かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

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馬場あき子の外国詠93(スペイン)

2017年03月31日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子の外国詠11(2008年9月実施)
   【西班牙3オリーブ】『青い夜のことば』(1999年刊)P58~
   参加者:F・I、N・I、T・K、N・S、崎尾廣子、T・S、
       藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部慧子 まとめ:鹿取未放

93 乾大地赫ければ半裸かがやかせオリーブ植うる南へ南へ

     (レポート)
 「乾大地」とは92番歌(ラ・マンチヤはゆけどもゆけども向日葵の黄の荒寥に陽の照るところ)のラマンチャをも含むメセタの乾燥型大地を指していよう。さらにこの地方の写真の赤い大地を、代表的景として紹介している。それを「赫ければ」と詠っているのだが、その正体は次のように説明されている。イベリア半島は、〈石灰岩、泥灰岩、粘土など海底堆積物〉が変動により半島内部のメセタをなし、〈石灰岩、泥灰岩、粘土など海底堆積物〉が激しい風化をうけたことによる石灰岩中の不純物に由来していると。
 また「赫」は、(勢い盛んなさま、明らか、かがやか、怒る)という意味を持ち、赤の(あきらか、あらわ、緋・紅・朱などの総称)の意より力が強く、作者の大地への畏敬をこめたこだわりの方言であろう。
 一方「半裸かがやかせオリーブ植うる」とは高温乾燥の大地に働く人々へ涙ぐましい思いを起こさせ美しい賛歌となっている。その賛歌は「南へ南へ」の結句に収斂されている。(慧子)


      (当日発言)
★スペインという土地の宿命(崎尾)
★(慧子さんの評「涙ぐましい思いをおこさせ」に関して)どのフレーズがそうなのか、自分は  そういう感想を持たない。(藤本)


      (まとめ)
 この歌も明るい牧歌的イメージなのか、貧しさゆえに苦労している農民の姿なのか意見が分かれた。私は赫い大地と人間が対峙している力強い風景をうたっているように思う。「南へ南へ」は大地の広さと移動のダイナミックさを伝えて躍動感がある。半裸をかがやかせて乾大地と格闘している人間の姿は、慧子さんの評のように、ある意味で涙ぐましいともいえる。 (鹿取)
  行けど行けど乾く山々頂きを占めて列よしおさなきオリーブ
                 影山美智子


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馬場あき子の外国詠92(スペイン)

2017年03月30日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子の外国詠11(2008年9月実施)
   【西班牙3オリーブ】『青い夜のことば』(1999年刊)P58~
   参加者:F・I、N・I、T・K、N・S、崎尾廣子、T・S、
       藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部慧子 まとめ:鹿取未放


92 ラ・マンチヤはゆけどもゆけども向日葵の黄の荒寥に陽の照るところ

        (レポート)
 ラ・マンチャはメセタと呼ばれるスペイン中央高地にあり、アラビア語で「乾いた土地」という意味。そこは「ゆけどもゆけども」「向日葵の黄」がひろがっている。黄はあらゆる色の中でももっとも光に近く存在しているとは画家の言葉だ。一方陰陽五行論においては黄を最高の色として讃えている。そういう黄の思想に、また実際の黄の広がりに、精神を深くして向き合ったであろう作者がとらえた「黄の荒寥」とは見事な措辞だ。黄の明るさの背後にひそむものを作者は露わにしてみせた。「ラ・マンチャはゆけどもゆけども」とは、かのドン・キホーテの遍歴を彷彿とさせ、またそれは私達の人生にもかさなるのだが、彼の分別と狂気、夢と絶望等は「黄の荒寥」という抽象概念に帰納されてゆく。一度「黄の荒寥」へ帰納させながら作者は結句において「陽の照るところ」とどんでんがえしとも思える言葉を置いている。何がどうであろうと神のてのひらのようだと言ってはいないか。(慧子)


     (当日発言)
★(慧子さんの評「神のてのひらのようだ」に関して)みなさんが納得できるかどうか、私は違う
 と思う。(崎尾)
★違和感がある。(T・K) 
★向日葵が枯れかかっていて真っ黄色ではないから「荒寥」(N・I)
★「向日葵の黄の荒寥」の語の働きがすごい。(藤本)
★この歌の意図がどこにあるのか分からない。(T・H)


     (まとめ)
 評者の「神のてのひらのようだ」に関して議論が沸騰した。深読みではないかという意見が多かった。また、「黄の荒寥」の解釈を巡って、あるいは「陽の照る」との関係についてさまざまな意見が出た。教会の尖塔や遣欧使節、西洋の絵画等を扱った「西班牙の青」の一連と違って、ここでは神にまで思いをはせていないように思う。広大な荒れ地に植えられた向日葵が枯れかけて黄色く張ったみずみずしさを失っているのを「黄の荒寥」ととらえているのではなかろうか。
 同行した「かりん」の作者達が同じ場所をどう詠んでいるか調べてみた。
  農の子のわれはさびしむ広けれど荒き粒子のラ・マンチャの土地
松本ノリ子
  しおれ咲くひまわり畑ラ・マンチャの乾期まだまだ続く六月
  広大な向日葵畑にひまわりは皆痩せて立つ雨を待ちつつ
                   田中 穂波
 これらの歌を読むと、向日葵は荒れた土地にしおれ痩せて咲いていたことが分かる。陽光は恵みではなく雨を待ち望む植物にむごく容赦なく照りつけていたわけだ。その情景をなすすべもなく見ながら通り過ぎる旅行者たち。そしてまもなく忘れてしまうのだ。(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞 387

2017年03月29日 | 短歌一首鑑賞
  渡辺松男研究46(2017年2月実施)『寒気氾濫』(1997年)
    【冬桜】P156
     参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:①曽我 亮子(②渡部 慧子)
     司会と記録:鹿取 未放


387 木の向こう側へ側へと影を曳き去りゆくものを若さと呼ばん

         (レポート①)
 立っている木の向こう側へ向こう側へと影を曳いて行ってしまうもの達を若さと呼ぶことにしよう。(曽我)


         (レポート②)  
 384番で「冬の樹の梢にありき」と少年の日をたとえているように作者の生活、人生を思うとき、樹をなくしては語られないように思う。過ぎていく自分の若さを言うとき、まずは常々とても好きである木の向こう側へと語り始め、影を曳きながら去りゆくものを捉えている。惜しみながらすぎていくものをみている感じがよくあらわれている。(慧子)


      (当日発言)
★慧子さんのレポートの「常々とても好きである木の向こう側へと語り始め」のところも、もう少
 し説明してください。(真帆)
★自分の大事な青春をいうのに、やはり自分の好きな木から語り始めると思ったのです。(慧子)
★向こう側が若さということですか?(真帆)
★作者がそう言っているのでそうです。目の前を去っていくなら捕まえられそうだけど、木の向こ
 う側へ行くのが捕らえられない儚いものだということかな。(慧子)
★向こう側というのが作者のキーワードの一つで、向こう側へ去っていくのは光りだったり影だっ
 たりするんですが、ここは若さですから少し屈折がない、ストレートな感じがします。余談です
 けど、小池光の「ポプラ焚く榾火(ほだび)に屈むわがまへをすばやく過ぎて青春といふ」(『バ
 ルサの翼』S・53年)を思い出しました。小池さんの青春は前を過ぎていくけどやっぱり捕ま 
 えられないんですね。(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞 386

2017年03月28日 | 短歌一首鑑賞
  渡辺松男研究46(2017年2月実施)『寒気氾濫』(1997年)
    【冬桜】P156
     参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:①曽我 亮子(②渡部 慧子)
      司会と記録:鹿取 未放

386 永劫のごとく澄みたる冬の日の蜆蝶は手に掬えそうなり

         (レポート①)
 非常に長い年月を越え「未来」のように澄みいる冬の日に飛んでいるしじみ蝶は手でつかまえられそうだ。(曽我)

         (レポート②)  
 冬の日の澄み切った様を、手にできないはるかなもの永劫として捉え、一方で、小さな蜆蝶を配して巧みである。そして更に心惹かれるのはその「蜆蝶」を「手に掬えそうなり」と叙し、手にできないもの、手にできそうなものを実にひそかにうまく対比させている。(慧子)


      (当日発言)
★元旦の空に怯えるってありましたが、元旦の空も永劫のごとく澄んでいるって感じたのでしょう
 かね。やっぱり怖いですよね。(鹿取)
★作者は野原に寝っ転がって青空を眺めているのではないかと思った。雲一つ無い青空は巨大な水
 瓶のように感じるときがありますが、作者もそんなふうに感じたのじゃないか。そこにひらひ 
 らと飛んでいる蜆蝶を見て、水の連想から砂に住んでいる生きものを連想して砂に手を入れて掬
 えそうと思ったんじゃないかな。そんなふうな意識の錯覚を起こしたのかなと。(真帆)
★私はそのまま飛んでいる蝶が手で捕まえられそうだと読んでいましたが、そうか、空気中にある
 ものは掬うとは言わないのね。永劫にはやはり懼れとか、懼れるがゆえの怯えのようなものがあ
 って、そこに一瞬可憐な蜆蝶がひらひらとやってくる。うまく言えませんが何かその永劫の中の
 一瞬に感応している歌かなと。永劫と蜆蝶の一瞬の邂逅が大事なので、「手にできないものと手
 にできそうなものとの対比」だとは思いません。理詰めではきっと解釈できない歌で、もしかし
 たら作者にも説明できないのかもしれませんね。(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞 385

2017年03月27日 | 短歌一首鑑賞
  渡辺松男研究46(2017年2月実施)『寒気氾濫』(1997年)
    【冬桜】P156
     参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:①曽我 亮子(②渡部 慧子)
      司会と記録:鹿取 未放

385 山毛欅の肌われより凛くこの冬をときに光りて越えつつあらん

         (レポート①)
 ぶなの皮肌は私より強くきりりと引き締まってこの寒い冬を克服しつつあるのだろう。(曽我)

         (レポート②)  
 樹をとても親しいものとしてとらえ、山毛欅の肌を思っているのだが、自身より凛く、つまりきりっとりりしくときに光ってこの冬を越えているだろうと。「凛く」とこの字を当てて一首が支えられる。(慧子)


         (当日発言)
★木の肌が光っているというのが独特の捉え方ですよね。いきいきしていることを光るといって
 いるのでしょうか。(鹿取)
★山毛欅は分かりませんが、欅はほれぼれするような肌の木にであうことがありますね。冬の木に
 なると禿げるんですね。(慧子)
★山毛欅の生態をよく知らないので、調べないといけないですね。「あらん」だから山毛欅は遠く
 にあって目の前で見ているわけではない、光って越えているだろうと想像している。だから凛さ
 の象徴として「光りて」は比喩的に使われているのかもしれませんね。(鹿取)


(後日意見)
 調べてみると山毛欅の木肌は比較的すべすべしているようだ。「光りて」は文字どおり光りてなのかもしれない。  
  春一番に揉まれ揉まれてきらめけり樹々には素肌あるものなれば 『寒気氾濫』
どちらの歌も対象の樹に対する熱いほどの思いが感じられる。(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞 384

2017年03月26日 | 短歌一首鑑賞
  渡辺松男研究46(2017年2月実施)『寒気氾濫』(1997年)
    【冬桜】P155
     参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:①曽我 亮子(②渡部 慧子)
      司会と記録:鹿取 未放


384 冬の樹の梢にありき雲水にあこがれし日の少年われは

         (レポート①)
 冬の木の梢というか高みにあった「雲水」という「禅僧」にあこがれていた幼きわれは。(曽我)

         (レポート②)  
 冬の樹の梢ということで何もまとっていなくて風、光、雨に感じやすい様が想像できる。少年でありながら修行僧の呼び名雲水にあこがれていたとは驚きだが流れゆくもの雲や水に心を寄せていたと読んでもいいのではないか。『人はかつて樹だった』(みすず書房)という長田弘氏の詩集を思い出す。(慧子)


      (当日発言)
★『人はかつて樹だった』というのはどういう詩ですか?(鹿取)
★そういう詩があるというだけで、内容は知らないです。(慧子)
★木登り少年だったのかなと思いました。そしてずっと空を見ていた。『けやき少年』という歌集
 がありましたし。(真帆)
★〈われ〉は少年時代に禅僧とにあこがれていたんだと思います。梢にあったのは別に空想でもい
 いのですが、木登りが好きでしばしば木の枝に坐っていたのでしょうね。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞 383

2017年03月25日 | 短歌一首鑑賞
  渡辺松男研究46(2017年2月実施)『寒気氾濫』(1997年)
    【冬桜】P155
     参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:①曽我 亮子(②渡部 慧子)
     司会と記録:鹿取 未放

383 等間隔に植えられているしずけさよ街路樹枝を差し交わすなし

         (レポート①)
 道路に植えられている樹はきちんと同じ間隔で植えられているので何と静かなんだろう。これ以上枝を差し交わして静けさを得ることはありませんね。(曽我)


     (当日発言)
★等間隔に植えられていて静かなんだろうか?(慧子)
★枝を差し交わすなしだから、少し離れて植えられているんですね。だから交流がない。もう少し
 間が狭ければ枝を差し交わして交流が生まれざわざわする、仲良くしたりケンカしたりいろいろ
 ある。でもそうでないから静か。そんなふうに書いてある通りに読みました。(鹿取)
★ほんのちょっと怖い感じがします。関係のなさみたいなものが。(慧子)
★没交渉というか、自分は自分という、それぞれが同じだけのテリトリーを持たされていて……
 何にもかかわりのない静けさ。(真帆)
★しずけさよというのは肯定と取りました。等間隔に並んでいる木達がそれぞれすがすがと一本と
 して立っている。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞 382

2017年03月24日 | 短歌一首鑑賞
  渡辺松男研究46(2017年2月実施)『寒気氾濫』(1997年)
    【冬桜】P155
     参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:①曽我 亮子(②渡部 慧子)
      司会と記録:鹿取 未放

382 久方の空澄みわたりゆえもなく元旦の日をおびえていたり

         (レポート①)
 久しぶりに空が澄んで訳もなく美しいので元日(ママ)に何か不吉なことが起きるのではないかと怯えている私です…渡辺さんのデリケートさが目に見えるようです。(曽我)

         (レポート②)  
 白日の下にさらされるということがあるが、元旦の空の美しさに「おびえていたり」という心境は理解できる。澄み渡った光りに消えてしまいそうに思ったり、光りの様子をいたいと感じたりするものだ。(慧子)


      (当日発言) 
★曽我さんのレポートですが、「久方の」は空に掛かる枕詞で、久しぶりって意味ではないです。
   (鹿取)
★何もかも一新され浄められている元旦に仕切り直されているような恐ろしさ、仕切り直そうとす
 る元旦の恐ろしさに作者は怯えたのではないか。(真帆)
★仕切り直すということを、もう少し丁寧に説明してくれませんか。(鹿取)
★粛正されるという言葉がありますが、古来から何もかも新たにする元旦、塵一つ無いことを怯え
 たのじゃないかと。大晦日と元旦が全て変わる、あるかないかわからない神のようなものをみん
 なが念頭に置いているようで。何もかも爽やかになったことに怯える。(真帆)
★なぜ爽やかさを怯えるんでしょう?(鹿取)
★この作者は混沌とした有り様を是としているように思います。ですから、すごくこう美しさとい
 うかは恐れていて、ごみごみしているのが普通。美しくなってハッピーニューイヤー、さあ元旦
 ですよっていうのが怖い。(真帆)
★うーん、世俗的な事ではなく、哲学的というか存在論的に何かを怯えているのだと思いますが。
 それに「ゆえもなく」がくせもので、この語にひっかかるんですね。空が澄み渡っていることを
 単純に怯えるのではなくて、それと関連はしているんだけど「ゆえもなく」が加わるんですね。
     (鹿取)
★「ゆえもなく」とあるけど、本当はゆえがあるのよというのが真帆さんの意見ではないでしょう
 か?こんなに綺麗でいいのか、それに怯える。自分が光りの中に差し出されてしまったような。
 澄んだ空は存在のかなしさを思わせるから11月でも12月でもいいけれど元旦の方が効果的だ
 からそうしたのかと。(慧子)
★いや、元旦が意味を持つ歌でしょう。「元旦の日」の「日」ってもしかしたらお日様?そんなこ
 とはないわよね。(鹿取)
★何もかも清らかになってみんながおめでとうって言うけど、何、昨日と変わらないじゃないか、
 自分にはおめでたさなんて来ていない、ということを怯えると表現した。(M・S)
★この作者は嬉しくても嬉しいと言わないのではないか。あまりにも光りが美しかったので。光り
 の美しさに圧倒されている。きれいすぎて怖いという感じ。(慧子)
★みんなの意見を聞いていると、曽我さんの空が澄んで不吉なことが起きるのではないかという意
 見に戻ります。(真帆)
★いや、不吉なことも何も起こらないのです。ゆえもなくは怯えるにかかると思います。(M・S)
★そうですね、やはり哲学的、存在論的な怯えだと思います。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞 381

2017年03月23日 | 短歌一首鑑賞

  渡辺松男研究46(2017年2月実施)『寒気氾濫』(1997年)
    【冬桜】P154
     参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:①曽我 亮子(②渡部 慧子)
      司会と記録:鹿取 未放

381 散りゆかぬ柏の枯葉風に鳴り襤褸を離さぬ冬木ぞあわれ

         (レポート①)
 散ってゆかない柏の枯葉は風に翻弄されぼろぼろに疲れた葉っぱを最後にまでつけている。冬木はあっぱれである。冬木の健気さが歌われている。(曽我)

         (レポート②)  
 柏のやや大きめの葉がいつまでも散り残っているのを見た経験があるが、落葉樹はサーとちりつくすことこそ魅力。(慧子)


     (当日発言)
★結句の「あわれ」というのは潔さがないということではないですか。(M・S)
★散ってしまっていい物、時代遅れのものや不要の物が散らずにまだしがみついているところに未
 練たらしさを感じているのではないか、そのあわれさ。(真帆)

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渡辺松男の一首鑑賞 380

2017年03月22日 | 短歌一首鑑賞

  渡辺松男研究46(2017年2月実施)『寒気氾濫』(1997年)
    【冬桜】P154
     参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:①曽我 亮子(②渡部 慧子)
     司会と記録:鹿取 未放

380 絶叫をだれにも聞いてもらえずにビールの瓶の中にいる男

         (レポート①)
 声の限り大声で叫んでいるのに誰にも相手にしてもらえずビール瓶の中に隠れるしかないあわれな私です…底なしの悲しみが歌われている。(曽我)


         (レポート②)  
 ビール瓶に映りこんでいるであろうを瓶の中にいる男とすることで想像の域が広くなる。生きている場はつづまり瓶の中しかなかったのか。井の中の蛙状態のような人物像を思ってみたりもする。いずれにせよいびつな状態の男の絶叫がビール瓶の中にむなしく響いている。ムンクの叫びを思う。(慧子)


     (当日発言)
★ビール瓶の中にいるのは作者だと思います。ぶくぶくとアワが上がってくるので、みんながいろ
 いろぶつぶつとしゃべっている中で自分は何も言えない、そんな感じ。でも、このビール飲んだ
 らまずそうですね(一同、笑い)(真帆)
★宴会の席にいるんだけど、どうも自分は分かって貰えない、そういう違和感や苛立ちや孤独感を
 こういうふうに歌っているのかな。あんまり理屈で考えるとつまらないので、ビール瓶の中で絶
 叫している男の図を漫画チックに思い浮かべています。滑稽だけど哀れですよね。慧子さんのい
 う「井の中の蛙状態」というのは、ちょっと意味合いが違うと思います。(鹿取)
★ビール瓶の中にいると外からは自分は見えないけれど、外の人々の心が見えているんじゃないで
 しょうか。だからすごく面白いところに隠れたなと。(M・S)

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