かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男の一首鑑賞 369

2016年12月31日 | 短歌一首鑑賞

  渡辺松男研究44(2016年12月実施)『寒気氾濫』(1997年)【半眼】P150
      参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部 慧子
      司会と記録:鹿取 未放

369 ちぢまりえぬ距離など思いあいながら半眼となる夕暮れの樹々

     (レポート)
 夕暮れになると私達は家に帰ったり、恋人と会ったりするものだが、樹と樹はちぢまりえぬ距離のまま思いあいながら半眼となると詠う。かなわないことを秘めていて夕暮れの頃の樹には崇高さがたちあがる。(慧子)

 
       (当日意見)
★「半眼となる」が効いている一首。366番の歌「君に電話をしようかどうかためらうに夕
 日は落ちるとき加速せり」と似ていて、主語のすり替えのテクニックがあると思った。この
 歌は半眼となったのは本当は景色で、夕暮れ時で闇になってしまう前の薄暗闇を半眼と言っ
 ている。だから主語は本当は町なんじゃないか。樹に目があって樹全体が少し眠りに入って
 いくような状態だと感じられるところが不思議で巧みと思いました。(真帆)
★それだと、主語のすり替えというより、風景である町も樹も半眼になるという捉え方ですよね。
 私はうたってあるとおりに樹には目があって、それが夕暮れになると半眼になるというように解
 釈しました。歌集の前の方に樹に目があるという歌がありましたが、ああ、これですね、13 
 頁「恍惚と樹が目を閉じてゆく月夜樹に目があると誰に告げまし」。樹と樹というのは動けない
 わけで、だから自分から距離をちぢめてくっつくことは出来ないけど、いろいろ感じてはいるの
 でしょう。隣にある樹が心地よいとか、あの樹のお蔭で陽が当たらないから邪魔だなあとか感じ
 ているはずですよね。細胞同士だって分化の過程で君が肺になるなら、僕は心臓になるよとか感
 応し合っているらしいですから。松男さんの歌を読む時、「吹けばかまきりの子は飛びちりあな
 たはりありずむのめがねをかけているだけ」(『〈空き部屋〉』)の歌がいつも思い浮かびます。だ
 から私は書いてあるとおりに読もうと思っています。でも歌の読み方は自由ですから、いろんな
 解釈があっていいと思います。(鹿取)
★河野裕子さんに木には耳があるという歌がありましたね。(慧子)
★レポーターは崇高ということを言っておられますが、仏像のよううな、悟りのようなことを感じ
 られたのでしょうか?(真帆)
★はい、それを感じたと同時に、夕暮れと半眼をもっとよくみて鑑賞して、夕暮れの薄闇の力をレ
 ポートに書き込むべきだったなあと思っています。だけど、半眼って仏像によく使いますよね。
 その感じって夕方に通うものがありますよね。でも、半眼って仏教だけに限らないですよね。
    (慧子)


    (後日意見)
 当日意見の中で引用した13頁「恍惚と樹が目を閉じてゆく月夜樹に目があると誰に告げまし」の他にも松男さんには木に目がある歌が何首かある。これも既に鑑賞した「木を嚙みてわれ遁走すおもむろに木は薄き目を開けて見ていん」もその1首だし、『蝶』のこの歌も鑑賞した。「木のやうに目をあけてをり目をあけてゐることはたれのじやまにもならず」。
「樹に目があると誰に告げまし」の歌は、樹に目があると誰に告げようか、誰に告げてもきっと信じてはもらえないだろうなという気分。「樹に目がある」ということは日常的には誰にでも納得してもらえることではないので、「誰に告げまし」となっている。この歌の鑑賞の時、私も少しとまどった発言をしているが、月夜の美しさにうっとりと目を閉じてゆく樹の様子を素直に感じ取ればよかった。(鹿取)

 ※「恍惚と樹が目を閉じてゆく月夜樹に目があると誰に告げまし」の鑑賞は、下記のURLから御覧になれます。

  http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=eb50007a4e35863d5b1334900ffeb557&p=136&disp=10


渡辺松男の一首鑑賞 368

2016年12月30日 | 短歌一首鑑賞

  渡辺松男研究44(2016年12月実施)『寒気氾濫』(1997年)
    【半眼】P150
     参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子
     司会と記録:鹿取 未放

368 泣きくずれそうなる幹をやわらかく樹皮は包みて立たせておれり

     (レポート)
  私達は周囲の親、友人などの助言、励まし、慰めなどによって、心をしずめたり耐えたりすることがある。ところが樹木はあらゆることをその樹木一本にてやり過ごしている。そんなことを「幹をやわらかく樹皮は包みて」とやさしいまなざしを向けている。(慧子)


      (当日意見)
★樹の皮のやさしをさ詠っている。(曽我)
★作者がこの歌をどういう時に着想したのかなと思う。樹を見ていて泣き出しそうな樹だと思
 ったのかな。それを樹皮が支えているというんだけど、やわらかくという言葉がとても効い
 ている。泣きくずれそうだというのと、うすい樹皮がやさしく包んでいる、レポーターの最
 後の「やさしいまなざしを向けている」と同じ感想になりました。(真帆)
★私、こういう樹を見たことがあります。下の方が洞穴になっていて、それでもしっかり立ってい
 る樹。でもそういう樹にやわらかさは感じないで外の強さを感じていました。樹皮ががっちり包
 んでいると私は見ていたのに、この人はやさしく包んでいると捉えている。わあ、違う視点で見
 ていらっしゃるんだと。(M・S)
★この松男研究で何回も引用して言っているけど、松男さんのエッセーで樹は、内側の大部分は死
 んでいて、生きているのは表層のほんの一部だけというような事を書いています。ここも幹の内
 側はぐちゃぐちゃとなっていて駄目なんだけど、樹皮がそういうものを包み込み支えて一本の樹
 として立っている。樹はそういうものという認識が根底にある。でも、泣きくずれそうなる幹と
 か、情感がある仕立てになっている。(鹿取)
★泣きくずれそうなる幹って情ともとれますが、音を立てて崩れそうになっている樹の姿の実景と
 もとれますね。(真帆)
★樹の外側の方が若い訳ですね。(曽我)
★そうですね。樹皮が光っているという歌も鑑賞したことがありますが、あれも若いから生きて輝
 いているというのでしょうね。(鹿取)


      (後日意見)  
 たびたび引用しているが、この歌と関連のありそうな渡辺松男のエッセー「樹木と『私』との距離をどう詠うか」(「短歌朝日」2000年3,4月号)よりほんの一部を引用します。

 つまり木は表層の薄い生を内側の厚い死が支える構造で立ち続けている。死という大きな棒状の塊に薄い生の皮を被せて存在しているのが木の実態である。( 中略 )木の内側の大部分が死んでいるということは木の不動性と垂直性とに関連している。木は生き方として不動性を選択したときに垂直性を宿命づけられた。一所に生き続けるためには上に伸びなければならないからだ。伸びることを、内側の死という塊が支え、そして塊は年々太っていくのである。

 引用していて私はこれまで誤解をしていたことに気がついた。内側の大部分の死を表層の薄い生が支えているのではなく、逆であった。つまり木を支えているのは「内側の厚い死」の方なのだ。しかし、掲出歌の場合はその関係が逆転している。「内側の厚い死」が泣きくずれそうになっていて、表皮の方がそれを支えている。「内側の厚い死」だって、時にはそんなふうに弱みを晒すこともあるのだろう。(鹿取)


渡辺松男の一首鑑賞 367

2016年12月29日 | 短歌一首鑑賞

  渡辺松男研究44(2016年12月実施)『寒気氾濫』(1997年)
    【半眼】P149
     参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部 慧子
      司会と記録:鹿取 未放

367 星のふる冷たき夜ゆえ冷たさを触れあいている籠の林檎は


     (レポート)
 ある程度の数の林檎が籠に盛られていよう。その林檎は「冷たさを触れあいて」である。林檎それぞれの秘め持つ大切なものは冷たさであってそれを触れあっているということだろう。冷たいということの神秘性が一首にひびく。林檎は星へも感応していよう。(慧子)

 
      (当日意見)
★レポートの「冷たいということの神秘性が一首にひびく」がほんとうにそうだなと思いました。
 触れあったら普通は温もりとか考えるんだけど。しかも、冷たさは感情についてではなくて、星
 の降る夜だからと状況を説明してある。だから、無理なく入ってくる。(真帆)

 

渡辺松男の一首鑑賞 366

2016年12月28日 | 短歌一首鑑賞

  渡辺松男研究44(2016年12月実施)『寒気氾濫』(1997年)
    【半眼】P149
     参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部 慧子
     司会と記録:鹿取 未放

366 君に電話をしようかどうかためらうに夕日は落ちるとき加速せり

      (レポート)
 「君に電話をしようかどうか」とためらうのに、自分の内側に固執しないで、とびっきり大きな景と、とりあわせて面白さがある。その迷いの心理状態を「夕日は落ちるとき加速せり」と表現し、恋に落ちるという言いまわしを踏まえていよう。暗示が効いている。(慧子)

 
      (当日意見)
★このまんま、ためらっている内にすっかり暮れてしまった。恋に落ちるとは思わなかった。
  (M・S)
★君を恋人かなとは思いましたが、恋に落ちるとは思いませんでした。ためらっている時間は
 長かったんだけど、夕日はそれを追いつめるように加速した、とても巧みな歌だと思う。 
   (真帆)
★恋に落ちるという言いまわしを踏まえてこの下句が出来ているとは思えません。既に恋に落ちて
 いるから君に電話しようかためらっている訳で、恋していなければためらう必要もないし、そも
 そも電話しようとも思わないのでしょう。用事がある訳でもなそそうだし。ためらっているうち
 に夕日が加速するように沈んでいった、その淡い失望感というか哀しみ。結句が上手いですね。
   (鹿取)
★夕日はの「は」が上手いですね。(真帆)
★独特の文体ですね。最近の助詞の使い方もますます独特で、とても真似のできないユニークな文
 体ですね。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞 365

2016年12月27日 | 短歌一首鑑賞

  渡辺松男研究44(2016年12月実施)『寒気氾濫』(1997年)
    【半眼】P149
     参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子
     司会と記録:鹿取 未放


365 触れんばかりの碧空があり今日こそは樹冠が何かしそうな気配

     (レポート)
 碧空をあこがれる者にとって、それはふれんばかりなのに、触れられないもどかしさがある。つねづね、そんな想いを抱いていると高木の樹冠が今日こそ何かしそうな気配だという。作者のみずみずしいあこがれは樹冠や碧空にある。(慧子)

 
     (当日意見)
★今日こそ樹冠が何かしそうというのは光合成ではないですか。樹冠は光合成をする所ですか
 ら。(曽我)
★何かいいことがありそう。木の先の方に希望がありそう。(M・S)
★樹冠が何かしでかしそうだ。レポートに「ふれんばかりなのに、触れられないもどかしさがあ
 る」とあるけど、これは違うのではないか。ふれんばかりって、そういう意味ではない。ふれん
 ばかりって、作者ではなく木が碧空に触れそうにあるということでは。(真帆)
★ふれんばかりって、普通によく使いますよね。手が届きそうな感じって。この場合は〈われ〉に
 とって、でいいと思うけど。ただ何かしそうの具体はレポートにはないので、曽我さんが光合成
 っておっしゃったんだけど。光合成はいつでもしているわけで、「今日こそは」には合わないで
 すね。(鹿取)
★先端の動きが先鋭になってきて、いたずらでもしそう。(真帆)
★そうですね、空に届こうと背伸びしそうとか、そんな感じかしらね。(鹿取)
★木が何かしそうではなく、自分に何かいいことが起こりそうという感じ。(M・S)
★それはないでしょう、「樹冠が」って書いてありますから。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞 364

2016年12月26日 | 短歌一首鑑賞
 ※FBとの連携が、ここ何日か切れていました。更新は毎日していますので、遡ってお読み下されば嬉しいです。

  渡辺松男研究44(2016年12月実施)『寒気氾濫』(1997年)
    【半眼】P148
     参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子
      司会と記録:鹿取 未放


364 椎の木の匂える影に踏み入りて木の内側に一歩近づく

      (レポート)
 椎の木があってその木の影とともに香りがある。そんなところへ踏み入りて、木の内側に近づくと言う。その近づき方を漠然と捉えず、「一歩」としていることが細やかだ。同時に立派なものへの、畏れ、つつましさ、の表れであろう。薫陶を受けるという言葉があるように、木の立派さがその匂いや影ににじんでいて近づくと、それと知らず影響を受けるのだろう。(慧子)


     (当日意見)
★椎の木が匂っている、その椎の木の内側が影なんだという捉え方がユニーク。陽が当たって 
 いる方ではなく、木からしみ出ている内面が影かなと思って。一歩近づくというのがレポー
 ターとは違って、私はちょっと近づくくらいの、あまり意味がない感じ、具体的な一歩とい
 うよりも少し近づいたという感覚かなと。(真帆)
★私も一歩というのは真帆さんと同じ捉え方です。(M・S)
★一歩は、どちらの取り方でもいいかなと思いますが、レポートの「木の立派さ」というところに
  少しひっかかります。立派というのは歌のどこから導かれた解釈なんだろう。柿の木は立派でな
 く、椎の木は立派というような区別なんだろうか?それとも人間は立派でないけれど木はみんな
 立派っていう解釈なのか?作者は木の種類によって優劣は付けていないようだし、人間とも優劣
 としては比べてないと思うけど。(鹿取)
★薫陶を受けるという言葉がありますよね、傍にいるだけで良い影響を受けるような、この木もそ
 んなようで、立派としました。椎の木は花時以外匂わないんだけど、それを匂うと表現するから
 には大きくて立派な木なんだろう、いいものなんだろうと思ったのです。影とまで言っているの
 ですから。何かと比べてということではありません。(慧子)

馬場あき子の外国詠372(中欧)

2016年12月25日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子の外国詠51(2012年4月実施)
    【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P96
     参加者:N・K、崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子
     司会と記録:鹿取 未放


372 夫をなくせし市街戦もはるかな歴史にてドナウ川の虹をひとり見る人

     (レポート)
 「夫をなくせし市街戦も」と「も」によって昔語りのように詠い出され、女性にスポットを当て、歴史的事実の周縁を「歴史にて」としていよう。はた「はるかな」と形容しているのは、過酷な歴史を生きた人々が歳月に癒されたであろうと確信しているような視線だ。「虹」があたかもそれを象徴し、時そのものとして流るる「ドナウ川」にかかる。時をつかのま照らすのだ。そしてそれを「ひとり見る人」がいる。いずれにせよ取材によったのではなかろうに断定でとおしていることに違和感がないのは、作者の力のゆえであろう。
 最後に馬場あき子の『太鼓の空間』あとがきより引く。(慧子)

「日常の視線の中にも縦の時間をみることによってその存在を納得しようとする方向をもっていたように思います。それはもう私の癖といってもいいように身についてしまったものの一つですが、この時間空間に漂遊する時が一番私にとっては豊かな思いがあります。」 


      (当日発言)
★「虹をひとり見る人」は371番歌「ケンピンスキーホテルの一夜リスト流れ老女知るハンガリ
 ー動乱も夢」同様、作者の力量で作り出した人物。プロのやり方。(鈴木)
★レポーターの言う「過酷な歴史を生きた人々が歳月に癒されたであろうと確信しているような 
 視線だ」というところは反対。人々の気持ちは歳月が経っても癒されきれていないだろう。
    (崎尾)
★生々しい傷は歳月によって薄れているだろう。(鈴木)
★確かに生々しい傷は薄れているのだろう。それが虹を見るという行為で表現されている。しかし
 「ハンガリー動乱」で夫を亡くした老女はその傷を死ぬまで抱えて生きるのだ。三・一一で子供
 や親を失った人も同じだと思う。ただ鈴木さんのいうように実在しない人物を詩の力で登場させ
 たと考える方が歌として深くなるかもしれない。あるいは「ドナウ川の虹をひとり見る」老女が
 いたが、その老女と作者は関係を持たず、したがって「夫をなくせし市街戦」は作者の想像と考
 えることも可能だ。そういう独断が詩を生み出しているとも言える。レポーターもいうように馬
 場の独断・断定の歌には秀歌が多い。また馬場自身朔太郎の「独断でさえないものが詩であろう
 か」というような意味の言葉をよく引用している。(鹿取)
   沙羅の枝に蛇脱ぎし衣ひそとして一夜をとめとなりゆきしもの『青椿抄』馬場あき子





馬場あき子の外国詠371(中欧)

2016年12月24日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子の外国詠51(2012年4月実施)
    【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P96
     参加者:N・K、崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子
     司会と記録:鹿取 未放


371 ケンピンスキーホテルの一夜リスト流れ老女知るハンガリー動乱も夢

      (レポート)
 ケンピンスキーホテルに投宿するのだが、「一夜」として物語風に時と場所を設定し、そこにハンガリーの代表的作曲家リストの曲が流れている。すでに認識していたことを聴覚はさらに美しく浄化させる力があると思うのだが、ピアノ曲であろう、それを聴き、それに身をゆだねている「老女」がいる。そんななかでいろいろ過ぎ去ったけれど「ハンガリー動乱も夢」と「老女」は「知る」。夢というものについて解釈はできないのだが掲出歌では「夢」だったとか「夢」のようだとしていないのも味わい深い。ところで「老女知る」これは誰なのか。1956年の「ハンガリー動乱」の為に動いた男達の背を、またそのすさまじさを見ていたであろう女、深く時代と人を見つめて、経験が知恵となっている「老女」を誰というのではなくここに登場させる。「ケンピンスキーホテルの一夜リスト流れ」という詠い出しにふさわしい人物の据え方だ。(慧子)


     (当日発言)
★自分の感じを言うのではなく、ある人物を登場させて代詠のように詠うやり方。この人物は実
 際にいなかったかもしれない。(鈴木)
★リストが流れるホテルの一夜の方が主眼だと思っていた。(崎尾)
★良い歌で好き。レポーターが書いている「ハンガリー動乱も夢」と「老女」が「知る」という点
 については賛成できない。老女が知っているのは「ハンガリー動乱」であって、夢にまでは掛か
 っていないだろう。ともあれ舞台は豪華なケンピンスキーホテル、おそらく生演奏されているの
 だろうリストを聴いている旅の一夜。老女の記憶の中には生々とあるハンガリー動乱も、旅人と
 してここに身を置いていると夢のように感じられる、ということだろうか。(鹿取)


      (追記)(2013年11月)
 鈴木さんの発言にあるように、この老女は実際にはいなかったのかもしれない。言葉の問題を考えると近くに座った老女が作者に問わず語りにハンガリー動乱のことを語ったと考えるには無理がある。そうすると広島とか沖縄でやっているような老人が体験談を語る会か。これも公会堂とか体育館とかなら分かるが、背景のリストが流れる優雅なホテルにはそぐわない。やはりこういう老女の存在を設定しているのかもしれない。
 おそらく老女(架空でもよいが)は、どんなに時間が流れてもハンガリー動乱を生々と覚えているのだろう。昨日のことのように覚えていながら、世の中においては遠い夢になってしまったことを老女は自覚しているのだろう。作者はその老女のぼうぼうとした思いに寄り添っているのだ。
 この老女は能のシテである。(鹿取)


馬場あき子の外国詠370(中欧)

2016年12月23日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子の外国詠51(2012年4月実施)
    【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P96
     参加者:N・K、崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子
      司会と記録:鹿取 未放


370 動脈のごとく貫けるドナウ川の薔薇都市の重き疲れ夕映ゆ

     (レポート)
 「ドナウ川」はドイツ、オーストリア、チェコスロバキア、ハンガリー、セルビア・モンテネグロ、ルーマニア、ブルガリアを流れて、ヨーロッパ東南部をまさしく「動脈のごとく貫ける」川だ。「薔薇都市」とは美しいイメージが立ち上がる。日本の古都は碁盤状だが、エッフェル塔を中心に市街が放射状の薔薇を連想するパリのような都市がドナウ川流域にあると、ここまで想像したのだが調べるにしくはなし。ブダペストを指すと得られた。
 流域とかほとりを省略して「ドナウ川の薔薇都市の」と言葉をつなぐ、二つの「の」が優美だ。そして薔薇の重なる花びらの「重き」と都市の物語の語りつくせないほどの「重き」をかさね合わせ、それは「疲れ」へと言葉に無理のない流れがあり、「夕映ゆ」に「薔薇都市の重き疲れ」は慰撫されてみえたのであろう。(慧子)


     (当日発言)
★「重き疲れ」を出すために上から言葉を使ってきている。(鈴木)
★8、5、6、8、7と韻律がたどたどしていて読みにくい。それが「重き疲れ」 とマッチし
 ているともいえる。「薔薇都市」はそう呼ばれているということだが、「貫ける」「薔薇都市」
 と並べられると、がぜんエロティックな印象を受ける。それもけだるい気分に一役買っている 
 のだろう。(鹿取)


     (まとめ)
 上の句の言葉は硬く8音、5音と韻律を乱ししているが、イメージ的にはエロティックな感じで下の句に繋がっていく。それは漢字表記の薔薇という字に負うところが大きい。そして歌は、そういうイメージを負う都市そのものに疲れを見いだしている。それは華やかな過去を持ちながら疲弊しているブダペストの街の感想であり、ハンガリーの国の姿でもあるのだろう。薔薇都市の名称をつけられた表層は美しい街が、重い疲れごと夕映えている。(鹿取)

馬場あき子の外国詠369(中欧)

2016年12月22日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子の外国詠51(2012年4月実施)
    【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P96
     参加者:N・K、崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子
     司会と記録:鹿取 未放


369 ドナウ川のひと日の風景にすぎざるをあひ群れて撮すわが身かなしも

     (レポート)
 あそびのごとく「あひ群れて撮す」時があるのだが、堅固な城の側ではなく、滔々と流れていかなるものものみこんでしまいそうな「ドナウ川の」そばだ。そこで「ひと日の風景にすぎざるを」そんあ感慨をもったのは「ドナウ川の」悠久のなかの「ひと日」と作者の人生のある「ひと日」との落差によるのだろう。「わが身かなしも」に愛しと哀しの二文字が浮かぶ。     (慧子)


     (当日発言)
★「ドナウ川」は他の川でも取り替え可能。(鈴木)
★自分がドナウ川を見た時は、台風の後だったせいか汚なかった。しかし他の川と違い有名だし、
 ここには四季折々の風景の変化がある。だから取り替え可能ではない、ドナウ川としての説得
 力があるのではないか。(N・K)
★どこに立ってドナウ川を見ているのかが分からない。スイスのロイス川の歌でも、どこから見
 ているか分からなかった。(藤本)
★確かに「ドナウ川」はボルガ川にもアムール川にも置き換え可能に見える。この川でないとい
 けないことを説得力あるようにどうして出すかは難しい。それで「去来抄」に〈行く春を近江 
 の人と惜しみけり〉という句についての問答があるのを思い出した。{と、「去来抄」の概略 
 を説明した後、①実景である ②歌枕であるという点で}あそこでは「行く春」を「行く歳」 
 に、「近江」を「丹波」に置き換えはできないという話だったが、この歌ではどうか。(鹿取)


         (まとめ)       
 当日の議論はここまでだったが、件の「去来抄」の部分を引用する。

  行春を近江の人とおしみけり   芭蕉
 先師曰く、尚白が難に近江は丹波にも、行春は行歳にもふるべしといへり。汝いかが聞き侍るや。去来曰く、尚白が難あたらず。湖水朦朧として春をおしむに便有るべし。殊に今日の上に侍ると申す。先師曰く、しかり、古人も此国に春を愛する事、おさおさ都におとらざるものを。去来曰く、此の一言心に徹す。行歳近江にゐ給はば、いかでか此感ましまさん。行春丹波にゐまさば本より此の情うかぶまじ。風光の人を感動せしむる事、真なるかなと申す。先師曰く、汝は去来共に風雅をかたるべきもの也と、殊更に悦び給ひけり。

 芭蕉の質問に対して去来は、琵琶湖の湖水が朦朧として春を惜しむのにぴったりだ、実感があると答える。それに芭蕉が付け足して言う。昔の文人達も都の春に劣らず近江の春を愛したのだと。去来ははたと納得して、歌枕としての近江に思い至る。先人達が多く歌ってきた近江だからこそ、この情が浮かんできたのだと。(鹿取)