かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男の一首鑑賞  146

2014年12月31日 | 短歌一首鑑賞

【非常口】『寒気氾濫』(1997年)77頁
            参加者:石井彩子、泉真帆、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
             レポーター:石井 彩子
            司会と記録:鹿取 未放

179 ポリ容器浮かべていたり行く水は清濁併せ呑みつつ滅ぶ
 
     (レポート)(2014年12月)
 氏は「行く水」の流れを鴨長明のように人生論風に詠もうとはしない。冷徹に事実のみを表現する。清濁いずれの流れであろうとも、浮かんでいる「ポリ容器」は環境を汚し、生態系を破壊してゆく。やがて、地球上に異変がもたらされ、世界は滅ぶかもしれない。それは人類がもたらした害なのだ。(石井)
  ※ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消
   え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくの
   ごとし。『方丈記』 


     (意見)(2014年12月)
★川そのもののもっている運命をこの歌から感じました。海に帰るときは無垢なままでは帰れない。
 そして流れ込んでくるものを全て受容する。ポリ容器はその受容の象徴。川だけに解釈を限らな
 い方がいいんでしょうか?(崎尾)
★川が川でなくなって海になる。その過程において清濁併せ呑みつつあると。(真帆)
★清らかばかりでは生きてゆけない。清濁併せ呑むことで人間は太るんじゃないかと。そこのと 
 ころを渡辺さんは逆説で結んだんじゃないかと。(慧子)
★逆説って、具体的にはどういうことですか?世間の「清濁併せ呑んでこそ大人物」というような
 か考え方に異を唱えているってことですか?(鹿取)
★そうです。(慧子)
★「清濁併せ呑」むというところがこの歌の要だと思います。ただ、滅ぶは逆説ではない。「水清
 ければ魚棲まず」というのがあって、生き物が生きていくためには「清濁併せ呑」む必要がある。
 しかし、現実に川にポリ容器が浮いているのは文明批評だと思う。(鈴木)
★はい、文明批評だというところはレポートと同じですね。ただ文脈状は「行く水は~滅ぶ」だか
 ら、歌で言っているのは川なり水なりが滅ぶという所までだと思いますけど。もちろんその先に
 世界が滅ぶことも視野にはあるかもしれませんが。(鹿取)
★水は「清濁併せ呑」む限界を超えたんですね。(鈴木)

渡辺松男の一首鑑賞 145

2014年12月30日 | 短歌一首鑑賞

【非常口】『寒気氾濫』(1997年)76頁
            参加者:石井彩子、泉真帆、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
             レポーター:石井 彩子
            司会と記録:鹿取 未放


178 6月の水たっぷりの樹影濃しひとりのおみなみもごりていん

      (レポート)(2014年12月)
 6月は水の季節である。水の恵みをたっぷりと受けた樹の影は、どっしりと存在感を示すように濃い。水は植物ばかりではなく、あらゆる生命の源である。おみながみごもって、羊水の中で胎児が健やかに成長しているのだろうか。(石井)


    (意見)(2014年12月)
★下の句は妊婦さんが別にいるのではなく樹の中に生命を持つおみなが身ごもっているのかと思い
 ました。あと、「たっぷり」が全体に効いていて羊水まで感じさせてしまう巧みさがある。(真帆)
★ひとりのおみなはこの樹によって身籠もったように感じました。(慧子)
★女性の身体は月の運行や宇宙の動きなどと関連しているので、ここもそういう感じ。三木成夫
 (しげお)という人が『内臓のはたらきと子どものこころ』(1982年発行築地書館)の中で
 「内臓系は植物と対応している」というようなことを書いています。加藤典洋の『人類が永遠に
  続くのではないとしたら』の中でも紹介されています。もっとも三木の言葉を援用しなくても、
 この歌そのまま実感として感じ取れる。(鈴木)
★生命感の躍動が樹木と妊婦に連動している感じ。(鹿取)
★共時性ですね。(鈴木)

渡辺松男の一首鑑賞 144

2014年12月29日 | 短歌一首鑑賞

【非常口】『寒気氾濫』(1997年)76頁
            参加者:石井彩子、泉真帆、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
             レポーター:石井 彩子
            司会と記録:鹿取 未放

177 底のなきやわらかさ恋い朧夜のあかき空気に濡れてあゆめり

      (レポート)(2014年12月)
 朧月が遠くにかすみ、やわらかい夕闇に包まれると、行く手はおぼろとなり、浮遊しているかのような歩みとなる。その歩みは心地よく、赤みがかった春の夜気がしっとりと身体に触れてくる。ゆったりとなだらかな歌いぶりは、歩行そのものの様子を伝えて巧である。歩行を感覚で捉えている点では、ランボー一五歳のときの詩が想起されるが、与謝野晶子の「清水へ…」の作も叙述的ではあるが、景が鮮やかであり、人々のささめき、街の匂い、といった感覚が伝わってくる。(石井)

【参考作品】 
        Sensation アルチュール・ランボー
夏の青い黄昏時に 俺は小道を歩いていこう  草を踏んで 麦の穂に刺されながら
    足で味わう道の感触 夢見るようだ      そよ風を額に受け止め 歩いていこう
一言も発せず 何物をも思わず         限の愛が沸き起こるのを感じとろう
    遠くへ 更に遠くへ ジプシーのように   まるで女が一緒みたいに 心弾ませ歩いていこう                               ( 訳者不明)  

※清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき『みだれ髪』 与謝野晶子


      (意見)(2014年12月)
★しっとりした春の闇が身体に触れてくる感じ。松男さんの歌ってこうした情景を詠んでもその中
 に作者が入り込んでいるから、実感として読む方も味わうことが出来る。(鈴木)
★「あかき」は色彩の赤色ではなく「明き」と思って読みましたが、実態は結局どちらでもそれほ
 ど違わないですけど。(鹿取)
★「赤き」でもいいんじゃない、春の柔らかさが出ていて。(鈴木)(石井)
★「底のなきやわらかさ」を恋うというのが、朧夜がまるで女性みたいでなかなかなまめかしくて、
 包み込まれるような感じなんですね。真っ暗闇じゃない「あかき」空気の中をゆく身体感覚が
 気分良く味わえます。(鹿取)


渡辺松男の一首鑑賞 143

2014年12月28日 | 短歌一首鑑賞

【非常口】『寒気氾濫』(1997年)76頁
            参加者:石井彩子、泉真帆、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
             レポーター:石井 彩子
            司会と記録:鹿取 未放

176 闇は隅から来るものなりて校庭の鉄棒も子も見えなくなりぬ

     (レポート)(2014年12月)
 校庭に立っていると、周りは薄闇なのに、隅はもう真闇に覆われ、鉄棒も子も等しく見えなくなった。この歌をこどもを主格として、物語風にも解釈できるが、渡辺氏は物を語る作家ではない。時空を超え、時には因果律さえ、凌駕して、詩的真実を紡ぎだす作家である。テーマは闇である。物の形が見えなくなる黄昏時の、異界に入っていくかのような景を巧に捉えている。現代人は照明器具の発達により、ほとんど闇を意識しなくなったが、氏は灯りの乏しかった時代の人々と同じ思いで、闇の本質を見つめているのかも知れない。(石井)
      
 
      (意見)(2014年11月)
★黒の中にも濃淡があるような感じがうまく表現されている。現代人はほとんど闇を意識しなくな
 ったというレポーターの解釈は、作者はそこまでは言っていないかなと思う。(真帆)
★単純に実感としてわかる歌。立ち位置がよく分からないけど、周辺から闇が迫ってくる感じ。だ
 からレポーターの言うように「異界に入っていく」ほどの感じではないと思う。(鈴木)
★闇が隅から来るという捉え方は的確だと思う。〈われ〉はどこかから子どもを見守っているとい
 う設定なんでしょうね、何か闇の怖さとか子どもがどこかへ連れ去られるような不安感とか、女
 性だとそういうところに繋がっていくんだけど、この歌はそういう具体的な不安とは違うのかな。
やっぱり、もっと闇の持つ本質みたいなものに迫ろうとしているのかなと思います。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞 142

2014年12月27日 | 短歌一首鑑賞

【非常口】『寒気氾濫』(1997年)75頁
           参加者:石井彩子、泉真帆、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
            レポーター:石井 彩子
           司会と記録:鹿取 未放

175 笑いあいなどしておりたれど噤むとき口のなかには闇がいっぱい
 
           (レポート)(2014年12月)
 互いに哄笑しあっているのである。何故、何を、誰と笑っているのか、敢えて明示ぜず、強調されているのは噤むときの口のなかの闇である。「笑う」とはなにか?笑いは人間をはじめとする霊長類にのみ特徴的な動作であり、極めて知的な感情表現である。ニーチェは、笑いというのは「良心の呵責もなしに他人の不幸を喜ぶことだ」と言っている。このような笑いの残酷さ、後ろめたさの一面を、口のなかの闇と、暗喩しているのだろうか?物事の闇、負の部分を注視しているのは174番と同じである。哄笑の主体を複数にしたのは秀逸であり、笑いの本質である同期性を念頭におき、笑いの特質を普遍化している。(石井)


     (意見)(2014年12月)
★噤むという一瞬の行為によって何かが一転することがある。そこを捕らえている。(慧子)
★ニーチェの笑いを出してきたのは深読みじゃないかなあ。笑いって単純なものですよねえ。口を
 噤んだときふっと自分に返るという。ニーチェのような笑いじゃんくて、笑い合うという形で繋
 がっているんだけど、口を噤むと独りになってしまうという、そこに共感しました。(鈴木)

渡辺松男の一首鑑賞 141

2014年12月26日 | 短歌一首鑑賞

【非常口】『寒気氾濫』(1997年)75頁
            参加者:石井彩子、泉真帆、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
             レポーター:石井 彩子
            司会と記録:鹿取 未放


174 裁判所のできあがりゆく床下にとじこむるべき闇がきている

     (レポート)(2014年12月)
 法治国家の威容を示すがごと、裁判所が出来上がりつつあるが、所詮、人が人を裁く場である。様々な人間模様が繰り広げられ、時には法の名のもとに、国家権力によって指揮権が発動され、あるいは冤罪だって生じるかもしれない。敗れた者たちの怨嗟の声や不条理な情念を、あらかじめ閉じこめ、葬り去るには、既に闇が覆う床下は恰好の場所だ。裁判の負の面を床下の闇と視覚に転換しているのは氏らしく、巧である。(石井)  


     (意見)(2014年12月)
★裁判所の床下というのは、一度閉じられると建物が壊れるまで覗かれることがない。そこに闇が
 閉じこめられているというのはよく分かる。裁判所は本来真実を明るみに出して人を裁くものな
 のに闇に葬ってしまうという面もありうるわけで、そういうところを捕らえているのが面白い。
     (鈴木)
★下の句に注目しました。裁判所が出来上がっていく進行形の状態で、葬り去るべき闇が来ている
 という、同時に引き込むような、闇と常にセットであるような、こういう歌い方があるのかと注
 目しました。(真帆)
★石井さんが、裁かれて敗れた者の怨嗟の声というところまで想像を働かせて解釈していらして、
 すばらしいと思いました。ただ、終わりから2行目の「既に闇が覆う床下」というところは気に
 なりました。建てかけの床下は確かにもう闇かもしれないけれど、まだ閉じられてはいない。歌
 は「とじこむるべき闇がきている」だから、これから裁かれて葬られるに違いない諸悪とかもろ
 もろの情念とかが押し寄せてきているって読みました。(鹿取)

馬場あき子の外国詠375(トルコ)

2014年12月25日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子旅の歌37(11年3月) 【遊光】『飛種』(1996年刊)P124
       参加者:N・I、井上久美子、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:曽我 亮子
       司会とまとめ:鹿取 未放


283 忘れてしまつた歴史は思ひ出さずともぼすぽらす海峡ゆくトルコ晴れ

     (まとめ)(2011年3月)
 アジアとヨーロッパの接点にあるトルコの地は、両大陸の権力者が覇を競った舞台であった。まず紀元前1700年ころ、ヒッタイト人が帝国を築いた。しかし紀元前1200年頃にはトロイ戦争に破れ、この帝国は滅びた。その後は、フリギア王国、リディア王国、ヘレニズム、ローマ帝国、ビザンツ帝国、セルジューク朝、オスマン帝国と変転して1923年現在のトルコ共和国が誕生した。
 それら気の遠くなるような歴史の時間の一端が思いをかすめているのだろう。「思ひ出さずとも」の後に「よし」が省略されている形。こう言ってしまったからには当然トルコの歴史の様々を思い出しているのだが、興亡の哀しい歴史はしばし忘れてトルコ晴れの海峡クルーズに身をゆだねていようというのだろう。既に鑑賞した「歴史の時間忘れたやうな顔をしてモスクワ空港にロシアみてゐる」(スペイン旅行途上の歌)も同じような作りになっている。ただ、ロシアの場合は(トランジットなのでほんの短い滞在だが)古い歴史と共に目の前のロシアを興味津々の眼で見ている。このトルコの歌ではもっとゆったりと風景に身をゆだねている感じだ。「ばすぽらす」のひらがな表記も281番歌の「柳が散つて」と同じような放埒さを許す開放的な気分を出している。(鹿取)
 

      (レポート)(2011年3月)
 紀元前2000年(ヒッタイト)よりのあまりにも遠い歴史はさておきぼすぽらす海峡の美しく雄大な眺めを楽しむべし。空も海もあくまでも青く明るいトルコ晴れの一日なのだから。と作者は絶賛されています。
 ほんとうに誰もがそう思うことでしょう。海峡の両岸を見ながら遊覧船がゆき、沿岸の緑の中に点在する宮殿や要塞、吊り橋等を遠望する。また、両岸で異なる建築様式の対比等々、興味の尽きないぼすぽらす海峡なのです。(曽我)


     (意見)(2011年3月)
★「思ひ出さずとも」と言っているが、むしろ思いながらみている。(崎尾)
★高尾太夫の「忘れずこそ思ひ出さず候」も思い合わされる。(藤本)
★まあ、高尾太夫ほど切実に思い詰めている訳ではないから……通過するだけの旅行者だから、自
 分はよそ者であるという自覚も働いていると思います。(鹿取) 

 

馬場あき子の外国詠374(トルコ)

2014年12月24日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子旅の歌37(11年3月) 【遊光】『飛種』(1996年刊)P124
     参加者:N・I、井上久美子、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:曽我 亮子
     司会とまとめ:鹿取 未放


282 沈黙せよ旅のかがやく船着場トルコのかもめ啼きかはすまで

       (レポート)(2011年3月)
 おしゃべりしないでこのすばらしい景色を見よう。あくまでも青い空と秋陽に照る海の輝きを。旅のハイライト、ボスポラス海峡クルーズの船着き場から遊覧船に伴走して飛ぶトルコのかもめが啼きき交わして出港を報せてくれるその時まで。作者にとってボスポラス海峡の美しさは忘れられない思い出となることでしょう。単なる出港ではなく、カモメが啼きき交わして出港を報せるという詩的表現をされているのは本当に素晴らしいと思います。(曽我)


     (意見)(2011年3月)
★「沈黙せよ」は旅の仲間に言っている言葉。(曽我)
★周囲に言っているのでは道徳的になる。自分自身に言っているのだ。(崎尾)
★私も自分に言っていると思う。心をすませよう、というくらいの意味ではなかろうか。(鹿取)

馬場あき子の外国詠373(トルコ)

2014年12月23日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子旅の歌37(11年3月) 【遊光】『飛種』(1996年刊)P123
      参加者:N・I、井上久美子、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:曽我 亮子
      司会とまとめ:鹿取 未放

281 うすきゆだるに焼き鯖買ひて頬ばるをたれもとがめず柳が散つて

     (まとめ)(2011年3月)
 旅の途次、ウシュキュダルに名物の焼鯖を買って頬ばっているが誰もとがめない。孤独にあこがれた若い日からすれば堕落かも知れないが、旅の途中だからそれもまあよしと思っている。そのやや放埒な気分を「柳が散って」と流して歌っている。(鹿取)


     (レポート)(2011年3月)
 生暖かく気怠いイスタンブールの午後、名物の焼き鯖を軽食スタンドで買いほおばりながら歩いたが誰ひとりとがめる者もなく、はらはらと柳の葉が散ってくるのみの淋しくのどかな旅の一日であることよ。
 がらた橋近くをひとりのんびり過ごされている作者のご様子が目に見えるような臨場感あふれる作品です。又、柳の葉が散る寂しさを結句に、お歌をきりりと引き締めておられるのはさすがです。 (曽我)


     (意見)(2011年3月)
★結句で、歌をきりりと引き締めているとはとても思えない。(藤本)
★結句によって「たれもとがめず」を肯定している。(慧子)

馬場あき子の外国詠372(トルコ)

2014年12月22日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子旅の歌37(11年3月) 【遊光】『飛種』(1996年刊)P123
         参加者:N・I、井上久美子、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:曽我 亮子
         司会とまとめ:鹿取 未放


280 寒いほどのひとりぼつちにあくがれきうすきゆだるにまた船が入る午後

     (まとめ)(2011年3月)
 「寒いほどのひとりぼっち」は井伏鱒二の「山椒魚」の主人公である山椒魚が岩屋から出られなくなって吐く言葉からきているのだろう。「うすきゆだる」の言葉が分からないが、狭い運河にある船着場のことではなかろうか?生暖かい空気感が伝わってくるようだ。船着場にまた新しい舟が入ってくるのを旅の途上の少しアンニュイな気分で見ているのだろう。そして景の類似から谷川の岩屋に閉じこめられた山椒魚のことを思ったのではなかろうか。「寒いほどのひとりぼっち」にあこがれた若い日の厳しい精神の在りようを懐かしんだのかも知れない。「うすきゆだる」という名詞のせいもあるが、6・7・5・7・9と少し字余りだ。「また」が無ければ結句7音で収まるが、「また」はどうしても言いたかったのだろう。何度も船が入ってくるのを目撃しているのだ。(鹿取)

※ 「うすきゆだる」は地名「ウシュキュダル」。まとめを発表した後、石井照子氏のエッセー
  「旅行随行記」(「短歌」2002年1月号)にて教えられた。(鹿取)


      (レポート)(2011年3月)
 きりりと身の引き締まるような孤独にあこがれてきたのに、何とはなしほの暖かい空気があたりに漂い船も思いなしかゆっくりと入港してくるような気怠い午後である。もっとしゃっきりと過ごしたいと思うのに。どこにあっても凛き心を求めてやまない作者に頭が下がる私です。(曽我)
   うすきゆだる(茹だる)=軽いけだるさ