かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

追加版 渡辺松男の一首鑑賞  44

2015年04月25日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究2(13年5月)【橋として】『寒気氾濫』(1997年)22頁
          参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:鈴木 良明
       司会と記録:鹿取 未放

     ◆(後日意見)を追加しました。

44 戦前ははじまりているという父の夕映えは立ちしままなる駱駝

        (レポート)
 輪廻という見方がある。しかし、そう考えないまでも、日本の戦後がいつ終わったのかわからない。わからないままに、世界は戦争をしており、日本もいつ巻き込まれるかわからない。戦後は戦前のはじまりなのである。戦争経験者である父はそれを指摘しているのだろう。しかし、年老いた父の夕映えに映る姿は、「立ちしままなる駱駝」。駱駝は、砂漠の運搬・乗用として、歩く姿のなかにこそ、そのいのちがある。「立ちしまま」は途方にくれる不本意な姿なのだろう。(鈴木)


        (意見)
★立ちしままがわからなかったが、不本意な姿なのだろうといわれて、よく分かった。(崎尾)
★年老いたお父さんの姿なのでしょうか。働きづめに働いてきて、夕映えの中に立ちつくしている
 ある時のお父さん像を駱駝ってとらえたのかなあと思いました。そのお父さんが経験から察知し
 て戦前は始まっていると言っている。日本の庶民はいつだって戦争に巻き込まれてやってきた。
 子や孫はまたいつかそういう戦争に巻き込まれるかわからないと恐れている。まあ、そんな理屈
 をいうと歌はつまんなくなるけど。(鹿取)


         ◆(後日意見)(2015年4月)
ニーチェの『ツァラトゥストラ』の有名な「三様の変化」などからしても判るように「駱駝」は、従順さ、忍耐、努力、勤勉さの象徴です。戦争当時、一般庶民は国の赴くまま、戦時体制の中で我慢や忍従を強いられた。父も例外ではなかった。それは自己に降りかかる重荷を担うため、謙虚に背を屈めて従順に黙々と歩む駱駝のようだった。父は終戦の後も、自ら重荷を課して、働き続け老いてしまった。人生の夕暮れ時を見詰めている父は、「戦前ははじまりている」という。それは私たちがこの国の状況に盲目であったり、無関心であったりすれば、知らず知らずのうち戦争に巻き込まれることを示唆した言葉なのだろうか?(石井)


追加版 渡辺松男の一首鑑賞  40

2015年04月24日 | 短歌一首鑑賞
 
渡辺松男研究2(13年5月)【橋として】『寒気氾濫』(1997年)20頁
      参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:鈴木 良明
      司会と記録:鹿取 未放

      ◆(後日意見)を追加しました。

40 秋の雲うっすらと浮き〈沈黙〉の縁(へり)に牡牛(おうし)は立ちつづけたり

     (レポート)
 秋の雲がうっすらと浮き、何と長閑な草原の風景か、と思って読むと、とんでもない。沈黙が生の力となって充満し、同じく生の力である牡牛をその縁に追いやり、立ちっぱなしにさせていたのである。たぶん、牛は時々啼くこともあり、草を食み反芻することもあり、その辺をうろつくこともあり、沈黙との関係でいえば、沈黙を出入りする存在であるから、当然、その「縁」に位置づけることになるだろう。(鈴木)


      (意見)
★これはニーチェですね。生あるものは自らの力を発揮しようとする、そういう世界観をニーチェ
 は持っている。月や太陽は引力とか遠心力によって均衡している。それに仏教的な考えを抱き合
 わせてイメージしていくと分かりやすい。(鈴木)
★すごく魅力的な歌なんだけど、私は解釈しづらかった。この強調された〈沈黙〉というのはどこ
 にあるんですか。(鹿取)
★作者が眼前の風景を目にしたときに何の音もしなかった。〈沈黙〉が支配している。そこにたま
 たま牛がいて作者が見たときにはたたずんでいるだけ。そういう場面に接したとき、風景の力と
 いうものを感じたのではないか。(鈴木)
★縁、っていうのは面白いですね。この間鑑賞したところではお父さんの背中が沈黙だったんだけ
 ど。ここでは風景そのものが沈黙していて、その縁に牛がいる。〈沈黙〉の縁というとらえ方が
 とても美しくて哲学的。私は秋の雲がうっすらと浮く風景の中で〈われ〉が沈黙していて、はる
 か向こうに立っている牡牛がずっと〈われ〉の視野に在り続けているって解釈していたんだけど、
 風景そのものが沈黙しているってとらえ方の方が大きくて魅力的ですね。(鹿取)
★沈黙に力があるっていうのがすごい解釈だなあ。沈黙の支配力というのは確かに感じることがあ
 る。(崎尾)
★耳の痛くなるような沈黙がありますね。それは空の思想に通じる。(鈴木)

         ◆(後日意見)(2015年4月)
 この歌を解釈するポイントは渡辺氏の作家態度です、自然物に対する親和感です。ここでは牡牛が主体なのです。人間の沈黙ではなく、牡牛の沈黙です。私たち人間が勝手に、牡牛の外界を、そこに草が生えている、鳥が飛んでいる、木がある、静かな風景だと、動物や草や木を分類したり区別したり、意味や価値を与えてしまって言葉化しますが、牡牛からみれば、のっぺらぼうの言葉以前の、沈黙した世界なのです。牡牛は、環境を変化させ移動して華々しく文明社会を築いたヒトと違って、生物存在の末端である縁(へり)でひっそりと変化なく、まるで太古の昔からじっと立ち続けたかのような存在である。牡牛を取り囲む外の世界は人間にとっては草原と名付けるべきものだが、与えられた生の営みを続ける牡牛にとっては関わりのない世界、言葉以前の世界、沈黙の世界である。同じく悠久の昔から変わりない秋の浮雲が、牡牛の存在を圧倒的なものとしている。(石井)
  

追加版 渡辺松男の一首鑑賞 210

2015年04月23日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究25(15年3月) 【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)86頁
              参加者:石井彩子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
               レポーター:渡部 慧子
              司会と記録:鹿取 未放

      ◆(後日意見)を追加しています。

210 仁王像秋のひかりをはじきたり骨格はもつ太き空間

     (レポート)
 仁王とは金剛力士の別名をもつ。ちなみに金剛とは、金属中最剛の物の意でありながら、この仁王は金剛の類の金属質ではなく、一木作りでもなく、おそらく内部は空間であるところの乾漆像なのだろう。仏法を守護するものとして、又悪を寄せないもの(強者)として置かれながら、内部は太き空間を抱き込んでいる。強さを願って作られながら、表面は秋の光をはじいてやさしく、内部はむなしいものだと作者はとらえる。(慧子)

      (意見)
★内部は空しいものだと捉えられていますが、それはどこから出てきたのですか?(石井)
★空しいというのは空間ということです。(慧子)
★そうすると骨格=太き空間なので、骨格が空しいということ?(石井)
★私達の体にはは肉や骨が詰まっていますけど、この仁王さんは空っぽ。それは人間から見れば空
 しさに通じませんか?(慧子)
★作者はそこまで言っていらっしゃるかなあ。(石井)
★「内部はむなしいものだと作者はとらえる」の箇所を疑問にすればよかったですか。(慧子)
★仁王像の全体から転換して骨格に焦点を当てている。それを太き空間と表現しているんだけど、
 それって空しいかなあ。ものを剥いだ時に見えるものを表現されたのかなあ。骨格に持って行く
 のが独特な作者の目ですね。(石井)
★仁王像は大きいから一度に作れなくていろんなものを寄せて作りますね。だから中に空間ができ
 る。(曽我)
★あんなものすごい形相をした仁王さんの内部が空しいところに作者の目は行っていると思う。太
 き骨格を持っているのに内部は空っぽ。(慧子)
★この仁王像が乾漆づくりだとは断定できないですね。内部まで土の詰まった塑像の仁王もありま
 すから。乾漆像だと確かに内部は空洞かもしれないけど、それだって骨格そのものは空洞ではな
 いでしょう。また。「骨格はもつ」って、内部の空間ではなくて、ダイナミックで逞しい骨格が
 占めている空間のことを言っているのではないでしょうか。「太き」というからには空虚とか空
 しいには繋がらない気がしますが。ここには肯定的な何かがあると思います。(鹿取)
★何もかも肯定的だったら歌の深みが出ない。「太き」を肯定でとったら当たり前でつまらない。
 ここは極端に言えば、存在というものは空しいということでしょうかね。(石井)

      ◆(後日意見)
 木を詠んだほかの歌もそうですが、作者には太い骨格、地面をしっかり踏みしめて自分で立っているものへの憧れがあるように感じます。夏の光は強烈だ。強烈な光であれば、物の陰影がくっきりはっきり色濃く浮かび上がってくる。秋の光は柔らかい。柔らかい光であれば、物の陰影はあいまいになり、輪郭もやわらかになる。穏やかで、優しい気持ちになる。仁王像は、そんな柔らかくやさしい光さえも弾き返し、筋骨をくっきりと浮かび上がらせ、がっしりと地をつかんで、体全体に力をみなぎらせて立っている。「太き空間」という表現に、柔らかな秋の光の中だからこそことさら際立つ、その圧倒的な存在感を感じました。(民子)

追加版 渡辺松男の一首鑑賞  206

2015年04月22日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究25(15年3月) 【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)86頁
              参加者:石井彩子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
               レポーター:渡部 慧子
              司会と記録:鹿取 未放

          ◆(後日意見)を追加しました。


206 暴風雨に錯乱をする竹の叢 一遍らかく踊りしならん

     (レポート)
 剛と柔を併せ持つ竹は、暴風雨にまさしく錯乱するかのごとくゆれているのだが、一遍らの踊り、つまり念仏踊りへと作者の思いは及ぶ。居住まい正しい座禅がある一方、一遍らの念仏踊りの衆生の手の振り、足腰の自由さなど風雨にゆらぎながら折れない竹の叢にかさねられたのだろう。念仏踊りの絵図を見た経験から、作歌上のこのような飛躍を楽しく思う。(慧子)

       (意見)
★作者はこの奥にあるものをみてらっしゃるのかなあ。この時代には元寇(げんこう)などの社会
 的背景があって、人々は不安にかられていた。(石井)
★何とか大衆が救われるように願った一遍は、一度念仏を唱えれば救われるんだよ、極楽浄土に行
 けるよと文字も読めない人々に説いた。その教えを受け信じた人々が狂乱して踊った、その求め
 の懸命さとか熱さいうものを「錯乱をする竹の叢」のイメージに重ねている。それは雲雀の羽た
 たきの一心とか、少し前に出てきたキェルケゴールの神に真向かう真摯さとも通じると思います。
     (鹿取)

            ◆(後日意見)
 食べることもままならず、正体もわからぬ外敵や病気にも襲われ、将来も見通せず、不安が蔓延する世の中、一遍上人と共に、仏の救いを求め、念仏を唱えながら踊り狂った人々。その姿を、荒れ狂う嵐にしだかれ揺さぶられる竹林に重ねる作者。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏…「錯乱する」竹叢から、来世の幸せを願う多くの人々の念仏の声が湧き上がってくるようです。飛躍しすぎかもしれませんが、追い詰められデモ行進する人々、武器を持って侵攻するIS軍までが「錯乱する」竹叢のイメージに重なってきてしまいました。(民子)

追加版 渡辺松男の一首鑑賞 205

2015年04月21日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究25(15年3月) 【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)86頁
                   参加者:石井彩子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
                    レポーター:渡部 慧子
                   司会と記録:鹿取 未放

      ◆(後日意見)を追加しました。

205 万緑に抜きいでてたつ岩に立ち狗鷲(いぬわし)か風に晒されて濃し    

     (レポート)
 中村草田男の〈万緑の中や吾子(あこ)の歯生え初むる〉によって、生命力の旺盛をいうとき、この万緑が圧倒的な存在感をもつ語となった。その万緑を抜けでるさまの岩に狗鷲がいて激しく風が吹く状態。晒すとは、日・光・風雨にあてるの意があり、布・こうぞなどを水・雪に晒して白くすることはよく知られる。狗鷲の本質的要素の強さや存在感を濃くする作用として「晒」すが意表をつく。私達が従来抱いていたものと逆の意味に用いて、言葉遣いが新鮮である。(慧子)   

        (意見)
★「晒す」は、この歌では内面を晒すとかいうときの晒すの意味ではないですか。万緑の中の岩の
 上に一羽でしょうね、狗鷲が風に向かって立っている、その存在感の濃さでしょうか。(鹿取)
★ 濃いというのは密度が高いというように受け取ったのですが。(曽我)
★そうですね、鷲って強くて紋章になるような、王者の風格を備えた鳥だから、圧倒的な存在感が
 あるのでしょうね。(鹿取)
★孤高って感じですね。こういう風景、墨絵かなんかで見たことがあるような気がします。晒され
 ては何かちょっと屈折した感じですね。(石井)

      ◆(後日意見)(鹿取)
 鹿取の当日意見で「鷲って強くて紋章になるような、王者の風格を備えた鳥だから」と言っているが、ツァラツストラが常に伴っている〈誇り〉の象徴としての鷲を思った方がよいようだ。
 鷲は『ツァラツストラ』の序言からずっと登場するが、例えば「より高い人間について」4では、ツァラツストラが「より高い人間」に「わが兄弟たちよ」と呼びかけ次のように言っている。
   神さえももはや見ていない隠者の勇気、ワシの勇気をきみたちは持っているか?
      ――中略――
   深淵を見る者、しかしワシの目をもって見る者――ワシの爪をもって深淵をつかむ者、そう
   いう者が勇気をもっているのだ。――


追加版 渡辺松男の一首鑑賞 46

2015年04月20日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究2(13年5月)【橋として】『寒気氾濫』(1997年)22頁
      参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:鈴木 良明
      司会と記録:鹿取 未放

      ◆(後日意見)二つを追加しました。

46 影として霞ヶ関の上空を月のねずみは過ぎてゆきたり

     (レポート)
 霞ヶ関といえば東京千代田区の桜田門から虎ノ門にかけての官庁街。国の行政枢要機関が並ぶ。本歌は、この上空を影として月のねずみが過ぎていった、と詠む。何のことだろう。月は前首を受けてぶよぶよの月だが、そこのねずみとは、作者自身ではないだろうか。作者は、地方自治体の職員として、霞ヶ関の所管官庁を訪れ、担当の仕事について意見交換をしたのではないか。大きな実りがあれば実在としてのねずみを実感できるが、そうでないと影のような存在としてゆき過ぎたことになる。(鈴木)
 

    (意見)
★月のねずみって、このレポートのようなことでいいのかなあ。(鈴木)
★月に兎がいるっていいますけど、ここでは月にねずみが住んでいて、そのねずみを乗っけた月が 鬼や蛇や暗黒のもろもろが蠢いている霞ヶ関の上空を過ぎていった、という意味だと思っていま した。もちろん含みはいっぱいあるんだけど、ここはただ通り過ぎていったよと。あんまり言い 過ぎるとつまらない。霞ヶ関に叱られにゆくという歌もあるので、月のねずみは〈われ〉だとい えばいえなくはない。(鹿取)


      ◆(後日意見)(15年4月)
 上記、鹿取発言の「霞ヶ関に叱られにゆく」歌とは次のもの。
   はるばると書類は軽く身は重く霞ヶ関へ叱られに行く『寒気氾濫』

 影については、『ツァラツストラ』で最後まで主人公のお供をする「不毛性」の象徴としての影を思い描いてもいいのかもしれないが、この歌ではもっと単純に実態のないものとしての「影」でよいような気がする。月に棲むねずみが霞ヶ関のビル群に影を落として過ぎた、あるいはただ横切って行った。いずれにしろ、霞ヶ関を揶揄しているように思われる。(鹿取)

     ◆(後日意見)(15年4月)
 霞ヶ関は日本の中央官庁街であり、そこに勤務するものは、国家の政策決定に大きな影響力を及ぼす官僚と呼ばれる。最も高い偏差値の大学を出たエリート集団でもある。日本は官僚国家ともいわれ、確かに、戦後の高度経済成長を成し遂げたのは、優秀な官僚に起因するものだった。だがその後、官僚は薬害や年金問題では不祥事を起こしたり、地方行政の自立を認めない権威主義的な傾向が特徴的でありその形式的で柔軟性にとぼしいことを「官僚的」と、世間では言われるまでになった。作者は権威だけを振り回して融通のきかない官僚と交渉する立場にあり、前例や規則に従うことが絶対で、現場の立場を柔軟に取り入れることのない彼らに違和感を覚えたのかもしれない。現在の官僚の影は薄く、規制や規則の権限だけで息を保っているともいわれている、官僚たちが没個性的で、みなダークスーツに身を包んで働いているさまは、まるでこまねずみのようである。そのような実のない集団に相応しく、兎ならぬ月のねずみが影となって通りすぎてゆく。現代官僚の姿を憐れみ、また揶揄した歌ではないだろうか。(石井)

追加版 渡辺松男の一首鑑賞 45

2015年04月19日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究2(13年5月)【橋として】『寒気氾濫』(1997年)22頁
      参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:鈴木 良明
      司会と記録:鹿取 未放

      ◆印の(後日意見)を追加しました。

45 神でさえ弛んでおればぶよぶよのつぶしてみたき満月のぼる

     (レポート)
 バブル経済崩壊後の日本は、依然としてバブルの余韻から立ち直れない時期がしばし続いた。この時期の、いわば爛熟してただれたような日本の社会やその精神状態をぶよぶよの満月に見立てているように思う。すべてを統べることのできる神でさえ気を弛めておればこのありさまであると仮構しているが、神の居ない人間界ならなおさらであるとの思いだろう。その鬼灯のようなぶよぶよの満月をつぶしてみたい、との思いはリアルであり、現状に対する作者の率直な気持ちが顕われている。(鈴木)


    (意見)
★ニーチェは「神は死んだ」って言ったそうですが、そうは言えないので「弛んで」と言ったので
 はないか。(慧子)
★私は「神でさえ」は「つぶしてみたき」に掛かると思っていた。だから「弛んで」いるのは満月
 の方。(鹿取)
★えっ、つぶしてみたいの主語は私ですよね?(慧子)
★神でさえ弛んでいるのだから、満月もぶよぶよになって昇ってきたということ?そんな満月を〈わ
 れ〉がつぶしてみたいと思っている?「神でさえ」というところが分からない。「神は死んだ」
 は、ニーチェは人間がいろいろ介入して神を殺したんだ、と言っているのよね。だからまだ神が
 死んだことを知らない人間どもがどうのこうのとニーチェは批判している。(鹿取)
★余談だけど、月のおかげで地球の海は蒸発しないですんで、海のおかげで地球の生命は芽生えて
 進化して来たわけだから、われわれは月にはものすごく恩恵を被っているんだけどね。(鹿取)
★バブルとか念頭におくと次の歌にも繋がっていって分かりやすいんじゃないか。(鈴木)


     (後日意見)(2015年4月)
 鈴木、慧子両氏の考えは「神でさえも弛んでいる」だから「ぶよぶよの満月」がのぼり、〈われ〉はそれをつぶしてみたくなる、という解釈のようだ。鈴木氏は更に「ぶよぶよの満月」をバブル経済崩壊後の日本の精神状態に見たてているという。『寒気氾濫』は1997年刊なので時期的にはバブル崩壊後ととれなくもないが、後から考えるとこの結びつけはやや強引ではないか。
 私は弛んでぶよぶよしている満月がのぼった、そんな満月を見ると神でさえもつぶしてみたくなるのではないかと解釈したが、あまり自信はない。そこで歌の前後を見れば少しヒントが得られるのではないかと「かりん」掲載の90年から97年の号を遡って探してみたが掲載歌は見つけられなかった。〈ポケットベルに拘束されるわれの目に鬱々として巨大春月〉(「かりん」91年7月号)があったが、掲載歌とはかなり感覚が違う。この巨大春月の歌は『寒気氾濫』には掲載されていない。
 『ツァラツストラ』でいえば神が死んだというあたりよりも「けがされない認識について」辺りが関連がありそうだ。この章では膨れて身籠もっているかのような月が昇ってくる。この月は何ものも産み出さない「偽善者」の例えとして使われている。(鹿取)
 

     ◆(後日意見)(2015年4月)
 後日意見で鹿取氏が述べておられる通り、月は「偽善者」の例えとして使われています。以下、その内容を発展させた意見です。
 人々によって権威をはく奪されてしまった神、そんな神ですら、情熱や創造性の象徴である太陽になろうと、懐妊したように振る舞い、大きく登る月は偽善的で潰したいものだろう。神はそれまで支配していたキリスト教的道徳観とともに、ニーチェによって否定された。「月」は『ツァラトゥストラ』によれば、「無垢な認識」「観照」ということばで規定されているもので、ひたすら客観性や公正を狙う近代の認識方法の寓意である、そしてその精神的態度を、ただ臆病な目で、大地を撫でまわす淫欲家と呼んでいる。権威のない神と、「無垢な認識」であり、客観性を信奉する月と比べて、まだ精神的なよりどころとして残っている神の方が、月をつぶせるぐらいの存在感があるのである。(石井)

追加版 渡辺松男の一首鑑賞 18

2015年04月18日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究2(13年2月)【地下に還せり】『寒気氾濫』(1997年)12頁
      参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:鈴木 良明
       司会と記録:鹿取 未放

      ◆(後日意見)を追加しました。


18 重力をあざ笑いつつ大股でツァラトゥストラは深山に消えた

     (レポート)
 ツァラトゥストラ(ニーチェのこと)は「重力」に逆らって山頂をめざす。そして最高の山頂に立つ者は、すべての悲劇と悲劇的厳粛を嘲笑するのである。ツァラトゥストラは、山で孤独な生活を送りつつ悟ったことを、山を降りて民衆に説く。4部構成の『ツァラトゥストラ』は、このようにして、山と里とを往復しつつ思想を深めて民衆に説く構成になっている。作者は、子供の頃から山に入り、長じてからも山歩きをしている。ツァラトゥストラに自らの姿を重ね合わせて詠んでいるのだろう。(鈴木)

   
     (意見)
★「ツァラツストラ」の最後の第四部は八十八部だかしか印刷せず、ほんとうに身内だけにしか配 
 布していない。評判はよくなかったらしい。(鈴木)
★一部の終わりにも二部の終わりにも深山に消える場面があるが、たとえばこんな部分。(鹿取)

   今やわたしはひとりで行く、弟子たちよ!きみたちも去って、ひとり行け!わたしはそれ
   を欲する。/まことに、わたしはきみたちにすすめる。わたしから去って、ツァラツストラ
   にさからえ!さらによりよくは、ツァラツストラを恥じよ!かれはきみたちをあざむいたか
   もしれぬ。『ツァラツストラ』 第一部「与える徳について」

★深山に消えたのは具体でないので、どの部分かはっきりしない。(鈴木)
★空海も最澄も山に入ったが、ニーチェも山に入ったのですね。机上の空論ではなく、身体を使っ
 て山に行ったところに身体性を感じますね。(慧子)
★思索を深めるためには独りにならないといけないから、みんな山に入っていますよね。お釈迦様
 だってそうだし、イエスはまあ荒野だけど独りになっているし。(鹿取)
★夜とかに呑み込まれそうになった時に何かひらめくのかしらねえ。おへやの中だとそういうこと
 は起こらないからね。(慧子)
★でも、山と里を行ったり来たりして分かるんじゃないか。里に出てきて世間とのギャップからま
 た何か考える。(鈴木)
★ギリシャ哲学もそうですけど、ツァラツストラも対話していますよね、山から下りてきてはいろ
 んな人と。そこで考えを修正し、また山に入って思索を深める。(鹿取)
★達磨の面壁とは違うんですね。(慧子)


     ◆(後日意見)(15年4月)
 自己回帰を果たし、思想の頂上を極めようとしているツァラトゥストラに立ちはだかるのが「重力の霊」であり、これはツァラトゥストラの分身である、物理的には重力であるが、精神的には自己の同一性を脅かすものだ。歌は、深淵へ、奈落へと誘う重力に逆らって、ツァラトゥストラは精神の高みへと山道をよじ登り、深山へ消えた。(石井)

追加版 渡辺松男の一首鑑賞 16

2015年04月17日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究2(13年2月)【地下に還せり】『寒気氾濫』(1997年)11頁
      参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:鈴木 良明
       司会と記録:鹿取 未放

     ◆(後日意見)を追加しました。


16 そうだそのように怒りて上げてみよ見てみたかった象の足裏

     (レポート)
 象の大きな体を見ていると、その過剰な重力の重さに日々耐えながら一生を終えるように思えてくる。飛ぶことのできない人間も同じように重力に拘束されており、人間に対するメッセージでもある。重力に耐えているのではなく、内からの生の力にしたがい、あらがって足を上げてみよ、というのである。ニーチェは「高等な人間について」のなかで、「そなたたちの心を高めよ、わたしの兄弟たちよ、高く!もっと高く! そして願わくは足のことも忘れるな! そなたたちの足をも上げよ、そなたら良い舞踏者たちよ」と呼びかけている。しかし、象に対しては「幸福のなかにあっても鈍重な動物たちがいるものだ、生まれながらにして足の不格好な動物たちがいるものだ、逆立ちしようと骨折するゾウのように」とにべもない。これに対して、作者は、「見てみたかった象の足裏」と、象に対してもエールをおくる。ニーチェを肯いながらも、決してニーチェのように上から目線にならないところが、作者らしいのである。(鈴木)

     (意見)
★『ツァラツストラ』に鈴木さんのいうような骨折するゾウって箇所があるって気がつかなかった。
 (鹿取)
★ニーチェにはこういう視点がある。(鈴木)
★渡辺さんの歌には一首一首にいい意味での驚きがある。(崎尾)
★伊藤一彦さんにこんな歌があります。(鹿取)
    動物園に行くたび思い深まれる鶴は怒りているにあらずや『月語抄』(一九七七年)


        ◆(後日意見)(15年4月)
 この歌は無理にニーチェを出さなくてもいいと思うが、「高等な人間について」はツァラツストラが自らが産み出した大いなる思想を自ら受け入れる直前の章で、「自分の目的に近づいた人は踊るものなのだ。」と言う。そしてレポーターの引用している『ツァラツストラ』の象の骨折の部分(翻訳者が違うので私のは骨折るとなっている)にはもう少し続きがある。「……逆立ちしようと骨折る象さながらに、かれらは奇妙に大骨を折る。」この文脈からすると当然、象は比喩である。かれらとは「崇高な人間」ではあるが重力の霊に支配されて未だ鈍重な人間を指しているようだ。しかし『ツァラツストラ』の最終章では「崇高な人間」は言うまでもないが、友と呼びかけていた「高等な人間」たちさえも真の道連れではないことが判明し、ツァラツストラは独り行くことになるのである。(鹿取)
 

渡辺松男の一首鑑賞 48

2015年04月16日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究2(13年5月)【橋として】『寒気氾濫』(1997年)22頁
      参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:鈴木 良明
       司会と記録:鹿取 未放


48 表層を皮剥けばまた表層の表層だけのキャベツが重い

     (レポート)
 キャベツも葱とおなじように、芯がない。表層を剥けば表層があらわれて、剥けども剥けども表層がでてくる。結局、たどり着いたところには何もない。しかし、何もない、表層だけのキャベツががずしりと重いのである。不思議であるが、実感である。(鈴木)
 

    (意見)
★キャベツの歌は前にも作っていた。この歌は単に事実を言っている。(鈴木)
★前の歌から読むと、組織べったりになった人間の、どこまで剥いても中身がない、誰とでも取り
 替えがきく気味悪さを言っていて、だからこそ組織全体としては重い。人間性を失った組織体に
 対して違和感とか嫌な感じを歌っている。前の霞ヶ関の政治家も同じかも。ただキャベツを人間
 に例えているとかいうと歌の幅が狭くなって全くつまらない。あくまでキャベツの歌なんだけど、
 こんなふうな揶揄としても読める。(鹿取)