渡辺松男研究36(16年3月)
【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)123頁
参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、船水映子、渡部慧子
レポーター:鈴木 良明
司会と記録:泉 真帆
299 家族ああ昨日とまったく同位置にポットはありて押せば湯がでる
(レポート)
テーブルの上の定位置にポットが置かれていて押せば湯が出る。それは太陽が毎日東か昇り西に沈んでゆく自然の運行のように、ついあたりまえと思ってしまう。しかし、その陰でそれを毎日用意してくれている今の家族の存在にあらためて気づき、そのかけがえのなさに、「家族ああ」と感嘆しているのだ。(鈴木)
(当日発言)
★本音の心の奥底にこの思いがある。家に休日は日向ぼっこのようなご家庭がおありになるから幸せ。すごく知性豊かなすばらし
い日本人。(船水)
★いつも適温の湯が出ることは、ポットに水を足したりする陰の家族達の力、バックアップがあってのこと。その素晴らしい家庭を
感じます。(M・S)
★私達はなくしてはじめて、そのものの尊さを感じる。家族とは当たり前だが、本当にいてよかったと。ポットも、いつも置いてい
るポットが押したらすぐ湯が出るとか、いつも置いているパソコンがそこにあるとか。そういったありがたさ、幸せ、を詠ってい
らっしゃると思いました。(石井)
★家はいいなーという感じ。怖ろしい「死」も「政治」もないから。全てがいつものようにあって、安心感があって、安らぐ。そう
いうことを詠んでいらっしゃる。(曽我)
★家族を語ればきっと語り尽くさないのだ。それをポットに象徴させ、思いをポットにひとつに置き換えて詠われたところが、お上
手と思いました。(慧子)
★私などは、歳とって自分の体が思うように動かなくなってきて、だんだん当たり前のことが有り難いと思う様になったが、松男さ
ん、この年齢でこういう歌を詠えるって凄い。(鈴木)(出版年の作者は42歳)
(後日意見)
この歌を長い間、家族の倦怠を詠んだものかと思っていた。「ああ」という詠嘆が私にそう読ませていた。しかし、皆さんの意見を読んでゆくと、なるほど家族の温かさを詠んだのかとも思う。この一連の流れからすると後者の読みの方がいいようだ。『寒気氾濫』には「妻」と明らかに書かれた歌は確か一首もなかったが、妻を対象化する必要がないほどなじんでいたということなのだろう。(鹿取)