かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

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渡辺松男の一首鑑賞 9

2015年03月31日 | 短歌一首鑑賞


 渡辺松男研究2(13年2月)【地下に還せり】『寒気氾濫』(1997年)9頁
          参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
          レポーター:鈴木 良明
           司会と記録:鹿取 未放

 ◆既にまとめてブログ掲載していますが、レポートを添えた一首鑑賞として新たに掲載します。


9 八月をふつふつと黴毒(ばいどく)のフリードリヒ・ニーチェひげ濃かりけり

      (レポート)
 ニーチェの肖像写真には彼の思想の一端を垣間見ることができる。ニーチェは強度の近視のため、絵画など視覚に訴えるタイプの芸術には関心を欠いていたが、自分自身を被写体にした肖像写真には大層興味を示した。写真がまだ安価とはいえない時代に、髭をはやし始めた大学時代以降、様々なポーズで頻繁に写真を撮っている。髭の濃さは半端ではなく、鬱蒼として暑苦しい攻撃的な口鬚。髪も眉も口髭も生来やわらかく明るい褐色であり、肉体も繊細でしなやかで女性的な容姿なのに、本質を過剰に埋め合わせるような鬚である。八月という季節もその過剰な髭にふさわしい。作者は、ニーチェの相矛盾した過剰な面に共鳴し、自己に重ね合わせて、第一歌集の冒頭歌として配置したのではないか。なお、ニーチェの精神錯乱と進行生の麻痺の原因については、二十世紀前半までは黴毒説が有力だったが、これが原因だとほとんどが三年以内に死亡しており、ニーチェは十一年後に死亡したので、現在は支持されていない。(鈴木)
   〈参考:ニーチェの略歴〉
・1844年   ―プロイセンに牧師の長男として誕生(父は5歳のとき逝去)
・69(25歳)― バーゼル大学員外教授(翌年正教授に昇任したが、79年健康不良で退職)
         翌年7月、普仏戦争開始。従軍の義務がないのに看護兵として従軍。
         赤痢などに感染し、半年以上に及ぶ療養。これを契機に以後健康不良。
・80(36歳)―89(44歳)まで 養生にふさわしい場所を求めて漂泊、著書多数
・89(44歳)―精神が冒され、以後快復しなかった 1900(55歳)―肺炎で死去


     (意見)
★第一歌集の冒頭にニーチェを置いているのはそれだけ思い入れが強いからだろう。(ニーチェの
 髭の濃い写真の本を示して)作者の渡辺さんは哲学科だから、ニーチェは身体にしみこんでいる
 のだろう。私は高校時代にこの本(高橋健二・秋山英夫訳『こうツァラツストラは語った』……
 以後『ツァラツストラ』と略記)を読んでいるが、最初は詩として読んで陶酔したり、永劫回帰
 をリアルに怖がって震え上がったりした。それ以後もただ読み流してきただけなので身に付いて
 いないが、渡辺さんの歌を読んでいると、ああこれはニーチェだと思われる歌がたくさんある。
    (鹿取)
★渡辺さんが小さいときから考えてきたことと、ニーチェの言っていることが符合したのだろう。
 影響を受けたというよりも、自分の考えたことを歌にしていたら、ああニーチェも同じようなこ
 とを言っていると発見したのではないか。だから、ニーチェとは別な視点がある。(鈴木)
★もちろん渡辺さん自身の思索もすごい。またニーチェからだけ影響を受けた訳ではなく様々な思
 想家や作家から影響を受けている。それらみんなひっくるめてオリジナルなものになっている。
   (鹿取)
★鈴木さんの話を聞いていると、渡辺さんはゆとりをもって詠んでいらっしゃると思える。ちゃ 
 んとニーチェを咀嚼している。(崎尾)
★「ふつふつと」というところが渡辺さん独特のとらえ方。生々しくとらえている。(鈴木)
★ニーチェが爆発して狂気に至る内面を「ふつふつと」で表現している。ニーチェの圧倒的な力と
 いうものを表している。(鹿取)
★ニーチェをうたったどの歌も渡辺さんはニーチェに呑み込まれていない。乗り越えている感じが
 する。(鈴木)
★そうですね、同感です。渡辺さんはいちいちニーチェを念頭に置いて作っている訳ではなく、歌
 は彼独特の生活とか思考から導き出されている。(鹿取)
★ニーチェにかなり自分を重ねているのだろう。精神を病んだところもニーチェと渡辺さんは共通
 している。(鈴木)
★大井学さんの評論に「ニーチェとの対話―渡辺松男」(「かりん」1998年8月号)がありま
 す。鈴木さん同様渡辺さんの歌とニーチェを関連させて読んでいます。また、坂井修一さんの第
 一歌集『ラビュリントスの日々』の冒頭歌は「雪でみがく窓 その部屋のみどりからイエスは離
 (さか)りニーチェは離る」です。第一歌集の冒頭歌に二人ともニーチェを詠っているのですが、
 渡辺さんのニーチェは生々しく自己に迫っていて、坂井さんは意志的にニーチェを遠ざけている 
 感じがします。ふたりの生の姿勢かな、違いが分かって面白いと思いました。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞 211

2015年03月30日 | 短歌一首鑑賞

 
 渡辺松男研究25(15年3月) 【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)86頁
              参加者:石井彩子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
               レポーター:渡部 慧子
              司会と記録:鹿取 未放


211 存在ということおもう冬真昼木と釣りあえる位置まで下がる

      (レポート)
 存在について思惟を巡らすとき、又問いを発するとき作者にとって最も信頼できるのは木であろう。「木と釣りあえる位置まで下がる」とは、作者自身が木と対峙できるところまで下がるということだろう。そこで「下がる」だが、木の全景をとらえられるところまで後ずさりするの意味なのか、強風があろうともしっかりと動かない根の辺りまで身体を低くする「下がる」なのか、どちらだろう。位置とあるところから前者なのだろう。(慧子)

       (意見)
★「釣り合う」というのが松男さんのキーワードの一つで、いろんな歌に出てきます。天国と地獄
 が釣り合うとか、千年生きた木と今日死ぬ鳥が釣り合うとか詠われています。この歌も、釣り合
 うというのが物理的な距離ではなくて、木という存在と〈われ〉が「いのち」として均衡を保て
 ることかなと。(鹿取)
★おそらくそうだと思います。作者は大きな抽象的なことを思っていらっしゃって、存在として釣
 り合う位置なんでしょう。(石井)
★思惟の深さなんですね。(慧子)
★「冬真昼」という季節と時間がそういう思惟に適しているのかしら。(石井)
★この間鑑賞したところでも「冬芽がねばねば光る」とか、冬でしたね。(鹿取)
★本当に裸形というのか、冬は裸になっているんですね。木に親和感を覚えていらっしゃるから、
 木と同じだと。存在というと人間中心に考えがちだけど、この人はそうではない。(石井)
★どちらかというと木の方に基準を置いているのね、この人。(鹿取)


     (まとめ)
 鹿取の発言中の「天国と地獄が釣り合う」は内容的にまったく正確さを欠いていた。言及したかった歌は、次のとおり。(鹿取)

 地獄へのちから天国へのちから釣りあう橋を牛とあゆめり
      『寒気氾濫』
釣り合えよ 今日死ぬ鳥のきょうの日と千年生きる木の千年と
      『泡宇宙の蛙』
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渡辺松男の一首鑑賞 210

2015年03月29日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究25(15年3月) 【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)86頁
              参加者:石井彩子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
               レポーター:渡部 慧子
              司会と記録:鹿取 未放


210 仁王像秋のひかりをはじきたり骨格はもつ太き空間

     (レポート)
 仁王とは金剛力士の別名をもつ。ちなみに金剛とは、金属中最剛の物の意でありながら、この仁王は金剛の類の金属質ではなく、一木作りでもなく、おそらく内部は空間であるところの乾漆像なのだろう。仏法を守護するものとして、又悪を寄せないもの(強者)として置かれながら、内部は太き空間を抱き込んでいる。強さを願って作られながら、表面は秋の光をはじいてやさしく、内部はむなしいものだと作者はとらえる。(慧子)

     (意見)
★内部は空しいものだと捉えられていますが、それはどこから出てきたのですか?(石井)
★空しいというのは空間ということです。(慧子)
★そうすると骨格=太き空間なので、骨格が空しいということ?(石井)
★私達の体にはは肉や骨が詰まっていますけど、この仁王さんは空っぽ。それは人間から見れば空
 しさに通じませんか?(慧子)
★作者はそこまで言っていらっしゃるかなあ。(石井)
★「内部はむなしいものだと作者はとらえる」の箇所を疑問にすればよかったですか。(慧子)
★仁王像の全体から転換して骨格に焦点を当てている。それを太き空間と表現しているんだけど、
 それって空しいかなあ。ものを剥いだ時に見えるものを表現されたのかなあ。骨格に持って行く
 のが独特な作者の目ですね。(石井)
★仁王像は大きいから一度に作れなくていろんなものを寄せて作りますね。だから中に空間ができ
 る。(曽我)
★あんなものすごい形相をした仁王さんの内部が空しいところに作者の目は行っていると思う。太
 き骨格を持っているのに内部は空っぽ。(慧子)
★この仁王像が乾漆づくりだとは断定できないですね。内部まで土の詰まった塑像の仁王もありま
 すから。乾漆像だと確かに内部は空洞かもしれないけど、それだって骨格そのものは空洞ではな
 いでしょう。また。「骨格はもつ」って、内部の空間ではなくて、ダイナミックで逞しい骨格が
 占めている空間のことを言っているのではないでしょうか。「太き」というからには空虚とか空
 しいには繋がらない気がしますが。ここには肯定的な何かがあると思います。(鹿取)
★何もかも肯定的だったら歌の深みが出ない。「太き」を肯定でとったら当たり前でつまらない。
 ここは極端に言えば、存在というものは空しいということでしょうかね。(石井)
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渡辺松男の一首鑑賞 209

2015年03月28日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究25(15年3月) 【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)86頁
              参加者:石井彩子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
               レポーター:渡部 慧子
              司会と記録:鹿取 未放


209 星雲が幾億の星孕みつつ哭いていないとどうして言える

      (レポート)
 はてしなく、とらえきれない宇宙の銀河系内外、いずれにもある星雲が幾億の星からなっていること、「孕み」はとほうもなくて想像すらあたわない。その感覚は哭きたいほどの言いしれぬものなのだろう。それを、そのまま星雲に移して「哭いていないとどうして言える」と詠った。説明によらず、このように身体的に表現されるとよく胸に落ちる。(慧子)

     (意見)
★やはり人間に擬しているのだと思います。星雲でも何でもこの人は自分のように考えていらっし
 ゃるのよね。(曽我)
★ハッブル望遠鏡では100億光年のかなたが見えるそうですが、星雲は雲のように泡立っていて
 泣いているように見える、そんな状況を思い出します。そこで星が生まれなくなっていく。人間
 にもあるように宇宙にも生死がある。そんな宇宙の悲しさを感じました。(石井)
★これは私、好きな歌です。星雲そのものが哭いていると作者は感じているんですよね。「孕み」
 だから妊娠するように幾億という数えきれない星を星雲はお腹の中に抱えていて、これからもそ
 れを生み出してゆく。あるいは無数の星から構成されていることを比喩的に「孕む」と言ってい
 るのかもしれませんが。慟哭の「哭」で「哭く」だから大泣きしてるんです。存在を生み出す母
 性の恐れや悲しみが意識にあるかもしれないけど、「存在」そのものがもつ不安とか悲しさを詠
 んでいると思います。宇宙というスケールで、「在る」ということを考えると星雲だって哭きた
 くもなりますよね。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞 208

2015年03月27日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究25(15年3月) 【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)86頁
              参加者:石井彩子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
               レポーター:渡部 慧子
              司会と記録:鹿取 未放


208 風にやられて万の葉裏を晒せるにだれもレイプと言ってはくれぬ

     (レポート)
 風に吹かれる樹木がいっせいに葉裏をさらされる状態を樹の側からこんなふううに呟いてみた。言葉を持たない木のためにと言うのではなく、木に会えばおのずから対象と一つになる作者。(慧子)

     (意見)
★私はすごく単純に考えて、木の葉の裏って誰も見たくないじゃないですか、そういう見たくない
 ものを見せられる、風によって暴力的に晒される、だからレイプという表現にしたのかなあ。葉
 の裏は変に白かったりして美しくない。風が木としての有りようを変えちゃった。擬人化した言
 い方なのでちょっとこんがらかりますね。(石井)
★レイプという語がどうも唐突だと思っていましたが、そういうことですかね。「恨み葛の葉」な
 んって歌もあって、葛の葉は風に飜ると裏が白くて目立つそうです。(鹿取)
★でも欅なんかの葉の裏って美しいですよ。(慧子)
★まあ、いろいろの考え方がありますから。美しいものを晒させるのもレイプですかね。一斉に晒
 させられる訳ですから。(石井)
★美しいものを晒させられるのがレイプなのか、醜いものを晒させられるのがレイプなのか、分か
 らないけど、自分だったら醜いものを晒す方が嫌ですね。何か私が作者の意図を見落としている
 のか、どうもレイプというのがよく分からないです。(鹿取)

    (まとめ)
   恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉
人形浄瑠璃や歌舞伎などで、通称「葛の葉」として知られる話に出てくる歌。狐が恩返しの為、人間の妻になって一子を儲けるが、正体が分かって去っていく時のこの歌を残す。「葛の葉」は狐の名前と植物名の掛詞。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞 207

2015年03月26日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究25(15年3月) 【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)86頁
              参加者:石井彩子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
               レポーター:渡部 慧子
              司会と記録:鹿取 未放

207 見上ぐれば風を巻き込み俺様は貪欲なるぞと椨(たぶ)の木がいう

     (レポート)
 見あげた作者に椨の木が言った内容は「風を巻き込み俺様は貪欲なるぞ」。なるほどあの椨の木であればその言葉もうなずける。ゆれる、しなう、そよぐ、そんな言葉では追いつかない感じをレポーターも思う。ここは対象になりきるのではなく、人間の特性を木に見て、ユーモラスな一首。(慧子)

  *椨:クスノ木科の常緑高木。葉は厚くつやがある。5~6月に枝先に黄緑色の小さな花を群
    生する。果実は直径1センチ内外の球形。本州以南、台湾、中国などの暖地の海岸近く
    に自生、材は枕木、家具、楽器など、樹皮は黄八丈織物の染色に用いる。
                         (新世紀百科辞典)

       (意見)
★「風を巻き込み」は叙述部分で、椨の木が言っているのは「俺様は貪欲なるぞ」だけですよね。
   (鹿取)
★椨は綺麗だし、風にも強い逞しい木ですね。(曽我)
★「対象になりきるのではなく」、は作者が椨の木を客観的に見ているということ?(石井)
★はい。(慧子)
★客観的に見ているだけで、それを人間に投影しているとは思いません。「人間の特性を木に見て」
 はなくていいと思います。椨の木の生命力の強さとか生きる逞しさを「俺様は貪欲なるぞ」とい
 う言葉で表してるのでしょう。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞 206

2015年03月25日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究25(15年3月) 【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)86頁
              参加者:石井彩子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
               レポーター:渡部 慧子
              司会と記録:鹿取 未放


206 暴風雨に錯乱をする竹の叢 一遍らかく踊りしならん

     (レポート)
 剛と柔を併せ持つ竹は、暴風雨にまさしく錯乱するかのごとくゆれているのだが、一遍らの踊り、つまり念仏踊りへと作者の思いは及ぶ。居住まい正しい座禅がある一方、一遍らの念仏踊りの衆生の手の振り、足腰の自由さなど風雨にゆらぎながら折れない竹の叢にかさねられたのだろう。念仏踊りの絵図を見た経験から、作歌上のこのような飛躍を楽しく思う。(慧子)

      (意見)
★作者はこの奥にあるものをみてらっしゃるのかなあ。この時代には元寇(げんこう)などの社会
 的背景があって、人々は不安にかられていた。(石井)
★何とか大衆が救われるように願った一遍は、一度念仏を唱えれば救われるんだよ、極楽浄土に行
 けるよと文字も読めない人々に説いた。その教えを受け信じた人々が狂乱して踊った、その求め
 の懸命さとか熱さいうものを「錯乱をする竹の叢」のイメージに重ねている。それは雲雀の羽た
 たきの一心とか、少し前に出てきたキェルケゴールの神に真向かう真摯さとも通じると思います。
     (鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞 205

2015年03月24日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究25(15年3月) 【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)86頁
              参加者:石井彩子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
               レポーター:渡部 慧子
              司会と記録:鹿取 未放


205 万緑に抜きいでてたつ岩に立ち狗鷲(いぬわし)か風に晒されて濃し    

      (レポート)
 中村草田男の〈万緑の中や吾子(あこ)の歯生え初むる〉によって、生命力の旺盛をいうとき、この万緑が圧倒的な存在感をもつ語となった。その万緑を抜けでるさまの岩に狗鷲がいて激しく風が吹く状態。晒すとは、日・光・風雨にあてるの意があり、布・こうぞなどを水・雪に晒して白くすることはよく知られる。狗鷲の本質的要素の強さや存在感を濃くする作用として「晒」すが意表をつく。私達が従来抱いていたものと逆の意味に用いて、言葉遣いが新鮮である。(慧子)   

        (意見)
★「晒す」は、この歌では内面を晒すとかいうときの晒すの意味ではないですか。万緑の中の岩の
 上に一羽でしょうね、狗鷲が風に向かって立っている、その存在感の濃さでしょうか。(鹿取)
★ 濃いというのは密度が高いというように受け取ったのですが。(曽我)
★そうですね、鷲って強くて紋章になるような、王者の風格を備えた鳥だから、圧倒的な存在感が
 あるのでしょうね。(鹿取)
★孤高って感じですね。こういう風景、墨絵かなんかで見たことがあるような気がします。晒され
 ては何かちょっと屈折した感じですね。(石井)
コメント

渡辺松男の一首鑑賞 204

2015年03月23日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究25(15年3月) 【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)86頁
              参加者:石井彩子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
               レポーター:渡部 慧子
              司会と記録:鹿取 未放
    
204 一心は虚空にありて雲雀とは囀りよりもしげき羽たたき

     (レポート)
 他念のないところの「一心」とは3句以下の雲雀のひたすらを言い、囀りの美しさに見落としがちな羽たたきをとらえている。日頃見るには死角や盲点があり、また一部分から全体を思いこんだり不完全さがある。ここで掲出歌のふところの大きさといえばいいのか、雲雀の一心のみならず、私達の目や気づきの不完全をも収斂させる。「虚空にありて」の措辞のたくみさがある。また、それを初句、2句に置く効果も見逃せない。(慧子)

     (意見)
★レポーターは「羽たたき」をどのように評価されているのですか?(石井)
★私達は囀りによって雲雀って気づきますよね。でも、この作者は羽たたきの方に重点を置いて、
 一般人はここを見逃していると作者が感じている点を評価しました。つまりそれは私達の不完全
 さを露呈していませんか。(慧子)
★この作者は自分の認識の優位性をひけらかしたりはしない人だし、そもそも自分と一般人という
 区別に優劣の概念が入っていて、「一般人はここを見逃していると作者が感じている」には賛成
 できません。「一心は虚空にありて」はどう解釈されますか?(鹿取)
★「一心」というのは言葉で説明できないことだからそのことを「虚空」と言った。(慧子)
★雲雀はのどかな春を告げる鳥と我々は思っているけれども、しげき羽たたきをしている、そんな
 生存競争を詠っているのかなと。生きる苦しみとか悩みといったものを作者が共感しているのか
 なと。(石井)
★わたしは結論は石井さんと同じです。「一心」とか「虚空」をレポーターと違ってもっと具体的
 にとりました。「一心」は「専念」もしくは単に「こころ」、「虚空」は「空」。雲雀は空にあっ
 て懸命に羽たたきをしている、それは囀ること以上だ。そういう雲雀の存在のありようというも 
 のを詠っている。確かにわれわれは雲雀を囀りによって認識することが多いけど、それが不完全
 な見方だとか作者が思っている訳ではない。「虚空」は単に「空」というよりはるかに高いイメ
 ージがありますし、そこでの羽たたきってわれわれに見えないのは当然ですから。(鹿取)
★いや、こう歌い上げたときには作者の心には抽象的にものごとを捕らえようという気持ちが動い
 ているのではないの。それが上句に出ている。(慧子)
★下句はよく分かるが上句はさっきの鹿取さんの説明では違うような。上句は作者の動作ですよね、
 肉体的に作者がどのような状況だったのかを捉えた上で、雲雀の本質というか、生身の雲雀とい
 うものは激しい生き方をしているという歌い方になる。(石井)
★私は「一心」も「虚空」も主語は〈われ〉ではなく、雲雀だと思います。雲雀の懸命さというも
 のは囀りよりも羽たたきに顕著に表れているよと。(鹿取)
★上句がそういうことならわざわざ「一心」も「虚空」もいう必要がない。(石井)
★語順を替えたら歌はつまらなくなるけど、雲雀は虚空にあって、その一心というものは囀りより
 はしげき羽たたきあるよと。何ものにとっても生きるってそういうことだよねと。この後に出て
 くる一遍の歌とか思い合わすと、「一心称名」などを連想するけど、ここもそういう「一心」だ
 と思います。(鹿取)
★鹿取さんのいうこと聞いているとそのとおりと思うけど、でもその底に何かある。(慧子)
★慧子さんの言う歌の言葉の外に抽象的な何かがあるとしたら、さっきも言いましたが何ものにと
 っても生きるってそういうことだよねという、敢えて言えば共感だと思いますが。(鹿取)
★雲雀は囀りだけでは生きられなくて羽たたきが力になっている。(曽我)
★では、意見一致しませんけど、それぞれの鑑賞があるということで、次の歌に進みます。(鹿取)
コメント

馬場あき子の外国詠422(ドイツ)

2015年03月22日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子旅の歌58(12年11月)【ラインのビール】『世紀』(2001年刊)P216
              参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子(紙上参加)、渡部慧子、鹿取未放
              レポーター:渡部 慧子
              司会とまとめ:鹿取 未放


422 ライン川の地ビールが酔はせてくれた夜を誰か小声の敦盛の歌

     (レポート)
 「ライン川の地ビールが酔はせてくれた」とは直接にはビールだが、誰か土地の神のような介在が思われて、それが「酔はせてくれた」と解したくなる。そんな時、「誰か」「小声の敦盛の歌」をききとめたんのだ。この作者にして「誰か」とは気配のようなものと思うことしばしばだが、この「誰か」に誰を当て嵌めれば深い味わいになるのだろう。作者の旅の「夜」に、幻が出入りして、「酔はせてくれた」り「敦盛の歌」を聞かせてくれたりしたと想像する。「敦盛の歌」を残念ながら知らないのだが、一首の魅力は十分味わえる。(慧子)   

      (紙上参加意見)
 ドイツの地ビールをみんなで飲んでいる。少し酔いが回ってきたのか、しかし大声で唄ったり騒いだりはしない。誰かが敦盛の歌をうたっている。「誰か小声の敦盛の歌」がこの一首の抒情を深めている。お能でも歌舞伎にも題材になっている平敦盛。お能幸若舞の敦盛の一節であろう。
 半歌仙、敦盛、熊谷直実に討たれた悲劇、この一連、ライン川を観光しながら作者の本来の姿というか作者自身の思想というか、旅にいながらもその姿が見えてくるような一連であると感じた。(藤本)

      (意見)
★これは謡曲ではないか。(曽我)
★謡曲の敦盛の歌をだれかが口ずさんでいた、ということ?(鹿取)
★レポーターの最初の二行がとてもいい解釈。(崎尾)
★なぜ敦盛をもってきたのだろう。ホームシックか?ところで、レポーターのいうように敦盛の歌
 を幻で聞くよりも実際に聞こえる方が面白い。昼間は歌わなかった日本人も夜になってだいぶん
 酔ってきて、ふっと小声で誰かが歌い出したのではないか。あるいは自分が歌ったことをぼかし
 て誰かと表現しているのかもしれない。こういう「誰か」は作者の歌によく登場する。もう自分
 たちだけで小部屋にでもいるのかもしれない。(鹿取)
★敦盛の歌というより詩吟なのではないか。(T・H)
★「青葉の笛」って敦盛を歌った歌ではないか。一の谷の軍(いくさ)破れって。(崎尾)
★「青葉の笛」は哀調のある歌ですから、この場にふさわしいかもしれないですね。(鹿取)


      (まとめ)
 旅の終わりに酔って敦盛の歌を歌うところが唐突だが面白い。ドイツにあってローレライではなく日本の、しかも古い歌を歌うところがいかにもありそうな気がする。作者の周囲には謡曲をたしなむ人も多いから謡曲でも好いし、哀調のある「青葉の笛」でもいいだろう。ドイツの旅の終わりに敦盛ときう悲劇の貴公子を出してくるところに日本の根っこのようなものが感じられて興味深い。(鹿取)
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