まじい樹と作者が一体になっておうおうと泣き叫んで
 いるような感じ。(藤本)
★力強さ、ダイナミックな感じ、高揚感は感じますが、「おうおうと」というのは泣き叫んでいる
 のではなく雄叫びみたいなものかなあと思いますが。紅葉に独特な思いが渡辺さんにはあるんで
 しょうね。乳飲み子の時に母に抱かれて紅葉を見ていた、とか、廃棄物処理場で行き場をなくし
 て紅葉が舞ってるというような歌もあったし。(鹿取)

*紅葉の歌、正確には次のとおり
どの窓もどの窓も紅葉であるときに赤子のわれは抱かれていたり
            『寒気氾濫』
一生を賭けて紅葉が飛びてゆく廃棄物処理場の秋天

渡辺松男の一首鑑賞  84

2014年03月28日 | 短歌一首鑑賞
【寒気氾濫】『寒気氾濫』(1997年)50頁
                              参加者:崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                               レポーター:崎尾廣子
                              司会と記録:鹿取 未放


117 芒万波落日に揺れ狩猟鳥非狩猟鳥混じれるひかり

      (レポート)(2014年3月)
 日本の狩猟行政の幹となっているのは〈鳥獣保護及狩猟ニ関スル法律〉である。この法に定められている狩猟鳥はカモ類11種を含む29種。(世界大百科事典・平凡社)この法とは鳥は無縁である。鳥を「芒」の原に見ている。「落日」と詠っている。鳥たちは眠る場を捜し求めているのであろう。「ひかり」にあるがままに目の前にある自然への今を受け止めていると感じる。鳥の今を慈しんでいるのであろう。(崎尾)
                                  

     (発言)(2014年3月)
★芒が幾重にも重なって揺れている、その中に狩猟鳥や非狩猟鳥が混じっていて夕暮れの中でなお
 光っている。芒のひかりとその中で光っているいろんな鳥の情景を詠っている分かりやすい歌だ
 と思いました。(藤本)
★芒も鳥もいっしょに光っている、っていうのが藤本さんの解釈ですね。レポートの「『ひかり』
 にあるがままに目の前にある自然への今を受け止めている」の部分がよく分からないのですが、
 崎尾さん、ここのところ分かりやすく説明してください。(鹿取)
★私はこの歌は「ひかり」が大事で、ここに作者の思いが全て入っていると思いました。(崎尾)
★人間が狩猟鳥、非狩猟鳥と分けようとも鳥たちはいっしょになってお日様の光の中にいるってこ
 と。(慧子)
★「この法とは鳥は無縁である。」とレポーターが書いていることがそれですよね。狩猟鳥、非狩
 猟鳥ごっちゃになって光っている。そこに生き物の自然の有り様を見ている。芒も波となって落
 日に揺れているのだから当然光っているでしょうけれど、結句の「混じれるひかり」はあくまで
 鳥たちのことで、ごちゃ混ぜになってひかってる一塊のようにとらえることで生きてる命の温み
 というか尊さのようなものを出してるんじゃないでしょうか。(鹿取)
★渡辺さんはこういう対立概念を並べる書き方をよくされますよね。(鹿取)
★道元の言葉に「ひかりは万象を呑む」というのがあって、それを具体的にいったような歌だと思
 いました。渡辺さんは意識はしていないでしょけれど、道元と同じことだなあと。(鈴木)

渡辺松男の一首鑑賞  83

2014年03月27日 | 短歌一首鑑賞
【寒気氾濫】『寒気氾濫』(1997年)49頁
                           参加者:崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                            レポーター:崎尾廣子
                           司会と記録:鹿取 未放


116 光の円うつろいてゆく枯野原小綬鶏(こじゅけい)飛びもせず逃げてゆく

      (レポート)(2014年3月)
 ピンホールカメラの作用と同じように木漏れ日が小さな形の太陽を地面に映すときがある。「光の円」はその光を表しているのであろう。小綬鶏は雑木林などに群れをなして住む。雑木林の名残を留める枯野原なのであろう。穏やかな時を枯野原に実感しているのであろう。この小綬鶏の中にも入っていけない作者を感じる。 (崎尾)
  *小綬鶏の解説3行、省略。                                 

     (発言)(2014年3月)
★「光の円」ってどのくらいの大きさなんでしょうかね。(鈴木)
★「光の円」は太陽です。時間的経過を言っている。(慧子)
★枯野原に光が移動していく、天体の動きのようなものを感じているのかな。(鈴木)
★私も鈴木さんと同じように、枯野原を何か丸い形で光が移動していく、そういうイメージでした。
 円の大きさは分からないけど、樹はない一面の枯野原だから木漏れ日はない。また、太陽だと上
 を見上げるんだけど、あくまで原を移動する地上のひかりをみていると思う。(鹿取)
★作者は夕暮れの枯野原にいて、作者が近づくと小綬鶏が飛ばないで逃げてゆく。(藤本)
★けっこう長い時間、枯野原の情景を眺めていて、やっぱり時間の移ろいを詠んでいるのかなあ。
 小綬鶏の「飛びもせず逃げてゆく」がリアルさを保証している感じです。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞  82

2014年03月26日 | 短歌一首鑑賞
【寒気氾濫】『寒気氾濫』(1997年)49頁
                           参加者:崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                            レポーター:崎尾廣子
                           司会と記録:鹿取 未放

115 まばたけば深まりてゆく静寂の花敷(はなしき)月あかり冴ゆ

      (レポート)(2014年3月)
 群馬県吾妻郡に一軒宿の「花敷の湯」がある。「花敷」はこの花敷温泉がある集落なのであろう。夜更けと共に集落の人々の眠りも深まっていく。「まばたけば」から「花敷」に月の冴ゆる集落の「静寂」を改めて実感していると感じる。地名が歌に静かな調べを作っており余韻も生まれている。山間部の奥深さを詠いながらも月も詠っている。
  花敷温泉:猪狩りのためにこの地を訪れた源頼朝が発見したとされています。そのときに、桜
       の花びらが一面に敷きつめたように湯に浮かんでいたことから「花敷」と名付けら
       れました。歌人の若山牧水もこの地を訪れ「一夜寝てわがたちいづる山かげの温泉
       (いで湯)の村に雪降りにけり」の短歌を残しています。花敷温泉には一軒宿の
        「花敷の湯」があります。(インターネット)
                                 (崎尾)


      (発言)(2014年3月)
★インターネットとあるのは「中之条町観光協会」のHPからの引用ですね。源頼朝が発見とか牧
 水が歌を詠んだとか権威付けがされてますけど。花敷は牧水が「みなかみ紀行」で訪れた村
 の一つでたくさん歌を詠んでいて、たくさんの歌碑も建っています。(鹿取)
★歌の設定として主体はどこにいるんでしょうね。何か神のような視点の俯瞰図のような印象も受
 けますが。前後の歌からすると山から下ってきて集落が見える地点で立ち止まって見ているのか
 とも思いましたが、真夜に山から下りてくるってあるのかどうか。(鹿取)
★私は「まばたけば」が分からない。まばたかなくても月明かりが冴えているのは見える。
    (藤本)
★でも「まばたけば」があるのが渡辺さんですよね。(鹿取)
★ここがうまいところだ。普通の人は情景だけ詠むんだけど。「まばたけば」があるから静止画で
 はなく時間の移り変わりが出ている。まばたいて見る度に風景が深まっていく。まばたく度に新
 しい視点を更新していくような感じ。それに実感ができる。(鈴木)
★そうですね。「まばたけば」があるから渡辺さんの肉体がでているというか、肉体を通してリア
 リティを保証している。(鹿取)
★前登志夫が盗賊のように村を見下ろすと言う歌を作っていてあれを思いだしました。(鈴木)
★レポーターは「山間部の奥深さを詠いながらも月も詠っている。」と書いているけど、月と村は
 一体化しているので分けない方がよい。(鈴木)

*鈴木発言の前登志夫の歌は、記憶と少し違って下記のものだろう。
     夕闇にまぎれて村に近づけば盗賊のごとくわれは華やぐ
           『子午線の繭』

渡辺松男の一首鑑賞  80

2014年03月25日 | 短歌一首鑑賞
【寒気氾濫】『寒気氾濫』(1997年)48頁
                                参加者:崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                                 レポーター:崎尾廣子
                                司会と記録:鹿取 未放


113 重力の自滅をねがう日もありて山塊はわが濁りのかたち

      (レポート)(2014年3月)
 渡辺松男研究2で鈴木氏は16と18で重力について述べている。この一首では「重力の自滅をねがう日もありて」と言葉にしている。内にある濁りにも重力がかかり不動なのだ。浄化でき得ない自身の濁りを詠い切実である。(崎尾)


      (発言)(2014年3月)
★「内にある濁りにも重力がかかり不動なのだ」がよく分からないのですが。(鹿取)
★濁りが心の中から動かない、という意味です。(崎尾)
★その意味ならここで重力という言葉は使わない方がいいのでは。比喩的表現としても紛らわしい
 気がします。それから、私がレポーターに聞いているのは咎めてるからじゃなくて、私自身が理
 解できないからなので、気にしないでね。(鹿取)
★自分の濁りのかたちである山塊がなくなってしまえばよいという歌です。ニーチェにとっても重
 力は大事な力で、重力がなくなればわが濁りも無くなるんじゃないかと。(慧子)
★慧子さんのニーチェとの関連のさせ方は違うんじゃないかなあ。ツァラツストラは重力をあざ笑
 いながら深山に消えたというような渡辺さんの歌を以前やりましたが、あそこでは精神の高みに
 上ろうとする自分を引きずりおろす力として重力といっているように思えましたが。私はこの歌
 ものすごく単純に、山登りが辛くて重力がなかったら楽なのに、と考えながら山塊を目の前にし
 ているのかと解釈していましたが。肉体的に辛くてある時ふっとそんな破滅的な考えが浮かんだ
 と。まるで自分の心の「濁りのかたち」のように山塊が横たわって登山のじゃましていると。で
 もこれじゃ渡辺さんの歌らしくないですね。(鹿取)
★私は「重力の自滅」ってよく分からないです。自分の死を願う日もあるけど、ってことですか。
 山塊を見ながらこれは自分の精神の濁りと同じで、動かないと思っているのでしょう。自分の自
 滅なのか地球のことなのか、もっと他のことなのかよく分かりません。(藤本)
★この重力はニーチェと関係させなくても読める歌。自分の心身の濁りが山塊のように形をなして
 いて、それは重くて辛いこと。そう考えると山塊は自分の力では取り払えないので、重力がなく
 なってくれれば山塊も形をなくす可能性がある。(鈴木)

渡辺松男の一首鑑賞  79

2014年03月24日 | 短歌一首鑑賞
【寒気氾濫】『寒気氾濫』(1997年)48頁
                               参加者:崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                                レポーター:崎尾廣子
                               記録:鹿取 未放


112 みはるかす大気にひかる雨燕にわたくしの悲は死ぬとおもえず 

      (レポート)(2014年3月)
 鳥の中で最も空中飛行に適した形をもつ(言泉・小学館)とある雨燕の特徴が「大気にひかる」で捉えられている。自在に飛ぶ雨燕のなかへは入ってゆけない思いを抱いたのであろうか。「ひかる」と「死ぬとおもえず」との対比で「悲は」に愛しい響きが生まれている。穏やかな表現である
「わたくしの悲は」は静謐であり人生の本質を詠っている。生涯道づれとして育んでゆく「悲は」
なのであろう。(崎尾)
  *レポーターによる「言泉」からの雨燕の説明8行分は省略しました。 


      (発言)(2014年3月)
 ★「雨燕のなかへは入ってゆけない」というのはどういうことですか。(鹿取)
 ★作者は木の中には入っていけても雨燕の中には入っていけないと思われたかなと。(崎尾)
 ★鑑賞する側が木の中に入っているとか雨燕には入ってないとか思うのは自由ですけど、作者自
  身は僕は今木の中に入ったぞとか、雨燕の中には入れないぞとかそんなこと思っている訳では
  全くないので、作者がそういう「思いを抱いた」は変だと思います。(鹿取)
 ★「ひかる雨燕」と「わたくしの悲」はイコールじゃないかと思いました。そして「ひ
  かる雨燕」はとても愛しいものに思えたのでそれが死ぬとは思えなかった。(慧子)
 ★僕も慧子さんと同じような意見です。普通は死って強いマイナスの言葉だけど、この
  場合だとこの悲しみはとても深いものがあって、崎尾さんが人生の本質みたいなもの
  だと言っているけど、そんなものに繋がる感じ、永遠に残るような悲。(鈴木)
 ★私は雨燕とわたくしの悲は同じとは思えない。雨燕を見ながら私の悲は小さいものだと思って
  いるのかなあ。(藤本)
 ★私は最終的には雨燕と「わたくしの悲」は同じでもかまわない。遠くの方で飛んでいる雨
  燕が光って見える。その雨燕は生へのあこがれとかいとおしみとかを呼び起こす。そし
  て「死ぬとおもえず」といっている「わたくしの悲」はそんなに嫌なものじゃなくて、
  レポーターと同じですけど、この「悲」と共に生きていくんだというわりと昂揚した 
  気分かなあと。もうひとつ核心がつかめない気もするんだけど、大好きな歌です。
     (鹿取)
 ★この悲って両方とれるんですよね。いとおしいという気持ちと、この悲をなくしたい
  という気持ちと。次の歌を読むとこの悲は「濁りのかたち」のようにも思えてくるし。
  でもこの悲をなくしたいという歌だとつまらないし。(鈴木)
 ★確かに次の歌は「濁りのかたち」だから。でも112の歌に限っていうと、雨燕を見
  てとても浄化された気分になっているように思えます。見て、といってもやっぱり対
  象化しているのとは違うので、そういう意味で慧子さんのいうように燕イコール私
   でもかまわない。つまりレポーターの「入ってゆけない」とは逆の印象です。
      (鹿取)

馬場あき子の外国詠 160(スペイン)

2014年03月23日 | 短歌一首鑑賞
   【西班牙 4 葡萄牙まで】『青い夜のことば』(1999年刊)P67
                          参加者:T・K、T・S、崎尾廣子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
                          レポーター:T・S
                            まとめ:鹿取未放

 ◆ものを書くことや鑑賞に不慣れな会員がレポーターをつとめています。不備が多々ありますが  ご容赦ください。

116 ソムリエはネロのセネカを知らざりき昼餐の質朴なかぢきまぐろよ

        (まとめ)(2008年11月)
 先の歌からの続きで、コルドバで赤ワインを傾けながら昼食をとっているところである。餐とあるからやや豪華な料理であろうか。そこでソムリエにワインはどれが合うか相談しながら、ふとセネカのことを話題にした。作者は町に建つセネカの像を見てきた後だったのかもしれない。コルドバはセネカの生まれた土地だから当然知っていると思ったのに、ソムリエの反応は「セネカって誰?」というようなものだったのだろう。そこで旅人はあの有名なセネカを土地の人が知らないのかと驚いて「暴君で有名なネロの補佐をした哲学者ですよ。この町の生まれだそうですよ。」などと説明するはめになった。「ネロのセネカ」というややこなれない言いまわしはこういう状況を想像するとよく分かる。そしてワインを傾ける昼餐ながら素朴なかじきまぐろの料理が出てきたというのだ。
 こういう齟齬は、日本の地方の城下町などでもありそうな気がする。日本料理屋で外国人の客の方がその土地の歴史上の人物をよく知っているというようなことが。(鹿取)


     (レポート)(2008年11月)
 西班牙はワイン生産は世界でも群を抜いている。ソムリエはネロのセネカを知らないであろう。などなど思いながら作者は生地のままの質朴なかじきまぐろを見ている。だが「ネロのセネカを」と問うところがこの歌の眼目なのは確かだ。(T・S)


      (発言)(2008年11月)
★レポーターが書いている「知らないであろう」の部分は間違い。「知らざりき」の「ざり」は打
 ち消しの助動詞、「き」は過去の助動詞だから、まあ口語訳すれば「知らなかった」となります。
    (鹿取)

馬場あき子の外国詠 160(スペイン)

2014年03月22日 | 短歌一首鑑賞
   【西班牙 4 葡萄牙まで】『青い夜のことば』(1999年刊)P67
                           参加者:T・K、T・S、崎尾廣子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
                           レポーター:T・S
                             まとめ:鹿取未放

 ◆ものを書くことや鑑賞に不慣れな会員がレポーターをつとめています。不備が多々ありますがご容赦ください。

116 ソムリエはネロのセネカを知らざりき昼餐の質朴なかぢきまぐろよ

       (まとめ)(2008年11月)
 先の歌からの続きで、コルドバで赤ワインを傾けながら昼食をとっているところである。餐とあるからやや豪華な料理であろうか。そこでソムリエにワインはどれが合うか相談しながら、ふとセネカのことを話題にした。作者は町に建つセネカの像を見てきた後だったのかもしれない。コルドバはセネカの生まれた土地だから当然知っていると思ったのに、ソムリエの反応は「セネカって誰?」というようなものだったのだろう。そこで旅人はあの有名なセネカを土地の人が知らないのかと驚いて「暴君で有名なネロの補佐をした哲学者ですよ。この町の生まれだそうですよ。」などと説明するはめになった。「ネロのセネカ」というややこなれない言いまわしはこういう状況を想像するとよく分かる。そしてワインを傾ける昼餐ながら素朴なかじきまぐろの料理が出てきたというのだ。
 こういう齟齬は、日本の地方の城下町などでもありそうな気がする。日本料理屋で外国人の客の方がその土地の歴史上の人物をよく知っているというようなことが。(鹿取)


      (レポート)(2008年11月)
 西班牙はワイン生産は世界でも群を抜いている。ソムリエはネロのセネカを知らないであろう。などなど思いながら作者は生地のままの質朴なかじきまぐろを見ている。だが「ネロのセネカを」と問うところがこの歌の眼目なのは確かだ。  (T・S)


      (発言)(2008年11月)
★レポーターが書いている「知らないであろう」の部分は間違い。「知らざりき」の「ざり」は打
 ち消しの助動詞、「き」は過去の助動詞だから、まあ口語訳すれば「知らなかった」となります。
     (鹿取)