かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男の一首鑑賞 299

2016年04月20日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究36(16年3月)
    【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)123頁
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、船水映子、渡部慧子
     レポーター:鈴木 良明
     司会と記録:泉 真帆

299 家族ああ昨日とまったく同位置にポットはありて押せば湯がでる

      (レポート)
 テーブルの上の定位置にポットが置かれていて押せば湯が出る。それは太陽が毎日東か昇り西に沈んでゆく自然の運行のように、ついあたりまえと思ってしまう。しかし、その陰でそれを毎日用意してくれている今の家族の存在にあらためて気づき、そのかけがえのなさに、「家族ああ」と感嘆しているのだ。(鈴木)


      (当日発言)
★本音の心の奥底にこの思いがある。家に休日は日向ぼっこのようなご家庭がおありになるから幸せ。すごく知性豊かなすばらし
 い日本人。(船水)
★いつも適温の湯が出ることは、ポットに水を足したりする陰の家族達の力、バックアップがあってのこと。その素晴らしい家庭を
 感じます。(M・S)
★私達はなくしてはじめて、そのものの尊さを感じる。家族とは当たり前だが、本当にいてよかったと。ポットも、いつも置いてい
 るポットが押したらすぐ湯が出るとか、いつも置いているパソコンがそこにあるとか。そういったありがたさ、幸せ、を詠ってい
 らっしゃると思いました。(石井)
★家はいいなーという感じ。怖ろしい「死」も「政治」もないから。全てがいつものようにあって、安心感があって、安らぐ。そう
 いうことを詠んでいらっしゃる。(曽我)
★家族を語ればきっと語り尽くさないのだ。それをポットに象徴させ、思いをポットにひとつに置き換えて詠われたところが、お上
 手と思いました。(慧子)
★私などは、歳とって自分の体が思うように動かなくなってきて、だんだん当たり前のことが有り難いと思う様になったが、松男さ
 ん、この年齢でこういう歌を詠えるって凄い。(鈴木)(出版年の作者は42歳)


          (後日意見)
 この歌を長い間、家族の倦怠を詠んだものかと思っていた。「ああ」という詠嘆が私にそう読ませていた。しかし、皆さんの意見を読んでゆくと、なるほど家族の温かさを詠んだのかとも思う。この一連の流れからすると後者の読みの方がいいようだ。『寒気氾濫』には「妻」と明らかに書かれた歌は確か一首もなかったが、妻を対象化する必要がないほどなじんでいたということなのだろう。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞 298

2016年04月19日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究36(16年3月)
    【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)123頁
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、船水映子、渡部慧子
     レポーター:鈴木 良明
     司会と記録:泉 真帆

298 死と政治のみがおそろし休日の日向に小椋佳など聴けど
      (レポート)
中世の権力は特定の権力者が死刑への恐怖によって人々を支配し秩序を維持する「死の権力」だった。近代になってからは人々は自由な主体になったと思いこんでいるが、生の権力による一定の訓練を受け入れ、規格に従うことによって初めて社会の中で生きることができ、裏を返せば従わないと社会的な死を意味するのである(ミシェル・フーコー)。だから、休日の日向に小椋佳(仕事と趣味を自在にこなしている自由人のように見える)を自由に聴いていても、生殺与奪の権力を持つ政治(生の権力)による死の不安が常につきまとっているのである。自ずからなる死も政治による外からの死もともにおそろしいのである。(鈴木)


     (当日発言)
★この「政治」というのが唐突で。不可抗力なものとして捉えてらっしゃるのか、ちょっとどのように捉えていいのかが
 分りませんでした。(石井)
★小椋佳さんは職業人だったんですね。銀行にお勤めだった。(曽我)
★第一勧銀(石井)
★それで銀行の仕事も全部こなしたうえで音楽もやっている。松男さんも小椋さんも東大出で、なんとなく親しみをもっ
 てるんだと思う。小椋さんの生き方をいいなあーと思ってらっしゃるんじゃないかなーと思いました。(曽我)
★生き方より歌でしょうね。生き方に拠る歌。(石井)
★今の時代、よりこの「政治」、<生の権力>の意味が分かってきた。例えば今すごく右寄りに。社会的な状況もすでに
 報道も規制されつつあって、社会的な死です。一般の働いている者にとっては、正規・非正規で分けられている。社会
 的な訓練をきちんと受けないと、落ちこぼれてアウトサイダーになってしまうということなんだと思うんです。(鈴木)
★政治というのは社会組織というものを変えてしまう、というような意味ですか。(石井)
★うん、権力はね。政治は権力なんですよ。(鈴木)
★政治は権力ですよね。(石井)
★それを生の権力と。生かすための権力と。今まで民主主義とか立憲主義とかうまく機能している時には怖さはなかった。
 それが独裁的なものになってくると、中世に逆戻りしたような。政治はどうしても流動的ですから。(鈴木)
★「小椋佳など聴けど」という下の句に結びつく必然性は。(真帆)
★どうしてかというと、松男さんは公務員として働いているけど、その組織からドロップアウトすると、まさに社会的な死
 になる。公務員って途中で退職を余儀なくされたらあと食ってけないですから。そういう危険性というのはある。だから
 今、就職試験でみんな必死になってる…(鈴木)
★だからちょっと前に「女子職員同士のながきいさかいもひとりの臨職泣かせて終わる」もありましたよね。(真帆)
★それのひとつの表現ですよ。(鈴木)
★組織の中にいる自分、ですかね。(石井)
★ピラミッド型ですから、いまの社会って。(鈴木)
★だから非正規職員はもうすぐに干されてしまうということ。派遣社員とか言ってますけれども、そういうこと。言葉は良い
 ですけれども。(石井)
★格差社会といってもいいのかも。(鈴木)
★そうすると、作者にとってこの「政治」は、お仕事、ということですか。(M・S)
★もっと広いと思う。松男さんは全体のことを考えてますから、仕事ってここだけのことじゃなくって。その仕事はどういう
 関わりでもってどういうものと繫がってるのか、というのを彼は見ていますから。だからやっぱり権力まで行きますよね。
     (鈴木)
★死も政治も非常に大きなテーマ。そういう深いところから…。(石井)
★そうそう、そういった大きなテーマの中で詠ってるんで、よりリアルな感じがする。原発作業員を詠った歌ありますよね。
 「したうけのそのしたうけのしたうけのさげふゐんぬるッぬるッと被曝す」(『雨(ふ)る』2016年刊)作業員が原発の
 後始末するのを「ぬるッぬるッ」と滑るというような詠み方をしてる。作業員の方の仕事を自分に移し替えて考えている。
 自分がまさにやっているような感じで。東日本大震災のときに被害が随分あった。津波の。その人たちに、とんでいって背
 中をなでてやりたい、「まぼろしのわがたなごごろとびてゆき生きのこり哭くひとの背をなづ」(『雨る』)って歌がある。
 そういうところまで思いを届かせてしまう。そういう大きなところから詠っているので、すごく実感があるんですよね。目
 先のことだけじゃなくて。目先のことを詠うにしてもやっぱり大きなこととの関わりの中で詠ってる。(鈴木)
 「わが掌ひやくにひやくさんびやくあらばとおもふ慟(な)く背をさするまぼろし」(『雨る』)
★ということは、日本がどうなっていくかっていうような考えを入れて…。(M・S)
★背後にあると思いますよ。(鈴木)
★「聴きながら」じゃなくて「聴けど」だから。精神的には非常に自由な世界を求めているが、私に壁として死を考える意識と、
 鈴木さんが言われたような政治の世界がある。(石井)
★その対比みたいなところがありますね。(鈴木)
★そうですね。「おそろし」と、非常にきちっと詠われている。聴きながら、ではなくて、「聴けど」が効いているなあと。
     (石井)
★いつも癒される小椋佳の歌だけれども、という気持が「聴けど」じゃないかしら(M・S)


     (後日意見)
 渡辺松男という人は常に社会全体を視野に入れてものを考えている人ではあろう。しかしこの歌で詠まれている死が政治によってもたらされる死、権力による死であるとは思わない。「政治と死」が唐突にうたいだされているが、それは小椋佳的な抒情世界と対置されたものだ。休日、優しい歌詞と優しいメロディで唱われる小椋佳の世界に聴き惚れているが、現実世界は正に政治によってがんじがらめにされていて生きにくい。その果てに待ち受けている死も怖い、そういう気分ではなかろうか。小椋佳が銀行員でありながらシンガーソングライターとして生きたことも、直接には関係ないように思う。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞 297

2016年04月18日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究36(16年3月)
    【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)123頁
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、船水映子、渡部慧子
     レポーター:鈴木 良明
     司会と記録:泉 真帆

297 酔えば吾が還りたくなる古典主義「ヴァルパンソンの浴女」の背中

      (レポート)
フランスの十九世紀古典主義の画家アングルの描いた「ヴァルパンソンの浴女(よくじょ)」は、背中を中心に背後の裸体が描かれている。そこには、装飾性やあからさまな官能性ではない、簡素で穏やかな女体のやさしい雰囲気がただよっており、構図の面から、「泉」(正面から立ち姿の裸体)や「オダリスク」(横たわり背後を見せる裸体)と比べても古典主義的な厳粛さがある。酔った作者は、いつもながらそこに還りたくなるのだが、もしかすると愛妻のことを思っているのかもしれない。(鈴木)


          (当日発言)
★酔わなくてもいつも、何か自分が安らぐものを体のどこか脇において持ってらっしゃる作者じゃないかなと。
 たまたまこの「ヴァルパンソンの浴女」っていうのを出しただけで、まだ何かいっぱい自分の心が安らぐもの
 をお持ちの方と拝察しました。(船水)
★酔うことによって時代をぽーんと飛んで、古典の時代、昔の時代へ還る。古典主義がとても大事なところだと
 思いました。(慧子)
★酔うと人って官能的になる。でクラシックに還るというか、例えば現代音楽よりもバッハが良いとか。そんな
 クラシックで、しかも「浴女」。絵はその背中の線が非常に奇麗で。そういったところに還りたくなるという
 酔った勢いの官能的な気分が出ている。(レポートにある)愛妻のことを思っている、だと有り難いですね。
      (石井)
★松男さんは古典主義者。だから何かがあると古い世界の穏やかな絵を好む。あからさまに前を見せるような絵
 じゃなく、背中を見せる穏やかな絵を好んでいる感じですね。(曽我)
★この連作の最後に、299番「家族ああきのうとまったく同位置にポットはありて押せば湯が出る」があるし、
 「ヴァルパンソンの浴女」にはあたたかなオフクロさん的なイメージがあったので、「還りたき」は帰巣本能
 みたいなものかと。(真帆)
★295番の「逃亡の火」も家に帰ろうとしている。これが次の歌は「還る」。(慧子)
★一連で「去る」とか「還る」とか「逃亡」とか。うまく納めましたね。(石井)
★家に帰りたいんですねえ。(慧子)
★男性の特権ですね、この帰るところが。(M・S)
★港なんですかね。(船水)
★酔ったら還りたくなるというこの「還り」という字を使いたくなる気持は女性だって分る。女の人だって、酔
 って官能的に本能的なところに還りたいような、ありますよね。これはそれを表しているような感じがします。
     (慧子)
★しっくり行きますね。ひょっとしたら動くのかもしれないけど、やはり松男さんの本音というのか、表現され
 ていますね。なにかすごい時空を含んでいるような感じがします、この歌で。この「還りたい」という字でね。
     (慧子)
★296番「酔い痴れてわれらスナック去りしあとタガログ語にて罵倒されいん」の後にあるということは、こ
 れは、言い訳なんですよ。296番だと、酔い痴れて罵倒されている、スナックで何したのって話になる訳で
 すよ。でそのときに、そんな変なことしてないよ、それで罵倒されたんじゃあないよ、ということを297番
 で詠ってないと、あとで奥さんから何言われるか分んないでしょ。(鈴木)
★(一同笑)
★奥様のための歌集かしら。(石井)
★そこまで極端じゃあないけど、気持はありますよね。(鈴木)
★じゃあ恐れ入りますが質問です。鈴木さんはこの例えば、吾が還りたくなる……何をお入れになりますか?
   (船水)
★それは、酔ってみないと分らないですね。(鈴木)
★そこがね、人それぞれ違いますものね。(M・S)
★わたしは無に還りたい。(鈴木)
★(一同笑)


渡辺松男の一首鑑賞 296

2016年04月17日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究36(16年3月)
    【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)122頁
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、船水映子、渡部慧子
     レポーター:鈴木 良明
     司会と記録:泉 真帆

296 酔い痴れてわれらスナック去りしあとタガログ語にて罵倒されいん

       (レポート)
前首のような残業が続いたある日、職場の同僚たちと、フィリピン人が働くスナックにでも立ち寄ったのだろう。酔い痴れて日ごろの不満やうっぷんを吐くうちに座が荒れてくる。たどたどしい日本語しか話せないフィリピン人のホステスは座をうまくとりもつことができずに、店の雰囲気を壊した客のわれらを帰してしまったことで、今頃店長からタガログ語で罵倒されているだろうと、作者は帰路、回想している。(鈴木)


            (当日発言)
★タガログ語を話すホステス達が、酔い痴れて帰った客を罵倒していると読みました。(慧子)
★そう思います。(M・S)(船水)(石井)
★「いん」って推量ですよね。(船水)
★私もそう取りました。おそらく酔い痴れてなにか上司の悪口言ったり、好き勝手なことをしたんですね。
 でもフィリピン人のこのホステスは、うまく取り繕い、うまく対応した。その鬱憤を「われら」が帰っ
 た後に、母国語であるタガログ語で、ホステス同士、あの客は変だったね、おかしかったね、嫌だった
 ねと、罵倒してると想像したんですけれど。(石井)
★「罵倒されいん」という言葉が強いものだから、いないところで人を罵倒するってあるだろうか、とい
 う感じも強かった。酔い痴れてそこで不満ばかりならべて、結局酒はたいして飲まないで帰っちゃった
 ので、店長から「この責任誰が取るんだ」とそこに残された人(ホステスさん)たちが罵倒されたのか
 と。慧子さんが読まれるように、そこに登場してない人を出しちゃいけないかもしれない。いろんな体
 験を思い出すと、どれに納めていいいかということもある。(鈴木)
★リアルな現場ですね(石井)


       (後日意見)
 おそらくホステス達は酔い痴れた客の馬鹿らしい言動に耐えてうまく取りなしたのだろう。しかし客が帰った途端なんという酷い奴らだと口々に罵倒している。そんな様子を客であった〈われ〉が想像している。〈われ〉にはそれだけ酔い痴れた自覚や後ろめたさがあるのだろう。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞 295

2016年04月16日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究36(16年3月)
    【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)122頁
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、船水映子、渡部慧子
     レポーター:鈴木 良明
     司会と記録:泉 真帆

295 残業を終えるやいなや逃亡の火のごとく去るクルマの尾灯

         (レポート)
 さしあたって今日の課題を残業で処理し「逃亡の火のごとく去るクルマ」の尾灯を見送りながら、
作者自身も残業を早く終えて競うように帰ろうとしている一人なのだろう。たぶん、そのような日々が連日続いているのだ。(鈴木)


          (当日発言)
★先を競って帰る車の後ろの灯を「逃亡の火のごとく」と喩えられて面白いけれど、やはり悲哀を
 覚えます。(石井)
★みんなおんなじ思いで仕事してるんだなあって作者は見ていて、部下を思いやり、詠んでいるの
 ではないかしら。(M・S)
★作者はまだ仕事が残っていて帰れない。いいなーもう帰れて、という気持が入っているのかしら
 と読みました。(船水)
★「逃亡の火」というと、追っても追っても逃げてゆく火を表していると思う。そういうように慌
 てて「残業を終えるやいなや」いなくなるのは、狡い、ってそんな感じじゃないか。自分じゃな
 くて、ひとのことがらですね。(曽我)
★逃げてゆく人は、他の人ですね?(鈴木)
★自身も入っているんじゃないですか。(慧子)
★「尾灯」だから見送っている感じ。自分も一緒だと尾灯は見られないから。(鈴木)
★自分自身もその中のひとり。おそらく皆と同じように残業をやっているんでしょう。(石井)
★「火のごとく去る」とあるから自分はこっちにいるのでは?(鈴木)
★まだいるんでしょうね。(船水)
★ともに行くんだったら「去る」という印象はない。(鈴木)
★そうなると自分は傍観者みたいになっちゃう。(石井)
★いやいや、見送っているという感じをみんな抱えている訳ですよ。「あ、あいつらいいな」って感
 じはある。いち早くみな競うように逃げる訳ですから。(鈴木)
★前の車しか見えませんね、もし流れの中にいるとしたら。(船水)
★作者は一緒になって一番先頭になって逃げてるわけじゃない。その感じが、逆にすごく染みるんで
 すよね。(鈴木)  
★僕はまだ仕事があるんだーっていう。(船水)
★作者も同じ時間帯に残業を終えたのでしょうが、他にバーッと去る人たちがいて、自分自身 もそ
 ういう連中の一人なのかなあ、という感じで詠んでらっしゃると思いました。(石井)


      (後日意見)
 〈われ〉も残業を終えて帰ろうとしている。ふっと窓外を見ると仲間が我先にと帰宅を急ぐ車の尾灯が門を出て行く。「逃亡の火」とは戦さに敗れた人々が小さな火を灯しておのおの別の方向に散っていくイメージだろうか。早く帰れる同僚を羨ましがっていると読むより、〈われ〉も先を争って帰るひとりと見る方が俯瞰的な視点が出て歌柄が大きくなるように思う。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞 294

2016年04月15日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究36(16年3月)
    【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)122頁
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、船水映子、渡部慧子
     レポーター:鈴木 良明
     司会と記録:泉 真帆

294 職を全うできざるはわれのみならずトイレに入りて出てこぬ上司

      (レポート)
仕事の進め方では、目標による管理と成果主義が導入されているのだろう。毎年の高い目標と実
際の成果との間にはギャップが生じるので、概ね「職を全うできない」状態になる。それは職員ばかりでなく、このシステムに組み込まれている上司も同様なのだ。トイレは、組織の中では他者から離れて一人に還れる場所であり、そこに逃げ込んで出てこない上司も現われる。(鈴木)


          (当日発言)
★仕事を全うできないのは私だけじゃなく上司もそう。そういう人たちがトイレにいる。私だけじゃない、
 という気持。(曽我)
★いつもは反発を覚える上司にも、哀れなところを見出し、すこし同情している感じですね。(M・S)
★ここに誰を持って来たとしてもそぐわなくて、「上司」だからお歌がピンポンピンポ〜ン!という感じか
 しらと。鋭いお歌ですよね。(船水)
★自分よりも立場の上の上司までもが仕事を全うできない。普段そぐわないことを感じている私と同じよう
 な状況なのだろう。安心感みたいな同情感も表現されているのかな。(石井)
★「トイレに入りて出てこぬ上司」なんてすごく情景がわかる。職場の深刻な状態もよくわかる。(上司
 は)自分のミスをカバーできなくてトイレに行っちゃった訳じゃない。自分だけのミスじゃない。目標を
 管理する成果主義が出てくると、組織としての目標になってくるから、皆が責めを負うことになる。そこ
 がこの歌のポイントだと思う。従来の終身職場はそうじゃなかった。(鈴木)
★公務員でも成果主義ってあるんですか。(石井)
★あります、90年代から。公務員にとって目標はすごく立てにくい。例えば、生活保護を受けている人が
 その数を減らせば成果と言えるのか、とかって難しい問題がある。就職支援しているところで、例えば専
 門校なんかで入校者数が多ければ成果といえるのか、っていう問題とか。(目標は)すごく立てにくいが、
 そいういうところでも立ててより良くしよう、というあたり。(鈴木)
★生活保護を少なくしたら新聞に載りますね。(石井)
★成果として載るでしょ。逆にね、増やすと成果じゃない。(鈴木)


     (後日意見)
 90年代以降、役所にも成果主義が導入されて大変働きにくくなってきているのは事実だろう。しかしこの歌はそういう時代背景の方に重点があるのではないだろう。上司が職を全うできなかった理由としては、個人の落ち度ではなく彼の守備範囲で目標を達成できなかった事かもしれない。背景としてそういう息苦しい成果主義が〈われ〉や上司を苦しめているのは事実だろう。しかし歌の重点はトイレに入って出てこない上司の人間的な部分と〈われ〉の同質性にあるように思う。(鹿取)


渡辺松男の一首鑑賞 293

2016年04月14日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究36(16年3月)
    【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)121頁
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、船水映子、渡部慧子
     レポーター:鈴木 良明
     司会と記録:泉 真帆


293 新幹線にお百姓さんがまどろみて手のあるところ日が射している

         (レポート)
出張帰りの新幹線の車中の景か。専らビジネスマンが多く利用している平日の昼の新幹線に似つ
かわしくないお百姓さんが乗り合わせていたので、特に目についたのだろう。スポットライトのように日が射している手は、ビジネスマンの白いすべすべした手と異なり、荒れてごつごつした働く人の手で、これをあえて具体的に言わないところが上手いところだ。「お百姓さん」という言い方に、まどろんでいる人に対する畏敬のような気持ちも感じられる。(鈴木)


             (当日発言)
★「手のあるところに日が射している」で具体が見えます。(慧子)
★お百姓さんがまどろんでいるところを見て、自分はこの出張でいろんなものを抱えているけれど、お百姓さんが
 こんなふうにしてるってことはいいなー、そういう立場に立ちたいなー、と。そういうふうな歌だと思います。
        (曽我)
★「お百姓さん」に親しみや尊敬の念が籠っている。ビジネスマンは顔も手も白いし、すべすべしているが、土に
 生きたお百姓さんは、ごつごつした働く人の手。情景だけを言って、色々と読者に想像させる詠み方がいいなと
 思いました。(石井)
★お百姓さんは光を司っている人のよう。お百姓さんの手があるところに光が従いてきているような。自然ととも
 に生きる人の、正しさとはいわないけれど、強さというか。自分との対比が表れていると思いました。(真帆)
★この歌集には作者自身がおじいさんを手伝い農作業をしている歌もあった。それを背景に読むとこの歌がさらに
 よくわかるところもあります。(鈴木)


        (事前意見)※
 どうしてお百姓さんと分かったのだろう。新幹線だから横並びの席だと思うが、二人がけのお隣でお百姓さんがまどろむまで少し会話を交わしたのかもしれない。膝の上に置かれた手だろうか、その手に光を当てることで手の持ち主をねぎらっているようだ。(鹿取)
      ※事前にメモしていた意見ですが、当日急用で欠席した為、発表はできず、レポートや当日意見
       とは対応していません。



渡辺松男の一首鑑賞 292

2016年04月13日 | 短歌一首鑑賞
 渡辺松男研究36(16年3月)
    【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)121頁
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、船水映子、渡部慧子
     レポーター:鈴木 良明
      司会と記録:泉 真帆

292 はるばると書類は軽く身は重く霞ヶ関へ𠮟られに行く

        (レポート)
 地方自治体の職員である作者は、課題になっている事項についての対策をとりまとめ、霞ヶ関の所管の官庁に直に説明し、報告しなければならないのだろう。問題のない単なる報告であれば電話や郵送で済むのだが、この歌の書類は、なかなかまとめにくい厄介な書類なのかもしれない。「書類は軽く」というなかに、内容的にも不十分なので「軽い」という意識もあり、𠮟られることは必定なので、身は一層重く感じられるのだ。(鈴木)


        (当日発言)
★本音なんでしょうね。「書類は軽く身は重く」ってとってもリズム感のある言葉で。はるばる𠮟られに行く
 っていうのはせつないなと思いますね。とても尊敬してしまうお歌です。(船水)
★私はこの、「はるばると」と頭に据えたところがお上手だと思いました。書類は軽く身は重くということを、
 なにか他の次元へ移したような詠い方。(慧子)
★かなり気にしていらした感じですね。𠮟られに行くことに対して。書類が軽いっていうのと身が重いという
 のは、反対のものを上手に歌にされていると思いました。(曽我)
★詠み方がすごく明るいですよね。さっき慧子さんが言われたように、「はるばると」これ、たのしい感じで
 すよね。軽いのと重いのと対比しながら明るく詠んで本音を言ってる、すごくなんか良いですよね。これ重
 い話だから重く詠まれちゃうと引いちゃうんですよね。(鈴木)
★お勉強なので伺ってもいいですか?「とぼとぼと書類は重く身は軽く霞ヶ関へはるばると行く」 じゃあお
 かしくなっちゃいますよねえ。(船水)
★付き過ぎっていうか、そういう感じになりますねえ。(石井)
★素朴な感じになっちゃうんですよ、とぼとぼと、と言うと。(鈴木)
★やっぱり「はるばると」じゃないと、なんか、行かないといけないような感じが出ない。(石井)
★こどものような感じの心ですね。素直で。(M・S)
★結局、居直っちゃってるところもあるんですよね。どうにでもなれみたいな。それでもはるばると、書類も
 軽いし、みたいな。(鈴木)
★書類が軽いというのをね、ちょっと揶揄しているような感じと取っちゃったんですね。(石井)
★そうですそうです(鈴木)
★おそらくその書類はどのような内容かはわかりませんけれど、数字をちょっと変えるとか、そんな程度のこ
 とでね、なんで自分はこんな霞ヶ関に行かないといけないんだ、とか何かそんな忸怩たる思いもあるんでし
 ょうね。だから「𠮟られに行く」というような結句に持ってきたのかなと思いました。(石井)
★わざとユーモラスに詠っているんだと思います。植木等さんみたいに。「身は重く」まではユーモラスに詠
 って、「𠮟られに行く」と悲劇的に終る。(M・S)
★そうですね。霞ヶ関へ報告に行く、だと面白くないですものね。やはり「𠮟られに行く」というのが効いて
 いますよね。(石井)


     (事前意見)※
 こういう仕事の現場とか役所のシステムはよく分からないのだが、どういう事情で叱られにゆくのだろう。「書類は軽く」とあるが実際には鞄がぱんぱんになるほど重い書類を提げていたのかもしれない。その書類作成の為に膨大な労力を費やしてもいるだろう。それが報われないで叱られに行く。〈われ〉の落ち度で書類に不備があったりしたのなら叱られるのもやむをえないが、難癖をつけられたり、理解が得られなかったりと不本意に叱られることになったのかもしれない。そんな不服従の気分が「𠮟られに行く」にはあるような気がする。よって「書類は軽く」はいわば「身は重く」と対比させるための虚辞かもしれない。しかし「書類は軽く」があることで〈われ〉は戯画化され、歌は被害者意識に満ちた敗者の押しつけのいやらしさから遠いものになった。(鹿取)
  ※事前にメモしていた意見ですが、当日急用で欠席した為、発表はできずレポートや当日意見
   とは対応していません。

渡辺松男の一首鑑賞 291

2016年04月12日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究36(16年3月)
    【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)121頁
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、船水映子、渡部慧子
     レポーター:鈴木 良明
     司会と記録:泉 真帆


291 精神は肉体よりもごつごつと函館の夜を市電にゆらる

           (レポート)
 仕事で函館に出張したときの景だろう。好景気の頃なら楽しい筈の函館出張も、たぶん明日にでも報告書をまとめなければならないような重い課題を抱えての出張では、ぎすぎすしたこころにならざるを得ない。ぐったりと疲れ切った肉体よりも精神の方が「ごつごつ」とリアルに感じられるのである。(鈴木)


           (当日発言)
★よっぽど難しい心情だったんじゃあないか、って思うんですね。肉体よりも精神の方が、ってい
 うのが「ごつごつと」と表現されていてリアルな感じですね。(曽我)
★精神というのは形がない、肉体というのは形がある、そいういうものを比較されるのはやはり松
 男さんらしいなと思って読みました。疲れきった肉体ですねえ、それよりもリアルに精神の方が
 感じられると、そいうことをレポーターは書いてらっしゃるんですけれどもその通りだなあと思
 いました。「ごつごつ」というのが何かちょっと不器用な、例えば市電に揺られているあの、ゴ
 ットンゴットンとした音の響きとかも関連しているのかなあとも思いました。作者はぐったり疲
 れている肉体よりも精神の方に重きを置いてらしゃる、そいういう情景も分ります。(石井)
★私もこの「ごつごつ」の表現が見事だと思います。「イライラ」とか「キリキリ」、とかそうい
 うのではなくこの「ごつごつ」が実に上手に表わしているなあと思います。(M・S)
★普通だとこ〜「疲れた」とか「胃が痛む」とかね、そういう言い方しちゃいますけど、そういうと
 ころ超えちゃってるんですよね。「ごつごつ」ってもう物みたいになっちゃってる無感動な状態っ
 ていうか、そういうのを「ごつごつ」っていう言葉で。上手いなあ〜と思いますね。普通だと感情
 の世界で納めようとする訳ですよ、だけど感情を超えちゃってる、そこがやはり普遍的な感じがす
 るんですよね、この歌。(鈴木)


渡辺松男の一首鑑賞 290

2016年04月11日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究36(16年3月)
    【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)120頁
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、船水映子、渡部慧子
     レポーター:鈴木 良明
     司会と記録:泉 真帆

     
290 ポケットベルに拘束さるるわれの目に鬱々として巨大春月

           (レポート)
 ポケットベルを配られる職場は、オフの日や休憩時間帯にも緊急の対応が迫られるセクション。九〇年代頃からこのような緊急連絡手段は必要な職場から徐々に広がり、今なら携帯やスマホでの対応が一般化している。本歌では、四月の人事異動で、当時にしては数少ないこのような職場に異動したのであろうか。常にポケベル(他人)に拘束されてオフの日にも気を抜けない作者の目には、おぼろ月夜も鬱陶しい「巨大春月」に映るのだ。(鈴木)


           (当日意見)
★朧月夜って、本当は人の心をなごませるような、ぼわ〜んとした感じのものなのに、怪物的な大
 きなものというか、襲われるようなそんな怖れのようなものを感じるほど巨大に見える、という
 ように私は受け止めました。(M・S)
★面白いなーと思って。きっと人間っていろんなキャラクターがあるんでしょうね。仕事をしてい
 る人の厳しさみたいな、かなりカルチャーショックを受けて読みました。(船水)
★おそらく、夕方っていうのはお仕事を引けて、普通なら寛ぐ、家に帰って、そいういう時間帯な
 んですね。本来ならその時間帯に見るお月様は、なぐさめであったり、情緒が豊かになるような
 ものであったりするんですけれども、なんかそんなふうには見えない。やはり鬱々としてしまう、
 巨大春月そいう表現でされていますね、そういうところが上手いなと思いました。(石井)
★私が前やったときの巨大な茶碗だったかな。(慧子)
★あー、渡辺巳作氏の巨大茶碗ですかね。(鈴木)
 「商工会会長渡辺巳作氏が巨大茶碗で茶を飲む朝」      
★ちょっと好きな言葉でしょうかねエ「巨大」っていうのは。(石井)
★自分以外を巨大なものとされているんでしょうかねえ。(慧子)
★異質なものを巨大と捉えているんでしょうね。(石井)
★自分を脅かすものとか。(船水)
★自分の自由を奪うものというか、拘束するというか。泉さんなんかどうなんですか?若いひとは
 こういう環境にないんですか今は。(鈴木)
★常に付け回されている、拘束されているような感じはありますけれど。(真帆)
★これ時代なんですよね。あのころはもうポケベルしかなかったんですよ。その前は何もなかった
 ですね。(一同笑)だから安心していられたん  す よ。ところがポケベルとか配られちゃうと、
 出勤しなくちゃいけない訳でしょう。今はもうこういうのは日常化してしまっているので、若い人
 は当たり前と思っているかもしれないけど、私達のころからなんか比べると、やってられないって
 感じですよね。それで残業は日常化していますから。役所でさえこうなって来たって、私も一応公
 務員だから同じ立場なんで良く分るんですよ。病んでしまいますよ。だからもういま本当に病気に
 なる方も多いと思います。一億総活躍社会なんてカッコイイこと言ってますけど、ほんと、あんな
 言葉を言うこと自体ね…。(鈴木)
★ポケベルを配られる職場には二通りあって、上司が自分では対応できないからやるというのと、そ
 れから職場自体がね、例えば病院とかそういう緊急を要する場所とかね、二通りあるんですよ。お
 そらくこの場合はね、前の方じゃないかと言う感じがしますよね。後の方に出て来ますけれど、そ
 の上司とかの様子は。だからその余計、「巨大春月」というのは、上司のね、もやもやとしたね、
 鬱陶しい影かもしれないんですよ。(鈴木)