かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

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馬場あき子の外国詠36(アフリカ)

2016年02月29日 | 短歌一首鑑賞

   馬場あき子の外国詠 ④(2008年1月)
      【阿弗利加 2 金いろのばつた】『青い夜のことば』(1999年刊)P165
     参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、T・S、高村典子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部慧子
      司会とまとめ:鹿取 未放
 

36 人間は大きくあれば蠅などとたたかはずゆつたりと羊頭を吊る

       (まとめ)
 上句がゆったりとしていておおらかで魅力的なうたである。レポーターのいう羊頭狗肉はこの歌では関係ないし、蠅をマスコミ報道などに見立てるのは穿ちすぎだろう。ユーモアを含んだ上句は面白く、下の句は事実そのままの情景ととって十分よい歌に思われる。なお、先月鑑賞した中にも蠅の歌があった。(鹿取)
           ベルベル族のテントに入りてミントティ飲む朝の顔蠅まみれなり  馬場あき子
         


    (レポート)
 〈羊頭狗肉〉つまり〈羊頭を掲げて狗肉を売る〉ということわざがある。狗肉とは犬の肉で下等なものとされているので、看板に偽りありという意味。さて掲出歌、実際に羊頭を吊りそこへ蠅もたかっている現場へ作者は来合わせた。このスーク内の肉屋は看板どおりの商いをしているのであろうが、吊られているものから〈羊頭狗肉〉という言葉を連想し、蠅をマスコミ報道などにみたてたとも思える。今も昔も、世の東西を問わず、食品偽装という想像も可能な一首なのだが、掲出歌の冒頭に注目したい。「人間は大きくあれば」と詠うとおり、この肉屋は蠅を追うでもなく泰然と商いをし、またそれに対し不潔などとさかしらにつぶやかない作者の面構えのみえる一首だ。(慧子)
                                       

       (当日意見)
★面白がっている。文明に対する批評の思いがある。(藤本)

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馬場あき子の外国詠35(アフリカ)

2016年02月28日 | 短歌一首鑑賞

    馬場あき子の外国詠 ④(2008年1月)
      【阿弗利加 2 金いろのばつた】『青い夜のことば』(1999年刊)P164
      参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、T・S、高村典子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部慧子
       司会とまとめ:鹿取 未放
 

35 潰れたやうな時間の澱みスークには売らるる鶏(とり)の眠れるにほひ

         (まとめ)
 上句、感覚的だが雑多でとらえどころのないスークの本質がよく捉えられている。下句の「鶏の眠れるにほひ」は映像と臭覚を伴ってスークの雰囲気をよく伝えている。(鹿取)


     (レポート)
 その場スークを詠いおこすため「潰れたやうな時間の澱み」とまず言い切る。旧街区として保存の意味もあろうが、時代からとりのこされたようなスークを理屈抜きで感じさせるうまい比喩である。同時に結句「鶏の眠れるにほひ」と実によく照応しており、このフレーズが一首全体によく働いている。そして下の句「鶏の眠れるにほひ」とは、言えそうで言えない実に端的で上手い表現だ。スークは業務ごとにまとまって営業していていろいろな場所があるらしいが「鶏の眠れるにほひ」のする所とは、何か虚無に支配されているようだ。そんな一区画に踏み込んだのであろう。(慧子)
  売られたる鶏は水見てゐたるかな二丁艪に漕ぐ蘇州運河に  馬場あき子
                                       
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馬場あき子の外国詠34(アフリカ)

2016年02月27日 | 短歌一首鑑賞

    馬場あき子の外国詠 ④(2008年1月)
      【阿弗利加 2 金いろのばつた】『青い夜のことば』(1999年刊)P163
      参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、T・S、高村典子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部慧子
       司会とまとめ:鹿取 未放
 

34 モロッコのスークにモモタローと呼ばれたり吾等小さき品種の女


          (まとめ)
 「モモタロー」のカタカナ表記がいかにも外国人の発音のようである。モモタローはモロッコの人々がなじんだ数少ない日本のイメージなのだろう。彼等が「モモタロー」と呼ぶ由来は童話からかトマトの品種名からか不明だが、トマトの「モモタロー」に限れば大玉の品種なので下の句の「小さき品種」に繋がるところがちょっと困る。もっとも呼びかけている方はそんな斟酌はしていない。作者は「モモタロー」と呼ばれて一瞬ひるんだが、それを跳ね返す気分で「小さき品種」なのだと開き直っている。
 レポーターは「ちいさいけれど鬼退治をし侮れないものとして『モモタロー』と呼ばれた」と書いているが、モロッコの人々はそこまで思い入れをして呼びかけたりはしないだろう。
 外国へ行くと、知っているかぎりの日本語で話しかけられることが多い。それらはたいてい親しみをこめた呼びかけによってものを売ろうとしているのだ。どこの国の観光地でだったか、日本人に向けて「貧乏プライス」という客引きの言葉がかかっているのをテレビで見た。「貧乏」の語の持つニュアンスを詳しくは知らない客引き達にとって、それは軽蔑ではなく単純に「安くしておくよ」くらいの意味で使っていたのだろう。
 しかし、レポーターが引いているジャップの歌を考えるとまてよ、とも思う。「吾等小さき品種の女」と受けるからにはやはり「ジャップ」というほどひどい差別意識はなくとも、小さな東洋人をあなどる気分が潜んでいる言い方だったのだろうか。
 ※ルール違反だが、後日作者に直接伺ったところ、「明るい揶揄」の気分だろうとおっしゃって
  いた。「蔑称とは感じなかった」そうだ。(2009年2月 追記)
              (鹿取)

    
   (レポート)
 各国の旅行者が行き交い人種の見本市のようなスークにおいて、日本人女性が「モモタローと呼ばれたり」と詠っている。桃から生まれた者の裔としての小ささからそう呼ばれたと読めるがひそかな他の意図が感じられる。ちいさいけれど鬼退治をし侮れないものとして「モモタロー」と呼ばれたのだよ、鬼の研究者ならではの心の動きと、更に結句「吾等小さき品種の女」に、旅における自分の異形めいたものとして仮定しているような気分があり、「品種」の語にそれが強く感じられ、フィクション性の高い一首である。
 同行した清見糺の一首。
   背中からジャップという語に狙撃されメディナでわずかな買物をする 
           (慧子)


     (当日意見)
★レポーターが引用された清見氏のジャップの歌とは違い「モモタロー」は、親しみを込めた呼び
 名ではないか。(藤本)


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馬場あき子の外国詠33(アフリカ)

2016年02月26日 | 短歌一首鑑賞

    馬場あき子の外国詠 ④(2008年1月)
       【阿弗利加 2 金いろのばつた】『青い夜のことば』(1999年刊)P163
       参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、T・S、高村典子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:渡部慧子
        司会とまとめ:鹿取 未放
 

33 鞄ごと跳ねて喜々たる少女ふと迷路に消えてここより自由市場(スーク)

          (まとめ)
 レポーターはこの少女に若き日の作者を重ねる解釈にこだわっているが、その必要はないと考える。初句の描写にいかにも楽しげな少女の様子が見えるようだ。こういう元気の良い少女はどこにもいるものでかわいいなあと見ていたら、外国人には迷路のように見える路地に入っていってしまった。ここからはスークと呼ばれる野外市場である。すこし恐いが好奇心いっぱいな作者が思われる。T・Hの穿った意見は意表をついて面白くはあるが、この歌に少女の悪意を見てしまうと、弾んだ気分を害してしまうようだ。謎程度でとどめた方がいいのではないだろうか。(鹿取)
                    

      (レポート)
 旅のつれづれ、作者の前を行く少女に目がとまる。持っている鞄は少女の夢や未来を象徴していて、いい小道具である。作者は幼子、少女、乙女にすずやかであたたかい目差しを送る人。「鞄ごと跳ねて」にもそれが感じられる。
 作者が自身を言う懐かしみぐせもあり、旅の感傷もあり、その少女に若き日の自分を見ていた。すると迷路に少女が消え、そこはスーク。鮮やかな場面転換があり、作者は現実に立ち返る。このような鑑賞が成り立つのは、一首に自然な構成のうまさがあるからだが、それは作者の在り方に裏打ちされたうまさである。行きずりの少女に自分を見、スークに来れば現実にかえるという、自由闊達さ。それは今という時に渾身であれば、その場の感慨に対して、それと知らず、すがすがしい断念を伴っていると言えないだろうか。そんなことが思われて味わい深い一首である。(慧子)

          (当日意見)
★実はこの少女は観光客をおびき寄せる役割をしているのかもしれない。(T・H)
      
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馬場あき子の外国詠32(アフリカ)

2016年02月25日 | 短歌一首鑑賞

    馬場あき子の外国詠 ④(2008年1月)
      【阿弗利加 2 金いろのばつた】『青い夜のことば』(1999年刊)P163
      参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、T・S、高村典子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部慧子
      司会とまとめ:鹿取 未放
 

32 水売りの皮袋の水はどんな水もろ手一杯買へば涼しも

          (まとめ)
 テレビの旅番組でモロッコの水売りをみたことがあるが、斜めに掛けた皮袋から細長い管が出ていて、両胸にぶら下がった6~7個のコップの一つに注いでいた。この歌の場合はコップに注がれたものを両手にうけたのかもしれないし、作者のことだから手にちょうだいと言ってもらったのかもしれない。もろ手に買ったところで詩になっている。
 尾崎放哉に「入れものが無い両手で受ける」という句があるが、ひとから施し物をもらうときの有り難い気分が「両手で受ける」という言いまわしに滲んでいる。この歌の「もろ手一杯」はどうであろうか、(観光客はペットボトルの水をいくらでも購入できる時代だから)水そのものを尊ぶより、水売りという伝統を珍しがり、はしゃいでいる気分かもしれない。
 ちなみに、レポーターの挙げた万葉集の1首目は有間皇子作(と、言われている)。かつて訪れたネパールの街角で、買いに来た子供にアイスクリームを葉っぱに乗せて渡している光景に出会ったことがある。2首めは作者未詳。(鹿取)


      (レポート)
 その透明性ゆえにおしゃれが売られるようにペットボトルの水が店に積まれている日本を出て、ここモロッコでは皮袋に水が貯えてあるらしい。材質はモロッコ革であろう。「どんな水」とあるようにみえない水を買うのだが「もろ手一杯買へば涼しも」と弾んだ様子が伺える。あらかじめ用意された器があったのかどうか、それはさておき、手というものをおりおり美しくうたいあげる作者ならではの一首だが、万葉集中の〈家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る〉〈鈴が音の早馬駅家(はゆまうまや)の包井の水を賜へな妹が直手よ〉など想われて楽しい一首。 (慧子)
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馬場あき子の外国詠31(アフリカ)

2016年02月24日 | 短歌一首鑑賞

    馬場あき子の外国詠 ④(2008年1月)
       【阿弗利加 2 金いろのばつた】『青い夜のことば』(1999年刊)P162
       参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、T・S、高村典子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:渡部慧子
        司会とまとめ:鹿取 未放
 
31 観光として生き残る水売りの老爺鈴振る真赤(まつか)なる服

     (まとめ)
 レポーターは真赤な服をサンタクロースの格好ととらえているが、民族衣装だろう。おそらくかつて実用として水が売られていた時から着用していたのだろう。観光としてのあざとさがいくらかは気にかかりながら、作者にはそういう風俗を伝えつづけてほしい気持ちもあるのではないか。
 レポーターが引いている水牛の歌は、馬場あき子歌集『南島』に載る。沖縄の先島七島を巡った旅の歌で、由布島での体験がもとになっているようだ。沖縄の小さな島で戦争を越え、老いて更に生き続ける人の労苦がいかばかりだったか、直接問うことはしないで思いやっている、重くしみじみとした歌である。(鹿取)


     (レポート)
 日本には古来風鈴売り、西瓜売りなどそののどかな売り声とともに天秤棒を振り分けて歩く情趣深い生活風俗があった。ここアフリカモロッコは水の少ない地であろう。そういう暮らしにつながる水売りに出会った。どうやら観光客相手に、その形を残しているらしいが、老爺のいでたちはまるでサンタクロースだ。国民の99%がイスラム教であるというモロッコにおいて、キリスト教文化の一端を取り込んで商魂たくましくユーモラスに生きている様がとらえられているのだが、商魂とかかわらなくても、世の虚飾にとらわれずどのようにもなりおおせる老爺、そんなところへも想いのおよぶ一首だ。
    (慧子)
      観光の水牛の後(しり)に吾を乗せし老爺の戦後問はず思はむ

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馬場あき子の外国詠30(アフリカ)

2016年02月23日 | 短歌一首鑑賞

    馬場あき子の外国詠 ④(2008年1月)
       【阿弗利加 2 金いろのばつた】『青い夜のことば』(1999年刊)P162
       参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、T・S、高村典子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:渡部慧子
        司会とまとめ:鹿取 未放
 
30 カサブランカに降(お)りて時間を巻き戻し九時間前の太陽に会ふ

     (まとめ)
 カサブランカは「白い家」の意。カサブランカと日本の時差は9時間、現地について実際腕時計を巻き戻して現地時間に合わせたのだろう。時差の不思議を歌っているのだが、白い家とさんさんと照る太陽がよく映りあっている。
 レポーターの発言にあるのは、永田和宏歌集『華氏』の「時差」の一連でアメリカで師・高安国世の死を知ったの次のような歌を思い浮かべているのであろう。(鹿取)

    高安国世氏の死去は、七月三十日午前五時十二分。ひとり待つその時刻までの、ながい夜。
  朝と夜をわれら違えてあまつさえ死の前日に死は知らさるる
  君が死の朝明けて来ぬああわれは君が死へいま遡りいつ

   
      (レポート)
 カサブランカはモロッコの空の玄関、15世紀にポルトガル人がこの街を建設し、そう名付けた。その後20世紀初めフランス統治下にて近代都市に改造され、現在に至っている。
 そこへ馬場あき子一行は安着した。時差を詠っているのだが「九時間前の太陽に会ふ」とは同行した清見糺の「モロッコ私紀行」※を参照にするとよく理解できる。
 世に不可能をあげるなら、時間を巻き戻すことがひとつある。それを歌においてやすやすとやってのけ、快感のある一首だ。
  ※9月16日21時55分成田発⇒⇒⇒20時間飛行してジブラルタルを越え、モロッコ到着
         (日本時間 9月17日18時20分)
(現地時間 9月17日10時20分)
                     (慧子)

      (当日発言)
★旅行とは逆順に歌をまとめている。最初にサハラをもってきたのはサハラの印象がよほど強かっ」
 たのだろう。(藤本)
★時差ということで思い出したが永田和宏の歌に、師の死を知るという歌があり印象に残っている。
    (慧子) 
                   
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渡辺松男の一首鑑賞 289

2016年02月22日 | 短歌一首鑑賞

   渡辺松男研究35(16年2月)
        【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)120頁
         参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:石井 彩子
         司会と記録:鹿取 未放

 
289 残業の灯を浴びながらそこここに髪毟りおる夕鶴あわれ

     (レポート)
仕事で残業しているのだろう。煌々とした庁舎の灯りが窓の外に漏れ、夕鶴が髪を毟っている様子があちらこちこに照らしだされ、あわれである。
 『夕鶴』は、木下順二作の有名な戯曲である。つうの真の姿は鶴で、自らの羽を抜いては生地に織り込んでいく、文字通り我が身を削って織物をする姿と、夜遅くまで骨身を削って働いているわれとが重なり、おのずと憐憫の情がわいたのであろう。(石井)


     (当日意見)
★夕鶴だから女性を見て思ったのかなと。作者の優しい目が感じられます。(真帆)
★夕鶴は身を粉にして働く人の比喩で、必ずしも女性とは考えませんでした。だから夕鶴の中には
 自分も含まれているし、「あわれ」も自身にも向けられている。広い庁舎の煌々と照る明かりの
 下で残業をしている人々を見渡しながらの感慨でしょう。(鹿取)
★夕鶴だから女性だと思います。(藤本)
★夕鶴というのも髪を毟るも比喩です。髪を毟るは苛立ちの比喩。あっちでもこっちでも残業して
 いる女性が本当に髪をかきむしっているって、実際の光景としてありえないでしょう。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞 288

2016年02月21日 | 短歌一首鑑賞

   渡辺松男研究35(16年2月)
       【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)120頁
        参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:石井 彩子
        司会と記録:鹿取 未放

 
288 常に他人と一緒のようで休まらぬポケットベルがわが腰にある

       (レポート)
当時はポケットベルが現場仕事に携わる職業人の欠かせぬアイテムであった。常に誰かに呼び出されるという意識は、誰かと一緒に行動しているという思いと同じく、落ち着かないものである。ポケベルを所持することは仕事の効率を上げるに違いない、が、半面ゆとりもなく、組織の歯車になっているような感懐をもたらす。(石井)


          (当日意見) 
★現場仕事ってあるけど、これでいいんでしょうかね。庁舎を離れて外で仕事しているってこ
 とでしょうかね。(藤本)
★まあ、松男さん、いろんな職種を経験されているので、外廻りの仕事も多かったんでしょう
 ね。怪我をした動物を助手席に乗せてどこかに連れて行くとき怖かった話とか、剥製に出す
 鳥を博物館に持って行くとかエッセーで読んだことがありますから。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞 287

2016年02月20日 | 短歌一首鑑賞

   渡辺松男研究35(16年2月)
       【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)119頁
        参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:石井 彩子
       司会と記録:鹿取 未放


287 女子職員同士のながきいさかいもひとりの臨職泣かせて終わる

       (レポート)
女子職員同士の長いいさかいが続いて、職場の能率を妨げることになった。一方の側に非があるわけではない。が、立場上、正規職員の方を守らなければならないのである。「泣かせて」には辞めさせられた臨時職員の悔しい思いとともに、厳しい作者の管理職としてのやりきれない思いが窺われる。(石井)


     (当日意見)
★このとおりの解釈でいいと思います。(M・S)
★「泣かせて」は必ずしも辞めさせられてとはかぎらないし、〈われ〉が管理職とも限らない
 と思いますが。正規、臨職どちらが悪いとも限らないのに上司が中に入って臨職の方を黙ら
 せてしまった、そういう場面だと思います。〈われ〉はそういう一連の流れを端から見てい
 て苦々しく思っている、ともとれます。(鹿取)
★女子職員同士がながきいさかいをしていたんだけど、そのはけぐちを臨職に向かわせて終わ
 らせた、ということではないですか。(真帆)
★そうも取れますね。私は正規職員と臨職が例えばお茶当番とか朝の机拭きとかをするとかし
 ないとかいさかいをしていたんだけど、上司が介入し、臨職に全て押しつけて不本意な形で
 いさかいが終了したと取りましたが、誰と誰が争ったかは書いてないですものね。ああ、で
 もこの例は分かりややすいけどちょっとまずかったですね。実際はもっと陰湿ないさかいな
 んでしょうね。(鹿取)
★作者は傍観的に見ていたかもしれないけど、一応上司としておきました。善悪は別にしてど
 ちらを取るかと言われると、上司としては正規職員を残さざるをえない。長いいさかいです
 から辞めさせられたと私は取りました。辞めさせられたと取る方が「泣かせて終わる」の解
 釈にふさわしいと思います。(石井)
★辞めさせるという言葉は歌のどこにも無いですが。(藤本)
★私は一連を読んで、公務員としての厳しい立場、自分とは合わないかもしれないけれど、辞めさ
 せた。長いいさかいだからどちらかが辞めないと終わらない訳です。(石井)
★そこまで解釈を広げる必要があるんでしょうか。長いいさかいというのは2~3日とかその程度
 じゃないですか。何年もなんってないと思います。(藤本)
★私は長いとは半年とか1年とか、そういうスパンだと思いますけど。(鹿取)
★女性の方が諍いをしやすいと思います。それでは仕事の能率が上がらない。だから辞めてもらわ
 ないといけないという思いがどこかにあったのではないでしょうか。それで元の平和な職場に戻
 った。(石井)
★「女性の方が諍いをしやすい」はまずいと思います。私はこの歌を読んで古いなと思いました。
 時代が違うなって。(藤本)
★長い長い陰湿ないさかいを見せられる方は、職場の雰囲気が悪くなるし仕事の能率も上がらない 
 から確かに嫌でしょう。だからやむなく上司が介入した。石井さんの意見聞いていて、「泣かせ
 て」の中には「辞めさせた」という選択肢もありとは思います。しかし、「理不尽な条件を押し
 つけられて居残っている」選択肢もありと思います。あと、藤本さんが古いと言われましたが、
 この歌「女子職員同士」というところに限界があるように思います。それは90年代という時代
 の限界でもあるかもしれませんけど。これが男性の職員同士のいさかいだったら、作者はこんな
 ふうに歌わないでしょうね。無意識だけど男性という強者の側に立った見方だと思います。ジェ 
 ンダーという視点で考えたら問題ありかもしれませんね。(鹿取)

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