かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

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馬場あき子の外国詠 13(ネパール)

2013年07月31日 | 短歌1首鑑賞

 馬場あき子の外国詠1首鑑賞 13     
               【牛】『ゆふがほの家』(2006年刊)P96


164 カトマンズ王宮通り赤牛は痩せ痩せて夜行する聖家族なり

(まとめ)
 163番歌のと「遊行」と違い、こちらは「夜行」である。163番歌とは見ている牛の種類が違うのだろうか、百鬼夜行を連想する。ネパールの王制はこの旅行後5年を経た2008年に崩壊したが、王宮のある通りを痩せ痩せて夜行する牛たちに聖なるものを見ている点に諧謔があるのだろう。世界でもっとも貧しい国のひとつであるネパールだが、王の一族はおそらくは贅沢に暮らしているのだろう。また、ネパールではカースト制が根強く残っていると聞くが、王と庶民の対比ではなく牛をもってきたところに歌のひろがりが出た。「聖家族」はレポーターが言うようなマリアやイエスなどのキリスト教のものではなく、一般名詞であり、聖なる家族というくらいの意味であろう。(鹿取)

   (レポート)2009年8月
 夜のカトマンズのメインストリートを、痩せた赤牛が2、3頭、ゆっくりと歩いている。それはまるでヨゼフとマリア、イエスの聖家族のようだと先生は言われる。比喩の背景には何があるのだろうか。(T・H)
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馬場あき子の外国詠 12(ネパール)

2013年07月30日 | 短歌1首鑑賞

 馬場あき子の外国詠1首鑑賞 12    
                   【牛】『ゆふがほの家』(2006年刊)P95


163 カトマンズ今宵満月顔白く牛ら遊行す巷ひろらに

   (まとめ)
 牛の顔が白いのは満月に照らされているせいであろう。「遊行」は、仏教用語で「僧が修行・説法のために諸国を巡りあるくこと」の意味だが、「巷ひろらに」歩いている牛たちを遊行ととらえたところが優れている。月光に照らされて歩む牛たちは聖なるものの原点のようだ。ゆるやかな調べであるが格調が高い。(鹿取)


   (レポート)2009年8月
 今宵、カトマンズは満月である。今、牛たちは、その大きな顔に満月の月明かりを受けて、街道をゆったりゆったり歩いている。まるで我が物顔に……。「遊行す」「巷ひろらに」がミソである。(T・H)

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馬場あき子の外国詠 11(ネパール)

2013年07月29日 | 短歌1首鑑賞

 馬場あき子の外国詠1首鑑賞 11                            
                 【牛】『ゆふがほの家』(2006年刊)P95


162 牛の尻ゆつたゆつたと行くあとに優雅なるわがバスは従ふ

   (レポート)2009年8月
 今、先生はバスに乗っておられる。バスは警笛も鳴らさず、牛のゆっくりとした歩みに従って、ゆるゆると動いている。郷に入れば郷に従え、じっとがまんの時である。(T・H)
 ★「ゆつた」「ゆつた」「優雅」とユ音が続いている。(慧子)


   (まとめ)
 牛を傷つけると刑罰を受ける。ゆえに車は牛に遠慮して走るわけだが、旅行者としては珍しい風俗ゆえ、牛の後をのろのろと進んでゆくバスを楽しんでいる。少なくとも同行した私はいらいらすることもなかった。この歌も「じっと我慢」の心境ではないのだろう。「優雅なる」はやや皮肉を効かせているかもしれないが、だからといっていらだっているのではない。慧子さんの発言にみられるように、「ゆつた」「ゆつた」はいかにものんびりとした牛の描写であり、ユ音の連続はゆったりとした穏やかな心境を伝えている。(鹿取)
 
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馬場あき子の外国詠 10(ネパール)

2013年07月28日 | 短歌1首鑑賞

 馬場あき子の外国詠1首鑑賞 10                         

         【牛】『ゆふがほの家』(2006年刊)P95


161 街の角曲がれば大き牛の尻ありてわが顔圧倒されぬ

   (まとめ)
 街角の出会い頭に、車ならぬ牛の尻がぬっと目の前に現れたことのおもしろさ。(鹿取)


   (レポート)2009年8月
 ヒンドウ教では牛は神聖な動物をして尊敬されている。牛が町中を自由に動き回っている状況は、日常茶飯事である。今、馬場先生は、町の小路で、牛の後ろ姿・お尻に出会われ、ぎょっとされた状況がよく表わされている。(T・H)
 ★顔と言っているところがよい。牛の尻と顔でお互いの高さが出ている。(慧子)

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馬場あき子の外国詠 9(ネパール)

2013年07月27日 | 短歌1首鑑賞

 馬場あき子の外国詠1首鑑賞 9                            
                 【牛】『ゆふがほの家』(2006年刊)P94


160 一寸の金の仏を得たる街犠の水牛の血を見たる街

【まとめ】
 T・Hさんの説は、金の仏を得るために水牛を犠牲にした物語があるのだろうか、というものだが、「たる」、「たる」と完了形なので、それぞれが現在に近いことがらのようだ。カトマンズだろうか、この街で小さな金の仏を買った。いっぽう、同じ街で水牛が何かの生け贄として血を流しているのを見た。そういう混沌とした街の様子を感慨深く思い巡らせたのだろう。「~街」、「~街」とぶっきらぼうな感じもその統一感のなさに、しばし思考停止してことがらだけを投げ出した感がある。しかし、金の仏と対照させて水牛の血を野蛮なもの文化程度の低いものとして忌避している訳ではなく、混沌そのもののような街や人間を面白がっているのであろう。(鹿取)


【レポート】(2009年8月)
 「一寸の金の仏」を得るために水牛を犠牲にしたという言い伝えがあるのだろうか。「一寸の金の仏」がどこにあるのか、いろいろ調べてみたが私にはわからなかった。(T・H)
 ★金の仏を土産に買ったのか、下の句は別のことがら。(佐藤)
   ★上の句と下の句は箇条書きのようなもので、別のことがら。(慧子) 


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馬場あき子の外国詠 8(ネパール)

2013年07月26日 | 短歌1首鑑賞

 馬場あき子の外国詠1首鑑賞 8                              
                   【牛】『ゆふがほの家』(2006年刊)P94


159 喇嘛(ラマ)の旗ヒンドゥーの鐘カトマンズの朝露にゆるくわれを目覚ます

   【まとめ】
カトマンズは排気ガスがひどく埃っぽい街で、マスクをして歩いている人がたくさんいる。朝も常に靄がかかっている場合が多いそうだ。ここは露だが、そういう埃っぽさを洗うように露で湿った朝、窓からは喇嘛の旗がなびいているのがぼんやりと見え、ヒンドゥー寺院の鐘の音も響いてくる。それら異郷の風物が旅の疲れで眠っていた自分をゆっくりと目覚めさせる。「ゆるく」の語の使い方がうまい。(鹿取未放)

   【レポート】(2009年8月)
 朝、部屋の窓から通りを眺めておられると、そこにはラマ教の教えを記した布の旗がひらめいていたり、ヒンドゥー教のマニ車を回す音などが響いてくる。それらを見たり聞いたりしていると自然に目が覚めてくる。窓外の情景は別に喧噪ではない。今回の旅の目玉であったムスタンへの訪問も終わり、今、先生はネパールの首都の朝の情景を楽しんでおられる。(T・H)
★ヒンドゥー教の鐘は、とても軽い音がする。(佐藤)
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馬場あき子の外国詠 7(ネパール)

2013年07月25日 | 短歌1首鑑賞

 馬場あき子の外国詠1首鑑賞 7                                
 【ムスタン】『ゆふがほの家』(2006年刊)P93


158 ゆきゆきて六千メートルに満たざるはただ「山」と呼ぶヒマラヤ連峰

【レポート】(2009年7月)
 「ゆきゆきて」と初句からはてしない感じをおこさせる。地図と写真で知るのみのヒマラヤ連邦だが、おそれず使われた初句のことばに、さもあらんとうなずかされる。あとは詠われているように「六千メートルに満たざるはただ『山』と呼ぶ」であり、結句「ヒマラヤ連邦」につづく。
 サンスクリット語のヒマラヤはヒマアラヤのちぢまったもので、ヒマは雪、アラヤは蔵するというそれぞれの意味がある。それらをふまえて、ふたたび初句にかえるが、「ゆきゆきて」とは雪また雪とそんなことが思われる。掲出歌を分類する必要はないが、自然詠というのでもなく、言葉への機知が秘められた一首と読みたい。(渡部慧子)

   【まとめ】
 はるかであてどないイメージの「ゆきゆきて」は「伊勢物語」の東下りの段を連想させる。東下りの主人公は「ゆきゆきて」駿河の国、宇津の山に至るが、そこは蔦や楓が生い茂った薄暗い山である。やがて風景が開けて富士の山が見える。その富士の山は「比叡の山を二十ばかり重ね上げたらむほど」と描写されている。その後「なほ行き行きて」すみだ河のほとりに至るという設定である。東下りの主人公にとって、初めて見る富士の山は見慣れていた比叡の山を二十ばかりも重ね上げた感動的な高さに写った。ところがヒマラヤでは富士山を二つ重ねてやっと名前がもらえる高さとなるのだ。
 なぜならヒマラヤには8,000m級の山が14座、7,000m級の山が100座以上あって、6,000m以下の山にはいちいち名前など付けていられないのだ。そのことを作者はおもしろがっているのである。ヒマラヤは、レポーターも書いているようにサンスクリット語で「雪の住みか」の意。(鹿取未放)

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馬場あき子の外国詠 6(ネパール)

2013年07月24日 | 短歌1首鑑賞

 馬場あき子の外国詠1首鑑賞 6                      
           【ムスタン】『ゆふがほの家』(2006年刊)P92

157 小型機はふと雲を出づ朝の陽に嫣然たりアンナプルナ百語もて立つ


【レポート】(2009年7月)
 視界のきかない雲の中を小型機は出た。みえない状態から脱出した。事実、それによる心の明るさを序として「朝の陽に嫣然たり」とにっこりほほえんでいる様にあらわれたのは「アンナプルナ百語もて立つ」のアンナプルナであると断言したい。「嫣然たり」は文法上アンナプルナを修飾していないが、ここは理屈ではなく読み手の感性にゆだねたうえでの表現であろう。かりに嫣然たると連体形にしてみると、一首の持つ力が削がれる感がある。
 アンナプルナとはサンスクリット語の豊饒の女神という意味で、「嫣然たり」とは女神にふさわしい笑いではないか。作者には、笑う、ほほえむ、哄笑などとよく詠いこんでいて、その主体は万物に及んでおり、味わい深いものがる。
 さて、アンナプルナは百語もて立つという。百とはたくさんの喩だが、リアリティがあり、また感受されたが表現できないよいものも含まれているようで、意味に豊かな感じがある。作者の心に迫ったアンナプルナの百語とは、どのようだったのだろう。(渡部慧子)

【まとめ】
 このあたりの飛行機は有視界飛行なので、まあ、何も見えない雲の中には突っ込んでいかないと思うが、うっすらと雲がかかっていた状態から晴れやかな場に出たのであろう。そして突然、朝陽に光り輝いたアンナプルナが目の前に現れた。その美しさ、感動が「嫣然たり」と言わしめたのであろう。「嫣然たり」の後に小休止があると考えればここは終止形でもおかしくない。「アンナプルナ嫣然たり」の「アンナプルナ」が省略されている形だ。「そしてそのアンナプルナは百語をもって立っている」という意味で繋がっていく。三百万年の生をもつ美しいアンナプルナが作者に「生」についてさまざまなことを語りかけてきたのだろう。(鹿取)
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馬場あき子の外国詠 5(ネパール)

2013年07月23日 | 短歌1首鑑賞

 馬場あき子の外国詠1首鑑賞 5                        
         【ムスタン】『ゆふがほの家』(2006年刊)P93


156 生を継ぎはじめて長き人間の時間を思ふヒマラヤに居て

【レポート】(2009年7月)
 人間をとらえ考える様々な角度、たとえば思想、芸術、宗教、民族などから離れて「生を継ぎはじめて長き人間の時間」と、命また種の継承としての人間の長い時間を散文風に詠い起こしているのであろう。個々の命にそくしていえば、そのはかなさは通念となっているが、各々その生の時間である人類としての時間、およそ二百万年を把握不能ではあろうが、茫然と「思ふ」のであろう。これは旅の心用意に、海底隆起によるヒマラヤの成り立ちがおよそ三百万年という知識を得たうえでの「思ふ」であろうと、結句から想像する。その「ヒマラヤに居て」とは平易で無造作にみえるが、しみじみとして、言い難い感慨があり、場としての力が、一首全体を底支えしている。(渡部慧子)

                                      
   【まとめ】
 銀座のおしゃれなお店をあさり歩いていたのでは「人間の時間」は思えない。三百万年という気の遠くなるような時間を経た崇高な山にふれて初めて、人間の歩んできた長い長い時間を思うのである。この歌を読むと、誰の一期か迷った昨日の152番歌は作者の一期だったことが分かる。というよりも作者も含めた人間の一期であり、人類の時間に考えが及んでいたのだ。
                                     
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馬場あき子の外国詠 4(ネパール)

2013年07月22日 | 短歌1首鑑賞

 馬場あき子の外国詠1首鑑賞 4                              
                 【ムスタン】『ゆふがほの家』(2006年刊)P92

                                     
155 マチャプチャレ鯱鉾のやうに空に跳ね一期を問へば空哄笑す

  【レポート】(2009年7月)
 マチャプチャレとはネパール語で魚の尾という意味。そのマチャプチャレが「鯱鉾のやうに空に跳ね」のとおり、今、跳ねているので、そこをとらえ作者はこころみにもの申してみた。「一期を問へば」のである。小さな存在の果敢な問いを「空哄笑す」というように、空が呵々と笑ったというのである。マチャプチャレと作者の問答は成立せず、ただ無辺の空に包まれていたのだ。
 魚好きでその名の漢字表記に興を得ていよう。以下2首は、馬場あき子の「魚」の漢字を使った歌。
   秋の日の水族館の幽明に悪党のごとき鰧を愛す
   海驢(あしか)棲みし洞窟二百メートルの暗黒に入る入りて声なし
                                    (渡部慧子)

★そんな人間の小さな一生なんて俺の知ったことかよと、空が大笑いした。(T・H)

    【まとめ】
 誰が誰に聞いたのだろう。関連するが誰の一生なのだろう。一応、次のような場合が考えられる。(何か、入試問題のようだが)
 ①マチャプチャレが、自分の一生について空に尋ねた。
 ②作者が、自分の一生について空に尋ねた。
 ③作者が、自分の一生についてマチャプチャレに尋ねた。
④作者が、マチャプチャレの一生について、空に尋ねた。
 ⑤作者が、マチャプチャレの一生について、マチャプチャレに尋ねた。
 ①と考える理由は、直前の「空に跳ね」の部分の主語がマチャプチャレだからだが、悠然と空に跳ねるマチャプチャレが自分の一生について空に尋ねるなどということはしないだろうから×。
 ②は、T・Hさんの意見を反映している。とても魅力的な意見で、かなり加担したい気分だ。
 ③は、①同様マチャプチャレの行為を受けて続く部分だからだが、マチャプチャレに尋ねたのに空が哄笑したのは、やや繋がりが悪い。もちろん、空が問答を耳に挟んだという解釈も捨てがたい。
レポーターは、そういうつもりで書かれているのだろう。
 ④は、①に似ているが、悠然と空に跳ねるマチャプチャレが自分の一生を思い悩むこともなさそうだから、154番歌で「雄々しきマチャプチャレ」「われを閲せり」と讃えている作者が、マチャプチャレの一生を尋ねさせることはないだろう。またそれで空が哄笑するのもおかしい。よって×。
 そんな訳で、会員の意見は分裂し、結論は出せなかった。私自身の意見は②と③の折衷案。つまり雄々しく悠然と空に跳ねるマチャプチャレに、「あなたのように悠久な山と比べて私の一生はなんなんだろうね」とふっとつぶやきが漏れてしまったら、耳ざとい空がそれを聞いて大笑いした。まさに「人間の小さな一生なんて俺の知ったことかよ」というわけである。この解釈の難点は、つぶやきというには「問えば」の語が強い点である。

 *「カナジーの物見遊山」というサイトで、近頃、ヒマラヤの山々の写真を見ています。同じ山
  でも時刻や場所を変えて撮影されていて、すばらしい写真です。マチャプチャレ、ニルギリ、
  ダウラギリ、アンナプルナなどの他にもネパールの有名な山々が満載です。詳しいデータや旅
  行記も付いていて現地に行った気にさせてくれます。またネパール以外にも世界各国の山々や
  文化遺産が載っていてすばらしいです。皆さまもよかったら一度覗いてみてください。 
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