かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

馬場あき子の外国詠231(中国)

2014年06月30日 | 短歌一首鑑賞

  【紺】『葡萄唐草』(1985年刊)
                           参加者:Y・I、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
                           レポーター:渡部慧子
                           司会とまとめ:鹿取 未放

171 長江の彼方より春は来るといふ雨はれて上海の桃ほころびぬ

      (レポート)(2009年10月)
 上海は江南と呼ばれる長江下流の南部に位置し、気候温暖な地として知られている。ちょうど杜牧の「江南の春」という七言絶句があり、それを念頭にしての掲出歌ではないだろうか。中国の春は桜ならぬ桃が喜ばれ、中国人の憧憬としての桃源郷を、私達もよく知るところだ。おりしも「雨はれて」よろこばしく当地上海を讃えるべく「桃ほころびぬ」と詠いあげたのだ。(慧子)
       江南春
    千 里 鶯 啼 緑 映 紅
    水 村 山 郭 酒 旗 風
    南 朝 四 百 八 十 寺
    多 少 楼 台 煙 雨 中


          (意見)(2009年10月)
★上海への挨拶歌である。「長江の彼方」と言って場所を限定しなかったところも良い。(慧子)
★きれいすぎる。先生らしくない。(T・S) 


      (まとめ)(2009年10月)
 1983(昭和58)年3月30日から4月4日まで朝日歌壇選者として訪問した初めての中国旅行での作。馬場の中国旅行は2回、その旅行詠掲載を馬場あき子全集別巻より抜粋する。

○1983(昭和58)年3月30日~4月4日
  上海(魯迅記念館、玉仏寺など)~
杭州(西湖、六和塔、霊隠寺など)~拙政園、獅子林など
蘇州(西園、虎丘斜塔など)~上海
○1985(昭和60)年4月27日~5月3日
蘇州、西安、北京を巡る。

■『晩花』     昭和60年6月      短歌新聞社
■『葡萄唐草』   昭和60年11月   立風書房
中国詠「紺」13首
■『雪木』     昭和62年7月      角川書店
中国詠「向日葵の種子」11首

 異国に初めてやってきたわくわく感が、大づかみの景の捉え方と弾むようなリズムから伺える。
まさに憧れの土地への挨拶歌で、土地褒めとして長江、桃の花をたたえている。そういうわけでT・Sさんの「きれいすぎる」という非難は当たらないだろう。レポーターが引いた漢詩「江南の春」の書き下し文は次のとおり。(鹿取)
      江南の春
   千里鶯啼いて緑紅に映ず
   水村山郭 酒旗の風
   南朝 四百八十寺(しひゃくはっしんじ)
   多少の楼台煙雨の中


渡辺松男の一首鑑賞 107

2014年06月29日 | 短歌一首鑑賞

【Ⅱ 宙宇のきのこ】『寒気氾濫』(1997年)62頁
                    参加者:曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
                     レポーター:曽我 亮子
                    司会と記録:鹿取 未放

 ◆大井学さんの論を(まとめ)部分に引用させていただきました。

140 根が地下で無数の口をあけているせつなさよ明けてさやぐさみどり

(レポート)(2014年6月)
 「きのこ」はたいてい雑木林に出る。地下でいつもつばめの子のように口をあけている「きのこの季節」は樹木も親つばめのように悲しく切ない……茸の季節が過ぎてみどりの木の葉が風にさやぐとき親の木々もやっとほっとして安らぐ。どこまでも樹木への愛といたわりの心を持ち続ける作者を思う。

 一連のレポートを終えて……題名からして「宙宇のきのこ」であり「宇宙のきのこ」ではないのだ。世の常識からすると正に逆順の立場とも言えるが作者は易々とその一線を超える。平易な「ことば」を駆使して詠われる独特の世界は凡人にとって「難解な歌」と言えるのではないでしょうか。(曽我)
 

(送付による意見)(2014年6月)
 たぶん根は昼夜を問わず二十四時間、無数の根の先からたえまなく水を吸い続ける。それを「無数の口をあけている」と表現するが、それを思えば切ない。しかし、そのおかげで翌朝には、爽やかなさみどりの葉がさやぐのである。(鈴木)
 
 
     (発言)(2014年6月)      
★「根が地下で無数の口をあけている」が上手。私だったら水を吸っているとしか言えない。「切
 なさよ」でつなぐところが良い。(慧子)
★木が生きるため「根が地下で無数の口をあけている」その切ない気分はよくわかる。ただ、鈴木
 さんのように根が水を吸っているおかげで……というほどには因果関係の接続を思わないけど。
 もっと微妙な接続に思える。それから上の句ではニーチェとの繋がりとか、原罪とか存在悪と言
 ったら大げさかもしれないけど、生の根源のようなことを考えさせられる。(鹿取)


(まとめ)(2014年6月)
 『寒気氾濫』のある批評会で大井学さんが話された資料に、この歌をニーチェとの関連で読んでいるぶぶんを引用させていただく。(鹿取)

   ……この相反する力の「均衡」が生きんとするものの根源的な「せつなさ」に繋がるもので  あることが解る。「高みへ、明るみへ、いよいよ伸びていこうとすればするほど、その根はい  よいよ強い力で向かっていく――地へ、下へ、暗黒へ、深みへ――悪のなかへ」というニーチ  ェの言葉を思い浮かべるとき、さみどりの色彩は、地下の無数の口に支えられ、いよいよ高く、  いよいよ深くその美しさと悲哀とを訴えているようだ。些か不用意かと思われる「せつなさ」  という言葉が、やはりここで使用されるだけの作者の内面的な根拠があったことを思わせる。(大井 学)





渡辺松男の一首鑑賞 106

2014年06月28日 | 短歌一首鑑賞

【Ⅱ 宙宇のきのこ】『寒気氾濫』(1997年)62頁
                           参加者:曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
                            レポーター:曽我 亮子
                           司会と記録:鹿取 未放


139 桜 かぞえきれない毛虫すまわせてあるとき幹をぴくぴくとする
               
(レポート)(2014年6月)
 あの美しい花のなかの花、桜はたくさんの毛虫にとりつかれている。しかし桜はみずから虫を除去することはできない……人間同様くすぐったくかゆいのだろう。ぴくぴくと身を震わせるしか方法がない。そして風が吹く時を待つ。(曽我)


(送付による意見)(2014年6月)
 桜の木にはたくさんの毛虫が発生する。葉の毛虫はよく見かけるが、幹の毛虫はよっぽど近寄ってみないとわからない。それでもあるときは幹の表面がぴくぴく動いたかのように、毛虫が蠢いたのである。(鈴木)


(発言)(2014年6月) 
★毛虫が動いたことを幹が動いたとする見方が楽しいと思います。(慧子)
★これは幹がぴくぴくするのであって虫がぴくぴくするんではないよね。(曽我)
★桜の木が主語だから、毛虫が動いたのではなくて、桜の幹自体がむずがゆくて動いたととりまし
 たが。でも、「すまわせて」は能動だから、もしかしたら毛虫がいっぱいすんでいるのが嬉しく
 て幹はぴくぴくしたという解釈もできそうです。(鹿取)
★この歌、57577に言葉が配置されていないから、何か読みにくいですね。そのはみ出しが気
 味悪さを表しているのかなあ。でも渡辺さん、虫、あんまり差別していないからやっぱりよろこ
 んでるのかなあ。(鹿取)
★さきほどと意見が変わりました。やっぱりこの桜は毛虫を嫌がっていないんですね。ぴくぴくし
 ているのは毛虫と交信しているので、喜びですよ。(慧子)


渡辺松男の一首鑑賞 105

2014年06月27日 | 短歌一首鑑賞
 
【Ⅱ 宙宇のきのこ】『寒気氾濫』(1997年)61頁
                          参加者:曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
                           レポーター:曽我 亮子
                          司会と記録:鹿取 未放


138 うむっうむっと孟宗竹の子が伸びる鬱から皮のむけてゆくなり
               
     (レポート)(2014年6月)
 孟宗竹の筍が地上に小さな穂を出すときかなりの抵抗を地中から受ける。又成長する時のまわりの土の抵抗も更に大きい。その生みの苦しみから筍はうつ状態となり人の髪が抜けるように外側の皮からむけてゆくのだ。そうして筍は成長する。
 筍は土の抵抗があればある程やわらかく育つ。「うむっうむっ」のオノマトペも「生むよ生むよ」と聞くのは私だけでしょうか……(曽我)


     (送付による意見)(2014年6月)
 筍が伸びてゆく様は「うむっうむっ」という感じだ。鱗片状の皮は筍の本体を守るためのものだろうが、元気盛んな孟宗竹からすれば、うっとうしい鬱的なもの。ここを脱皮して、伸びてゆくのだ。(鈴木)
 

     (発言)(2014年6月)
★漫画チックでこの歌は好きです。腕白坊主が伸びていくようで可愛くて、小学生でもよく分かる
 歌だと思う。ただ、「鬱から皮のむけてゆくなり」は面白い発想ですね。言われてみればなるほ
 どと思うけど。 (鹿取)
★年譜に出ているので言ってもいいと思うけど、渡辺さんは25歳の時から精神科に通院されてい
 ます。だから鬱状態から快復していく時の陽気な感覚というのが体感としてあるんじゃないかな
 と。うちの子も渡辺さんと病名は違うかもしれないけど長く精神科に通院していて、うちの子の
 場合、鬱と躁が交互に来るんだけど、鬱から躁への切り替わりってものすごく鮮やかですね。パ
 ーってハイになる。この歌ではおとなしく地中に埋まっていた竹の子が地面の上に顔を出して、
 陽光めがけて次々と皮を剥ぎながら伸びてゆく元気いっぱいのイメージがあります。(鹿取)
★レポートの「生みの苦しみ」とか「生むよ生むよ」は主客が違うので、ちょっと違うかなあと思
 います。「生みの苦しみ」とか「生むよ生むよ」は母親のもので、ここでは親竹に当たる。竹の
 子は子供だから「生まれる苦しみ」はあっても「生みの苦しみ」はない。(鹿取)



渡辺松男の一首鑑賞 104

2014年06月26日 | 短歌一首鑑賞

【Ⅱ 宙宇のきのこ】『寒気氾濫』(1997年)61頁
                       参加者:曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
                        レポーター:曽我 亮子
                       司会と記録:鹿取 未放


137 樹の腸は高さ三十メートルへ達して月の春夜 直立
               
     (レポート)(2014年6月)
 樹木の髄は高さ三十メートルにも伸び春の月夜を真っ直ぐに立って何とも立派で美しい。考えてみると腸はくねくね曲がりながら下へと向かうもの―しかし樹木の髄液は根から上へ向かう。この作者らしい面白い着想の一首ではないでしょうか…… (曽我)


     (送付による意見)(2014年6月)
 樹の内部に水管(本当は何とよぶのか?)が通っているが、それを三十メートルの腸に見立てている面白さ。(鈴木)

 
      (発言)(2014年6月) 
★春夜で、これも夜ですが、さっきの歌より明るい印象ですね。読者には「樹の腸」という例えが
 自然に受け入れられます。(鹿取)



渡辺松男の一首鑑賞 103

2014年06月25日 | 短歌一首鑑賞

【Ⅱ 宙宇のきのこ】『寒気氾濫』(1997年)61頁
                         参加者:曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
                          レポーター:曽我 亮子
                         司会と記録:鹿取 未放


136 ヒマラヤ杉月光環をつらぬけり真夜に見る樹は黒のどくどく
               
     (レポート)(2014年6月)
 夜中に地上から見上げると背の高いヒマラヤ杉は月のまわりにほんのり浮かぶ輪を貫いている。日中に見ると公園等に観用植物として植えられ美しく立派だが、夜中に見ると憎々しく悪者の木に見えてくる。
  ヒマラヤ杉=松科の常緑高木、枝が下向きにたれ円錐状の樹形をなす。葉は針形(広辞苑) (曽我)

 
      (送付による意見)(2014年6月)
「月光環」(月の周囲に見える光の輪)をヒマラヤ杉が直立して貫いている。真夜に入って見る樹 は、黒々として、まるで生き物のようにどくどくと脈打っている。(鈴木)


      (発言)(2014年6月) 
★黒のどくどくからは生命力の旺盛さを感じます。フロイト的に見ると環は女性、垂直に貫く杉の
 木は男性で、とてもエロチックな歌とも読めます。真夜ですから神秘的で神々しい美しさも感じ
 ますし。(鹿取)
★「月光環」は仏教語ではないでしょうかね。赤と黒には生命力がありますから。(慧子)


  (まとめ)(2014年6月)
 「月光環」について、Wikipediaには「薄い雲がかかったときに、それらの周りに縁が色づいた青白い光の円盤が見える大気光学現象のこと」と出ている。ひんやりとしてシャープで美しい語である。それを貫くヒマラヤ杉を幾何学的な形状の美しさではなく、「黒のどくどく」と勢いのある動きでとらえ、生きているものの生々しさを出している。
 レポートの「観用植物」は辞書には無い語だが、ネットには氾濫している。葉を愛でる「観葉植物」の誤用が広まったものだろうか。それとも別の概念の語か。いずれにせよ、ヒマラヤ杉を「観用植物」とは呼ばないだろう。(鹿取)




渡辺松男の一首鑑賞 102

2014年06月24日 | 短歌一首鑑賞

【Ⅱ 宙宇のきのこ】『寒気氾濫』(1997年)60頁
            参加者:曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
             レポーター:曽我 亮子
            司会と記録:鹿取 未放


135 一のわれ欲情しつつ山を行く百のわれ千のわれを従え

      (レポート)(2014年6月)
 きのこの季節になると山に行きたい欲望にかられる。それほど山は魅力に充ちている。
  一のわれ=作者は「現代短歌新聞」“歌は時間の奴隷ではない”の中に、一のわれについて語
  っている。「一のわれになった時恐怖心に侵されました…。一を生きることになってしまった
  者として歌いたいことだけを歌っていきます……」と。(曽我)
    
      (送付による意見)(2014年6月)
 われの中には百のわれ千のわれ、たくさんのわれがいる。そのときどきの環境に応じてそれに適したわれが顕れる。山行の中で、欲情(どのような欲情かわからないが)した一のわれが他のたくさんのわれを抑制して、歩き続けている。「欲情」には切羽詰まったものが感じられ、それゆえに、他のわれは黙って従うのである。(鈴木)


        (発言)(2014年6月)
★「現代短歌新聞」に載った「一のわれ」というのは病気の確率の話で、「一のわれ」は病気が確
 定された状態を表現している言葉です。だから、この歌での「一のわれ」とは全く文脈の違う話
 ですね。それから鑑賞している『寒気氾濫』は1997年出版ですから、作者が病気になられる
 より20年以上前の歌集です。(鹿取)   
★金子兜太に「けふはどの本能と遊ぼうか」という俳句があって、その類似形かと。(慧子)
  ※後で調べたところ「 酒やめようかどの本能と遊ぼうか」が正しいようだ。(鹿取)
★鈴木さんは「一のわれが他のたくさんのわれを抑制して」と書いているけど、「従え」は「抑制
 して」ではなく私は「引き連れて」と読みました。一のわれが欲情しているのだから百のわれ
  も千のわれも同様に欲情しているんだと思います。(鹿取)
★百、千は〈われ〉の構成要素。でも、それは過去にさかのぼれば青年時代、少年時代の〈われ〉
 にもなるし、親や先祖にもなるし、人間以外の猿やチンパンジーや、もっと過去の海の微生物み
 たいなものにもなる。また、渡辺さんは「平行宇宙」とか考える人だから〈われ〉の構成要素は
 そこにもあるのかもしれない。(鹿取)

  

渡辺松男の一首鑑賞 101

2014年06月23日 | 短歌一首鑑賞

【Ⅱ 宙宇のきのこ】『寒気氾濫』(1997年)60頁
                      参加者:曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
                       レポーター:曽我 亮子
                      司会と記録:鹿取 未放

               
134 この木ときどきたいくつそうにうつむきてぬるぬるの根を地中から出す

     (レポート)(2014年6月)
 この木は為すこともなく暇そうにしているが、実は季節になると木の子(ぬるぬるした根=地下茎)を伸ばして茸を生んでいるのだ。きのこは親木がないと生まれてくることができない。作者はその親そのものになった心で詠っている。
 親木=松茸→赤松  しめじ→栂  椎竹→椎、栗等 (曽我)


      (送付による意見)(2014年6月)
 樹ではなく、「この木たいくつそうに」といっているところから、路からよくみかける木なのだろう。さらに「うつむきて」とあるので、低木のそれなりに年数を経た木が、地表へ根をはりだしているのだろう。たぶん雨に濡れて根がぬるぬると湿っているのだろうが、タコの足のように生き生きしている。(鈴木)


        (発言)(2014年6月)      
★レポーターは茸と言っていますが、この歌にはどこにも茸とは書かれていないですね。(慧子)
★ぬるぬるの根が茸ではないですか。(曽我)
★上がり根というか土から浮いている根っこのことだと思います。退屈だから根が地中から遊びに
 出てきた。(慧子)
★ガジュマルなんかは地中から出てるけど、ぬるぬるではないわね。それにこの歌では時々根っこ
 を出すというのだから常時出ているガジュマルの根っこなどとは違うと思います。私はこのぬる
 ぬるは情念というか存在の根っ子つまり生の根源的なものをさしているように思います。この木
 って言ってますけど、木でもあり、〈われ〉でもある。存在の退屈とか、生きてる根拠のむなし
 さとか、それでも何か探りたいとか、この根はそういう哲学的なものだと思います。サルトルの
 「嘔吐」とか朔太郎の詩とかいろんな関連を考えました。ただ、そういう重い主題を余裕を持っ
 てうたっているところが面白いと思います。ユーモアというか、よい意味での幼児性というか。
    (鹿取)


      (まとめ)(2014年6月)
 この歌からサルトルの「嘔吐」を連想したり存在の根源を問題にしていると考えるのは、あながち飛躍しすぎではないと思う。「宙宇のきのこ」一連には神の存在を問う歌があり、「サルトルも遠き過去となりたり」や「存在をむきだしにせよ」のフレーズをもつ歌などがあるからである。
 もちろん「サルトルも遠き過去となりたり」とあるように時代は実存主義をはるかに忘れ去ったし、作者自身も通り過ぎた思想をそのまま歌に詠み込むことはないだろう。だから「嘔吐」のロカンタンがマロニエの木の根っこを見て感じたような、存在を根底から覆されるような転換はこの歌にはない。もう転換は経験ずみだからだ。でも、主人公ロカンタンが意識の転換後に書く「そして怪物染みた軟かい無秩序の塊が――恐ろしい淫猥な裸形の塊だけが残った。」(白井浩司訳「嘔吐」)と「ぬるぬるの根」にはいくらか共通項があるように思われる。「嘔吐」から離れても、この「ぬるぬるの根」は、人間の内臓のようでもあり、どろどろした魂の核のようでもある。
 また、朔太郎との関連もありそうな気がする。去年かりんで「アンチ朔太郎」という渡辺松男論を書いたら、当の渡辺さんから「朔太郎は好きではないが、アンチというほど嫌いではないです」というメールが届いた。もちろんアンチは言葉の綾で朔太郎に対する渡辺さんの距離はそういう感じだろうとは初めから思っていた。その後、朔太郎のどんな詩が好きかお互いのやりとりがあったが、渡辺さんは朔太郎をよく読みこまれていることが分かった。サルトルの哲学的な考察と朔太郎の自意識は次元が違うが、別の階層にしろ作者の中ではどちらも奥深く仕舞われているのかもしれない。
 萩原朔太郎の詩二編を次にあげる。
 
光る地面に竹が生え、/青竹が生え、/地下には竹の根が生え、/根がしだいにほそらみ、/根の先より繊毛が生え、/かすかにけぶ    る繊毛が生え、/かすかにふるえ。   「竹」

  冬至のころの、/さびしい病気の地面から、/ほそい青竹の根が生えそめ、/生えそめ、/それがじつにあはれふかくみえ、/けぶれ    るごとくに視え、/じつにじつにあはれぶかげに視え。
  
  地面の底のくらやみに、/さみしい病人の顔があらはれ。  
                      「竹とその哀傷―月に吠える―」
  
 作者の樹木に対する親しみは、もちろん朔太郎を識る以前からのものだろう。だから根っこがうたわれようが朔太郎の直接影響では全くないが、それこそ遠く離れた地下茎のようなものでかすかに繋がっているように思えるのだ。朔太郎の根は繊細で病的な暗い自意識そのもののようだが、渡辺の根っこはぬるぬるしていながら明るい。少しぼーとした木が自分のぬるぬるの根っこを眺めている図は想像するだけで楽しい。渡辺の歌は朔太郎よりずっとダイナミックで、ユーモアもあり、何よりも世界にむかって開かれているようだ。(鹿取)


馬場あき子の外国詠230(アフリカ)

2014年06月22日 | 短歌一首鑑賞

  【阿弗利加 3 蛇つかひ】『青い夜のことば』(1999年刊)P174
               参加者:泉可奈、N・I、崎尾廣子、T・S、Y・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
                レポーター:T・S
                司会とまとめ:鹿取 未放


63 笛吹けど踊らぬ蛇は汚れたる手に摑まれてくたくたとせる

     (まとめ)(2008年4月)
 汚れたる手、にリアリティがある。いかにも蛇使いを業としている人の手だ。蛇も疲れ切ってストライキをしたい時があるのだろう。まら、「くたくたとせる」だから病気だった可能性もあるが。ストライキととって飼い主に抵抗を試みる蛇と解釈した方が、アフリカ一連の最終歌としてふさわしいように思われる。


(意見)(2008年4月)
★T・Sさん、順序が逆です。汚れた手に掴まれたから踊らなかったのではなく、踊らなかった故に飼い主
 の汚れた手に掴まれたのです。もっとしっかりレポートしてほしいです。(藤本)


(レポート)(2008年4月)
 皮膚感覚は生きている証で敏感である。汚れている手にはまして違和感をもって反応する。笛吹けど摑まれてくたくたとなるのは命があるからだ。(T・S)*レポーターの表記のママ。


馬場あき子の外国詠229(アフリカ)

2014年06月21日 | 短歌一首鑑賞

  【阿弗利加 3 蛇つかひ】『青い夜のことば』(1999年刊)P173
               参加者:泉可奈、N・I、崎尾廣子、T・S、Y・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
                レポーター:T・S
                司会とまとめ:鹿取 未放


62 アフリカの乾ける地(つち)にとぐろなすもの飼ひならし老いゆくは人

     (まとめ)(2008年4月)
 どこにいても人間は生きていかねばならない。だからあくどいようでも生活の為には蛇を飼わねばなならない。そこに憎い顔をした蛇使いながらそこはかとない悲哀があり作者の同情がある。人は老いゆく、となだらかに用言で止めず、体言止めで人を強調したところにも作者の思いが出ている。「アフリカの乾ける地」という生きる場の提示が、下句をよく活かしている。(鹿取)


      (意見)(2008年4月)
★レポーターは「自分もかいならされて」と書いているが、歌ではそうはいっていない。比喩的に
 アフリカという過酷な土地に「かいならされて」ということなら言えるかもしれないが、そうい
 う意味ならもっと言葉を補わないといけない。(鹿取)
★この蛇使いには、他になりわいの道がないのだ。(Y・S)


(レポート)(2008年4月)
 この乾ける地で蛇と共同体である。生活していく以上蛇を飼い慣らしまた自分もかいならされて老いて行く。生きていく。ここに寂しさがある。(T・S)*レポーターの表記のママ。