かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男の一首鑑賞  25

2013年08月31日 | 短歌1首鑑賞
 ◆今日、「現代詩手帳」9月号を購入しました。渡辺松男さんの「きなげつの魚」と題する30                        首が掲載されている他、「詩型の越境」という刺激的な特集が組まれています。  

                   『寒気氾濫』(1997年)橋として25頁
                   司会と記録:鹿取 未放

53 キャベツのなかはどこへ行きてもキャベツにて人生のようにくらくらとする


(記録)2013年6月
 ★人生は同じことの繰り返しで、昨日も今日も明日もキャベツを剥くようなもの。この「キャベ
  ツにて」までは何となく序詞のような働きをしているなあと。以前、鈴木良明さんがキャベツ
  の歌の鑑賞でどこまでいっても本質に突き当たらないと言っていらした。(渡部慧子)
 ★人生がキャベツのようにいっぱいいっぱい並んでいるようで、どこへいってもくらくらしたと
  いうような感じかなあ。(曽我亮子)
 ★では、キャベツの中って、キャベツがたくさん並んだキャベツ畑のイメージなの?それとも一
  個のキャベツの中を進んでいくイメージ?私は「畑」とは書いてないから一個のキャベツの中
  を人間の自分が小さくなって進んでいく様子をイメージしていたんだけど。(鹿取)
 ★キャベツ畑です。(曽我)
 ★では、この歌については、渡辺松男さんが特集号で解説しているので見てみましょう。(鹿取)

  【安立スハルのキャベツ「馬鹿げたる考へがぐんぐん大きくなりキャベツなどが大きくなりゆ
   くに似る」を意識していました。それにカフカの『城』の到達できない不条理のようなこと
   をドッキングさせたのです。「かりん」2010年11月号】


(レポート)2013年6月
 作者の住む群馬県には嬬恋村で生産されている嬬恋キャベツが特産品である。そのキャベツの「なか」へ作者は入って行っている。同じ事の繰り返しであると言っても過言ではない日常生活を、一枚一枚剥がしていっても同じ形状を保っているキャベツに重ね合わせているのであろう。おもいめぐらしてゆくと人生が見えてくると下の句で表現しているように思える。「くらくらする」の柔らかなひらがなに鋭さを感じる。(崎尾廣子)

マイアミサラダと食中毒

2013年08月30日 | 日記
 一昨日、テレビの語学講座で紹介されていたマイアミサラダを作った。レタス、アボカド、グレープフルーツ、生サーモン、エビをきれいに盛りつけて、生クリーム、マスタード、ケチャップなどを混ぜたソースを掛けるだけの簡単なもの。美しくできあがって、エビを一つつまんで、はっと気がついた。いつもの生エビと違って、今日のエビは冷凍を解凍しただけだったことに。腸炎ビブリオとかノロウイルスとか入っていたらどうしよう。祖母が毒消しには生卵を呑むとよいと言っていたのを思いだして、まず生卵を呑んだ。そばにいる娘には心配するのでしゃべらないことにした。エビは取り出して茹で、サラダに戻したて、娘に食べさせた。
もし食中毒になるにして、潜伏期間はどのくらいだろう?自分で病院に行ければよいが、救急車を呼ぶとしたら、台所が汚れたままでは嫌だからと食器を洗った。もし、入院となったら仕事中の息子は呼び出されて困るだろうな、今年四月に父が死んだばかりなのに万一私も死んだら田舎の弟や妹が嘆くだろう。お坊さんを何人も呼んで、あんな葬儀は大変だから、お葬式は無しにしてと、どこかの場面では言わなくては……とけっこう真剣に考えた。
 それから逃避をした。おふくろが好きそうな数学者が出てくるから読んでみたら、と息子が置いていった『容疑者Xの献身』という推理小説を読み始めた。冷凍エビが頭からだいぶ遠ざかった。読み終えたのが午前1時過ぎ、エビを食べてから7時間が過ぎた。

 娘が二歳くらいの時。お昼寝から目覚めたら、テーブルの上のエンドウご飯に泥が混じっていた。よく見たらご飯の上にはエンドウの代わりにエンドウ豆そっくりな緑色の固形肥料が乗っていた。そしてベランダのプランターには、私が置いた固形肥料の代わりに炊いたエンドウ豆がちりばめてあった。慌てて娘の口を見たが泥は付いていない。これ、食べたのと問いつめても答えはあいまい。
 中毒110番に電話した。「食べていても大丈夫ですよ。植物の肥料はお子さんにも栄養ですから。」という答え。あの肥料はどんな成分だったのだろう?

 息子が高校生の時、お腹が痛い、頭が痛い、全身が痛いと苦しみだし、顔が赤鬼のように腫れ上がったことがあった。私の運転で緊急病院に連れて行ったが、あの本棚の本は○○くんにあげて、とか盛んに言っていた。お餅の黴が原因とわかり、点滴を受けて大事には至らなかった。

 今朝、ネットで調べてみたら、ノロウイルスの潜伏期間は24時間~48時間とあった。ただいま50時間ほどが経過した。

渡辺松男の一首鑑賞  24

2013年08月30日 | 短歌1首鑑賞
   
                   『寒気氾濫』(1997年)橋として24頁
                   司会と記録:鹿取 未放

 ◆前回、一首を飛ばしてしまいましたので、申し訳ありませんが歌の順番が逆になっています。


51 測深鉛深空へ垂らしつづけつつ屋上にわれは眠くなりたり


(記録)2013年6月
 ★この測深鉛って海なんかに垂らすものですよね。それを空に垂らしている。逆に向いているん
  ですよね。この作者は覚醒者だと思う。レポーターは効率優先の世と書いていらっしゃるが渡
  辺さんはそれに距離を置いている。文明を否定している訳ではないが距離を置いていると読み
  ました。(渡部慧子)
 ★今の慧子さんの意見を面白く思いました。測深鉛は海や湖に垂らして深さを測る道具ですが、
  ここではそれを空に向けている。渡辺さんはこういう逆方向に向かう歌をたくさん作っていま
  す。もっとも地球は球体なんだから空に向けて垂らしても理屈ではありなんですが。測深鉛は
  20メートルくらいが普通だそうですから、垂らしつづけるにはとても足りない長さですね。
  だから無限ほども長い測深鉛を垂らし続けている。それは永遠ほど長い時間が必要だから眠く
  もなる訳です。それでイメージとしては以前やった宰相からの要請を蹴って在野にあって塗中
  に尾を曳く思想家達を思いました。老子のような人が釣り糸を垂らす代わりに屋根の上で測深
  鉛を垂らしている。社会と距離を取っている生のありようをわりとユーモラスに描いているの
  かな。
   それと、ポワンカレの紐のことも連想しました。以前ポワンカレの紐の歌を歌会に出した時
  言ったけど、仮に宇宙に紐を曳いて一周して、その紐が回収できたら宇宙は球体をしている
  って。もちろん宇宙に紐を曳く云々は理論上の話で、現実には不可能ですけど。(鹿取)


(レポート)2013年6月
 単調な作業を繰り返すような仕事をこのような言葉を用いて語っているのであろうか。のどかで消えることがないように思える余韻が生まれている歌ではあるが、逆に効率優先の現代の社会のありようが鋭くひびいてくる。作者の思いはそこにあるのであろうか。(崎尾廣子)

渡辺松男の一首鑑賞  23

2013年08月29日 | 短歌1首鑑賞
   
                   『寒気氾濫』(1997年)橋として24頁
                   司会と記録:鹿取 未放

52 まなうらに日照雨(そばえ)降らせておりたれど核廃棄物輸送船過ぐ


(記録)2013年6月
 ★単純にいいますけど、日照雨が降るように核廃棄物輸送船がいとも軽やかに過ぎていく、とい
  う歌かなあ。文明批評の歌と読んだ。(渡部慧子)
 ★「まなうらに」というところはどうですか?ここでは日照雨が降っているとは言わず、まなう
  らに日照雨を降らせているとありますが。(鹿取)
 ★すみません、分かりません。(慧子)
 ★外に日照雨が降っていて、それを見ていて目を閉じたからまなうらにその残像が残っている、
  とも考えられますが。でも実際には降っていないけど、まなうらにだけ降らせているのかも知
  れないし。日照雨ってお日様が照っているのに降っている雨のことかと思っていたら、辞書に
  はあるところだけ降っている雨って出ていました。下の句の核廃棄物輸送船はいろんな人が歌
  にしていて、私も歌ったけど、たぶん目撃して作っている人は少なくて、そういうものが航
  行していることはみんな情報として知っているので、それで作っているのじゃないか。レポー 
  ターは【この上句から「輸送船」の積み荷が「核廃棄物」であると見極めるまでには一瞬のと
  まどいがあったのであろう】と書いているが、私は渡辺さんも核廃棄物輸送船を目撃したとは
  思っていない。過ぎていく様子を思い描いているのだろう。まなうらに日照雨を思い浮かべて
  いたけれど、次にはそこを核廃棄物輸送船が通っていったよ。つまり核廃棄物輸送船が過ぎて
  いくのも現実ではなく、まなうら。まあ、実際には、はるかはるか彼方を過ぎていく輸送船
   の反映なのでしょうけれど。
   だいたい核廃棄物輸送船って5000トンくらいの小さくて地味な船ですよね。核廃棄物をガ
  ラス固化体ってよく分からないけど、そういう状態にして輸送するらしい。接岸している港を
  見にいったら別だけど、普通、素人にはあっ、あそこに核廃棄物輸送船が通っていくって分か
  らないのじゃないの。(鹿取)


(レポート)2013年6月
 自然が創る不思議な光景を「まなうらに」浮かべている。幻ではあるが自然と一体になっている作者が見えてくる。この上句から「輸送船」の積み荷が「核廃棄物」であると見極めるまでには一瞬のとまどいがあったのであろうと思われる時間が伝わってくる。「まなうら」のひらがなから始まるおだやかな表現の上句ではあるが、逆に原発のあやうさが浮かび上がっている。「核廃棄物」が生まれつづけている怖さを「過ぐ」から感じ取る。(崎尾廣子)


(追記)2013年8月
 日照雨は、広辞苑で「日光がさしているのに降る雨」と出ている。6月には何か勘違いしていたらしい。申し訳ありません。日照雨が実際降っていたかどうか、とか核廃棄物輸送船を実際見たかどうかとか、渡辺さんの歌を読むのにおかしな議論をしたものだ。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞  22

2013年08月28日 | 短歌1首鑑賞
   
                   『寒気氾濫』(1997年)橋として24頁
                   司会と記録:鹿取 未放

                   
 
50 瞑目のうちに歴史は忘れらるみどりのかげのDAIBUTSUの像


(記録)2013年6月
 ★この歴史を個人のものとみるか、もっと大きな歴史のことか迷いました。(崎尾廣子)
 ★簡単そうに見えてとても深いところを歌っている歌で、簡単には言えない。英字で表している
  のにも意味があるんでしょうね。(曽我亮子)
 ★鎌倉の大仏を想像した。戦後アメリカが進駐してきて日本の歴史が忘れられたような時期があ
  った。そのことを言っているんじゃないか。瞑目は誰のものか分からないけど、半眼の大仏の
  ものかもしれない。(渡部慧子)
 ★私も鎌倉の露座の大仏を思いました。みどりのかげだから。でも全体にはよく分からない。た
  だ個人の歴史では歌にならないし、戦後の歴史でも小さすぎる。もっと大きな世界の、人間の
  歴史のことだとは思う。(鹿取)


(レポート)2013年6月
 この「歴史」は個人としての歴史なのであろうか。瞑目すればその人の遺徳もやがて忘れられる。ただ半眼である「DAIBUTSU」のみが永劫に見守ってくれていると表しているのであろうか。「みどりのかげの」のひらかなに大和の国の静かさ、涼しさ、あたたかさがあり余韻が生まれている。ローマ字を用いた「DAIBUTSU」には視覚をとらえる力が生まれている。また存在の大きさも伝わってくる。(崎尾廣子)

(追記)2013年8月
 瞑目しているのは大仏だろう。レポートでは「瞑目」を誰か個人が亡くなったことと捉えているようだが、そういう小さな世界を詠んでいるのではないだろう。歴史も当然個人の歴史ではない。もっとスケールの大きい歌だ。2句めの「忘れらる」は受け身なので、大仏がみどりのかげでずーと静かに瞑目している間に、人間たちによってさまざまな歴史が忘れられてゆく、というのであろうか。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞  21

2013年08月27日 | 短歌1首鑑賞
   
                   『寒気氾濫』(1997年)橋として23頁
                   司会と記録:鹿取 未放

                   
  ◆39番~48番までは既に鈴木良明のレポートと記録を掲載している(2013年6月12
   日;渡辺松男『寒気氾濫』の鑑賞⑤)為、今回の一首鑑賞では省略します。


49 出口なきおもいというは空間が葱の匂いとともに閉じらる


(記録)2013年6月
 ★私はレポートを書いていてよく分からなかったのですが、「ともに」は何と何を「ともに」な
  んですか?(崎尾廣子)
 ★それはよく分からない。空間に葱の匂いが満ちることで、何か思っていたことが空間に閉じこ
  められた。「出口なきおもい」というのを初句にもってきてちょっと歌を捻った。
    (渡部慧子)
 ★私はもう少し哲学的な歌として読みました。渡辺さんは哲学を専攻した人なので、もしかした
  らサルトルの戯曲「出口なし」などが念頭にあったのかなと。私はこの戯曲を読んだことがな
  いし、お芝居を観たこともないけれど、この戯曲ではこの世の価値は全て相対的なもので絶対
  はないというようなことを言っているそうです。サルトルは実存ということを考えた人だけど、
  全てが相対的という考えは仏教と共通していますよね。人間という存在がこの世に閉じこめら
  れていて、脱出するには死しかないんだけど、仏教でいうと死も脱出では無いわけですよね。
  六道を輪廻していて、たとえ天上界へ行ってもそこは輪廻の一つに過ぎないわけですから。だ
  から仏教では一般的には悟りということを考えて、それによって輪廻の外へ出ようって考えら
  れている。この歌は葱の匂いに触発されてできたのかもしれないし、サルトルの戯曲なんか全
  く念頭に無かったかもしれないけど、いずれにしろ生きるということを考えている歌なんでし
  ょう。〈われ〉(作中主体のこと)が葱の匂いと「ともに」この世という日常空間に閉じこめ
  られているんでしょう。(鹿取)


(レポート)2013年6月
 この「おもい」は逡巡を、「空間」は生活空間を表しているのであろうか。また「ともに」は「葱の匂い」と作者自身なのだろうか。蔬菜として日常使われている葱には特有の匂いがある。そこから「閉じらる」は「出口なきおもい」には日常生活までも閉じられてしまう。また「葱の匂い」にはそれを誘うほどの特有な匂いがあると詠っているのであろうか。「葱の匂い」がこの歌の妙味であると思う。(崎尾廣子)

渡辺松男の一首鑑賞  20

2013年08月26日 | 短歌1首鑑賞
   
                   『寒気氾濫』(1997年)地下に還せり19頁
                   司会と記録:鹿取 未放


38 水楢の裂けたる幹に手を当てて芽吹きの遅きことを愛せり

(レポート)2013年4月
 「水楢の裂けたる幹」とは、実際見たところを言っており、ざらっぽく、ひびの入っている様を負傷のように見て、いたわりの「手を当てて」いる。また「芽吹きの遅きこと」はどことなく、弱者や、さかしらではない感じを思わせるが、上句の「幹」、下句の「芽吹き」と、水楢の少しいたいたしく、少し弱いそんなすべてを「愛せり」なのだ。(渡部慧子)


(記録)2013年4月
 ★レポーターは水楢という種類の樹が芽吹きが遅いというようにおっしゃったが、目の前の個体
  が裂けている、つまりこの樹だけが傷を負っているので芽吹きが遅いというんじゃないかなあ。
  だから樹に手を当てておまえ、ちょっと遅れをとっているぞ、がんばれよ、っていう感じ。
    (鹿取)
 ★私もそう思った。(崎尾廣子)
 ★水楢という樹はみんな裂けているんですか?(鈴木良明)
 ★だいたい裂けています。(慧子)
 ★みんなが裂けているなら、やっぱり水楢の樹一般のことかしら。(鹿取)
 ★でも裂けているのが常態ならわざわざ裂けたるとは言わないのでは。(鈴木良明)
 ★ではみんなで水楢の樹を調べてくることにしましょう。(鹿取)

    (追記)2013年8月
 (作者や、樹が身近にある人には、自明のことなので、申し訳ないが)水楢の幹は、薄い不規則な裂け目があるので、剥がれやすいそうだ。だから幹の一部が裂けている水楢の木というのはそこここにあるのだろう。また、芽吹きが遅いのは、この個体が裂けているからでは全くなく、水楢という種類の木は、他の種類の木に比べて、芽吹きが遅いらしい。だから、たまたま幹が裂けている木に手を当てているけれど、この個体に限らず、他の木に比べて芽吹きが遅い水楢の木が作者にとってはお気に入りなのだろう。(ネットで水楢の写真や記事をたくさん見たが、木を愛する人々の情熱が伝わってくるものが多かった。)(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞  19

2013年08月24日 | 短歌1首鑑賞
   
                   『寒気氾濫』(1997年)地下に還せり18頁
                   司会と記録:鹿取 未放

37 榛の木に花咲き春はきたるらし木に向かい吾(あ)はすこしく吃る

(レポート)2013年4月
 「榛の木に花咲き春は」きぬではない。「きたるらし」とは、3回続く「は」の明るさの上に、作者の広くものを見通すゆったりした息吹や、やさしさが感じられる。「榛の木に花咲き」に「向かい」「すこしく吃る」という。佐保姫に向かって、ういういしい喜びがあるのだろう。(渡部慧子)  


(記録)2013年4月
 ★渡辺さんは慣用語をほとんど用いていない。用いるときはひねっている。この歌も結句が魅力
  的で、榛の木に向かってたじたじとなりながら嬉しがっている気分がよく出ている。(鹿取)
 ★木に花咲きの歌を思い出した。(鈴木良明)
 ★前田夕暮の「木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな」ですよね。私も
  あの歌ういういしくて大好きですけど。夕暮は後にこの妻と離婚しているんですよね。歌った
  時は心からこう思っていたろうに。哀しいですね。私は百人一首の天の香具山の歌を思い出し
  ました。渡辺さんのこの歌結句がほんとうにいいですね。いかにも春が来たのを喜んでいて、
  樹を愛している気分が伝わってくる。(鹿取)
 ★なんか恋みたいですね。(曽我亮子)
 ★でも榛の木ってそんなにきれいじゃないんだよね。春早く咲くらしいから群馬で育った人はこ
  の樹に花が咲くと春が来たんだって嬉しいんだろうねえ。(鈴木良明)

渡辺松男の一首鑑賞  18

2013年08月24日 | 短歌1首鑑賞
   
                   『寒気氾濫』(1997年)地下に還せり18頁
                   司会と記録:鹿取 未放

36 吹きつくる風のかたちとなりはてし岳樺(だけかんば)なお生きて風受く

(レポート)2013年4月
 風にしいたげられる、とか風にあらがうとは詠んでいない。「風のかたちとなりはてし」と、とらえる。「岳樺」の完璧な受容のかたちだと思う。さらにそれは「なお生きて風受く」なのだ。なりはてて絶えてしまわない「岳樺」を作者は心に印す。見方を変えれば「受く」とは、実にしたたかな生の力にみえてくる。(渡部慧子)


(記録)2013年4月
 ★レポーターの受容というのがいいですよね。負けてる訳でもないし、受け入れているというと
  ころが。そういう形にされてしまったというと辛いものにるけど。ニーチェなんかも結局は病
  気を受容したのだと思う。(鈴木良明)

渡辺松男の一首鑑賞  17

2013年08月23日 | 短歌1首鑑賞
   
                   『寒気氾濫』(1997年)地下に還せり18頁
                   司会と記録:鹿取 未放

35 冬銀河げに冴えざえと風のあと敗者勝者はどこにもあらぬ

    (レポート)2013年4月
 「風のあと」「敗者勝者はどこにもあらぬ」とは、まるで木の葉が吹き飛ばされてしまったようだ。俗世の基準でいうところのものは、風にとばされてしまうほどの、うすっぺらなものなのだ。その後は清冽な冬銀河が、ただ「冴えざえと」ある。
  (渡部慧子)


    (記録)2013年4月
 ★敗者勝者ということで、こういうものを超越してますます銀河が冴えて浮かぶ。(崎尾廣子)
 ★どこで読んだか忘れたけど、最近渡辺さんが出世なんて簡単なことはさっさとせよ、という意
  味のことを歌っていてそういう立ち位置なのねと感慨を受けたけど、この歌の下の句はすかっ
  とする。(鹿取)
 ★力への意志で、ニーチェもそんなことを言っている。力への意志はひたすら増大することを目
  指し、そこに主体性や目的はないと言っている。だからここの風も誰が誰をということがない。
   (鈴木良明)