かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男の一首鑑賞 376

2017年01月31日 | 短歌一首鑑賞

  渡辺松男研究45(2017年1月実施)『寒気氾濫』(1997年)
        【冬桜】P153
         参加者:泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
          レポーター:泉 真帆
          司会と記録:鹿取 未放

376 死ののちのわが思わねばなき時間 冬桜咲く日向を歩む

         (レポート)
 思わなければ存在しない時間。死後存在はなくなるだろうから、死後の世界を存在させたければ、今の自分が思うほかない、と詠っていると思った。はかなさや、ちらちらと咲く幻想的な冬桜ととてもよく響き合い、取り合わせの上手さに感動した。(真帆)


     (当日発言)
★上句ですが死後の世界を存在させたいと作者が思っているとは取りませんでした。私はもう少し単
 純に、死の後は私は思考できないから時間も存在しない、というように読みました。(鹿取)
★死自体は自分で体験できないということをうたっている。死を体験するということは思う時間が 
 あるということです。でも死んでしまえば思う時間はないので、結局自分の死は体験できないの 
 です。(鈴木)
★始めに言葉ありき、ではないけどその逆かなと思ったのです。死んだ後は何も無くなってしまう
 から、死ぬ前に一生懸命考えておかないとということかと。(真帆)
★そうすると他者の死なのですか?(鈴木)
★いえ、自分の死のことです。自分が死んでしまったら思考ができなくなるから今思っておかない
 と死そのものがなくなってしまうのではないかと懼れていると。(真帆)
★私はこんなふうに読みました。下句、今は自分は生きていて思考できるから、今という時間があ
 って冬桜の咲く明るい道を歩いている。自分が存在しているということの不思議、そして存在し
 なくなるという不思議、この歌はそういうことをうたっているのだと思います。(鹿取)


渡辺松男の一首鑑賞 375

2017年01月30日 | 短歌一首鑑賞

  渡辺松男研究45(2017年1月実施)『寒気氾濫』(1997年)
        【冬桜】P152
         参加者:泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
          レポーター:泉 真帆
          司会と記録:鹿取 未放

375 冬の日を脇道に入りどこよりも日にあたたかき塀に沿い行く

         (レポート)
 これは実際に動いている作者の姿がよくみえ、また誰にでも共感よぶひなたぼっこのような温もりがあろう。しかし一方で「どこよりも」と一首の腰の部分に、つよく作者の意識を打ち出した様にも感じる。日向、ひかり、霊のあたたかさ。(真帆) 
 

     (当日発言)
★突出していますね、私。(真帆)
★いや、全体としては「向こう側」を考えている訳だから、霊とか考えても特に突飛ではないと思
 いますが。(鹿取)


渡辺松男の一首鑑賞 374

2017年01月29日 | 短歌一首鑑賞

    渡辺松男研究45(2017年1月実施)『寒気氾濫』(1997年)
        【冬桜】P152
         参加者:泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:泉 真帆
         司会と記録:鹿取 未放

374 永遠に会いえざること 冬の日はなかば寂しくなかば浄たり

         (レポート)
 「永遠に会いえざること」これは何だろう。今日のなぎさの会で皆さんに教えてもらおうと思って参加した。私はこういう意味かと考えてみた。自己とはあるいは他者とは何か、それらはほんとうは幻なのではないか、真の自分、真の他者にいくら相見えようとしたところで土台かなわぬこと、このことは寂しくもあり、それがゆえに清らかでもある、というような意味だろうかと思った。(真帆)


      (当日発言)
★「永遠に会いえざること」とは、死後の自分とか生まれる前の自分とかに会えないと言っているのか 
 なと思います。だから「真の自分、真の他者」と鑑賞文に書かれていることはいいと思います。
   (慧子)
★真の自己に会えないと取ると哲学的ですが、「真の自分、真の他者」に永遠に会えないことはもど
 かしいのではないでしょうか?「なかば寂しくなかば浄たり」と冬の日を捉える下句と繋がらな 
 いように思えます。単純に恋人にもう永遠に会えないととると方が下句が活きる。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞 373

2017年01月28日 | 短歌一首鑑賞

    渡辺松男研究45(2017年1月実施)『寒気氾濫』(1997年)
        【冬桜】P152
         参加者:泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:泉 真帆
         司会と記録:鹿取 未放

373 ひとひとりわれには常に欠けていて日向(ひなた)行くときふと思い出す

         (レポート)
 一首を詠んだ情動の根元には作者のひりひりとした思索や憶いがあるのだろうが、うたの作り方は、なぞなぞのように楽しい。日向を行く時に欠けている「ひとひとり」とは、作者の影だろう。肉体をもち実存するわれという認識が、常に作者には欠けてしまう。あるときは詩人にあるときは自然そのものになる作者。意識を現実にひきもどされた一瞬を詠んだ歌か。(真帆)


     (当日意見)
★「ひとひとり」というのは、作者の他に誰かいるのですか?(M・S)
★377番歌「ひとひとりおもえば見ゆる冬木立ひかりは幹に枝に纏わる」、378番歌「バスの来
 るまでを笑みいしあなたなりき最後の声を思い出せない」を思うと、そうですね。この一連も私 
 は書いてあるとおりに読んで思う人がいるんだけれどその人は傍にはいないので常に欠けた存在とし 
 て意識されている、と単純に読みました。もちろん、真帆さんのような読みもできるし、王朝の和歌
 なども題詠の恋の歌だけど、そこに俗世を離れて美しい世界を希求する気持ちだとか出世の願望が叶
 わない嘆きだとかいろいろ複雑な感情を投影しているので……多様に読み取ることはいくらでもでき
 ると思います。この歌、好きな歌で、「日向(ひなた)行くときふと思い出す」がいいなあと。な
 にか懐かしげですよね。馬場あき子に、夭死したお母さんを秋の日向で思っている有名な歌があ 
 るのですが、正確に思い出せません。(鹿取)
★自分の中の普遍的なわれというように考えると、そこから見るとわれには欠けている部分があっ 
 て常に欠落感を感じている。日向にいるとふと欠落した部分が浮かび上がってくるというような 
 ことではないか。377番も同じ。378番は明らかに恋の歌だけど、この373番歌は37番 
 歌の声を思い出せないというような欠落感ではないように思う。恋と綯い交ぜになっているよう 
 な感じ。恋だけだと歌が狭くなってしまう。(鈴木)
★鈴木さんの意見、恋だけだと狭いということはよく分かるけど、まあ、歌を作り始めた頃の作品
 だと思うので、こんな素直な恋の歌もありかなあと私は思います。(鹿取)


      (まとめ)
 当日発言で私が思い出そうとしていた馬場あき子の歌は次の通り。

  母をしらねば母とならざりし日向にて顔なき者とほほえみかわす 『飛花抄』

渡辺松男の一首鑑賞  372

2017年01月27日 | 短歌一首鑑賞

   渡辺松男研究45(2017年1月実施)『寒気氾濫』(1997年)
    【冬桜】P151
    参加者:泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:泉 真帆
   司会と記録:鹿取 未放


372 空中はひかりなるかや一葉の樹から離れて地までの間

         (レポート)
 これは後の377(ひとひとりおもえば見ゆる冬木立ひかりは幹に枝に纏わる)の一首と呼応する歌の様におもう。樹からはなれて地に着くまでの空中を作者はふと「ひかりなるかや」と詠嘆する。このときの「ひかり」とは、この歌集『寒気氾濫』で作者がよく詠われている、魂や霊やみえないものを讃えての表現だろうと思った。はらはらと舞いながら散る葉は、現実から遊離し見えないもの達と交流している印象を得た。(真帆)
 

          (当日発言)
★「ひかりなるかや」ですが、これは「ひかりなるかなや」のことですか?「ひかりなるかなや」なら
 分かるんですが。この部分、調べがいいですね。レポートの見えないものと交流しているという意見 
も充分くみ取れます。(慧子)
★事実は銀杏の葉がきらきらと光りながら落ちていくということなんだけど、そう言わないで「空
 中はひかりなるかや」と言っている。地面に着くまでの時間をスローモーションで見せているところ
 が、慧子さんも言ったように松男さんの詠み方の上手いところ。スローモーションが時空の広がりを
 思わせて、レポーターの「見えないもの達と交流する」読みも生まれてくる。味わいぶかい歌になっ
 ている。(鈴木)
★人間にとっては一瞬だけど、こう詠われると葉っぱは地面に着くまでに濃密な時間があって、なるほ
 どいろんなものと交流しているんだなと思わせられますね。(鹿取)


(まとめ)
「ひかりなるかや」と「ひかりなるかなや」は意味上は同じ。「か」も「かな」も詠嘆を表す終助詞で、どちらも体言や連体形などに接続する。「かな」を使うと8音で冗漫になるが「か」だと7音できっぱりと爽やかな印象だ。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞 371

2017年01月26日 | 短歌一首鑑賞

  渡辺松男研究45(2017年1月実施)『寒気氾濫』(1997年)
    【冬桜】P151
     参加者:泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆
     司会と記録:鹿取 未放


371 川向こうへ銀杏しきりに散りぬれどむこうがわとはいかなる時間

         (レポート)
 連作「冬桜」は、冬という季節のもつ内向しやすい抒情の特徴を、歌の上でもごく自然に表現しているように思う。古語的な助詞や助動詞をつかうことにより、古典へ回帰という内向を表現しているように思った。これは意図的というよりむしろ、樹々や気象など自然と一体化している作者の抒情に、ごく自然にあらわれた冬の季節のようにも思う。
 抄出の一首。銀杏の黄金の葉は川向こうへしきりに散ったけれども、「むこうがわ」に在る、つまり三途の川の向こう側にある、死後の世界の時間とは一体どんなものだろうと作者は思い佇んでいるのだろう。「むこうがわ」とは、もしかすると未生の世界をも含むのかもしれない。またこの一首は、ただ単に思索に耽るという理の歌ではなく、黄金の銀杏の葉が一斉に散りはじめ散り終えてしまった寂寥感や、ひたすらに散る黄金の葉の景や時間を表現し味わいのある一首だと思った。(真帆)

 
     (当日発言)
★川のこちら側に銀杏の木があって向こう岸に葉が散っている。レポートの彼岸、此岸という考え
 はそこから出てきた。「川向こうへ」の「へ」がよい。(慧子)
★「散りぬれど」の「ぬれ」は完了の助動詞「ぬ」だから、文法上は継続の意味は無い。だから歌
 の上では散ってしまっているけれど見せ消ちのように読者には盛んに銀杏の葉が散っている情景
 が見える。そして作者はその葉の行く末である向こう側の時間を問うている。(鹿取)
★私は向こう側を三途の川、死後の世界とは取らなかった。現実に川のこちらから見る景色とあち
 らから見る景色は何か時空が違うように全く違うので、そういうことを言っているのかな。
    (鈴木)
★そうですね、「向こう側」というのが松男さんのテーマというか、いつも考えていることで、そ
 ういう歌をこれまでもたくさん見てきました。影の部分、見えない部分も向こう側で、多様な向
 こう側があるんだけど、だから煎じ詰めれば死後の世界という真帆さんのような見方もできると
 思う。最も真帆さん、未生の世界とも書いていますけど。「時空」っていっても宇宙的なスケー
 ルで言えば時間=空間なので、この歌も向こう側がどんな場所かではなく、葉の散っていった先
 の時間を問題にしているところが独特と思う。論理だけでやせ細った歌ではなくて、銀杏の散る
 景色が美しいふくらみのある一首になっている。(鹿取)


          (まとめ)
 レポートに、この「冬桜」一連を指して「古語的な助詞や助動詞をつかうことにより、古典へ回帰という内向を表現している」とあるが、特に古語的な助詞や助動詞をつかっているとも思わないし、古典へ回帰とも思わない。「向こう側」をうたった歌を『寒気氾濫』から1首だけあげておく。(鹿取)

  白き兵さえぎるもののなき視野のひかりの向こうがわへ行くなり  「からーん」


馬場あき子の外国詠396(中欧)

2017年01月25日 | 短歌一首鑑賞

   馬場あき子の外国詠54(2012年7月実施)
       【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)P112
       参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:藤本満須子
        司会と記録:鹿取 未放


396 「エレクトラ」の幕切れに泣きて歓呼するウィーンの情熱の中にゐるわれ

        (レポート)
 二時間のオペラもいよいよ終わりだ。父の仇を討った弟のオレストスを讃える姉のエレクトラは踊り始めるが興奮のあまりその場に倒れてしまう。ウィーンのオペラ座の観客も興奮の渦中に引き込まれてしまう。観客は泣きながら「ブラボー」「ブラボー」と叫んでいる。そのオペラ座の熱気の中に私は今いるのだ。ウィーンの観客と共にスタンディングオベーションに加わった作者を十分に想像させる。(藤本)


     (当日意見)
★欧米人の感情の激しさの中で、覚めて自分を捉えている。周囲をもしっかり見ている。結句の 
 「われ」がよい。(崎尾)
★そうですね、自分も歓呼しているんだけど、ふっと我に返ってそういう自分をもう一人の自分 
 が見ている。(鹿取)
★「エレクトラ」の一連はとても力がこもっている。(藤本)


馬場あき子の外国詠395(中欧)

2017年01月24日 | 短歌一首鑑賞

   馬場あき子の外国詠54(2012年7月実施)
       【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)P112
       参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:藤本満須子
       司会と記録:鹿取 未放


395 エレクトラ熱唱する大き影ゆれてかく呪ふことわれを励ます

     (レポート)
 今は亡き父を慕い、孤独の寂しさを訴え、復讐を誓うエレクトラの影が舞台背面に大きく揺れている。そのエレクトラの姿は私を励ます、励ましてくれる。
 エレクトラの中に自己のある姿を見ているのだろうか、あるいは『世紀』でうたっている日本の状況の中での思索なのだろうか。(藤本)


     (当日発言)
★素直に舞台に感動して詠っているのだろう。(N・I)
★人間の感情の底知れない深さを感じ取っている。深さを知れば知るほど鼓舞されている。短歌 
 を深いものにしたいという先生の気持ちが表れている。(崎尾)
★呪うことが励ますというのは世間的には憚られること、それを敢えて詠われたところがすばら 
 しい。道徳とか善に縛られていない。(慧子)
★呪うことというのは強さである。道徳的とかそういうこととは違う。(曽我)
★言葉どおり取ったら、「呪うことがわれを励ます」のだ。(藤本)
★いや、呪うことばかりではない。そういう情念を先生は自分も歌に活かしたいと思っている。 
   (N・I)
★表現者としてというところを超えて人間として、呪いの熱唱の圧倒的な力に打たれている。情 
 念の厚みのようなものの凄みに圧倒され、人間としての大きさというか、古代的な強さという 
 か、そういうものを感じ取っている。ここでは、自分の歌を深くしようとか、藤本さんのいわ 
 れたような日本の状況がどうとか思っているのではない。下の句で深く深く納得したが、うま 
 く説明できない。すばらしい歌だと思う。(鹿取)


馬場あき子の外国詠394(中欧)

2017年01月23日 | 短歌一首鑑賞

   馬場あき子の外国詠54(2012年7月実施)
       【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)P111
       参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:藤本満須子
       司会と記録:鹿取 未放


394 予言のごとく情念の深き底ひよりエレクトラ立ちて闇に激(たぎ)れる

      (レポート)
 エレクトラが父の仇を討とうとするところからこの歌劇は始まる。強烈な音楽の後に幕があがるが、迫力あるソプラノでうたうエレクトラの姿を「闇に滾れる」と表現したところは実に巧みな作者だと感銘。(藤本)


     (当日発言)
★幕が上がる前に歌うんでしょう?だから歌った時は暗かったと思う。(曽我)
★いや、幕が上がってから歌い始めるんだと思う。(藤本)
★でも、この場面は最初とは限らないのでは?途中だって情念の深き場面はいくらでもあるだろ
 うし。ただ、作者がのめり込んで観ている様子が伝わってくる。(鹿取)
★「予言のごとく」という言葉に魅了される。この言葉があって、下の句がいきいきとしている。 
   (崎尾)
★「予言のごとく」は聖書の言葉を預かるもの、という意味だと思っていたけど読み違えていた。
 ここでは劇のあらすじを予言するようだ。(慧子)  
★ウィーンの話でしょう。言葉が分からないとお話しにならないじゃない。(K・I)
★字幕が出るんですよ、今。(藤本)
★日本ならそれでよいけど、ウィーンで日本語の字幕なんか出ないでしょう。(K・I)
★内容はもちろん先生は勉強して行かれたんでしょう。言葉は分からなくても歌の調子や身振り 
 で感情は分かります。(鹿取)
★意味ではなく表情や動きだから。(藤本)

   
     (まとめ)
 「エレクトラ」は当時としてはもっとも進歩的で、不協和音などをとりこんだ大胆な音楽技法が使われた傑作だという。劇の冒頭は毎日夕闇が迫るとエレクトラは狂ったようになって、父が殺害された状況を歌い、改めて復讐を誓う場面だそうだ。とすると私が言った冒頭を詠ったとは限らないという発言は間違いで、この歌は劇の冒頭場面をえがいていることになる。そうすると「予言のごとく」は、父に復讐を果たす予言という具体的な意味になる。日本人客が多いとなると、字幕は無理としても、配役や見どころ、あらすじなどが書かれたパンフなら何カ国語かの表記のなかに日本語もあるのだろう。(鹿取)


馬場あき子の外国詠393(中欧)

2017年01月22日 | 短歌一首鑑賞

   馬場あき子の外国詠54(2012年7月実施)
     【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)P111
    参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:藤本満須子
     司会と記録:鹿取 未放


393 心の翳り幾重に深き日に開くホフマンスタールの訳詩集あり

     (レポート)
 作者の心に陰鬱なかげりがおおいかぶさるとき、ホフマンスタールの訳詩集を読む。読むことによって少しかげりがうすれていく。ホフマンスタールの若き日の詩集であろうと想像する。(藤本)


     (当日意見)
★始めて心情を吐露する歌を読んだ気がする。(N・I)
★あり、と現在形で詠われているが、日本にいて心の翳りが深い日に折々繙いた、そういう訳詩 
 集があるよ、持っているよということだろう。(鹿取)
★エレクトラは復讐の劇だが、詩集の中には翳りを薄れさせるような明るい詩もあるのだろうか。
     (慧子)
★いや、私もホフマンスタールを読んだことはないが、明るいから心の翳りが薄まるとは限らな 
 い。395番歌(エレクトラ熱唱する大き影ゆれてかく呪ふことわれを励ます)では呪いによっ
 て励まされているわけで、暗い詩に共感することで、心が軽くなる場合だってある。(鹿取)
★ユダヤ系の芸術家に対する思い寄せがここにも表れているのだろう。(藤本)