かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

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馬場あき子の旅の歌 122(スペイン)

2018年11月12日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠14(2009年3月実施)
  【西班牙4 葡萄牙まで】『青い夜のことば』(1999年刊)P68~
   参加者:N・I、T・K、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:T・K   司会とまとめ:鹿取未放

  ※この一連のまとめは、『戦国乱世から太平の世へ』(シリーズ日本近世史①藤井譲治)
      のほか、『支倉常長』(大泉光一)・講談社『日本全史』等を参照した。       


122 波音のぎんしゆとひびく海に来て旅の十日の疲れ出でくる

     (レポート)
 ポルトガルの海はあいにくの天候で展望のきくものでなかった様子。ぎんしゅと響くとは陸と海のせめぎ合いの音か、エネルギッシュなポルトガルの海か、疲れた体の骨の悲鳴かなど思わせる。(T・K)


     (当日発言)
★レポートの追加です。「ぎんしゅとひびく」のは先生の心。(T・K)
★作者が意図したかどうか分からないが、銀と朱の海の夕暮れ時のいろあいをイメージさせられて
 面白い擬音語だ。(鹿取)


      (まとめ)(2015年12月改訂)
 「ぎんしゆ」とは特異な擬音語だが、銀と朱の海の夕暮れ時のいろあいをイメージした抜群の色彩感覚を含む造語だと思う。次の歌を読むとロカ岬は霧のために海はみえなかったようだが、高い断崖絶壁だからロカ岬なら波の音は聞こえないだろう。
 ここはあまりどこと限定せず、海のそばに立って波音を聞いているととっておく。波音は大西洋のものである。当然、支倉の晩年にかがやいていた大西洋という思いが尾を引いている。疲れはそういう思いの濃さのせいでもあるのだろう。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠121(スペイン)

2018年11月11日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠14(2009年3月実施)
  【西班牙4 葡萄牙まで】『青い夜のことば』(1999年刊)P68~
   参加者:N・I、T・K、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:T・K   司会とまとめ:鹿取未放

  ※この一連のまとめは、『戦国乱世から太平の世へ』(シリーズ日本近世史①藤井譲治)
      のほか、『支倉常長』(大泉光一)・講談社『日本全史』等を参照した。       


121 支倉の老いの寝ざめに聖楽の幻聴澄むと誰か伝へし

     (レポート)
 キリスト教禁制下の日本にキリスト教徒として又使節としての役目も果たすことなく帰国した支倉の心中ははかりしれないが、作者が「老いの寝ざめに聖楽の幻聴澄む……」と詠まれている事で何かほっとする。遠い昔の事ながら現代に通じる悲しみを感じた。(T・K)


      (当日発言)
★「幻聴澄むと誰か伝へし」は作者の想像。(藤本)
★結句の「か~し」は係り結び。「か」は疑問・反語の係助詞で、「し」は過去の助動詞「き」の
 連体形。疑問ととると「幻聴が澄んで聞こえたと誰か伝えただろうか」となり、反語と取ると「幻
 聴が澄んで聞こえたと誰か伝えただろうか、いや誰もそんなことは伝えていない」という意味に
 なる。ここはどちらでもとれるだろう。疑問でも反語でも、支倉は幻聴をきいたかもしれない
 なあ、きいていてほしいと作者は祈りのように思っているのだ。(鹿取)
★馬場先生の歌にひかれて大会の後支倉のお墓にお参りした。支倉のお墓を今守っているのがお寺
 さんだというのが面白い。(T・H)


      (まとめ)
 遠藤周作「侍」によると、ローマ法王に会うため支倉はソテロによって便宜上洗礼させられたことになっているが、120番歌(慶長使節の支倉は老いて秘むれども夢に大西洋かがやけり一生)、121の二首を読むと、支倉の信仰は不動のものだったというのが馬場の解釈だということが分かる。たとえ洗礼の時点では便宜上であっても、ここで改宗しなかったのは信仰が不動のものになっていたという解釈が自然であろう。支倉の晩年、明け方ででもあろうか、ひとり目覚めた時「聖楽の幻聴」が澄んで聞こえたなどとは誰も伝えていないだろうが、馬場はきっと聞いたに違いないと思っている。そうあってほしいという馬場の祈りなのだ。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠120(スペイン)

2018年11月10日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠14(2009年3月実施)
  【西班牙4 葡萄牙まで】『青い夜のことば』(1999年刊)P68~
   参加者:N・I、T・K、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:T・K   司会とまとめ:鹿取未放

  ※この一連のまとめは、『戦国乱世から太平の世へ』(シリーズ日本近世史①藤井譲治)
      のほか、『支倉常長』(大泉光一)・講談社『日本全史』等を参照した。       


120 慶長使節の支倉は老いて秘むれども夢に大西洋かがやけり一生

      (レポート)
1571年     支倉常長生まれる
1613年42歳  イスパニア(スペイン)との交易を望む藩主(伊達政宗)の命により宣教師
          ルイスソテロに伴われ石巻(月浦港)を発ちメキシコアカプルコに着く
1614年43歳  スペイン・マドリッドに着く。藩主正宗の書翰を呈したが日本のキリスト教
          禁止令がすでに伝わっており通商には反対が多かった。支倉はこの地で洗礼
          を受けキリスト教徒になる 
1615年44歳  ローマに入りフェリペ三世に謁見したが藩主正宗が教徒でないため非公式謁
          見であった。ローマ市は支倉に「公民権」を贈る。書状は白い羊皮紙に金泥
          のラテン語で記され日付は「1615年12月12日」とある。この時教主
          と支倉常長の肖像画をフランス人画家に描かせ贈る。(伊達家に伝わってい
          る)。日本では徳川家康キリスト教禁止令(直轄地)を出す
1620年49歳  支倉常長帰国
1622年51歳 支倉常長死亡 

 支倉の生涯を想うとき「夢に大西洋かがやけり一生」が胸に沁みる。(T・K)


     (当日発言)
★ 八・五・八・九・八とやはり字余りである。(鹿取)


     (まとめ)(2015年12月改訂)
 天正使節が帰国したのが1590年で、支倉が慶長使節として石巻の月の浦を出航したのはそれから23年後、江戸幕府がキリスト禁止令を出した翌年の1613年10月のことである。(つまり先の歌の伊東満所の死の1年後である。天正使節の伊東は13歳で出国したが、支倉の出国は42歳、支倉はずいぶん後世の人のように思っていたが実は伊東満所より2歳の年下に過ぎない。)
 ところで、『戦国乱世から太平の世へ』(シリーズ日本近世史①・藤井譲治)を読んでいると戦国大名が乱世の中でどんな権謀術数の渦中にいたかがよく分かる。大名達は乱世を生き抜き、のし上がるために戦さの資金が必要であり、海外貿易はその資金を得る最も有効な手段だった。だから秀吉も家康もキリスト教と貿易のはざまで危うい綱渡りをして来たし、徳川家と姻戚関係にあった仙台藩主伊達政宗も例外ではなかった。政宗は重臣ではない支倉を遣欧使節に任じ、幕府からお咎めを受けそうな時はいつでも切り捨てられるよう備えたというのが、大方の研究者の説くところである。政宗が遣欧使節を派遣した目的は、同行した宣教師ソテロに陸奥への宣教師派遣を許す見返りにスペイン領国への通商に、法王の尽力を願うところにあったと言われている。しかし国が禁教に舵を取って久しく、信者が処刑されている当時の時代状況を考えると、政宗が宣教師派遣を真剣に考えていたとはとても思えない。また、支倉の通商交渉が成就しなかったのは日本でのキリスト教弾圧が現地に知れ渡っていた為といわれている。帰国した支倉は、己を派遣した政宗にも厭われ、失意のうちに二年後五十一歳で病没した。しかし彼はキリスト教を棄てなかったらしい(棄教したという説をとる研究者もいる)。遠藤周作の小説「侍」によると、ローマ法王に会うため支倉はソテロによって便宜上洗礼させられたことになっているが、藩主の命令で己の内心に背いて洗礼を受けたのなら、弾圧や処刑から身を守るために改宗するはずである。改宗しなかったとしたら、例えはじめは偽りの洗礼であっても長い歳月を経て支倉が心底キリスト教徒になっていた証しだろう。
 遣欧使に任ぜられた支倉は大西洋を渡るのに六ヶ月以上を要している。当時の船旅はいつ沈むか分からない日々命がけの旅だが、使命に燃えて来る日も来る日も眺めていたであろう大西洋を、失意の晩年、支倉は夢に見続けた、しかも夢の大西洋はかがやいていたと馬場はいう。昂揚して越えた大西洋の輝きを、失意の晩年、せめて夢の中で見せてやりたかったのだろう。(鹿取)
 
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馬場あき子の外国詠119(スペイン)

2018年11月09日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠14(2009年3月実施)
  【西班牙4 葡萄牙まで】『青い夜のことば』(1999年刊)P68~
   参加者:N・I、T・K、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:T・K   司会とまとめ:鹿取未放

  ※この一連のまとめは、『戦国乱世から太平の世へ』(シリーズ日本近世史①藤井譲治)
      のほか、『支倉常長』(大泉光一)・講談社『日本全史』等を参照した。       


119 飫肥(おび)城の資料館に天正の資料なし孤独なりき十三歳の伊東満所像

      (レポート)
 飫肥城は宮崎県日南市にある城でその城跡にある天正遣欧使節団の正使であった伊東満所の像を「孤独なりき」と詠まれている。

 ※天正使節:1582(天正10)年キリシタン大名大友宗麟・木村純忠は宣教師ワリヤーノの
       提議を受け入れローマ法王並びに欧州諸王侯に敬意を表し、同時に日本伝導の援助
       を求めるために少年使節を遣わした。使節には長途の航海を考え、又新鮮な感受性
       を重んじて12~13歳の少年が選ばれた。(4名)
※天正遣欧使節
    正使  伊東マンショ    1612年司祭として長崎で病死
    直使  千々岩ミゲル    修道院を去り信仰を捨て迫害者の味方となり消息を絶つ
    副使  中浦ジュリアン   迫害の吹きつのる中、必死に努めたが吊首の刑で死
    副使  原マルチノ     マカオに流され1629(寛永6)年その地で死
 その正使が伊東満所である。時の権力者の在り方でいつの世も空しい生涯を終える人たちの例にもれずこの4人の少年達の生涯も無惨であった。このことを知り、この一首を読む時「天正の資料なし孤独なりき」が胸を打つ。(T・K)


      (当日発言)
★「飫肥城の城跡にある伊東満所の像」とレポーターは書かれているが、どうもこの城には伊東満
 所の像は無いようですね。(鹿取)
★5・11・5・11・8と大幅な字余りだが、5・5・8と要所が締められているので全体は引
 き締まっている。(鹿取)
★固有名詞が多いから字余りになるのは当然。(藤本)


     (まとめ)(2015年12月加筆)
 ◆この項、レポートと重複する部分もあるが、重複する部分だけ省略すると理解しにくくなるの  で、あえて重複部分も載せています。

 天正遣欧少年使節団は4人、正使の伊藤マンショほか中浦ジュリアン、原マルチノ、千々岩ミゲルである。その顛末はおよそ以下のとおり。
 1582年2月  天正遣欧少年使節団、サンチャゴ号で長崎を出航
 1584年8月  難行苦行の末、2年8ヶ月ぶりにリスボン着
 1584年10月 スペインの首都マドリードで国王フェリペ二世に謁見
 1585年3月  ローマ教皇グレゴリア一三世に謁見
 1586年4月  金銀財宝を積んだサン・フェリベ号がリスボンを出航
          28艘の船団を組んだ
 1587年    秀吉、バテレン追放令を出す。
 1590年6月  使節団一行は、途中インド・ゴアに1年3ヶ月滞在するなどして
          日本を出てから8年5ヶ月ぶりに長崎に入港。入国の許可を待って
              マカオに2年も滞在していたという説もある
 1591年3月  帰国後半年以上経て、聚楽第で秀吉に謁見。秀吉の前で持ち帰った
              西洋音楽を奏でた
 1612年    江戸幕府がキリスト教禁止令を出す
 1614年    原マルチノを含む宣教師、信者、計148人をマカオに追放

 使節団が出航した時はバテレンを保護した信長時代だったが帰国したときは秀吉の時代になっていた。金銀財宝を積んで意気揚々と帰国した彼らは、すでに時代に歓迎されない存在だった。使節団一行のその後を以下に記す。

 ▼正使・伊藤マンショは、修道士としてはやく中国マカオに派遣され、数年後長崎に戻ってき
   たが、1612年43歳で病没。
▼原マルチノは、追放先のマカオで1629年に没。
 ▼中浦ジュリアンは、国内に潜伏、布教活動を続けていたが、1632年小倉で捕らえられ長崎
  に送られ、翌33年穴吊りの刑に処せられた。享年64歳。
   穴吊りの刑……汚物を満たした穴の中に体をぐるぐる巻きにして逆さまに吊るし、頭蓋に小
          さな穴を開け、そこから血を流れさせる刑。できるだけ苦しみを長引かせる
          ためで、ジュリアン処刑の際にも3人が一緒に吊るされたが一人の神父はあ
          まりの苦しさに処刑中に棄教、ジュリアンは4日目に死亡したという。
  ▼千々岩ミゲルは、1605年棄教。葛藤の生涯を送った。棄教の理由はキリスト教会の一部
   に日本侵略の考えがあることを見抜いた為という説もある。
    
 飫肥(おび)城(現宮崎県日南市)の資料館に彼らの資料が無いのはキリスト禁教の後、難を恐れてのことであろう。ところでこの歌の伊東満所像はどこにあるのだろうか。歌をみて飫肥城と思いこんでいたが、調べたところどうも飫肥城には満所像は無いようだ。都於郡(とのこおり)城跡(現宮崎県西都市)・日南駅前広場・大分市遊歩公園には銅像がある。いずれかの伊東満所像に向かって、飫肥城の資料館に天正遣欧使節の資料が無いことを思っている歌なのかもしれない。
 伊東満所の本名は祐益、日向の国主であった伊東義祐の孫にあたる。飫肥城を巡って島津家と伊東家で確執が続いたそうだが、義祐は1567年に飫肥城を奪取した。満所が生まれたのは飫肥城奪取のおよそ2年後ということになる。そういういわれのある城の資料館に彼等の功績を記す何ものも残されていないことに作者は感慨を抱いている。それは為政者に対する怒りか、為政者におもねる伊東家の保身に対する嘆きか、人間という存在に対するかなしみか、それらがない交ぜになったものなのだろうか。迫害されて失意の中で死に至った満所の産土の地からも見放されているような扱われ方に対して「孤独なりき」と嘆いている。わがことのように「き」を使って回想しているところが哀切である。
 余談であるが、天正遣欧少年使節団は帰国の折グーテンベルグ印刷機を持ち帰り、以後日本語の活版印刷が行われるようになったとのことである。これは派遣当初からの目的の一つで、使節団の随員として印刷技術習得要員の少年二名が同道した。もう一つ、蛇足だが、伊東満所の銅像が建っている都於郡(とのこおり)城跡では、2012年、伊東満所没後400年ということで大々的に満所を顕彰する記念行事が行われたようである。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠116(スペイン)

2018年11月08日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠14(2009年3月実施)
  【西班牙4 葡萄牙まで】『青い夜のことば』(1999年刊)P68~
   参加者:N・I、T・K、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:T・K   司会とまとめ:鹿取未放

  ※この一連のまとめは、『戦国乱世から太平の世へ』(シリーズ日本近世史①藤井譲治)
      のほか、『支倉常長』(大泉光一)・講談社『日本全史』等を参照した。       

118 まだ少し騒がしきもの好きなれば葡萄牙まで海を見にゆく

(レポート)
 モスクワ空港、西班牙の青、オリーブと歌の旅を続けてきたがまだ少し心騒ぐものを求めて葡萄牙の海を見にゆくというのである。ポルトガルの海、それは「地の終わり海の始まる」ところであり、大航海時代を思わせる海でもある。しかし作者は天正、慶長の遣欧使節として渡った人々を想う海だったのかもしれない……読む者の心も騒ぐ一首である。また、「騒人」は、中国で詩人の意味である。(T・K)


(まとめ)
「騒人」が中国で詩人の意だというレポートを面白く読んだ。「まだ少し騒がしきもの」とはやはり詩人の心を惹きつける何かなのだろう。(鹿取)


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馬場あき子の外国詠 私家版完成♪

2018年11月01日 | 短歌の鑑賞
                
           

                 

                


 このブログに毎日一首掲載している「鑑賞馬場あき子の外国詠」を印刷して私家版を作ってみた。A4サイズで、写真を挿入したりして2センチ以上の嵩になった。写真は、わざとボカしてあります。


 かりんの鎌倉支部で2007年から2012年にかけて外国旅行の歌を鑑賞したもの。全部で433首ある。


 ブログは10日間ほどお休みしますが、また旅の歌の鑑賞を再開しますので、どうぞよろしくお願いします。
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