かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男の一首鑑賞 353

2016年09月30日 | 短歌一首鑑賞

      渡辺松男研究42(2016年9月実施)『寒気氾濫』(1997年)
        【明快なる樹々】P144
         参加者:M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:鈴木 良明
         司会と記録:鹿取 未放

353 全身で春を悦ぶ樹のもとをただ通りゆく人間の顔

          (レポート)
 自然そのものである樹は、「全身で春を悦ぶ」のである。それに対して、自然から遊離した人間は自らの裡に春を実感出来ず、樹々の芽吹きや山菜などによって間接的に春を知るのである。自然の変化に関心のない人間は、「樹のもとをただ通りゆく人間」で、自然から見れば、その顔は、感動の無い、のっぺらぼうに映るだろう。(鈴木)
  

          (当日意見)
★全身で春を悦んでいる樹があって、何の感慨ももたないようなつまらない人間が通っていくとい
 うところに、つまらない人間の顔が見えてくるような気がします。(曽我)
★樹が好きで讃美している歌。それに比べて人間はつまんないなあと人間を批判しているんですよ
 ね。樹を思う気持ちがすごく深くて大きいと思います。(慧子)
★作者は両方見えている。日々芽吹きが違っていく様子と、ただ通り過ぎていく人間と。広い視野
 を持っている作者だなあと。春の変化がわかるような人間になりたいと思います。(M・S)
★これを読んだとき、「ただ通りゆく人間」に作者は含まれるのか含まれないのか気になりました。
 ボクは樹の気持ちが分かるけど他の奴らは分かっちゃいないというんだったらすごく偉そうだ
 し、確かに周囲の自然に関心が無くて見向きもしない人々っていますけど、そんな人間を作者が
 つまらない奴らだなあと思って見ているんだとしたらイヤだし、でも、渡辺松男さんはそういう
 ひとではないから、そんなふうには他人を見ないと思います。自分は樹であってもよかったとい
 う歌も作っていますし。だから「ただ通りゆく人間」に作者は含まれるんだと思います。いく 
 ら樹に関心があっても365日全ての時間を樹を見て費やす訳にはいきませんから、「仰ぎもせ
 ぬ日」という歌の鑑賞を以前にしましたが、作者にだって樹のことを思う精神的余裕のない日も
 あるんですね。で、そういう日は自然から隔たった表情をしているんだろうなって自覚があるん
 ですね。(鹿取)
★自分は分かっているんだよということを出さない。他の奴らは黙って通り過ぎていくだけだと言
 わないところが素晴らしい。自分が上の立場ではなく、下から見ている。「自然から見れば」は
 そこを気遣った表現で、松男さんが見て「感動の無い、のっぺらぼうに映るだろう」と言ったん
 で、松男さんがそう思っているのではないです。自然から見れば自分の顔だってのっぺらぼうに
 見えるんだよってことですね。(鈴木)


      (まとめ)(鹿取)
 当日意見(鹿取)の「仰ぎもせぬ日」は、この歌。

 一本のけやきを根から梢まであおぎて足る日あおぎもせぬ日 『寒気氾濫』

渡辺松男の一首鑑賞 352

2016年09月29日 | 短歌一首鑑賞

      渡辺松男研究42(2016年9月実施)『寒気氾濫』(1997年)
        【明快なる樹々】P144
         参加者:M・S、鈴樹良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:鈴樹 良明
        司会と記録:鹿取 未放

352 樹のどんなおもいが春を呼ぶのかとけやきの幹に耳押しあてる

        (レポート)  
樹を擬人化して、樹のおもいを探ろうとしている。葉が茂ってくれば、そのそよぎの中に樹のお
もいを聞くことも可能だろうが、小枝や風がごまかすこともあるし、そもそもその季節ではない。勢い本音を訊こうとして「けやきの幹に耳押しあてる」のである。また、現象的には、樹が「春を呼ぶ」のではなく、春が巡ってきたので、樹は自ずからそれに反応するわけなのだが、自然から遊離した人間から見れば、自然そのものである樹が「春を呼ぶ」ように思えるのである。(鈴樹)


     (当日意見)
★樹に耳があるとか眼があるとか歌った例はありますけど、この歌甘くなっていなくていいと思い
 ます。(慧子)
★樹が水を吸い上げる音が聞こえると聞いたことがありますが、何か樹の思いが聞こえるような音
 があって、この樹と定めて聞く人がいるそうですね。(M・S)
★樹に耳を押し当てて聞いてくああ春が来たんだなと思う歌はけっこうありますね。これは逆に樹
 の思いに主眼があって、それが面白い。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞 351

2016年09月28日 | 短歌一首鑑賞

      渡辺松男研究42(2016年9月実施)『寒気氾濫』(1997年)
        【明快なる樹々】P144
         参加者:M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:鈴木 良明
         司会と記録:鹿取 未放


351 行く雲の高さへ欅芽吹かんと一所不動の地力をしぼる

     (レポート)
欅の大木。その繊細な枝は、「行く雲の高さ」を目指して高く高く芽吹こうとしている、根を下ろした「一所不動の地力」を絞りだすようにして、と詠む。「地力」は本来そなわっている力のことだが、欅自身の力というより、背後に自然そのものの生命力の力強さが思われる。(鈴木)


      (当日意見)
★「行く雲の高さ」っていうところがはるかな志みたいで好いですね。空高くとかなら誰でも歌え
 るけど。(慧子)
★下句も生きていますよね。(鈴木)
★松男さんらしい歌ですね。「一所不動」というところ、木っていうのは動かないところが本来で、
 動かないことを選択したというような歌もあったように思いますが、動かないことによって本来
 の力を発揮するところが面白い。(鹿取)
★「一所不動」であることで自然の力を全部吸い上げてしまう。地力ってそういう感じなんだと思
 う。(鈴木)
★辞書には「地力」は「そのものにもともと備わっている力・能力。本来の実力」と出ている 
 そうですが、松男さんは「土地の、土そのものの持つ力」という意味合いも込めてうたってい
 るように思います。(鹿取)
★「一所不動」という言葉はあるんですか?この人の作った言葉ですか?(M・S)
★合わせた言葉ですね。凄く力強い言葉ですね。(鈴木)
★私もこの歌この言葉で出来ていると思う。これが一生懸命だったらつまらない。(M・S)
★ここが松男さんですね。(慧子)
★「行く雲の高さ」はまま出ることばですが、「一所不動」は凄いと思います。(M・S)
★私は上の句が凄いと思います。「行く雲の高さ」は言えても、欅がそこの高さに向かって伸びる
 と言った人はいない。(慧子)
★「雲の高さ」にあこがれるという言い方はありますけどね。(M・S)


          (まとめ)(鹿取)
 以前にも引用したが、この歌と関連のありそうな渡辺松男のエッセー「樹木と『私』との距離をどう詠うか」(「短歌朝日」2000年3,4月号)より引用します。

 木の内側の大部分が死んでいるということは木の不動性と垂直性とに関連している。木は生き方として不動性を選択したときに垂直性を宿命づけられた。一所に生き続けるためには上に伸びなければならないからだ。伸びることを、内側の死という塊が支え、そして塊は年々太っていくのである。
  

渡辺松男の一首鑑賞 350

2016年09月27日 | 短歌一首鑑賞

      渡辺松男研究42(2016年9月実施)『寒気氾濫』(1997年)
          【明快なる樹々】P143
           参加者:M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
            レポーター:鈴木 良明
            司会と記録:鹿取 未放

350 樹々の根のあらわな崖に音たてて春の疾風がぶつかりつづく

      (レポート)
 山の中では、がけ崩れなどによって、樹々の根があらわになっているところをよく見かける。そこに春の疾風が容赦なく打ちつけて、さらに浸食はすすむだろう。山中の春の樹々といえど、決して安泰ではなく、自然の大きなうねり、変化の中で、かろうじて命を繋いでいる樹々もあるのだ。(鈴木)


     (当日意見)
★「樹々の根のあらわな崖に」って簡潔に情景を捉えた歌い起こしが素敵だなと思いました。
 地味ですけどとてもいい歌だと思います。(慧子)
★木にとっては「春の疾風がぶつかりつづく」のは辛い状況でしょうが、読む方は小気味よい
 感じがします。すがすがした感じですね。ほんとうによく見ている人ですね。(鹿取)
★これは春一番を歌っている気がします。その後春が来て芽吹きが始まるんですね。鈴木さん
 は「かろうじて命を繋いでいる樹々もあるのだ」って辛さを耐えている樹々のことを書いてい
 らして、歌ってここまで読むのかと感心しました。(M・S)
★春一番も含むでしょうが「ぶつかりつづく」だから、ある一日のことではなくもう少し長い
 スパン、このところ毎日毎日「疾風がぶつかりつづく」ということだと思います。(鹿取)


渡辺松男の一首鑑賞 349

2016年09月26日 | 短歌一首鑑賞

      渡辺松男研究42(2016年9月実施)『寒気氾濫』(1997年)
            【明快なる樹々】P143
             参加者:M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
             レポーター:鈴木 良明
             司会と記録:鹿取 未放

349 春さむき大空へ太き根のごとく公孫樹の一枝一枝のちから
   
     (レポート)
公孫樹の枝は、欅の繊細な枝などとは異なり、幹からいきなり太い枝を差し出す。まだ寒さの残る春に、そのような公孫樹の裸木が大空に向かって「太き根のごとく」枝を差し出している姿を目にして、公孫樹の「一枝一枝」の漲る「ちから」を作者は感じているのだ。(鈴木)    



      (当日意見)
★大空に向かって根のような枝が伸びるのが面白い。(曽我)
★「一枝一枝」のところ鈴木さんは「ひとえだひとえだ」と読まれましたが私は「いっしいっし」
と読んでいました。ルビは振られていないのですが、「いっしいっし」の方が字余りにならない
 し、枝の伸びる力強さが出ると思います。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞 348

2016年09月25日 | 短歌一首鑑賞

    渡辺松男研究42(2016年9月実施)『寒気氾濫』(1997年)
        【明快なる樹々】P143
         参加者:M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
          レポーター:鈴木 良明
          司会と記録:鹿取 未放

348 あこがれのはやぶさを見しばかりにて鐘なるごとき冬空の紺

     (レポート)
 隼はタカ目ハヤブサ科の猛禽類。飛翔しながら小鳥などの狩りをするが、急降下時の速度は一説によると時速390キロに及ぶという。巣をつくらず、断崖の窪みなどに卵を産み、生息数は減少しているので、普段目にすることも少なく、隼は「あこがれ」の存在なのだ。その隼が冬空の中に飛翔する姿を偶然目にしたために、鐘の音と冬空の紺色の響き合った「鐘なるごとき冬空の紺」が、強く印象に残ったのだ。(鈴木)


     (当日意見)
★あこがれのハヤブサを見た喜びが「鐘なるごとき冬空の紺」によく表れている。鈴木さんが「鐘
 の音と冬空の紺色の響き合った」と解釈されているところがよいと思う。(慧子)
★「鐘なるごとき」はウエディングベルのような幸せ感を表していらっしゃるのかな。(M・S)
★鈴木さんはどんな鐘を連想されましたか?(鹿取)
★それが分かりにくかったです。ゴーンではなくてコーンという澄んだ音、冬空の紺と掛けている
 のかなと。(鈴木)
★子規の句の「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」ってあるけど、まあお寺の鐘の音をここでは想像し
 ていいと思います。この歌では鳴ったといっている訳ではないから、あの定刻に撞かれる鐘の音
 の厳かな感じとか爽快感とかをはやぶさを見た一瞬の感動に重ねている。そしてそれが深い冬空
 の紺色にも通じると。(鹿取)
★具体的にお寺とか教会とかの鐘というのではなくてはやぶさのスピード感を出している。(鈴木)
★佐藤佐太郎さんに夕焼けが轟くごとくという歌があるんですが、景を音で例える修辞法というの
 がある。(慧子)
★佐太郎には聴覚の歌が多いですよね。佐太郎の歌を読むと耳の良い人なんだろうなといつも思い
 ます。(鹿取)
★音と色彩を合わせた、紺には何か音があるような気がする。(鈴木)
★この間鑑賞した歌にも凧がそれぞれの紺色の空にあるというのがありましたね。(鹿取)


     (まとめ)(鹿取)
 当日意見の「夕焼けが轟くごとくという歌」(慧子)は正確にはこの歌。
 はなやかに轟くごとき夕焼けはしばらくすれば遠くなりたり『歩道』

鹿取の「凧がそれぞれの紺色の空にある」は次の歌。
それぞれにそれぞれの空のあるごとく紺の高みにしずまれる凧『寒気氾濫』

馬場あき子の外国詠240(中国)

2016年09月24日 | 短歌一首鑑賞

      馬場あき子の旅の歌31(2010年8月実施)
             【砂の大地】『飛天の道』(2000年刊)188頁
              参加者:H・A、T・S、藤本満須子、T・H、鹿取未放
              レポーター:欠席
             司会とまとめ:鹿取 未放

      ◆ レポーター欠席のため、元のレポートはありません。

240 低く飛ぶ飛天は靴を穿きてをりまだ仙ならぬ男ぞあはれ 

     (まとめ)
 靴を穿いた飛天も多く描かれているようだ。また飛天は女性とは限らない。まだ仙人になるには若く生まの肉体と欲望をもっているであろう、俗界を離れきっていない男の飛天を特別な思い入れをもって眺めている。修行の足りない人間の男だから低くしか飛ぶことができないのであろう。同情よりももっとその男に寄り添っているこころの在りようが面白い。(鹿取)



馬場あき子の外国詠239(中国)

2016年09月23日 | 短歌一首鑑賞

      馬場あき子の旅の歌31(2010年8月実施)
             【砂の大地】『飛天の道』(2000年刊)188頁
               参加者:H・A、T・S、藤本満須子、T・H、鹿取未放
              レポーター:欠席
             司会とまとめ:鹿取 未放

      ◆ レポーター欠席のため、元のレポートはありません。

239 緑青の兜率天宮に近づけば樹あり人居りて唐初なりける

     (意見)
★樹下美人図を連想する。(T・H)


     (まとめ)
 これも莫高窟の壁画であろうか。写真等で見るかぎり、壁画には緑と青が印象的に使われている。兜率天宮というのは弥勒菩薩がいるところと辞書に出ている。人間を救済してくれる菩薩の住まい(が描かれた壁画)に近づいていくと樹や人が描かれていて、いかにも唐の初めといった佇まいである。唐初という時代に立ち返ったような懐かしさがにじんでいる。(鹿取)


馬場あき子の外国詠238(中国)

2016年09月22日 | 短歌一首鑑賞

    馬場あき子の旅の歌31(2010年8月実施)
             【砂の大地】『飛天の道』(2000年刊)187頁
               参加者:H・A、T・S、藤本満須子、T・H、鹿取未放
              レポーター:欠席
             司会とまとめ:鹿取 未放

      ◆ レポーター欠席のため、元のレポートはありません。

238 暗窟に飛天閉ぢられ極彩の幻覚の闇を飛びし二千年

     (まとめ)
 「幻覚の」が誰の幻覚なのか分かりにくかった。「飛びし」が過去だからそれがネックになって鑑賞を邪魔したようだ。莫高窟などを見学したようだが、それらの窟には極彩の飛天が描かれている。二千年は大げさかもしれないがそれらの壁画は長い年月をかけて営々と描きつがれてきた。描かれた飛天は暗窟のなかにいるので自分が飛んでいる姿を見ることはできない。だから幻覚の中でその闇の中を二千年間自在に飛びまわっていたのだ、というのか。それではどうも腑に落ちない。そうすると作者の幻覚ということになる。
 暗窟を見学する時は、ほんの少しの間だけガイドが懐中電灯で壁画を照らしてくれるそうだ。その一瞬に作者は極彩の飛天像を見た。そしてまた後は暗闇。作者は二千年間暗闇を飛び交っていた飛天たちの姿を幻視したのであろう。なお、莫高窟の壁画は古いもので366年の記録があり、14世紀ごろまでかかって制作されたとある。(鹿取)


馬場あき子の外国詠237(中国)

2016年09月21日 | 短歌一首鑑賞

      馬場あき子の旅の歌31(2010年8月実施)
            【砂の大地】『飛天の道』(2000年刊)187頁
             参加者:H・A、T・S、藤本満須子、T・H、鹿取未放
            レポーター:欠席
            司会とまとめ:鹿取 未放

      ◆ レポーター欠席のため、元のレポートはありません。「火焔山」の「焔」は、原作では旧字体です。

237 言葉失う奇観の中の火焔山つひに低頭の思ひわきくる  (「失う」の「う」は、歌集のママ)

      (意見)
★青年僧の玄奘の思いに頭を垂れる思い。(藤本)
★236番歌「畏れ」から237番歌「低頭」へと深まりが見られる。(H・A)                             

     (まとめ)
 236番歌「火焔山みれば奇怪なり真つ赤なり畏れつつ西遊記の山裾に入る」に見られるようにあまりの山容の凄まじさにただただ見とれ、茫然自失となって言葉も出ない。そうして圧倒されて眺めているうちに、最後には頭を下げるしかない敬虔な気持ちになったというのである。ここには(藤本説)の玄奘は登場しないので、「低頭の思ひ」の対象は火焔山、自然の圧倒的な強さに低頭の思いになったと私は解釈する。作者は旧かな表記なので「失う」は「失ふ」とあるべきだが、歌集は「失う」となっている。誤植であろう。(鹿取)