かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男の一首鑑賞 200 

2015年02月28日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究 24(2015年2月)【単独者】『寒気氾濫』(1997年)84頁
            参加者:かまくらうてな、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
             レポーター:崎尾 廣子
            司会と記録:鹿取 未放


200 木の幹と幹とが軋みあう音の好きとか嫌いとかではないぞ

     (レポート)
 下の句の言葉が一首の中でこのように生かされているのにまず驚く。更に想像を絶する音が聞こえてくるようだ。強い風が吹いているのであろう。静謐とも思える木の「幹と幹とが軋みあう」ような時木は内に秘める力を見せるのであろう。結句の「ぞ」から音を聞いた時の驚きが伝わってくる。(崎尾)


     (意見)
★これも人間界のことを言っている。人と人がぶつかり合うのは避けられない必然的な姿だなと。
 199番歌に繋がっている。(うてな)
★人間関係の仕方なく起こる摩擦を言っている。しかし、この歌の主語は何でしょう?(慧子)
★私は木に即して考えました。木は人間のように動けないから偶然隣り合ってしまって軋み合う時
 というのは、好き嫌いではなく避けられないですね。歌の主語は木で、この時作者は木になって
 いるのでしょう。ぶつかりあう烈しさを好き嫌いじゃないぞって木自身が思っている。(鹿取)
★私も単独者の呟きのように感じました。相対的な好き嫌いからは離れた所にこの単独者はいるの
 だから。(鈴木)
★人間に例えているのか、木そのものなのか、境が難しいですね。全部が人間に例えているなら分
 かりやすいんだけど。(うてな)
★限定できないから単独者のイメージもいろいろ出てくるので。単独者って在り方を言っているわ
 けだから木であってもかまわない。それが松男さんの魅力です。(鈴木)
★だから、絶対人間に置き換えちゃいけないとかではなくて。また、いつでも木になっているわけ
 でもなくて。少し後の方に出てくる歌で「動いたら負けだ」というのがありますが、動かない木
 という存在の強さをここでは歌っていると思います。(鹿取)


   (まとめ)
 鹿取の発言中の「動いたら負けだ」の歌は、この「単独者」の次の一連「光る骨格」中にある。
    切株は面(つら)さむざむと冬の日に晒しているよ 動いたら負けだ
レポーターの書いている結句の「ぞ」は、文法的には「係助詞の文末用法」といわれるもので、文法上の意味は「強意」。この歌では「好きとか嫌いとかではない」を強めている。(鹿取)


◆(まとめ後の意見)
 単独者としてのキルケゴールは個として天上の神と向かいあい、実存的苦悩を問いかけ、救済を求める、がその苦悩は、人間関係がもたらしたものであった。常態としてあった死への恐怖、生前への原罪意識、父との確執、レギーネ・オルセンとの婚約破棄、思慕。このような懊悩からのがれるため一時期放蕩生活を送ったともいわれているが、信仰、好悪を超えて、人として生存を得た以上、関わらざるをえない苦悩であった。木に置き換えれば、根を張り、成長してゆくのだが、隣り合わせとなった木とは窮屈になって、軋みあう音を立てる、木は人間のように、隣木から逃れ、広々とした大地に引っ越したいとは思わない、「好きとか嫌いとかではないぞ」とあるがままの生存を受け入れているのである。渡辺氏はキルケゴール、あるいは人間の苦悩と対比して、このような木の自然体に思いを馳せたのであろうか。(石井) 

渡辺松男の一首鑑賞 199

2015年02月27日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究 24(2015年2月)【単独者】『寒気氾濫』(1997年)84頁
            参加者:かまくらうてな、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
             レポーター:崎尾 廣子
            司会と記録:鹿取 未放


199 俺はいわゆる木ではないぞと言い張れる一本があり森がざわめく
    
     (レポート)
 森には個性豊かな木々が立っており森閑としている。しかし一本の木が森に波風を立てている。「俺」は目(もく)ではあるが連(れん)ではないと言っているようだ。ユーモラスな木であると思う。しかし余り意味のない意見を述べその場にいる人々を苛立たせる一人の人を浮き彫りにしているようだ。結句に妙味を感じる。(崎尾)


    (意見)
★この辺りからこの一連の解釈には単独者を意識しないといけないと気がついた。この一本は単独
 者なんですね。(崎尾)
★「目(もく)ではあるが連(れん)ではない」ってどういうことですか?(鈴木)
★これは家族の族と属する属が似ているということで、属を連と読む読み方が辞書にあったので。
 何々属……とかありますが何々連というのは下の方なんですね。目の方が大きい。(崎尾)
★心を持った人間のような木だと思っているんじゃない。「森がざわめく」は、俺たちだって同じ
 だよと他の木たちが思っているんじゃない。(曽我)
★要するにこの木は突っ張っているんですね。突っ張ることで注目されたいみたいな。(うてな)
★単独者の自負ですね。全体として見え方が違っているのかなと。普通の見え方だと森がざわめい
 ている中に一本の木が立っていると。ところがここは一本の木が立っていて森がざわめいている。
 単独者から見た見方なわけで、それが面白いなと。(鈴木)


      ◆(後日意見)
 『キリスト教の修練』でキリスト教界の虚偽と欺瞞を暴露したキルケゴールは、デンマーク国教会を敵にまわしてしまった。「俺はいわゆる木ではないぞ」はこの孤高なる言説のことで、単独者たるキルケゴールの矜持を表現している。国教会批判の彼の新しい言説は、それまで集団の中で安寧を得ていた教会の群衆=森の不安な声となって「ざわめき」を起こさせたのである。(石井)

渡辺松男の一首鑑賞 198

2015年02月26日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究 24(2015年2月) 【単独者】『寒気氾濫』(1997年)84頁
            参加者:かまくらうてな、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
             レポーター:崎尾 廣子
            司会と記録:鹿取 未放


198 深帽のキェルケゴールのまなうらに樹は枯れしまま空恋いつづく

     (レポート)
 〈死〉によってもたらされる絶望を回避できないと考え神による救済の可能性のみが信じられるとした(Wikipediaより)キェルケゴールの神への信仰の厚さを表していると思う。西洋の人々の暮らしに深く根づいていたキリスト教という宗教の不思議さも伝わってくる。(崎尾)

 セーレン・オービエ・キェルケゴール(1813年5月5日 - 1855年11月11日)は、デンマークの哲学者、思想家。今日では一般に実存主義の創始者、またはその先駆けと評価されている。キェルケゴールは当時とても影響力が強かったゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル及びヘーゲル学派の哲学あるいは青年ヘーゲル派、また(彼から見て)内容を伴わず形式ばかりにこだわる当時のデンマーク教会に対する痛烈な批判者であった。
 キェルケゴールの哲学がそれまでの哲学者が求めてきたものと違い、また彼が実存主義の先駆けないし創始者と一般的に評価されているのも、彼が一般・抽象的な概念としての人間ではなく、彼自身をはじめとする個別・具体的な事実存在としての人間を哲学の対象としていることが根底にある。「死に至る病とは絶望のことである」といい、現実世界でどのような可能性や理想を追求しようと<死>によってもたらされる絶望を回避できないと考え、そして神による救済の可能性のみが信じられるとした。(Wikipedia)
    

      (意見)
★レポートにWikipediaからの引用を載せたので興味のある方は読んでください。レポートを書き
 終わって思ったのですけど、この「枯れしまま」とうのは絶望の深さを詠っているのかなあと。
 それから「恋いつづく」は絶望を回避したいと思っている心の表現。(崎尾)
★キェルケゴールは実存主義者ですよね、でも実存というのは神の存在を否定するんですよね。で
 すので、キェルケゴールが神を信仰しているというのがわからない。(うてな)
★キェルケゴールは人間の存在から考えていくわけで、神から出発しているんじゃないんです。だ
 から視点の違いなんじゃないかな。神から始まって人間の本質を神に持ってくるやり方ではなく
 て、今現在存在しているところから出発するんですよ。神を否定するとかじゃなくて存在してい
 ることからものごとを考えていくんです。この神はキリスト教的な神ではなくて存在の根拠のよ
 うなものです。(鈴木)
★そうすると私のレポートの一般的なキリスト教について書いた部分は間違いですね。(崎尾)
★では、この神はキリスト以前の綜合神的なものですか?(うてな)
★この神はむしろ今に近い感じ方では。われわれには何かによって生かされているという思いがあ
 るじゃないですか。存在の根拠を神と言っている。一神教の神ではないです。(鈴木)
★レポーターは「キェルケゴールの神への信仰の厚さを表している」と書かれていますが、そうで
 はなくて、自分のかたくなな何かを信じているという、この空は自分のことでしょうかね、単独
 者のそういう在り方を詠われたのじゃないかと。(慧子)
★「深帽のキェルケゴール」と言っているので単独者がキェルケゴールに繋がりますね。キェルケ
 ゴールが存在の根拠として神の恩恵のようなものを感じる訳ですよ。自分自身は虚無だけどそう
 いうものによって支えられている。ということで枯れしまま移ろうものとしての自分を自覚しな
 がら空の神の恩恵を追い続けていますよということじゃないかと。(鈴木)
★私単純だからどうして短歌でこんな難しいことを詠うのかと。そういう思想があるなら文章で表
 せばいいのに。短歌には限界があるので、特殊なことを短歌にするのは無理というのがあって。
 本邦雄はすごく理屈っぽいけど分かるんですね。だけどこの人は分からないです。(うてな)
★いや、私は違う考えです。むしろ短歌の限界を超えて詠っているところが松男さんの力だし魅力
 だと思います。散文ではなく短歌を松男さんは選んだんです。正直私にはこの歌の下の句よく分
 からないですし、松男さんの歌理解できないものもたくさんあります。でも、短歌にできる内容
 には限界があるとか、哲学を詠み込むのは無理とかは思いません。伝統を破ることが伝統を継続
 する力になるんじゃないですか?別に短歌だけじゃなくて、これが絵か!と言われたピカソが絵
 画の世界を広げ、これが音楽か!っていわれて音楽の世界は広がったんです。定家だって本だ
 ってこれが歌かと言われて歌の世界を広げてきたわけですから。松男さんもそういう歌を広げて
 ゆく一人だと思います。(鹿取)
★本邦雄の時からそういう議論はありましたね。(鈴木)


     (まとめ)(2015年1月)
 レポーターがWikipediaから引用されているが、最後の「そして神による救済の可能性のみが信じられるとした。」の続きが大切だし分かりやすい部分だと思うので(あまりWikipediaに頼りすぎるのはよくないが)下記に引用させていただく。

  これは従来のキリスト教の、信じることによって救われるという信仰とは異質であり、ま
  た世界や歴史全体を記述しようとしたヘーゲル哲学に対し、人間の生にはそれぞれ世界や
  歴史には還元できない固有の本質があるという見方を示したことが画期的であった。
         (Wikipedia )
 この歌の鑑賞の場で、「神」についていろいろ意見が出たが、キェルケゴールは「デンマーク教会に対する痛烈な批判者であった」だけで、救済を求めた対象は従来の一神教の神であった。ただ、教会や牧師を媒介としない、神と〈われ〉が直で繋がることを希求したのだ。うてなさんの「実存というのは神の存在を否定する」というのは、直接にはレポートの「神への信仰の厚さを表している」の部分に対する疑義だと思うが、そこだけ取り出すと誤解を招きそうだ。無神論的実存主義と言われたサルトルや、「神は死んだ」(もちろん文字通りではないが)と言ったニーチェには当てはまるかもしれないが、この歌のキェルケゴールには当てはまらないからだ。確かにキェルケゴールは「実存主義の創始者、またはその先駆けと評価されている」が、膨大な書物を書いて彼はずっと神を希求しつづけた人だ。
 歌に戻ると「樹は枯れしまま空恋いつづく」は、直前の「樹冠に空が張りついている」の続きとして読むべきだろう。(鹿取)

         ◆(後日の意見)
 197で憂鬱という絶望状態の楡は時間が経過し、枯れてしまったのである。『死に至る病』では、神を離れ、見失っている人間の状態を「絶望」ということばで表現している。「絶望」して、枯れてしまった人間。キルケゴールは絶望しつつ、常に真のキリスト教者になろうと苦悶している。
そんな彼の神への救済を求める心が「空恋いつづく」ではないだろうか。
 当日意見の中の「キリスト教的な神ではなくて存在の根拠のようなものです」はキルケゴールの書物のどこからも出てきません。このような根本的理解を誤ると「単独者」が理解できなくなります。(石井)

渡辺松男の一首鑑賞 197

2015年02月25日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究 24 (2015年2月) 【単独者】『寒気氾濫』(1997年)83頁
          参加者:かまくらうてな、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
           レポーター:崎尾 廣子
          司会と記録:鹿取 未放


197 油絵のじっと動かぬ大楡は樹冠に空が張りついている
    
     (レポート)
 油絵に描かれている空はおおむね絵に奥行きを与えている。しかしこの油絵の空は「樹冠に空が張りついている」である。絵の遠近感をそこなう空であるようだ。しかし「大楡」の「樹冠」の存在を際だたせていると思う。「張りついている」と独特な言葉で捉えているこの油絵に吸い込まれるようだ。(崎尾)


     (意見)
★松男さんは現実の樹を信奉している人だから、この油絵は生きるということを象徴できていない
 と思っている。樹冠は光合成をしている所でしょう。そこへ空が張り付いてしまったら元気がな
 くなってしまう訳よ。絵は実物に劣っていると考えている。(曽我)
★水彩画なんかだと全てのものが動きそうな感じがする。ところが、油絵は存在を強く出し過ぎる
 ために固まってしまう。東洋の絵の緩い感じが心にあってこの油絵は駄目と。(慧子)
★大楡は自分のことで、周囲に対する違和感を表現したのだと思う。(うてな)
★上の句と下の句の関係が、不思議な技法の歌ですけど、大楡はうっとうしくて窒息しそうな感じ
 なんでしょうかね。(鹿取)
★「油絵のじっと動かぬ大楡」というのは単独者だと思う。崎尾さんのいう奥行きがあるというの
 は関係を持つことだと思う。(鈴木)

渡辺松男の一首鑑賞 196

2015年02月24日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究 24(2015年2月) 【単独者】『寒気氾濫』(1997年)83頁
            参加者:かまくらうてな、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
             レポーター:崎尾 廣子
            司会と記録:鹿取 未放

    
196 単独者とはいかなる毒か帽深く被れる者はふりむかぬなり

     (レポート)
 ただ一人だけであることを実践する人。そのような人は「いかなる毒か」と問いかけている。その場の状況に応じて自然と物事を決めてゆく状況依存を良しとしてきた日本社会ではこのような人は「毒」ではなくむしろ薬だと言っているように思う。下の句から「単独者」の意志の堅固さが感じ取れる。(崎尾)


    (意見)
★一つ置いた歌に「深帽のキェルケゴール」があるし、一般にはキェルケゴールを〈単独者〉と呼
 んだりしていますから、この歌はキェルケゴールを念頭において詠んでいるのだと思います。
    (鹿取)
★キェルケゴールということではなく単独者の在り方をイメージして一連は詠んでいる。単独者は
 相対的でなく絶対的な存在。だから他から制約を受けたりする存在ではない。確かに日本の社会
 はレポーターのいうように動いてきた訳で、その中で単独者とはどういう毒なのかなあと思いめ
 ぐらせ、読者に問いかけている。その答えを崎尾さんが出してきた訳でそういう場面もありかな
 あと。(鈴木)
★いや、この単独者はキェルケゴールのことを言っているので、一般の独りでいる人をイメージし
 ているのではない。(曽我)
★「独・毒」と韻を踏んでいるのですが、その韻があまり気持ちよくないですね。作者はわざとそ
 うしているのでしょう。独りであることは集団にとっては毒なんですね。だから往々にして煙た
 がられ排除されてきた。そんな単独者が帽子を深く被って振り向かずに集団から去っていく。で
 もそういう人が全く新しい創造行為をするとかしてきた訳で、毒ってそういうふうに集団に一石
 を投じる存在ですね。だから結果的には崎尾さんのいうような「薬」でもあるのでしょう。単独
 者に作者はシンパシィを持っているのですね。(鹿取)
★帽子を深く被るというのは関わりを持たないことの象徴ですね。それが関わり合いで成り立って
 いる社会の中では毒になるんじゃないかと言われているわけですよ。(鈴木)


(まとめ)
 改めて「単独者」を調べてみると、キェルケゴールの用語で「自由な実存として生きる本来的な人間のあり方、真のキリスト者のあり方を意味する。」(広辞苑)とある。「単独者」とは神の前にただ一人向き合う者だとすると、他者との人間関係よりも、神との関係に重点を置いている概念のようだ。他者に背を向けてたった独り神と真向かうべく去ってゆく単独者の厳しい精神のありようを描いている歌なのだろう。(鹿取)

馬場あき子の外国詠320(トルコ)

2015年02月23日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子旅の歌43(11年9月)【コンヤにて】『飛種』(1996年刊)P145
           参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
           レポーター:曽我 亮子
           司会とまとめ:鹿取 未放


320 インジェ・ミナーレ神学校といふはいづく冬寒くそこに斃れしいもうと

     (まとめ)(2011年9月)
 結句を体言止めにして、痛切な妹への思いを表現している。3句の終わりを「いづく」と疑問形にしているのは、妹の亡くなった「インジェ・ミナーレ神学校」というのがそのままには残っていないせいだろう。後の歌を読むと妹さんが斃れられた現場へは行かれたようだが、この神学校は現在、彫刻博物館になっている。インジュ・ミナーレは「細いミナレット」の意味だが、落雷で上部が失われ今は太くずんぐりしたミナレットが残っているという。写真で見ると博物館になっている建物は外壁がみごとな浮き彫りになっている。(鹿取) 


     (レポート)(2011年9月)
 インジェ・ミナーレ神学校というのはどこにあるのだろう。寒い冬にそこに亡くなった妹よ。ひとりでどんなにか心細く寒かったことであろう。「もうすぐ行きますよ。待っていてね……」
 亡くなった妹君に寄せる作者の限りない愛と哀しみが読者の心に迫ります……
 モスクの反対側に1258年建てられたインジェ・ミナーレは「塔」であり、神学校ではないようだ。近くにあるスルチャル神学校のことではないかと考える。又は有名な現在、セルジューク陶器の博物館となっているカラタイ神学校なのかもしれない。(曽我)

馬場あき子の外国詠319(トルコ)

2015年02月22日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子旅の歌43(11年9月)【コンヤにて】『飛種』(1996年刊)P145
            参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
            レポーター:曽我 亮子
            司会とまとめ:鹿取 未放


319 トルコに死にしいもうとありき夕ぐれの空憂はしきコンヤに着きぬ

     (レポート)(2011年9月)
 私にはトルコに亡くなった妹がある。その最期の地コンヤの今にも泣き出しそうな空模様の暮れ方、やっと到着した。
 作者は亡くなられた妹君を偲び、その悲しみと寂しさを、やっと来ることができた安堵と共に詠われているのだ…。
 コンヤは首都アンカラの南に位置し、紀元前より現在まで人々がずっと住み続けるトルコの最古の都市であり、セルジュークトルコの首都でもあった。文化的・政治的・宗教的に発展した13世紀、神学者メヴラーナ・ジェラルディン・ルミによって旋舞祈祷として知られる「スーフィ教団」が作られた。緑のタイル鮮やかなメヴラーナの霊廟は現在博物館となり、宗教活動はトルコの共和制と共に停止されてはいるが、ぐるぐる旋回して踊ることによって神と一体になれるという教義をもつ。コンヤ城の敷地内に1220年アラアッディン・モスクが建てられ、モスクの反対側に1258年インジェ・ミナールが建立された。その他スルチャル神学校と考古学博物館がある。また現在博物館となっているカラタイ神学校はセルジューク期の陶器が多く展示されている。(曽我)


     (意見)(2011年9月)
★ここで詠まれている「いもうと」は義理の妹さんです。「憂はしき」は「うるわしき」と読むの
 でしょうか。今にも降り出しそうな曇り空だったということと、亡き妹を悼む気持ちを掛けてい
 るのでしょうね。(鹿取)

馬場あき子の外国詠318(トルコ)

2015年02月21日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子旅の歌43(11年9月)【コンヤにて】『飛種』(1996年刊)P144
            参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
            レポーター:曽我 亮子
            司会とまとめ:鹿取 未放

318 こころ吸はれてここに佇むひとときのエイユルデル湖の沈思の碧さ

     (レポート)(2011年9月)
 きらめく湖水のあまりの美しさに心を奪われ去りがたく、湖畔に佇むその時もエイユルデル湖は深く物思いに沈み、静謐な碧さを湛えていることよ…
 湖の美しさに心奪われ、去りがたい思いの作者の様子が目に見えるようだ…。

     (意見)(2011年9月)
★同感です。(藤本) 

馬場あき子の外国詠 317(トルコ)

2015年02月20日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子旅の歌43(11年9月)【コンヤにて】『飛種』(1996年刊)P144
                 参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                 レポーター:曽我 亮子
                 司会とまとめ:鹿取 未放


317 太き橅風を鳴らせるエイユルデル湖青き感情を揺らし吾を見る

     (レポート)(2011年9月)
 橅林から吹き寄せる強風をぴゅうぴゅう音をたてさせているエイユルデル湖は、深くクリアな心をさざ波に揺らせながらじっと私を見ているように思われる。
 エイユルデル湖は地中海に面したアナンタルヤの北方150キロに位置する湖水地方のかなり大きな湖だと言える。白雪をいただく山容や青い空を湖面に写し透明度の高い、碧くきりっとした湖である。作者は青色の凛とした静けさ、深さ、透明感を愛され、かなりの作品に様々の青が登場する。(曽我)


     (まとめ)(2011年9月)
 風が吹きすさぶ湖の情景が詠われている。風によって橅の木が鳴っているのだが風を鳴らせると逆に詠んでいる。また風によって波立っている受け身の湖を、青き感情を自ら揺らして「吾を見る」のだと詠う。意識の無いものを自分が見ているのに、相手から見られていると詠うのも馬場の歌い方の特徴である。感情を揺らして自分を見ている湖に、作者の心も同調しているのであろう。
 また、青は作者の偏愛する色で、歌にも多く詠まれ、『青椿抄』『青い夜のことば』など歌集の題名にも使われている。(鹿取)

         ◆意識の無いものが自分を見ている歌の例
  鴉数羽黒きビニール裂きゐしが静かなる迫力に吾を見つ
                  『青椿抄』
  人間はいかなる怪異あざあざと蛸切りて食ふを蛸はみてゐる
       

馬場あき子の外国詠316(トルコ)

2015年02月19日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子旅の歌43(11年9月)【コンヤにて】『飛種』(1996年刊)P143
           参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
           レポーター:曽我 亮子
           司会とまとめ:鹿取 未放


316 神は偉大なりといひて瞑想に入りしとぞアナトリア大平原の寂寞 


     (レポート)(2011年9月)
 アナトリア平原の過酷なありようも全て偉大なるアッラーの神の思し召しと考え、「よろしゅうございます。何事も神の思し召しのままに……」と静かに黙って受け入れたアナトリア大平原とそこに住むイスラムの人々の宗教観の強じんさと哀しみが詠われている。(曽我)


     (意見)(2011年9月)
★「神は偉大なり」というのは、イスラムの言い回し。(曽我)
★一読、自然であるアナトリア大平原が「神は偉大なり」と唱えて瞑想に入ったようで面白いが、
 そこに寂しく住まう人々と大平原はある意味一体となっているのであろう。(鹿取)