渡辺松男研究37(16年4月)
【垂直の金】『寒気氾濫』(1997年)127頁
参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉 真帆
司会と記録:鹿取 未放
309 親戚の皆集まりて撮りしときフラッシュひとつ死を呼ぶごとし
(レポート)
(解釈)親戚がみんな集まって、集合写真をとる場面。一枚の集合写真を撮ると、また誰かが亡くなり、また次の集合写真の場面が来るようだ。
(鑑賞)光がひとつ光ると、死を呼ぶ、という下の句は、原爆の喩のようにも思った。(真帆)
(当日発言)
★これも上手いなあと思います。さっき鈴木さんが言われたように光と影があって人間は存在する、これもフラッシュがたかれて、
影を失った人が次に死ぬ。年の順に死ぬとは限らないけど誰かが次に死ぬわけですから。(慧子)
★死と生って連続性があるんですね。日常性の中に死があるとそういうことをうたっていらっしゃる。親戚が集まるのは死者を悼
むそういう場なんですけど。そこに写真というものを登場させて異質なものを詠んでいる。(石井)
★この「ひとつ」はどちらに掛かるんですか?フラッシュが「ひとつ」か?「ひとつ」の死を呼ぶのか?(真帆)
★両方に掛かるんじゃないですか。フラッシュが「ひとつ」たかれると「ひとつ」の死を呼ぶ。
私はこの歌を読むと小高賢さんの次の歌を思い出します。〈一族がレンズに並ぶ墓石のかたわらに立つ母を囲みて〉『耳の伝説』
(1984年)お父さんのお墓の傍にお母さんが立って、そのお母さんを囲んで一族が写真を撮っている。墓石にはお母さんの名
前が赤い文字で入っている。そしてこの歌では次の死とは言っていないけど、次にお母さんの死が来ると充分想像させる。わり
と似た状況の歌ですが、小高さんのはあくまで現実に即してリアル。松男さんのは下の句でぱっと次元が移動する感じですね。
(鹿取)