ブログ版渡辺松男研究2の11(2018年5月実施)
【夢みるパン】『泡宇宙の蛙』(1999年)P57~
参加者:泉真帆、A・K、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放
82 子を孕みひっそりと吾は楠なればいつまでも雨のそばにありたり
(レポート)
78番歌(夢にわれ妊娠をしてパンなればふっくらとしたパンの子を産む)は夢の力が働いて作者は妊娠をしたパンであった。掲出歌はいきなり「子を孕みひっそりと吾は楠なれば」と詠う。「樹木と「私」との距離をどう詠うか」という渡辺松男氏の文章が鑑賞の助けとなった。常緑樹でゆたかな樹形、そんなことから楠が子を孕んでいるという内容を違和感なく味わうことができる。そして「いつまでも雨のそばにありたり」は慈雨なのだろう、しみじみいいフレーズである。ものを育てる力が水にあって、母性には水のイメージが添っている。(慧子)
(当日発言)
★慧子さん、「樹木と「私」との距離をどう詠うか」という松男さんのエッセイは先月私がお配り
したものですが、それが鑑賞の助けになったのはどの部分で、どう助けになったのか、具体的に
説明してくれますか?(鹿取)
★説明できないので読み上げます。
……私と木との関係はダイナミックで、私の思いのなかに閉じ込めようとしてもはみ出
してしまう部分、そこに木の本領があるのだし、そこに私は引かれる。(中略)……ダ
イナミックと言えば昔インドに「AはAでない、それゆえにAである」という発想が生
まれた。「AはAでない」で実体としての自己同一性を否定した上で「それゆえにAで
ある」として肯定するのだ。もしAを私とすれば「私は私でない、それゆえに私であ
る」となるし、木とすれば「木は木でない、それゆえに木である」となる。「私は私
でない」のだから木であってもよく、「私は木である、それゆえに私」であり、「木は
木でない」のであるから私であってもよく「木は私である、それゆえに木である」。
このような考え、というよりも直観は「私はインコである」という未開人にも「私は一
個の他者である」というランボーにも通ずるだろう。これは観念の遊びではなく、とて
もダイナミックな相互性を示していると私は思うし、個のかけがえのなさと矛盾するこ
ともなく、多様性へ向かって私を開いてくれる可能性をもっているだろう。
「樹木と「私」との距離をどう詠うか」(「短歌朝日」2000年3、4月号)
この辺がとてもうなずけるような気がしたんですね。「私はインコである」とか「私は一個の他
者である」というのは直観で分かる気がする。「個のかけがえのなさと矛盾しない」というとこ
ろは分からないですが。(慧子)
★皆さん、分かりましたか(笑)私は未開人の言葉は分かる気がします。しかしランボーのことば
はとても複雑で難しい文脈のなかにあって、このことは他のところでも松男さんは書いていまし
たが、私はよく理解できませんでした。むしろ「個のかけがえのなさと矛盾しない」とか「ダイ
ナミックな相互性を示している」いうあたりは分かる気がします。今の所でいうと、「木は木で
ない、それゆえに木である」は前回鑑賞した「木を否定することは木の本意とぞ針金のごとき若
木が伸びる」の参考になるかもしれませんね。(鹿取)
★連作で詠っていらっしゃるので、夢でパンの子を産んだ、そして今度は孕んで更に木になった、
とステップアップしている。自分の発想をどんどん出て行く、それを凄いことだと思いました。
命を宿したので雨のそばにありたいというのにも感動しました。奥ゆきがあるというか深みがあ
る。「そばに」がすばらしくて、慈雨を浴びていたいというのをこんなふうに表現できることに
感銘を覚えます。(真帆)
★いや、「ありたり」だから、そばにありたいという願望ではなく、そばにいた、という継続の過
去ですね。(鹿取)
★分かるようで分からない。さっき「ダイナミックな相互性」とおっしゃいましたが、垂直に立っ
ている木と人間が交歓する場面があるのかなと思うのですが、「そばにありたり」だから、子を
孕んだ楠であるわれがずっと雨のそばにいた、それって論理的にどういう事なのか?雨に降られ
て立っていたのではなく「そばにいた」ってどういうことですか?(A・K)
★真帆さんが言われたように「そばに」がすばらしいですね。魅力的な下句なのであまりいろんな
色づけはしない方がいいと思いますが、雨のそばにいるのは子を孕んだ楠である私の安堵感でし
ょうかね。(うん?これも一種の色づけですね)大きなものに包まれているような。子を育てる
ための慈雨というような功利的なものではなくて、命の本質みたいなものに触れていたいという
か。主客が普通と違うので分かりにくいのですが、このまま読んでとても好きな歌です。(鹿取)
★分かった!今の聞いてとってもよく分かりました!楠は楠としてある、雨は雨としてある、お互
いに何かのためにではなくてただある。(A・K)
★そうですね、それぞれがそれぞれのかたちで「在る」、だから雨を浴びているのでもなく受けて
いるのでもなく、ただそばに「在る」。(鹿取)
【夢みるパン】『泡宇宙の蛙』(1999年)P57~
参加者:泉真帆、A・K、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放
82 子を孕みひっそりと吾は楠なればいつまでも雨のそばにありたり
(レポート)
78番歌(夢にわれ妊娠をしてパンなればふっくらとしたパンの子を産む)は夢の力が働いて作者は妊娠をしたパンであった。掲出歌はいきなり「子を孕みひっそりと吾は楠なれば」と詠う。「樹木と「私」との距離をどう詠うか」という渡辺松男氏の文章が鑑賞の助けとなった。常緑樹でゆたかな樹形、そんなことから楠が子を孕んでいるという内容を違和感なく味わうことができる。そして「いつまでも雨のそばにありたり」は慈雨なのだろう、しみじみいいフレーズである。ものを育てる力が水にあって、母性には水のイメージが添っている。(慧子)
(当日発言)
★慧子さん、「樹木と「私」との距離をどう詠うか」という松男さんのエッセイは先月私がお配り
したものですが、それが鑑賞の助けになったのはどの部分で、どう助けになったのか、具体的に
説明してくれますか?(鹿取)
★説明できないので読み上げます。
……私と木との関係はダイナミックで、私の思いのなかに閉じ込めようとしてもはみ出
してしまう部分、そこに木の本領があるのだし、そこに私は引かれる。(中略)……ダ
イナミックと言えば昔インドに「AはAでない、それゆえにAである」という発想が生
まれた。「AはAでない」で実体としての自己同一性を否定した上で「それゆえにAで
ある」として肯定するのだ。もしAを私とすれば「私は私でない、それゆえに私であ
る」となるし、木とすれば「木は木でない、それゆえに木である」となる。「私は私
でない」のだから木であってもよく、「私は木である、それゆえに私」であり、「木は
木でない」のであるから私であってもよく「木は私である、それゆえに木である」。
このような考え、というよりも直観は「私はインコである」という未開人にも「私は一
個の他者である」というランボーにも通ずるだろう。これは観念の遊びではなく、とて
もダイナミックな相互性を示していると私は思うし、個のかけがえのなさと矛盾するこ
ともなく、多様性へ向かって私を開いてくれる可能性をもっているだろう。
「樹木と「私」との距離をどう詠うか」(「短歌朝日」2000年3、4月号)
この辺がとてもうなずけるような気がしたんですね。「私はインコである」とか「私は一個の他
者である」というのは直観で分かる気がする。「個のかけがえのなさと矛盾しない」というとこ
ろは分からないですが。(慧子)
★皆さん、分かりましたか(笑)私は未開人の言葉は分かる気がします。しかしランボーのことば
はとても複雑で難しい文脈のなかにあって、このことは他のところでも松男さんは書いていまし
たが、私はよく理解できませんでした。むしろ「個のかけがえのなさと矛盾しない」とか「ダイ
ナミックな相互性を示している」いうあたりは分かる気がします。今の所でいうと、「木は木で
ない、それゆえに木である」は前回鑑賞した「木を否定することは木の本意とぞ針金のごとき若
木が伸びる」の参考になるかもしれませんね。(鹿取)
★連作で詠っていらっしゃるので、夢でパンの子を産んだ、そして今度は孕んで更に木になった、
とステップアップしている。自分の発想をどんどん出て行く、それを凄いことだと思いました。
命を宿したので雨のそばにありたいというのにも感動しました。奥ゆきがあるというか深みがあ
る。「そばに」がすばらしくて、慈雨を浴びていたいというのをこんなふうに表現できることに
感銘を覚えます。(真帆)
★いや、「ありたり」だから、そばにありたいという願望ではなく、そばにいた、という継続の過
去ですね。(鹿取)
★分かるようで分からない。さっき「ダイナミックな相互性」とおっしゃいましたが、垂直に立っ
ている木と人間が交歓する場面があるのかなと思うのですが、「そばにありたり」だから、子を
孕んだ楠であるわれがずっと雨のそばにいた、それって論理的にどういう事なのか?雨に降られ
て立っていたのではなく「そばにいた」ってどういうことですか?(A・K)
★真帆さんが言われたように「そばに」がすばらしいですね。魅力的な下句なのであまりいろんな
色づけはしない方がいいと思いますが、雨のそばにいるのは子を孕んだ楠である私の安堵感でし
ょうかね。(うん?これも一種の色づけですね)大きなものに包まれているような。子を育てる
ための慈雨というような功利的なものではなくて、命の本質みたいなものに触れていたいという
か。主客が普通と違うので分かりにくいのですが、このまま読んでとても好きな歌です。(鹿取)
★分かった!今の聞いてとってもよく分かりました!楠は楠としてある、雨は雨としてある、お互
いに何かのためにではなくてただある。(A・K)
★そうですね、それぞれがそれぞれのかたちで「在る」、だから雨を浴びているのでもなく受けて
いるのでもなく、ただそばに「在る」。(鹿取)