【からーん】『寒気氾濫』(1997年)37頁
参加者:崎尾廣子、鈴木良明(紙上参加)曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部慧子
司会と記録:鹿取 未放
87 アリョーシャよ 黙って突っ立っていると万の戦ぎの樹に劣るのだ
(レポート)(2013年11月)
対象である樹と自分の差異を感じているらしい作者。「黙って突っ立っている」ことは樹のことばのような「戦ぎ」のある樹に「劣るのだ」と。だから歩こう、話をしようというのではない。樹のようにありたい、そんな心境の自己を戯画風にとらえる。仮に「アリョーシャよ」と女性をそこに立たせることで二句以下の心の表白の展開が、ありありとして、更にユーモアとペーソスが生まれ、実にたくみな構成。
(記録)(2013年11月)
★黙って立っている樹ではつまらないから戦いでいる樹の方がよいとわりに単純に思ったんだけ
ど。それよりドストエフスキーのアリョーシャを持ってきたところに面白みを感じる。(曽我)
★アリョーシャって何に出てきたのですか?(崎尾)
★アリョーシャって『カラマーゾフの兄弟』の末っ子の少年です。(鹿取)
★えっ、男の名前ですか?(慧子)
★何か言わなきゃならない時に突っ立っていると樹に劣るのだと。樹は確かに何も話はしない。
しかし、樹はそれなりにせめぎ合っている。その言葉のない樹よりも言葉のある一人の男が何
も言わないというのは、樹よりも劣る。アリョーシャが『カラマーゾフの兄弟』の一人だと聞
いて歌がぐっと迫ってきたんだけど。言葉の無い樹より劣るという、言葉を使わなきゃいけな
いよと言う。言葉を使わないと黙っている樹と同じだよと言うニュアンスも感じる。(崎尾)
★アリョーシャって『カラマーゾフの兄弟』の一番下で、修道院に入ってひたむきに修行してい
る少年なんですね。強欲で女にだらしがない地主のお父さんがいて、お兄さん二人もアリョー
シャも、それぞれお父さんとも兄弟同士とも葛藤がある。そして屋敷に住み込みの下男が実は
腹違いの兄弟なんですね。あの小説読んだら、誰でもたいていアリョーシャを好きになるんで
すけど(私は無神論者のイヴァンという兄さんもけっこう好きですけど)そのアリョーシャに
作者は呼びかけているわけですよね。ひたむきに神を求めているアリョーシャに何か作者は言
おうとしているんだけど、私にはもうひとつその内容が理解できない。なぜアリョーシャに限
定しているのか、その必然性も私にはまだ読み取れなくて、そこを深めたいと思うけど、よく
分かりません。「黙って突っ立っている」のはアリョーシャか作中主体の〈われ〉か、それと
も両方か、それさえよく分からない。アリョーシャだとして、少年の今はまだ黙って立ってい
ると樹に劣るよと言っているのか、それは変な気がする。それなら「アリョーシャよ」と呼び
かけて、「人間一般というものは、黙って立っていると樹に劣るよ」と言っているのか。作者
の歌全般を読むと、人間には言葉があるから樹より優れているとは思っていなくて、一貫して
黙っている樹に信頼を置いているようだし、自分の寡黙さも肯定している。しかし、この歌で
は言葉を持ち出している。では、言葉を持たない樹と並べて、作者はどこまで人間の言葉の有
用性を信じているのか。もちろん短歌を書いて世界に発信しているんだから、言葉を否定する
立場にいる訳ではない。自分自身が(宗教などを考えると)言葉に懐疑的なので、この歌がう
まく解釈できないのかもしれない。難しい歌だなと思っています。(鹿取)
★すみません。アリョーシャは女の人だとばかり思っていました。『カラマーゾフの兄弟』は最
近読んだんだけど、内容はすっかり忘れていました。(慧子)
◆◆
★『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャは、他の兄弟が良い面と悪い面を併せもってい
るのに対し、良い面だけが強調されて描かれている。アリョーシャのような理想を追
う人間は、行動的な面(行動はある面、清濁併せ呑むようなものである)が乏しくな
りがちである。それに対して、作者は、同じように突っ立っているだけの樹木の「万
の戦ぎ」にも劣ると皮肉っている。(鈴木)
参加者:崎尾廣子、鈴木良明(紙上参加)曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部慧子
司会と記録:鹿取 未放
87 アリョーシャよ 黙って突っ立っていると万の戦ぎの樹に劣るのだ
(レポート)(2013年11月)
対象である樹と自分の差異を感じているらしい作者。「黙って突っ立っている」ことは樹のことばのような「戦ぎ」のある樹に「劣るのだ」と。だから歩こう、話をしようというのではない。樹のようにありたい、そんな心境の自己を戯画風にとらえる。仮に「アリョーシャよ」と女性をそこに立たせることで二句以下の心の表白の展開が、ありありとして、更にユーモアとペーソスが生まれ、実にたくみな構成。
(記録)(2013年11月)
★黙って立っている樹ではつまらないから戦いでいる樹の方がよいとわりに単純に思ったんだけ
ど。それよりドストエフスキーのアリョーシャを持ってきたところに面白みを感じる。(曽我)
★アリョーシャって何に出てきたのですか?(崎尾)
★アリョーシャって『カラマーゾフの兄弟』の末っ子の少年です。(鹿取)
★えっ、男の名前ですか?(慧子)
★何か言わなきゃならない時に突っ立っていると樹に劣るのだと。樹は確かに何も話はしない。
しかし、樹はそれなりにせめぎ合っている。その言葉のない樹よりも言葉のある一人の男が何
も言わないというのは、樹よりも劣る。アリョーシャが『カラマーゾフの兄弟』の一人だと聞
いて歌がぐっと迫ってきたんだけど。言葉の無い樹より劣るという、言葉を使わなきゃいけな
いよと言う。言葉を使わないと黙っている樹と同じだよと言うニュアンスも感じる。(崎尾)
★アリョーシャって『カラマーゾフの兄弟』の一番下で、修道院に入ってひたむきに修行してい
る少年なんですね。強欲で女にだらしがない地主のお父さんがいて、お兄さん二人もアリョー
シャも、それぞれお父さんとも兄弟同士とも葛藤がある。そして屋敷に住み込みの下男が実は
腹違いの兄弟なんですね。あの小説読んだら、誰でもたいていアリョーシャを好きになるんで
すけど(私は無神論者のイヴァンという兄さんもけっこう好きですけど)そのアリョーシャに
作者は呼びかけているわけですよね。ひたむきに神を求めているアリョーシャに何か作者は言
おうとしているんだけど、私にはもうひとつその内容が理解できない。なぜアリョーシャに限
定しているのか、その必然性も私にはまだ読み取れなくて、そこを深めたいと思うけど、よく
分かりません。「黙って突っ立っている」のはアリョーシャか作中主体の〈われ〉か、それと
も両方か、それさえよく分からない。アリョーシャだとして、少年の今はまだ黙って立ってい
ると樹に劣るよと言っているのか、それは変な気がする。それなら「アリョーシャよ」と呼び
かけて、「人間一般というものは、黙って立っていると樹に劣るよ」と言っているのか。作者
の歌全般を読むと、人間には言葉があるから樹より優れているとは思っていなくて、一貫して
黙っている樹に信頼を置いているようだし、自分の寡黙さも肯定している。しかし、この歌で
は言葉を持ち出している。では、言葉を持たない樹と並べて、作者はどこまで人間の言葉の有
用性を信じているのか。もちろん短歌を書いて世界に発信しているんだから、言葉を否定する
立場にいる訳ではない。自分自身が(宗教などを考えると)言葉に懐疑的なので、この歌がう
まく解釈できないのかもしれない。難しい歌だなと思っています。(鹿取)
★すみません。アリョーシャは女の人だとばかり思っていました。『カラマーゾフの兄弟』は最
近読んだんだけど、内容はすっかり忘れていました。(慧子)
◆◆
★『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャは、他の兄弟が良い面と悪い面を併せもってい
るのに対し、良い面だけが強調されて描かれている。アリョーシャのような理想を追
う人間は、行動的な面(行動はある面、清濁併せ呑むようなものである)が乏しくな
りがちである。それに対して、作者は、同じように突っ立っているだけの樹木の「万
の戦ぎ」にも劣ると皮肉っている。(鈴木)