かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

ブログ版 馬場あき子の外国詠328(トルコ)

2018年04月30日 | 短歌一首鑑賞
 ブログ版馬場あき子の外国詠44(2011年10月実施)
  【コンヤにて】『飛種』(1996年刊)P146~
   参加者:泉可奈、K・I、N・I、崎尾廣子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:T・H    司会と記録:鹿取未放

328 宗教が貧しさを苦とせざることトルコの旅に憩ひさびしむ

     (レポート)
 このお歌には、私として、ちょっと異議がある。「宗教が貧しさを苦とせざること」とは、どのような内容を指しておられるのか、私には、ちょっと疑問である。現在の貧しさに対して、神への信頼が、彼等をして現状満足していると見られるのは、ちょっと疑問である。(T・H)

     (当日意見)
 老人達は穏やかな顔つきをしているのだろう。お金持ち国日本から来た自分のうしろめたさだけではなく対象の老人たちをもさびしんでいる。満足していていいのかという歯がゆさがあるのか もしれない。作者は民族、政治的に救う方法はないのかと思い、にもかかわらずトルコの旅に憩 いを見いだしている自分をさびしむのであろう。(鹿取)

     (まとめ)
 レポーターが「宗教が貧しさを苦とせざること」という点に異議、疑問を呈しておられる点についてはもっともで、私(鹿取)も全く疑問が無いわけではない。私は信仰を持たない人間だが、若い頃はよく「宗教は結果的に現状を肯定し為政者にとって都合の良いものになるだけではないか」と葛藤したことがある。レポーターは信仰を持っている方なので「神を信じ信頼することが(特に政治的にみて)現状を肯定することになるというのは誤解だよ」と言いたいのだろう。レポーターの意見をもっと聴いてみんなで議論を深めたかったが、時間切れになったのが残念である。
 しかし上二句の断定の強さは、馬場の歌の作り方の特徴の一つで、こうは言いながら、おそらくT・Hさんの疑問も鹿取の疑問も、この歌にはおり込み済みなのだろう。下の句をみても、そういう含蓄をもっていると私には読める。(鹿取)


ブログ版 馬場あき子の外国詠327(トルコ)

2018年04月29日 | 短歌一首鑑賞
 ブログ版馬場あき子の外国詠44(2011年10月実施)
   【コンヤにて】『飛種』(1996年刊)P146~
   参加者:泉可奈、K・I、N・I、崎尾廣子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:T・H    司会と記録:鹿取未放

327 苦悩なき顔もて貧しき老爺たち夕べのチャイを道にゐて飲む

      (当日意見)
★苦悩ある顔だからこういっている。(泉)
★書いてある通りに読めばよい。(藤本)
★「苦悩なき顔」はねじ伏せた使い方。(鹿取)


      (まとめ
 もちろん苦悩が無いわけではないが、それを表に出して深刻そうな顔はせず、あくまで穏やかな顔つきをしているのだろう。だから作者は老爺たちの内面は承知の上で「苦悩なき顔」と詠っている。古文の「ゐる」は座る・しゃがむの意味なので、集まった貧しい老爺たちは道にしゃがむか座るかしてチャイを飲んでいるのである。(鹿取)



ブログ番 馬場あき子の外国詠 326(トルコ) 

2018年04月28日 | 短歌の鑑賞
 ブログ版馬場あき子の外国詠44(2011年10月実施)
   【コンヤにて】『飛種』(1996年刊)P146~
   参加者:泉可奈、K・I、N・I、崎尾廣子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:T・H    司会と記録:鹿取未放

326 木ぞ一つ立てると見ればアナトリアを耕せる家族暗くまどゐす

     (当日意見)
★曽我さんのレポートにある316番歌に関連して読むとよく分かる。コンヤは古い宗教都市であ
 る。(藤本)
★豊かでないアナトリアで田畑を耕し、宗教に支えられて暮らしている。(慧子)
★アナトリアを耕す過酷さを言っている。(崎尾)
★宗教画のようだ。(鹿取)


     (まとめ)
 ミレーの宗教画を思い出した。一本の木の下に集まって憩いをしている情景は静かだ。家族で一塊になっている姿が孤立しているようで「暗く」見えたのかもしれない。夕暮れだったかも知れないが、「暗く」はあくまで精神的なものであろう。一本の木を詠うことによって、かえってアナトリアの大地の広さが見えるようだ。
 藤本さんの意見にある曽我さんの316番のレポートを参考にあげておく。(鹿取)

 「316 神は偉大なりといひて瞑想に入りしとぞアナトリア大平原の寂寞」 
      (レポート)
 アナトリア平原の過酷なありようも全て偉大なるアッラーの神の思し召しと考え、「よろしゅうございます。何事も神の思し召しのままに……」と静かに黙って受け入れたアナトリア大平原とそこに住むイスラムの人々の宗教観の強じんさと哀しみが詠われている。(曽我)



ブログ版 馬場あき子の外国詠325(トルコ)

2018年04月27日 | 短歌一首鑑賞
 ブログ版馬場あき子の外国詠44(2011年10月実施)
   【コンヤにて】『飛種』(1996年刊)P146~
   参加者:泉可奈、K・I、N・I、崎尾廣子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:T・H    司会と記録:鹿取未放

325 水涸れし瞑想の泉に膝つきてかの日いもうとがみしものを見む

     (レポート)
 今、瞑想の泉には水が無い。そこで先生は、その縁に膝を付き、いもうと様が、かつての日に見ようとされたトルコタイルの美しさを仰ぎ見ようとされている。そこにはいもうと様への鎮魂の感情も流れている。(T・H)


     (当日意見)
★「膝つきて」で鎮魂の気持ちを表している。(慧子)
★亡くなった方はタイルの美しさだけに見ほれていたのだろうか。もしかしたらタイルの向こうに
 トルコの歴史、民族、政治等さまざまなもの、宗教的な人間存在とは何かを見ていたのではない
 か。何と言っても場所は「瞑想の泉」なのだから。と、作者が思ったかどうかは分からないが、
 少なくとも今作者は、眼前に見える建物や風景の美しさだけを見ているのではないだろう。「見
 む」は意志であるから、作者はいもうとが見て感じたことの追体験をしようとしている。(鹿取)

ブログ版 馬場あき子の外国詠324(トルコ)

2018年04月26日 | 短歌一首鑑賞
 ブログ版馬場あき子の外国詠44(2011年10月実施)
   【コンヤにて】『飛種』(1996年刊)P146~
   参加者:泉可奈、K・I、N・I、崎尾廣子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:T・H    司会と記録:鹿取未放

324 トルコタイル陽をうる時の美しさ見上げゐてここに斃れしいもうと

       (まとめ)
 この神学校は彫刻が美しいことで有名で、それ故に現在は彫刻博物館になっているそうだが、もちろんブルーのタイルも美しいに違いない。タイルを見上げていて斃れたといういのは作者の想像か、それとも同行者がそう伝えてくれたのか。いずれにしろ「斃れしいもうと」と体言止めにして結句に万感を込めている。(鹿取)




ブログ版 馬場あき子の外国詠323(トルコ)

2018年04月25日 | 短歌一首鑑賞
 ブログ版馬場あき子の外国詠44(2011年10月実施)
   【コンヤにて】『飛種』(1996年刊)P146~
   参加者:泉可奈、K・I、N・I、崎尾廣子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:T・H    司会と記録:鹿取未放

323 神学校の屋内に瞑想の泉ありて苦しめるものは耳を休めき

      (レポート)
 イスラム教の神学校の内部であるから、「瞑想の泉」と称されるものがあるのは分かる。ただ、瞑想の森で休めるのが、どうして頭でなく耳なのであろうか。イスラムの祈りを捧げる時、信者は皆耳に手を当てている。このことと何か関係があるのだろうか。(T・H)

      (当日意見)
★今はこの泉に水はない。325番(水涸れし瞑想の泉に膝つきてかの日いもうとがみしものを見
 む)に水が涸れていると詠われている。(藤本)
★三句目十一音にもなるのに泉ありてと「て」を入れているのはわざと。また、「き」は過去の助
 動詞だから耳を休めたのは昔の話。(鹿取)

      (まとめ)
 神学校の屋内には今も瞑想の泉の跡が残っているのであろう。しかし水はもう涸れている。はるか昔、その神学校で学び、生の苦しみを取り去りたくてそこで瞑想していた者たちは、その泉の音に耳を休め、心をなぐさめられたのだろうなあ、と想像している。(鹿取)

             

ブログ版 馬場あき子の外国詠322(トルコ)

2018年04月24日 | 短歌一首鑑賞
 ブログ版馬場あき子の外国詠44(2011年10月実施)
  【コンヤにて】『飛種』(1996年刊)P146~
   参加者:泉可奈、K・I、N・I、崎尾廣子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:T・H    司会と記録:鹿取未放

322 ネイといふトルコの笛の退屈のさびしさに酔ふ秋のひかりに

     (まとめ)
 ネイは細長い笛で、日本の尺八のような楽器だそうだ。ネットで検索すると写真がでてくる。またyoutubeで演奏を聴くこともできる。聴いてみるとアジア的で哀調を帯びた音色に聞こえた。
 そうでなくても寂しい旅の途次、季節は秋で、妹さんの亡くなった地でもある。旅先での初めての楽器は馴染んでいなければ単調で退屈だったかもしれない。退屈故に亡くなった妹のことをふっと思ったりもしたろうし、そういう個人的な事情はなくても馴染みのない音色が旅の寂寥感をかき立てたのだろう。(鹿取)


ブログ版 馬場あき子の外国詠321(トルコ)

2018年04月23日 | 短歌一首鑑賞
 ブログ版馬場あき子の外国詠44(2011年10月実施)
   【コンヤにて】『飛種』(1996年刊)P146~
   参加者:泉可奈、K・I、N・I、崎尾廣子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:T・H    司会と記録:鹿取未放


321 コンヤの街にふしぎの楽の匂ひある夕ぐれを嗅ぎて駅深く入る

          (当日意見)
★楽を「匂ひ」と意外の形容をした。(慧子)
★土地の風俗、土着の音楽のことを言っているのでは。(N・I)
★コンヤには日本の支援によって原子力発電所ができるそうだ。(藤本)


          (まとめ)
 コンヤの人口は現在76万人。われわれにはあまり馴染みのないトルコ独特の音楽が街にはあふれていたのであろう。その音楽を全身で受けている感じを「匂ひ」と言い「嗅ぐ」といったのではないか。「深く」とあるから電車の駅だろうか、「駅深く入る」に余情がある。(鹿取)


ブログ版 渡辺松男の一首鑑賞 2の69

2018年04月22日 | 短歌一首鑑賞
  ブログ版渡辺松男研究2の9(2018年2月実施)
    【百年】『泡宇宙の蛙』(1999年)P44~
     参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放
  
69 白鳥はふっくらと陽にふくらみぬ ありがとういつも見えないあなた

     (レポート)
 「白鳥はふっくらと陽にふくらみぬ」とはあたたかそうでみている者の至福感がつたわる。この上句から下句につづくのだが、これは今はもういないたれかへの感謝の気持とも考えられる。あるいは、今在ることの命がしみじみ嬉しく、誰とはしらず、おのづから感謝している心として読みとれる。いづれにしても実景であろう上句の端的な表現と下句の心の表白が感覚的によく照応する。(慧子)


     (当日意見)
★そうですね、レポートのとおりですが、感謝の対象は「いつも見えないあなた」だからもう少し
 汎神的な何か、神と言ったら違うんだろうけど、自分や白鳥やもろもろを包み込んでくれるある
 大きなものなんでしょうね。この歌は馬場先生が大会の時採り上げてコメントされたことがあ 
 ります。また、本人が「かりん」の渡辺松男特集号で『泡宇宙の蛙』の自選五首にこの歌を選ん
 でいて、ご自分の思いを書いているので読んでみます。(鹿取)

  ※冬の陽のあたたかいときなどに感じる、何かに包まれているという感覚と、白鳥を存在させ
   ているものは同時に私を存在させているものだという感覚は、同じようなものなのです。そ
   の感覚を「あなた」と言っています。「ありがとう」という言葉ですが、そう思える自分は
   自分のこころの全体の三分の一でした。あとの三分の一はそんなことないよ、嘘だ、欺瞞 
   だ、と。あと三分の一は恥ずかしいと思っていました。今これを書いている二〇一〇年八月
   二十九日時点では、こういう歌を詠んだ自分を肯定しています。「ありがとう」と言ってお
   いて良かったと思います。(「かりん」2010年)


ブログ版 渡辺松男の一首鑑賞 2の68

2018年04月21日 | 短歌一首鑑賞
  ブログ版渡辺松男研究2の9(2018年2月実施)
    【百年】『泡宇宙の蛙』(1999年)P44~
     参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放
  
68 ふゆは冬で白鳥の湖かがやくをさみしさは立つ杭のごときか

      (レポート)
 冬陽のなかに白鳥のいる湖はかがやいているが「を」の逆接によってかがやきのうちに「さみしさ」を引き出す。そのさみしさを立つ杭のごときかと少し不安定感をのこす。ぶこつに立つ杭だが、さみしさだってそんなものじゃないかなと問いかけをふくんで詠っているのだろう。(慧子)


      (当日意見)
★白鳥は渡り鳥だから夏はいないような気がするんだけど、ことさらなぜ「ふゆは冬で」と言って
 いるのでしょう?夏は白鳥は不在の湖なんだけど、いなくても輝いていたのでしょうか?(鹿取)
★私は、「ふゆは冬で」は湖にかかると思います。白鳥のいない夏の湖も輝いていたけれど、白鳥
 のいる冬の湖もまた輝いている。でもなぜさみしいのか分からない。(真帆)
★「ふゆは冬で」は「かがやく」にかかる。でも、年中さみしさはある。(慧子)
★そのさみしさは誰のもので、なぜ年中さみしいのですか?(鹿取)
★作者が感じているさみしさです。こうこうこういう理由で寂しいのではない。(慧子)
★でも白鳥を浮かべて輝いている冬の湖を見て感じるさみしさなんですか?湖には岸辺などによく
 杭が打ち込んでありますが、その杭のようなさみしさだっていうんですよね。(鹿取)
★うーん、白鳥の湖は遠景でなにか幻のようにも感じられるんだけど、杭は何か妙にリアルで、も
 う一つよく分からない。「立つ杭」はみをつくしではないけど、古歌のようなイメージもするん
 だけど、松男さんの歌はそうではないのでしょうし。(鹿取)
★夏も冬も季節毎に湖は違う輝きを見せるけれど、杭は変わらないで年中ある。さびしさはそうい
 う動かないものではないかと。(真帆)
★杭って景色としては邪魔だけどなくてはいけないものでしょう?(T・S)
★いろいろ意見が出たのですが、次の歌との関連で読むと、もう少し深いところで読まないといけ 
 ない歌かなと思うので、次の歌にいってみましょう。(鹿取)