かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男の一首鑑賞 248

2015年08月31日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究30(2015年8月)【陰陽石】『寒気氾濫』(1997年)104頁
          参加者:石井彩子、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
          レポーター:石井 彩子
          司会と記録:鹿取 未放


248 砂袋に砂満たされてあるときのエロスのような重さ持ち上ぐ 

      (レポート)
安部公房の『砂の女』を思わせる、「男」にとって「砂」は自由を奪うものであるが、やむを得ず同棲することになった「女」は「砂」に順応している。砂袋一杯の変容自在な砂は、それにまみれて生活をする「女」のとりとめのない肉体、エロスを思わせる、持ち上げる行為は「男」が砂を穴から掻き出す行為でもある。(石井)
 『砂の女』:海辺の砂丘に昆虫採集にやって来た男が、女が一人住む砂穴の家に閉
       じ込められ、様々な手段で脱出を試みる物語。不思議な状況設定を写 
       実的に表現しながら、砂の世界からの逃亡と失敗を繰り返していた男
       がやがて砂の生活に順応し、脱出の機会が訪れても逃げない姿に、市
       民社会の日常性や、そこに存在する人間の生命力の本質と真相が象徴
       的に描き出されている。(Wikipedia)


      (当日意見)
★砂袋というのは持ち上げると形がぐにゃっとなったりするので、それで作られた歌だと
 思います。(M・S)
★変容自在な砂袋をイメージしているのです。(石井)
★砂の重さに愛の重さを偽しているのかなと思いました。小説はエロスでしょうが、この
 歌は愛について考えているのかなと思っていました。(曽我)
★エロスの混沌を詠っているのかなと思いました。(慧子)
★私は単純に持ち上げたときのくにゃくにゃ感と、持った方もよろめいたりするそんなイメ
 ージを女性を抱いた時の感覚にみているのかなと思っていました。「砂の女」は文学的知識
 しかなくて実際読んでいないので、小説との関連については、すみませんが何とも言えま 
 せん。(鹿取)


渡辺松男の一首鑑賞 247

2015年08月30日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究30(2015年8月)【陰陽石】『寒気氾濫』(1997年)104頁
                参加者:石井彩子、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
                レポーター:石井 彩子
                司会と記録:鹿取 未放

247 水平線一本あれば慄然と線の向こうに日は落ちてゆく

       (レポート)
かなたには筆で描いたようなまっすぐな水平線が伸びて、その向こうに太陽が沈むさまは、戦慄を覚えるほどである。水平線を一本という数詞を用いて、自然現象の在り方を日常とは違った視点で描写している。(石井)


       (当日意見)
★私はこの上句に驚きました。すごいと思います。(慧子)
★レポートにある通り「水平線一本」って特異な言い方ですし、日常の落日風景を詠
 みたいのではないですよね。向こう側というものに作者はとても興味があって、向こ
 う側の歌をいろんなバリエーションで詠っています。いろいろ「向こう」について考え
 ている人なんだけど、その「向こう」が「補陀落(ふだらく)」だったり冥界だったり
 するのと違う「向こう」なんですね。(鹿取)


       (後日意見)
 「向こう側」の歌のバリエーション。

  真空へそよろそよろと切られたるひかりの髪は落ちてゆくなり
                    『寒気氾濫』
  法師蝉づくづくと気が遠くなり いやだわ 天の深みへ落ちる
         ※歌集で「蝉」の字は、旧字体。

  伸びるだけわが影伸びてゆきたれば頭が夕の屋上より落つ
                   『泡宇宙の蛙』
  崖上の冬木の影がさかしまに崖下の家へ届こうとする

くしゃみをすればまっしぐらに飛びてゆくものあり一休禅師はいま月の裏
                   『歩く仏像』
友が空へ落ちてしまいてその深き青を見あげて靴履くわれは

渡辺松男の一首鑑賞 246

2015年08月29日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究30(2015年8月)【陰陽石】『寒気氾濫』(1997年)104頁
           参加者:石井彩子、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
           レポーター:石井 彩子
           司会と記録:鹿取 未放


246 爽快は靴音にあり階段を降りるとき君と並びて降りる

     (レポート)
 作者と君は無言で階段を降りているのだろうか、いつの間にか一段、一段降りる歩調がそろい、並んで降りる爽快な思いを、靴音という聴覚に象徴させている。「靴音は爽快」ではなく「爽快は靴音」に注目。これは、靴音そのものが爽快ではなく、並んで降りる君に対する心動きが爽快であり、それが靴音によって形象化されているのである。(石井)


      (当日意見)
★よく分かる歌ですね。(慧子)
★気持ちが良いのは二人揃った靴の音にあると思います。音が爽快さを強調しているのだ
 と思います。二人は並んでるけど黙っているんですね。(曽我)

渡辺松男の一首鑑賞

2015年08月28日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究30(2015年8月)【陰陽石】『寒気氾濫』(1997年)103頁
          参加者:石井彩子、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
          レポーター:石井 彩子
          司会と記録:鹿取 未放


245 たえまなきみずのながれにみずぐるま未来回転して過去となる

     (レポート)
マウリッツ・エッシャー(オランダ生、1898年 - 1972年)のだまし絵に「滝(昇る水路)」というのがある、滝が流れ落ち、その水力で水車は回っているのだが、その水は重力の法則を無視して、上の方に流れ、再び滝となり、水車を回す、これが際限なく繰り返されるのである。
この作品は回転する水車という空間の表現を時間の暗喩と捉え、未来と過去が繰り返されることを詠んでいる。カミュの「シジフォスの神話」では、転げ落ちるのは分かりきっているにも拘わらず、大岩を尖った山頂まで運び、転げ落ちた岩をまた山頂に運ぶ無意味な動作を繰り返す人間が描かれているが、日常の全てが同じ出来事の繰り返しという意味では、ニーチェの「永劫回帰」に通じるものがある。(石井)
  ※エッシャーの絵は、ブログでは割愛しました。


     (当日意見)
★石井さんのレポート、エッシャーのこの絵を思い出したところがいいですね。エッシャー
 ってこんな哲学的な解釈ができるのねというか、渡辺さん先取りしているような。確かに
 視覚的にこの歌を解説しているようで面白いですね。(鹿取)
★私は普通の水車を思い浮かべていました。未来のことはそこまで行けば必ず過去になっ 
 てしまうのであって、別に無意味な動作の繰り返しということはないと思うのですけど。
       (M・S)
★私は「未来回転」というところだけがこの歌分からないんです。(慧子)
★「未来回転」ではなく、「未来」で一旦切れるんじゃないですか?(M・S)
★そう読んでも時間が掴めないですね。(慧子)
★未来も過去もぐるぐる回っているという感じです。視覚的には逆流しているような絵な
 んですね、エッシャーのは。(石井)
★どんな輝かしい未来もいつかは過去になるという、そういうことを歌っているのかなと。
       (M・S)
★私は気怠い同じ事の繰り返しを思います。単に回っているのでは面白くないので、歌は
 未来とか過去とかの概念を持ちだして衝撃を出そうとしている。(石井)
★レポートの最後の「永劫回帰」については、その内容をよく理解していないので分かり
 ません。(慧子)
★やっぱり同じ事の繰り返しというのは辛いんです。たとえば仏教の輪廻転生だと何かこ
 う新しい物が付け加えられるんですけど、ニーチェの永劫回帰というのは全部神話に通
 じるものがあって、過去にあったことがもう一度繰り返されるというそういったことが
 永劫回帰なんですけどね。(石井)
★そうですね、今この部屋でこの顔ぶれで渡辺さんの歌を議論していますが、この瞬間と
 いうものが永遠の未来に全く同じかたちで存在する。同じ顔ぶれで同じ議論をして部屋
 の外では蝉がミンミンと今と全く同じに啼いている、それが何回でも循環する。(鹿取)
★時間というものは過去とか未来とか私達は直線的なものだと思っているけれど、永劫回
 帰は円になっている。(石井)
★輪廻(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)だったら、悟りという、あの循環の輪を脱出
 する方法があるわけですよね。でも永劫回帰には脱出の方法がなくって、救いようが 
 ないのです。(鹿取)
★だからニヒリズムって言うんです。非常に怖い思想です。(石井)

渡辺松男の一首鑑賞 244

2015年08月27日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究30(2015年8月)【陰陽石】『寒気氾濫』(1997年)103頁
                参加者:石井彩子、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
                レポーター:石井 彩子
                司会と記録:鹿取 未放


244 ひとひらの鳥冥けれど日のきよら風のきよらに乗りて川越ゆ

          (レポート)
 安西冬衛の「春」に「てふてふが一匹 韃靼(だったん)海峡を渡つて行つた」という一行詩がある。この詩の「てふてふ」が実景でないように「ひとひらの鳥」も作者の心象風景であろう。「ひとひら」という平仮名によって、いかにも風のまにまに飛翔し、まるで一片の紙きれのように遠ざかってゆく鳥の視覚的イメージが立ち上がる。もともと冥界にいたこの鳥は、この世とあの世を隔てる川を越えて、濁りのない澄み渡った陽光や風に導かれて、再び冥界に帰ってゆくのであろう。        (石井)


         (当日意見)
★もともと冥界にいた鳥というのは、このように規定しなくともいいんじゃないかなあ。
 この「冥い」は光線の暗いだけをイメージするだけでよいと思います。(慧子)
★人間であれ動物であれこの「冥い」を冠して多くの歌人が歌を詠んでいますけれど、渡
 辺さんは短歌界に流通するコードをうまく使って歌を作る人ではないので、この「冥い」
 も独自の感性で掴んだ言葉だろうと思います。川を越えるという辺りから石井さんのよ
 うな冥界という解釈ももちろん引き出せますけど、渡辺さんの現在までの歌を読んでき
 た限りでは、ダンテのようなものにしろ、 東洋的なものにしろ「冥界」という概念は
 彼の中に無いような気がします。私は「冥い」はもう少しゆるやかに、やっぱり鳥の持
 つ存在自体のくらさだろうと思います。表面的には短歌界のコードと同じように見える
 かもしれないけど、考えは地つづきではないように思います。例えば「冥い」に類する
 語を使った歌を読み上げてみます。
  佶屈と近づきて父と名乗るもの冥(くら)し声くらき悪尉癋見(あくじょうべしみ)
                    馬場あき子『桜花伝承』(1977年)
  水中のようにまなこは瞑(つむ)りたりひかるまひるのあらわとなれば
                     伊藤一彦『瞑鳥記』(1974年)
  おとうとよ忘れるるなかれ天翔る鳥たちおもき内臓もつを
★渡辺さんは、伊藤一彦についての評論もあって、伊藤に心寄せがあるようなので『瞑鳥
 記』の題にも注目しました。「日のきよら風のきよら」って早春のイメージですけれ 
 ど、その清らかな光の中を川を越えて飛んでいく一羽の鳥の姿は可憐で清冽、好き 
 な歌です。(鹿取)


渡辺松男の一首鑑賞 243

2015年08月26日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究29(2015年7月)【陰陽石】『寒気氾濫』(1997年)103頁
                 参加者:石井彩子、M・S、渡部慧子、鹿取未放
                  レポーター:渡部 慧子
                  司会と記録:鹿取 未放


243 空いっぱいに透明大河流れおり欅若葉は藻のごとく揺れ 

          (レポート)
 爽やかな雰囲気が設定される。「空いっぱい」の「透明大河」とは宇宙であろう。そこに「欅若葉」の「藻のごとく」の例えが海で発生した生命体を思わせ、時間と空間を存在に広げている。(慧子)


         (当日意見)
★凄く大きい上からみ見下ろしような歌。(M・S)
★空いっぱいとあるから夏の豪雨をイメージしました。やっぱり宇宙的なイメージなので 
 しょうかね。(石井)
★私は宇宙までは広げませんでした。下から大空を眺めています。風が吹いていて、風に
 色はないので透明ですが、その気流によっておそらく大きな欅の若葉を付けた枝が枝毎
 藻のように揺れている、そんな風景をイメージしました。わりとゆったりと欅が揺らめ
 いているイメージです。それぞれ、ちょっとずつ読みが違いましたが。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞

2015年08月25日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究29(2015年7月)【陰陽石】『寒気氾濫』(1997年)102頁
          参加者:石井彩子、M・S、渡部慧子、鹿取未放
          レポーター:渡部 慧子
          司会と記録:鹿取 未放


242 夏の日の黄揚羽・電話そして君 突然に来て簡単に去る 

          (レポート)
 夏の恋を匂わせながら、結句「突然に来て簡単に去る」のように気まぐれなものの一つとして詠っていよう。「夏の日の黄揚羽」が全体を思わせる序とも、独立の事物として「電話そして君」と並列しているようにも思う。一首中の独立のフレーズのどこから読み始めても、どこへつなげても意味が通る。241番歌の回転を文体として、ここで密かに試みていないか。(慧子)


        (当日意見)
★M・Sさんが「記号って短歌に使ってもいいの?」とおっしゃったんだけど、ここでは 
 「・(なかぐろ)」が使われていますよね、並列を表す為に。ところで、慧子さんのレ 
 ポートの「回転を文体として、ここで密かに試みていないか」というところを、具体的 
 に説明していただけますか。(鹿取)
★「夏の日の黄揚羽・電話そして君 突然に来て簡単に去る」の歌は3つのフレーズに別
 れていて、どこから始まっても意味が通る。そのことです。(慧子)
★自転車を漕いで回転をする君の白脛を、回転する文体として具体的に書くとこんなふう
 になるって言うこと?(鹿取)
★そうです。自転車の回転から地球だって回転しているしという思いが作者にあったので
 はないかと?それを241番歌でうまく説明ができなかったのです。242はぐるぐる
 と終わらない文体なんです。(慧子)
★242番歌がどこから始まっても意味が通る歌だとしても、回転をする白脛を文体とし
 て242番歌で試行してみせたというのは、突飛過ぎる考えで説得力がないと思います。
   (鹿取)
★どこから始まってもと言われたけれど、やっぱり夏の日が最初にくるのがいいと思いま
 す。突然に来て簡単に去るものを順番にあげているようですが、ちゃんといいものをあ
 げていると思います。(M・S)
★そうですね、アトランダムのようで詩的に出来上がっていますよね。黄揚羽のキ、君のキ、
 来てのキと歯切れのよいキの音を連ねて心地よいリズムを生んでいます。夏の日が強烈な
 んだけど他の物はなんとなくはかない感じですよ。黄揚羽が突然目の前に現れてあっとい 
 う間にいなくなってしまうように、君からの電話も君自身もあっという間に目の前から去
 ってしまう。最近の若い人がうたっているようないわば平べったい言いまわしなんだけど
 上手くつかめていますよね。まあ、去られるのもここでは甘い痛みなんでしょうけど。
   (鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞 241

2015年08月24日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究29(2015年7月)【陰陽石】『寒気氾濫』(1997年)102頁
          参加者:石井彩子、M・S、渡部慧子、鹿取未放
          レポーター:渡部 慧子
          司会と記録:鹿取 未放


241 自転車を五月の街へ漕ぎ出だし回転をする君の白脛  

          (レポート)
 君の白脛の回転が爽快で白さがまぶしかったであろう。「漕ぎ出だし」「回転をする」と動きに弾みがあり、自転車と君の脛によって5月の街のすがしさの中の若さを切り取る。
    (慧子)


         (当日意見)
★君の脛が回転するというと非常に面白い使い方。(石井)
★女性の脛って魅力的なんですね。(M・S)
★白脛がうまいなって。なかなか白脛って出てこない語ですよね。君の脚とか、せいぜい
 太股くらいで。脛はなまめかしいけど健康的で若くていい感じですね。(鹿取)
 

渡辺松男の一首鑑賞 240

2015年08月23日 | 短歌一首鑑賞

  渡辺松男研究29(2015年7月)【陰陽石】『寒気氾濫』(1997年)102頁
          参加者:石井彩子、M・S、渡部慧子、鹿取未放
           レポーター:渡部 慧子
           司会と記録:鹿取 未放


240 朝早き地震に根元揺さぶられ爽快となる五月の壮樹  

          (レポート)
 朝早き地震が根元をゆさぶる。その結果爽快となる壮樹がある。それは朝の目覚めを促している状態にも思えて、肯定的に地震を捉えていよう。地震によって仮にそのような状態に至ったとして、そこにはそれ以上の内容が思われる。動けなくても、そこに起こった事実を受け止めて爽快になるという壮樹の見事な受け身を詠っていると思う。(慧子)


         (当日意見)
★さっきの性器うんぬんの話からすると、また違う意味になってきますよね。でもこれは、
 素直に読んでいいのかな。(石井)
★これは素直に読んでいいのかなあ。地震だから地が揺れるんで根元が揺さぶられるのよ
 ね。それで爽快になるというのは十全には分からないんだけど、運動したような感じで
 さっぱりするのかなあ。「壮樹」って造語でしょうか、壮年の樹ってことですよね、そ
 こに自分を重ねてはいるんでしょうけれど。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞 239

2015年08月22日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究29(15年7月)【陰陽石】『寒気氾濫』(1997年)101頁
          参加者:石井彩子、M・S、渡部慧子、鹿取未放
          レポーター:渡部 慧子
         司会と記録:鹿取 未放


239 初夏のわれは野に立つ杭となり君の帽子の飛びくるを受く  

          (レポート)
 初夏のすがすがしい時、作者は自己を巨大化せず杭となり、とつつましい。だが、君の帽子の飛びくるを待つではない。下の句は密かな強さと自信の見える「受く」である。又、見逃せないのは初夏にわれではなく「初夏のわれ」のように季節を一人称に被せて、これが思いがけなく新鮮で「野に立つ杭となり」へ自然につづく。杭になりながらつつましさや自信をひそかに織り込んでいる。(慧子)


        (当日意見)
★いつでもどうぞ、どこへ飛んできてもエラーしないで受けますよという感じが出ている。
       (M・S)
★どっしりとした存在感がある。寺山のような青春歌ですね。(石井)
★気持ちの良い初夏に野原で杭となって君がたわむれに帽子を投げるのを受けている、そん
 な素直な歌として読んでもいいように思うのですが、なぜわざわざ「杭」なんでしょうね。
 何せ題が「陰陽石」ですから、つい余計なことを思ってしまうのですが。フロイト流に解
 釈すると、尖った物は男性性器、丸い物は女性性器ということになるので、まあこの歌も
 裏にはそういうことを隠し持っているのかなと。(鹿取)
★わざわざ杭をもってきて、つつましいわねと思ったんだけど、違っていたのね。(慧子)