かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男の一首鑑賞  53

2013年11月30日 | 短歌一首鑑賞
          【からーん】『寒気氾濫』(1997年)37頁
       参加者:崎尾廣子、鈴木良明(紙上参加)曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:渡部慧子
       司会と記録:鹿取 未放


87 アリョーシャよ 黙って突っ立っていると万の戦ぎの樹に劣るのだ

  (レポート)(2013年11月)
 対象である樹と自分の差異を感じているらしい作者。「黙って突っ立っている」ことは樹のことばのような「戦ぎ」のある樹に「劣るのだ」と。だから歩こう、話をしようというのではない。樹のようにありたい、そんな心境の自己を戯画風にとらえる。仮に「アリョーシャよ」と女性をそこに立たせることで二句以下の心の表白の展開が、ありありとして、更にユーモアとペーソスが生まれ、実にたくみな構成。


(記録)(2013年11月)
 ★黙って立っている樹ではつまらないから戦いでいる樹の方がよいとわりに単純に思ったんだけ
  ど。それよりドストエフスキーのアリョーシャを持ってきたところに面白みを感じる。(曽我)
 ★アリョーシャって何に出てきたのですか?(崎尾)
 ★アリョーシャって『カラマーゾフの兄弟』の末っ子の少年です。(鹿取)
 ★えっ、男の名前ですか?(慧子)
 ★何か言わなきゃならない時に突っ立っていると樹に劣るのだと。樹は確かに何も話はしない。
  しかし、樹はそれなりにせめぎ合っている。その言葉のない樹よりも言葉のある一人の男が何
  も言わないというのは、樹よりも劣る。アリョーシャが『カラマーゾフの兄弟』の一人だと聞
  いて歌がぐっと迫ってきたんだけど。言葉の無い樹より劣るという、言葉を使わなきゃいけな
  いよと言う。言葉を使わないと黙っている樹と同じだよと言うニュアンスも感じる。(崎尾)
 ★アリョーシャって『カラマーゾフの兄弟』の一番下で、修道院に入ってひたむきに修行してい
  る少年なんですね。強欲で女にだらしがない地主のお父さんがいて、お兄さん二人もアリョー
  シャも、それぞれお父さんとも兄弟同士とも葛藤がある。そして屋敷に住み込みの下男が実は
  腹違いの兄弟なんですね。あの小説読んだら、誰でもたいていアリョーシャを好きになるんで
  すけど(私は無神論者のイヴァンという兄さんもけっこう好きですけど)そのアリョーシャに
  作者は呼びかけているわけですよね。ひたむきに神を求めているアリョーシャに何か作者は言
  おうとしているんだけど、私にはもうひとつその内容が理解できない。なぜアリョーシャに限
  定しているのか、その必然性も私にはまだ読み取れなくて、そこを深めたいと思うけど、よく
  分かりません。「黙って突っ立っている」のはアリョーシャか作中主体の〈われ〉か、それと
  も両方か、それさえよく分からない。アリョーシャだとして、少年の今はまだ黙って立ってい
  ると樹に劣るよと言っているのか、それは変な気がする。それなら「アリョーシャよ」と呼び
  かけて、「人間一般というものは、黙って立っていると樹に劣るよ」と言っているのか。作者
  の歌全般を読むと、人間には言葉があるから樹より優れているとは思っていなくて、一貫して
  黙っている樹に信頼を置いているようだし、自分の寡黙さも肯定している。しかし、この歌で
  は言葉を持ち出している。では、言葉を持たない樹と並べて、作者はどこまで人間の言葉の有
  用性を信じているのか。もちろん短歌を書いて世界に発信しているんだから、言葉を否定する
  立場にいる訳ではない。自分自身が(宗教などを考えると)言葉に懐疑的なので、この歌がう
  まく解釈できないのかもしれない。難しい歌だなと思っています。(鹿取)
 ★すみません。アリョーシャは女の人だとばかり思っていました。『カラマーゾフの兄弟』は最
  近読んだんだけど、内容はすっかり忘れていました。(慧子)
       ◆◆
 ★『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャは、他の兄弟が良い面と悪い面を併せもってい
  るのに対し、良い面だけが強調されて描かれている。アリョーシャのような理想を追
  う人間は、行動的な面(行動はある面、清濁併せ呑むようなものである)が乏しくな
  りがちである。それに対して、作者は、同じように突っ立っているだけの樹木の「万
  の戦ぎ」にも劣ると皮肉っている。(鈴木)

 池谷しげみ歌集『二百個の柚子』

2013年11月29日 | 日記
    池谷しげみ歌集『二百個の柚子』
 しっとりと落ち着いた詠いぶりの池谷さんの第3歌集。10首選ぼうとしたが、好きな歌が多く1首超過してしまった。
 中でちょっと冒険した感のアロエの歌が一番好きだった。


泣くよりも死者に親しむこと多き齢(よはひ)きてをり花ふぶくなか

こんなにも教会多きアメリカにキング牧師の撃たれたること

ほつほつと夕べ西安に灯りそむやせてしまつた漢字の列が

大雁塔 塔の上より見はるかす玄奘のまつすぐな道が明るし

六種類にごみ分けて住むにんげんの恥ふかく街に積まれゆく量(かさ)

往還に見る直立の朱き花アロエはつねに戦闘的なり

いかに厳しく棄てられるかが勝負だと声あり歌のことひとのこと

啼きだしはこの世をノックするやうで啼きやむときを知らずかなかな

けふわれは生きのこりたる側に立ちことばこぼせばことばけばだつ

ゆでたまご輪切りにすればあるところよりこつぜんと黄身は消えたり

母の見しさいごの雨はいつだらう夏の終りの雲はふくらむ 

渡辺松男の一首鑑賞  52

2013年11月29日 | 短歌一首鑑賞
          【からーん】『寒気氾濫』(1997年)37頁
       参加者:崎尾廣子、鈴木良明(紙上参加)曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:渡部慧子
       司会と記録:鹿取 未放


86 あなたとのあいだに菊の黄をおきて沈黙の間は黄を見ていたり

(レポート)(2013年11月)
 話をしていて沈黙が生じるとそこにあるものに目をうつす。これはよく経験される。目をうつしながら相手を思ったり、話題を探したりするであろうから、そこにあるものを、ああきれいな菊だとか、ことにその黄がいいだとかの感動の方へこころが働かず、ただ「黄」と見るだろう。このような認識の微妙な経験を詠う。上の句はあらかじめ黄の菊ではなく「菊の黄」として、ひそかな布石のように思う。


(記録)(2013年11月)
 ★黄色の菊というのは何か意味があるのでしょうか?(曽我)
 ★黄色そのものには作者は意味を置いていないのでは。(慧子)
 ★私は反対、黄色にすごく意味を置いているように感じる。黄色というのは幸せの色というよう
  な。ふたりの間で満たされた気分を黄色の菊で表現しているのかなあと。(崎尾)
 ★私はこの歌が大好きだが、黄色にはそれほど意味を置いていない気がする。幸せの黄色いハン
  カチというのもあったけど、絵画なんかではむしろ黄色は不安とか焦りとかを表している気が
  する。それは措いて、たまたまありふれた黄色い菊が恋人との間に置かれていた。沈黙の間は
  「菊」という認識ではなくてマッスとしての「黄」を見ていた、「黄を見ていたり」の表現が
  上手いなあと思う。レポーターと解釈は似ている部分もあるんだけど、気詰まりで菊が認識で
  きないほどの空気感ではなくて、もう少しリラックスした間柄かなと思う。そういう意味では
  崎尾さんに賛成で、安らかな気分が流れているのかなと。(鹿取)
        ◆◆
 ★妣の墓前に菊の花を飾り、無言の対話をしている場面だろう。その場合でも、レポー
  ターの報告のように、「ああきれいな菊だとか、ことに黄がいいだとかの感動の方へ
  こころが働かず」に、ただ漠然と「黄」を見る、その対話としての自然体がすがすが
  しい。と、同時に、「黄」からは、対話者間の暖かいこころの通い合いも感じられる
  のだ。(鈴木)

渡辺松男の一首鑑賞  51

2013年11月28日 | 短歌一首鑑賞
          【からーん】『寒気氾濫』(1997年)37頁
       参加者:崎尾廣子、鈴木良明(紙上参加)曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:渡部慧子
       司会と記録:鹿取 未放


85 いずこにも妣あらざれど古墳の木日々落葉して古墳をおおう

(レポート)(2013年11月)
 「いずこにも妣あらざれど」としながら「古墳をおおう」べく落ち葉させているのは「妣」のなせるところと詠う感がある。在りし母は信心深く近隣の社へ賽銭を置く習いがあり、被埋葬者の神格化されているかもしれない「古墳」に木の葉を賽のごとく落葉させているとも考えられる。
 だが一方で、姿の見えない妣をシャーマンとして祭事を行っているという読みも可能だ。作者の住む関東(群馬・埼玉・栃木)は古代大きな文化圏にあり、稲荷山古墳出土の黄金文字銘鉄剣、山の上碑、金井沢碑等の遺産はよく知られている。このような関東には〈母をまつり、祖先につかえるという祭事の伝統〉があるらしい。〈日本列島の大王たち〉朝日文庫、古田武彦著より引用。このような状況をひそかにふまえた一首のようにも思う。


(記録)(2013年11月)
 ★なかなかいい解釈じゃないんですか。(崎尾)
 ★私はもうちょっと単純に、お母様は亡くなってこの世にいないけれど、毎日毎日落葉で木を覆
  って暖かくしているなあととったのですけど。(曽我)
 ★私もわりと曽我さんの意見に賛成です。この妣は必ずしも作者の亡くなった母と限定して考え
  なくてもよいと思う。ここもレポーターのような解釈もできないことはないが、落ち葉という
  現象を妣と切り離して考えることもできて、私は妣と切り離して考える解釈の方が好きだ。つ
  まり、妣はいないけれど自然の摂理として木々は落ち葉して古墳を暖かく包んでいる。そのほ
  っこりした、豊かな感じを作者は言いたかったのかなと。(鹿取)
◆◆
 ★時間といえば、普通、リニア型(直線)の時間―過去、現在、未来を思ってしまうが、
  それだけではなく、降り積もっていく時間、層をなしていく時間の存在を思わせる。
     (鈴木)

フランスでのぼったくり

2013年11月27日 | 日記
 東日本大震災、原発事故後の処理問題、秘密保護法と、この国はどうなっていくのか、暗澹としている毎日である。
 嘆いたり憤ったりしているなか、研究で欧米を巡っていた息子が一ヶ月ぶりに帰宅し、開口一番「やっぱり日本がいちばん良い国だ」と言う。放射能は処理しきれないし、戦争する国になるかもしれない日本のどこがいいのさ、と聞くとこうである。

 成田からバスで地元の駅に着き、大雨だったので自宅までタクシーに乗ったが、愛想は良いし料金も規定の金額だけですんだ。こんな楽なことはない。

 フランスでの話。飛行場の正規の乗り場からタクシーに乗った。パリ市内行きなら乗り合いバスが出ているが、パリ市からは外れたホテルに行くのでやむなくタクシーにした。ホテルまでは15㎞だが、高速に乗ってびゅんびゅん飛ばす。行き先は○○だが、大丈夫か?高速に乗る必要は無いんじゃないか?回り道していないか!途中何度も抗議したが、相手はすごい形相で何か言うだけで、こちらの言うことは聞き入れない。もっともこちらは英語で、相手はフランス語、息子はフランス語は全く分からない。フランス人は英語が分かっても知らんぷりをする人が多いと言うし、理解できなくても抗議しているのは分かるはず。しかし、夜中知らない山道にでも放り出されてはたまらないと途中から黙ったそうだ。
 50分かかってようやくホテルに到着、日本円にして1万5千円を要求された。息子は怒ってホテルの支配人を呼び、警察を呼んでもらい話をした。一般道が渋滞していたから高速はやむを得ないとの運転手の言い分を警察も肯定し、運転手の言い値を支払わされた。おまけにこの話し合いで時間を損失した損害賠償と3000円を上乗せされたという。
 支配人も警察も英語で対応はしてくれたが、いかにもめんどくさそうな態度だった。こちらが黄色人種だからだと思うという。憤懣やるかたない息子に、タクシーのナンバーと運転手の名前、警官の名前などひかえたか聞くと、ナンバーだけはかろうじてひかえてきたそうだ。

 息子は去年もアメリカのタクシーでぼったくられた。
 深夜、乗っていた電車がストで止まってしまい、ホテルまでやむなくタクシーに乗った。行き先のホテルのずっと手前の雑木林に車を駐められ、ホテルまで行ってほしかったらと、法外な金額を要求された。そんなお金は持っていないし、払う必要がない、と突っぱねると、(そのタクシーには運転手の他にもう一人乗っていて)二人して凄まれた。殺されるかもしれないと恐怖を感じて、法外なお金を支払ったという。

 韓国に行った日本人女性が、飛行場からホテルまで2㎞の距離をタクシーに乗り、3万円要求された、という記事がネットには出ている。こういう苦情を処理する為、韓国は「観光警察」を作るそうだ。
 韓国と欧米では、日本人に対する感情も違うが、息子のような例はおそらく日常的に行われているのだろう。何とか対処法はないものだろうか?

渡辺松男の一首鑑賞  50

2013年11月27日 | 短歌一首鑑賞
          【からーん】『寒気氾濫』(1997年)36頁
       参加者:崎尾廣子、鈴木良明(紙上参加)曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:渡部慧子
       司会と記録:鹿取 未放


84 湯を溢れさせいるはかの妣(はは)ならんバスクリンの湯溢れつづける

(レポート)(2013年11月)
 「バスクリンの」「湯を溢れさせ」ている人がいて、それは「かの妣」だろうという。「かの」とは存命中の母の失敗談として同様のことがあったのかもしれない。現在「溢れつづける」単純な事実を「妣」がそうさせているのだろうと虚構を用いる。「かの」は〈あの〉よりも文語的表現であり、「妣」の表記と共にこの部分に一首の味がある。


(記録)(2013年11月)
 ★書き落としましたが、「妣」は「亡き母」という意味だそうです。(慧子)
 ★私は愛を歌っていると思いました。というのは今もバスクリンの湯を溢れさせているのは母の
  愛を思っているんじゃないですか。(曽我)
 ★私は現実にお湯が溢れていてそこにお母さんを重ねているのだろうと思います。お母さんがい
  るなら、このまま溢れさせておこうかなって。前に失敗談があったのでしょうから、あっお母
  さんが来てるのかなと。(崎尾)
 ★私は別に失敗とかは思わなくて、また現在お湯が溢れているかどうかも事実でもどちらでも
   いいんだけど、おかあさんがきてバスクリンのお湯に浸かって楽しそうにお湯を溢れさせてい
  るんだなという設定。温泉かなんかでもたっぷりのお湯を溢れさせる時の豊かな、幸せな気分。
     (鹿取)
 ★「かの」を辞書で引いたら以前に何かがあったことをいう語とあったので、こんなふうな失敗
  があったのかと思ったのです。(慧子)
 ★「かの」はここでは「妣」に掛かっています。だから内容までは含みません。英語でも話題に
  初めて出てきた人やものを指す冠詞と既知の人や物を指す冠詞は違うでしょう。それと同じで、
  ここでは特定の(幾度も話題にのぼっている)「かの」妣なわけです。歌の解釈としてお母さ
  んの失敗談を想像してもかまわないけど、「かの」からそれを引き出すのは違います。(鹿取)
           ◆◆
 ★生前の母の時代は、湯をふんだんに溢れさせることなどできなかったか、節約を旨と
  した母なのだろう。それが今、自由の身となってバスクリンの湯をふんだんに溢れさ
  せている。作者の愉しい想像だろう。(鈴木)

渡辺松男の一首鑑賞  49

2013年11月26日 | 短歌一首鑑賞
          【からーん】『寒気氾濫』(1997年)36頁
       参加者:崎尾廣子、鈴木良明(紙上参加)曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:渡部慧子
       司会と記録:鹿取 未放

 ◆怪我をされて突如欠席となった鈴木さんにお願いして、後からコメントをいただきました。


83 空からきて空へ消えゆくもののかげ埴輪曇らせ過ぎてゆきたり

(レポート)(2013年11月)
 眼前に「埴輪」がある。それを「曇らせ過ぎてゆきたり」と完了形に詠うところの「空からきて空へ消えゆくもののかげ」とは、光陰、つまり時だ。ゆっくり言葉をかさね、虚をたっぷり含む歌いおこしによって、一首を大きくしている。完了形で切り取りながら、対照が「埴輪」であるところからその制作時代までさかのぼる読みとなる。「曇らせ」に埴輪暦とでも呼びたい長い時のうつりの明暗を思う。


      (記録)(2013年11月)
 ★時が空から来て空に消えゆくというこの歌い方が見事ですねえ。(崎尾)
 ★慧子さんが言っているようにすごく大きい歌でいいと思う。空から来て空に消えゆくのは私も
  光陰だと思う。(曽我)
 ★私は雲の歌だと思っていました。雲がすぎていく時は埴輪が曇る。そして雲が消えると埴輪は
  明るくなる。だから私はもう少し単純な歌かと思っていました。もちろん埴輪というものへの
  執心というか偏愛みたいなものが作者にはあって、埴輪の歌はたくさんあるので、埴輪の歴史
  も含めて本質のようなものに迫りたい思いはあるかもしれない。その点ではレポートの後半部
  分にはわりと同感です。(鹿取)
 ★わたしは「もののかげ」の「かげ」が光陰の「陰」だと思っていた。光のことを古典では「か
  げ」というからこれは時のことかと。たしかに時間なら空に消えるとは限らないわね。(慧子)
 ★光陰という時の光は太陽で、陰は月のことなんだけど、それで月日、時間。(鹿取)
     ◆◆
★眼前の埴輪の上を、雲か鳥かはたまた飛行機などの影が過ぎていったのだろう。立体的な時空を詠んでいる。埴輪は歴史的な時間の経過を  思わせるが、時空は、過去の時間ばかりでなく、現在の空間をも包含しており、それは、「空からきて空へ消えゆくもののかげ」と抽象化  することにより、一層途方もないものとなっている。(鈴木)

森川多佳子歌集『スタバの雨』

2013年11月19日 | 日記
          
◆森川多佳子歌集『スタバの雨』の出版記念会が21日木曜日に迫った。歌集をいただい
 た時、すぐに読んで下記のような好きな歌を書き抜いていたのだが、コメントを書こう
 としてそのままにしていた。記念会が差し迫った今回は、コメントなしで好きな歌のみ
 あげさせていただく。
 

被爆者を救へざりしを被爆者が悔いる国なりわれの日本は

あめりかの大地愉快に這ひまはる日本原産外来種の葛

目的はかたちを決めるF15・ステルス・アパッチ・バンカーバスター

幼な日に土埃り吸ひしわれの道ネパールにつづきアジアなりけり

試験の子起きてることの証明(アリバイ)に時をり澄んだ口笛をふく

昏るる桜よあけの桜を撮りにゆく息子二十歳のわれしらぬさくら

背骨の手術ひかへし吾娘と観てしまふアナニアシビリの無惨なる背を

同じ母から身障の弟(おと)とわれと生まれ ずるいことかもしれぬと思ふ

ステンレスの汚れ擦れば傷ふかめ無かつたことにならぬ十年

子も夫も瀬戸際を生き逢ふ日には用心ぶかくこころを隠す

聖徳太子の笏の木イチヰ抗がん剤ドセタキセルとなりて吾に入る

髪はわたしのいのちではない そのうち生えると思(も)へば悲しくもなし

胸うちを蝕みしもの取り去ればからだぢゆうから湧くちからあり

死ぬことはたいへんだから生きのびる生きてゐるから少し頑張る


西内敏夫追悼歌

2013年11月13日 | 日記
 6月に亡くなられた「かりん」の西内敏夫さんに対する追悼歌を、西内さんの古い友人Nさんが送ってくださったので、下にあげさせていただく。心の濃い交流が伺える、せつせつと心情の籠もった歌々である。

船長さん旅立つ          N

安らかに海に抱かれ自らの船にて出でし君を見送る

一昨日(おととい)に昼餉を共になせしこと嘘のようなる今宵の別離

自らの操舵にて夜明け旅立ちぬ絶海孤島誰の待つらん

過ぎし日の除夜の汽笛が耳に鳴るひとり思えば写真が笑う

奪衣婆(だつえば)とも上手(うま)く君ならやるだろう三途の川は自ら漕ぎて

骨太なる歌なれど何故か優しいと第一歌集『海塵圏』見る

出版の祝いの会は昭和末思えば最も華やぎていし

美化もせず綺麗ごと嫌う海の男歌はそのままやや演歌調

武田城址・松山城も登りたる義肢の踏張りあの時が最後

『日本の恋の歌』連載の馬場あき子生涯の師と常に慕いき

船乗りは陸(おか)に上がれば一塊の七十過ぎの爺と嘯く

貧しくも心に誇る趣味あまた殊に刀剣、銘は「月山」

夫々に海に関る男たち造船技師たりわが夫もまた

指定席に今日は娘と来て坐る献盃のビール君は飲まねど

渡辺松男句集『隕石』

2013年11月05日 | 日記
     
 馬場あき子が『寒気氾濫』について「一冊すべて秀歌」とつぶやいていたのを、『隕石』を読みながら思い出した。現代の俳句をあまり読んでいない私から見ると、『隕石』はほとんどが秀句に思えるし、歌とは異なる俳句の世界をしっかり構築しているように思える。それでもやっぱり詠まれているのは渡辺さんの世界だ。
 それにしても〈あたたかをハンス・コパーのくちもとへ〉と〈ゆふおぼろ絣のひとのゐずまひの〉の二句の落差にはちょっと驚いた。前者は放尿を詠んだと思われるが、こういう句が俳句的なのかな、いのちの温かさと切なさがあって好きである。しかし古風な(あるいは古風を装った)絣の句も好きである。
 しかし俳人からみたら全く違う感想になるのかもしれない。ネットで俳人の方が褒められる『隕石』の句をみると、私がよいと思う句とはあまり重ならないからだ。そこで、よい句というのではなく、好きな句をあげさせていただく。書き出して眺めてみると、やはり短歌的な選びなのかもしれない。またエロティックな印象の句を多く選んでしまったようだ。

てふてふや石の口からいづる息

牛の尻ぶろぶろとひるがすみかな

挿木してどこへも行かせたくはなし

さくら森乳暈(ちがさ)のいろにふくらめる

瀝(したたり)の一滴一滴に余震

青山河ををへし大父(おほちち)に

万緑や円空どこにでも彫りて

前世にも前世ありキャベツ剥く中に

ろくぐわつのをんなうごけば沼うごく

日ざかりにあッと人生を消さる

旻天に置く一本の紙縒(こより)かな

うろこ雲なくししものの億倍の

雨月の夜捲る日本霊異記を

太陽のくしやみいちめんまんじゆしやげ

吐く息の白さがこのごろの誇り