かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

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渡辺松男の一首鑑賞

2015年09月25日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究31(15年9月)
        【はずかしさのまんなか】『寒気氾濫』(1997年)109頁
         参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:泉 真帆
        司会と記録:鹿取 未放


261 はずかしさのまんなかにある耳の穴卯月はつかな風にふるえる

          (レポート)
〈解釈〉はずかしさの真ん中にあるのは耳の穴だという。卯月のはつかな風にふかれその耳が震えているよ。

〈鑑賞〉「恥」という漢字の偏がなぜ耳なのかという話を昔聞いたことがある。目が見えなくても口がきけなくても生きるのに恥ずかしくはないが、自分の言葉がきけないほど恥ずかしいことはない。小学校の道徳の授業で、担任の先生が教えてくれたそんな話を思い出した。
「はずかしさ」はなんだろう? 恥ずかしい気持になって草原にいる?でもじゃあなぜ「まんなか」なの?羞恥心のど真ん中にある穴とは?生殖の春を見ていることか。ひらひら風になびいている兎の耳を景の最後にすえ、連作は読者に文芸鑑賞の楽しさと、あたたかなゆとりを残してくれているようだ。(真帆)


          (当日意見)
★この年頃は何でもかんでも恥ずかしいと思う年頃でしょ。主体がお嬢さんだと思うので。
 (曽我)
★「兎の耳を景の最後にすえ」とありますけど、どこにも兎の耳とは書いてないです が、
 「卯月」を読み間違われたかしら?〈われ〉の耳なのではないですか。(鹿取)
★これは自分の耳の穴です。(石井)
★私は人間の存在そのものが恥ずかしいものであって、その象徴としてこの耳の穴を持っ
 てきたのかなと思います。(慧子)
★私もそう思います。「恥」っていう字、心は耳に現れて、恥ずかしいと耳がまっ赤 
 になったりしますよね。だから「耳」に「心」と書くのだとばかり思っていました。
    (鹿取)
  
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渡辺松男の一首鑑賞

2015年09月24日 | 短歌一首鑑賞
 
 渡辺松男研究31(15年9月)
         【はずかしさのまんなか】『寒気氾濫』(1997年)109頁
          参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:泉 真帆
         司会と記録:鹿取 未放


260 土手に寝て目を覚ましたるさみしさは土筆林立していたりけり

     (レポート)
〈解釈〉いつしか土手に寝てしまっていた作者。目をさますと、あたり一面に土筆が生えているではないか。そのさまを見ていると無性にさびしくなる。

〈鑑賞〉この歌に詠まれている「さみしさ」とは何だろう。土筆をスギナの胞子茎だと思うと、この「さびしさ」は生物の生きる限りは持たされる生命欲のさびしさと思える。連作の一首目の「penis」、四首目の尖った蘆の芽の「すぐろ野」、そしてこの「土筆林立」。どれも切り立っていて、生命のエゴイスティックなさびしさを思う。


          (当日意見)
★こうして尖った物を並べられると、前回のフロイトの説の尖った物はみな男性性器
 の喩、ってなってしまいそうだけど。それも含めて、もっと根源的なさみしさです
 よね。お昼寝から覚めたさびしい気分を子供の視点で詠った渡辺さんの別の歌が印
 象に残っているけど、この歌集だったかなあ。きちんと調べてこなくてすみません。
     (鹿取)
★昼寝の後のたよりなさとかおぼつかなさはよくある歌だと思いますが、土筆が林立
 していたというのは個性的だし、泉真帆さんが尖った物を生命のさびしさと捉えて
 よく見ていらっしゃるなと思います。私はエゴイスティックとまでは思わなくて生
 命の原初的なさびしさだと思いますが。(慧子)


        (後日意見)  
 当日鹿取が発言した子供の視点の歌とは次の歌。(鹿取)

 どうしてママ歯をみがくときさみしいの昼寝に覚めた三時の気分『泡宇宙の蛙』
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渡辺松男の一首鑑賞 259

2015年09月23日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究31(15年9月)
         【はずかしさのまんなか】『寒気氾濫』(1997年)109頁
          参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
          レポーター:泉 真帆
          司会と記録:鹿取 未放


259 輪郭の固き少女の触るるほど近づきてきて輪郭を消す

     (レポート)
〈解釈〉二通りに解釈ができるのではないか。一つは、前の歌を受け、痩せた少女が水辺にいる場面を思った。ふっくらとやわらな輪郭ではなく、頑な輪郭の少女が、水面に手をさしいれ自分の影を壊している。
もう一つは、場を水辺ではないと解釈して読んだ。作者は地面に映る自分の影を見ており、そこへ「輪郭の固き少女が」触れるほど近づいてきて作者の輪郭と重なる。そのため作者の輪郭を消してしまったという。

〈感想〉「輪郭の固い」とは、直線的な身体の痩せた様子と同時に、少女の内向的なこころの固さも表現されているように思う。(真帆)


     (当日意見)
★解釈で作者の輪郭を消してしまうとありますが、私は少女が輪郭を消したと思った
 のですが。257番の「少女の胸真っ平らなり」と同じ少女なのでしょう。そうい
 う子が近づいてきて、むちゃくちゃ可愛くて輪郭が消えてしまった。(慧子)
★そうすると近づいてくるのは〈われ〉に近づいてくる?(鹿取)
★そうです。(慧子)
★芹青きの歌とは全く独立している。輪郭を消したというと少女の優しさが見えてく
 る。輪郭が固いというのはしっかりした娘さんだということ。(曽我)
★優しさって、少女が持つ本来の優しさではなく、作者に対する優しさのことですか?
   (石井)
★親しさのことです。近づくことによって優しさが増す。(曽我)
★それが優しさですか?(石井)
★曽我さんのおっしゃったのは、バリケードを張ったようなとげとげしいところが消
 えていって暖かな心になったよという意味だと思います。(真帆)
★これはもう自分の子供だとしたら、近づくことによって融合的になる。その気持ち
 は実によく分かる。抱き上げるような感じ。遠くで見てると固い感じだけど、お父
 ちゃんって近づいてくると融合されちゃうんですよ。(鈴木)
★輪郭が固いというのはまだ未熟な少女、そう思っていた子が近づいてきたら意外と
 女性的で成長していたんだと思ったという。(M・S)
★私はあまりそういう人情的な感じではとっていなかったのですが。どちらかというと心理 
 学的なイメージ。肉体も精神もやや固い少女が〈われ〉に近づいてくることによってその
 の輪郭がおぼろになっていく感じ。鈴木さんがおっしゃった融合というのとまあ同じこと
 だと思います。高度な渡辺さんらしい歌ですね。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞

2015年09月22日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究31(15年9月)
         【はずかしさのまんなか】『寒気氾濫』(1997年)108頁
          参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
          レポーター:泉 真帆
          司会と記録:鹿取 未放


258 芹青きながれに指を差し入れてわがとこおとめ登校をせず

     (レポート)
〈解釈〉芹が青々としている水辺に指を差し入れて遊んでいるわたしの常乙女は学校に行かないのだよ。

〈感想〉「とこおとめ」はとこしえに若い女、いつもかわらぬ若々しい少女、という意味だが、連作として読めば、257の「少女」と同一人物とも思え、作者の娘さんかとも思える。一首にはどこか翳りが感じられる。なかなか学校に行きたがらない苦しい状況なのだろうか。(真帆)


      (当日意見)
★何か屈折した思いをされているんでしょうね。(石井)
★この一連は初めからおしまいまで娘さんのことを詠んでいると思います。「登校を
 せず」ときっぱり言っていらして、親の気持ちが出ていると思います。(曽我)
★子のことを否定していないと思います。上句を見ると肯定している気がします。
  (慧子)
★レポーターも否定しているとはどこにも書いていないと思いますが。私もこの歌「と
 こおとめ」を肯定していると思いますよ。これ、見守っている姿勢ですよね。下手 
 な人が作ると学校へ行かないすねた様子の描写とかになるんだろうけど、この上句
 がとても清新で、純粋なこころの娘を象徴してますよね。(鹿取)
★「とこおとめ」という言い方がいいですね。(鈴木)
★この古語が活きていますよね。万葉集などに歌の例がありますけど。(鹿取)


      (後日意見)
 「とこをとめ」の歌の例。伊勢神宮に参詣する十市皇女(とうちのひめみこ)に随行した吹黄刀自(ふきのとじ)が詠んだ歌というが、吹黄刀自は伝未詳。
 河の上(へ)のゆつ磐群(いはむら)に草むさず常にもがもな常処女(とこをとめ) にて(万葉集1-22)
十市皇女に対していつまでも今の若いままでいてくださいと詠んでいる。258番歌の情景は、この万葉集の歌の磐群あたりがヒントになったのかもしれない。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞

2015年09月21日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究31(15年9月)
         【はずかしさのまんなか】『寒気氾濫』(1997年)108頁
          参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
          レポーター:泉 真帆
          司会と記録:鹿取 未放


257 少女の胸真っ平らなり蘆の芽のむすうに尖るすぐろ野に立ち

        (レポート)
〈解釈〉「すぐろ」とは春、野の草木を焼いた後の黒くなっているさまだが、すぐろになって尖った蘆の芽がびっしりと無数に広がる野原に、まだ胸のふくらみもない痩せた少女が立っている。

〈感想〉連作「はずかしさのまんなか」は秋からはじまりこの一首で季節が春に移り変わっている。春ではあるが、痩せた少女と、すぐろ野の対比が痛ましい。「すぐろ野に立つ」様は、ひりひりと内向の牙を剥いているような、少女の精神状態の危険な場面とも感じる。
      (真帆)

     
         (当日意見)
★蘆は「人間は考える蘆」の蘆ですよね。無数に蘆が生えているすぐろ野に立ってい
 る少女も蘆の芽のように若いんだと思います。「ひりひりと内向の牙を剥いている」
 とまでは思わないけど内向的な少女が大人になっていく過程でこれからいろんなこ
 とがあると。(慧子)
★娘のことかもしれないけど、胸の真っ平らな少女が蘆の芽の無数に尖ったすぐろ野 
 に立っている情景は痛々しさを感じさせます。(鹿取)
★解釈では痩せた少女って強調されているけど、成長していないから胸が真っ平らな
 ので、痩せてるは敢えて入れなくてもよいと思います。(石井)
★真帆さんが書いているようにすぐろ野が少女の精神状態の危うさを表していると思いま
 す。(鈴木)
★すぐろ野は、でも新しい命を生み出す為に草を焼くんですよね。(鹿取)
★芯まで焼かれないように、この時期を少女は乗り越える必要があって、難しい時期なん
 です。その危うさが歌によく出ていると思います。(鈴木)



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渡辺松男の一首鑑賞 256

2015年09月20日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究31(15年9月)
         【はずかしさのまんなか】『寒気氾濫』(1997年)108頁
          参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:泉 真帆
         司会と記録:鹿取 未放


256 おおきなる幻日を背にうつくしき舞踏病なりこの枯れすすき

      (レポート)
〈解釈〉 「幻日」は、太陽の両側にあらわれる光輝の強い点、空中に浮かぶ氷晶による光の屈折でおこる暈(かさ)の一種で、白色または薄い色彩を帯びる、と広辞苑にある。空に大きくひろがった幻日を背に、枯れすすきがぽきり、ぽきりと折れたまま風にゆれているさまは美しく、淋しくも美しい舞踏病のようだ。

〈鑑賞〉この一首は、ただ素直に哀愁きわまる美しい景を味わえばよい、とも思ったのだが、正直にいうと「舞踏病」という語に戸惑った。「うつくしき」と修飾し、「舞踏病」という悲痛な病でもって芒のさまを表現することに抵抗を感じた。それできっとこれは、「赤い靴」を履いたように風に踊り止まない枯れ芒のさまだ、とも曲解してみたが、豊島与志雄の短編小説『舞踏病』にであい、こういう病をモチーフにする表現もゆるされるのかと、いまは文字通り病気の「舞踏病」だと鑑賞している。あるいはもしか「この枯れすすき」の「この」は254で詠まれた「少女」、または258の「わがとこおとめ」のことなのだろうか、とも疑問に思っている。(真帆)


     (当日意見)
★「ぽきり、ぽきりと折れた」というのは、どの部分について言っているのですか?
 (曽我)
★私も「ぽきり、ぽきりと折れたまま風にゆれている」には違和感を覚えました。す
 すきは一本ではなくある程度かたまってある情景のようだから、それがみんな折れ
 たままというのではとても不自然な感じがする。病気の舞踏病にあまり拘らなくて
 いいのではないですか。すすきが風になびいてしきりに揺らいでいる様子を舞踏病
 だと形容したので、だからこそ「うつくしき」って形容詞も活きるのでは。「ぽき
 り、ぽきり」だと優美さにはほど遠い。「幻日」というとても幻想的な風景の中に
 すすきも優美に揺れ動いている。(鹿取)
★後の方の歌では固い輪郭とか出てくるので、「ぽきり、ぽきり」に繋がったんです
 けど。(真帆)
★あまり病気に拘りすぎると困るけど、舞踏病は不随意筋が動くようだけど、ここは
 随意筋が動く感じなのかな。ここは風のままにすすきが動く感じかなと。(鈴木)
★枯れすすきが風によってなすがままに動いている、それが美しいと言っていらっし
 ゃる。(石井)
★舞踏病のようにぎくしゃく動くのは憐れで哀しくて奇異ではあるけれど、それが作
 者には美しく見えたのかと。(真帆)
★いやあ、それは現実の舞踏病という病気に捕らわれ過ぎじゃない。(鹿取)
★全体が情景描写だから、踊るという文字もなびている様を想像させます。(石井)
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渡辺松男の一首鑑賞 255

2015年09月19日 | 短歌一首鑑賞

  渡辺松男研究31(15年9月)
         【はずかしさのまんなか】『寒気氾濫』(1997年)107頁
          参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
          レポーター:泉 真帆
         司会と記録:鹿取 未放


255 歩かなくなりし手のひら日に透かす 日に透かされし恒河沙の手

     (レポート)
〈解釈〉人類の祖先が直立歩行をはじめたときから、手は歩くための器官ではなくなった。そんな手のひらを日に透かしてみていると、そこには遥かに遠い恒河沙という時をあゆんで来た手があるようだ。

〈鑑賞〉上の句でまず手のひらを日に透かしている景を出し、一字アケの間をもたせたあと「恒河沙の手」が出ることによって、手がすすきのようにブレて無数にみえるようでもある。連作のなかでシーンを次へ移して行くときの、巧みな映像とも感じる。(真帆)

      
      (当日意見)
★恒河沙って、ガンジス川の砂のことで、数が多いことをいう意味よね。だからヒトが
 直立歩行を始めてから今まで無数の人間が物思いやら何やらしながら手を日に透かして
 きた。無数の人のひとりひとりの人生の積み重ねを思っているのかなあ。(鹿取)
★恒河沙は多い数だから、遙かな年数かと思って。(真帆)
★そうか、でもどっちみち同じ事よね。遙かな年数を無数の人間達が手を日に透かしてき
 たっていうことだから。(鹿取)
★過去から続いてきた無数の人間達だから、時間も数も両方に意味がある。(鈴木)
★真帆さんの鑑賞の最後の一行はいいですね。無数の人間が日に透かす手から次の歌の揺
 れ動くすすきの映像に移行するんですね。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞 254

2015年09月18日 | 短歌一首鑑賞
 渡辺松男研究31(15年9月)
    【はずかしさのまんなか】『寒気氾濫』(1997年)107頁
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆
      司会と記録:鹿取 未放


254 見て見てと少女がひかる指を差す秋日の中のお馬のpenis

      (レポート)
「(略)『寒気氾濫』の特徴の一つと言っていいこうしたもの悲しく滑稽な男性の生と性は、今世紀の終末にある人間の哀しいほど素直な存在の裸体にもみえる。ことにも渡辺が自らの男性性にこだわり世界からの照り返しをこうした身体の部分に象徴的に受けていることに注目したい。ここに描かれた男性身体の部分は、なにか円滑に循環する生の流転からはぐれて奇異であり、意味と居場所を失って途方に暮れている。三首めの少女の無邪気は、その性の滑稽とあてどなさを指し、残酷でさえある。(略)」
     (川野里子著 『寒気氾濫』歌集評―欲情しつつ山を行く―  「かりん」98年9月号 ) 
〈解釈〉少女は一頭の馬の異様におどろき、面白がり、指を輝かせて「見て見て」と差ししめす。見るとそれは物悲しい秋の日の中に照らされている馬のペニスだった。

〈鑑賞〉「見て見て」と詠いだされる調子はとても弾んでいて、次に続く「少女がひかる指を」まで読み進むと、いったい何が始まるのだろうと期待する。すると風景は物悲しい秋の日に転じ、それが突出しているペニスだったとわかる。馬ではないが私も似た体験がある。娘が幼いころ春の上野動物園に連れて行ってしまったときのことである。物珍しく好奇心の目にさわぐ娘に、なんとも説明のしようがなく、そそくさと鳥類の方へ連れていった。一首は、「ひかる」という語を全体に響かせ、馬を「お馬」と愛らしく呼ぶことで明るさを出しているが、男性の作者は一体どんな気持だったかと思うと、笑っていいような哀しいような妙な気がする。(真帆)


      (当日意見)
★レポーターは「秋日」を「しゅうじつ」と読まれましたが、音数や音感からすると
 「あきび」あるいは「あきひ」と読むのかなあと私は思いました。「しゅうじつ」
 だと重い感じがして。(鹿取)
★私も「あきび」か「あきひ」と思ったのですが、辞書には載ってなくて。(真帆)
★歌では辞書にない読みをさせる場合があるから、辞書的な読みにそれほどこだわら
 なくていいんじゃないかなあ。(鹿取)
★優しい視点だから、お嬢さんのことを詠っているんだと思う。(曽我)
★真帆さんが引用している川野さんの意見だけど、自らの男性性に拘りというのは違 
 うんじゃないかなあ。少女は無邪気に言っているので、もっと軽い歌じゃないか。
    (鈴木)
★川野さんは抽象的に総括していらっしゃるんだけど、「なにか円滑に循環する生の
 流転からはぐれて奇異」ってちょっと言い過ぎかなあと。私は真帆さんの感想の部
 分をいいと思いました。とても具体的に解釈していらっしゃって。(石井)
★私の引用の仕方が悪くてすみません。川野さんは3首あげて書いていらして石井さ
 んが触れられた部分は3首全体について書かれたところです。(真帆)
★3首のうちの他の2首はこうです。(鈴木)
平原にぽつんぽつんとあることの泣きたいような男の乳首
  山よ笑え 若葉に眩む朝礼のおのこらにみな睾丸が垂る
★254番歌について直接触れている「三首目の少女の無邪気は、その性の滑稽とあてど
 なさを指し、残酷でさえある」の部分についても、川野さんの解釈よりずっと無邪気な
 歌だと思います。ちょっとずれますが、「山よ笑え」の歌にしても、以前鑑賞したとき
 言ったと思いますが、初句は「山笑ふ」という季語を命令形にしたものです。「山笑ふ」
 は「草木が萌え始めた、のどかで明るい春の山」の形容ですから、明るい春の山と睾丸
 の垂れた少年達の景が二重になって、命を肯定する暖かい歌だと思います。この254 
 番歌についても同様に思います。(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞 253

2015年09月05日 | 短歌一首鑑賞
 
 渡辺松男研究30(2015年8月)【陰陽石】『寒気氾濫』(1997年)106頁
           参加者:石井彩子、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
          レポーター:石井 彩子
          司会と記録:鹿取 未放


253 まぼろしに天壌響くことがあり花野をジャンヌ・ダルクのジャンプ

       (レポート)
 秋の草花が咲いている大地をジャンヌ・ダルクがジャンプして揺すぶっている。その音が幻聴のように響くことがある
 ジャンヌ・ダルク(1412~1431)は十三歳の時、フランスを救うようにという神のお告を聞き、軍隊を率いてオルレアン城の包囲を解くなど、フランスの危機を救ったが、宗教裁判で異端の宣告を受け火刑となった。死後はカトリック教会によって聖女となり、フランス人にとっての英雄となった。ジャンヌの聞いた「神のお告げ」は伝説以上の重みを持ち、フランスと神とを結ぶものとして、フランス人のナショナリズムのシンボルにもなった。国が危機を迎えるたびに登場し、ナポレオンもジャンヌをフランスの救世主の象徴としたようだ。この歌は死後も影響も与えているこのようなジャンヌ・ダルク神話を詠んだのであろうか。(石井)


       (当日意見)
★ジャンヌ・ダルクを花野に置いたところに作者の愛情のようなものを感じます。た
 だ神聖だけじゃなくて愛らしい感じがします。ジャンヌのジャンプと韻を踏んでい
 るところも面白い。(慧子)
★ジャンヌ・ダルクは農民の娘だから力があるんです。だからジャンプすると天地が響
 く。普通の人じゃないから。身体的な優位があるんです。いつも難しそうだけど、ここ
 は柔らかいですね。(曽我)
★響くって共鳴だから天と地が音を奏でる、響きあうってことですよね。まあ、幻聴です
 けど。(鹿取)
★ジャンヌ・ダルクがジャンプするってありえないけど、感じていらっしゃる。
   (石井)
★ジャンプって、渡辺さんにとって何かあるんですね。〈われ〉と父と阿修羅がジャンプ
 するって歌もあるし。それにしても、「天壌」って難しい言葉ですね。(鹿取)
★その字をわざわざ使うところに意味を込めていらっしゃるのでしょうね。この歌はやは
 りジャンヌ・ダルクの生涯から読み解かないと駄目なんじゃないかな。(石井)

        (後日意見)
 当日発言中の「〈われ〉と父と阿修羅がジャンプするって歌」とは、次のもの。
  うつし世は耳鳴りなりとジャンプせり父・われ・阿修羅みなジャンプせり
                    『歩く仏像』
 2011年に東京歌会の勉強会でレポートした時、私はこの歌について次のように発言している。

  阿修羅も一緒にジャンプするところが自棄(やけ)のようでいて魅力的。制度化され
  た宗教の持つ胡散臭さに対する異議申し立てのようにも読める。

 253のジャンヌ・ダルクの歌も、異端視されて火刑にされ、後年聖女とされていった経過に「制度化された宗教の持つ胡散臭さ」をみているのではなかろうか。そして素のジャンヌ・ダルクを花野にジャンプさせることで、彼女に心寄せをしているのだろう。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞 252

2015年09月04日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究30(2015年8月)【陰陽石】『寒気氾濫』(1997年)106頁
          参加者:石井彩子、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
          レポーター:石井 彩子
          司会と記録:鹿取 未放


252 数知れぬ精霊蜻蛉浮かばせて秋空もまた地球と回る

       (レポート)
 秋空に数知れぬ精霊蜻蛉が浮かんでいる、いつしか秋空が回り、地球という天体も回っている。この歌は反復、循環という点で245番の歌に通じるものがあるが、精霊蜻蛉というきわめて土着的な語が用いられている。精霊蜻蛉とは、盆の頃に現われ「死者の霊が、トンボに姿を変えたもの」などといわれている。過去の時間へ消えてしまった数多くの死者の霊がこの世に現れ、回っている姿は、何かを語りかけているようだ、が、地球は止むことなく回り、死者を見送った人々もやがて死者となり、そして精霊蜻蛉となって、秋空に浮かぶのであろう。(石井)


       (当日意見)
★245番の歌とは「たえまなきみずのながれにみずぐるま未来回転して過去
 となる」ですね。(鹿取)
★精霊蜻蛉が一斉に回っているのは壮観ですね。(石井)
★下句が上手。地球が回っているから秋空もまわっているように見えるんだけど。
        (慧子)
★意表を突いているけど納得させられますね。(石井)
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