かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

馬場あき子の外国詠(韓国) 263

2015年12月31日 | 短歌一首鑑賞

   馬場あき子の外国詠 (2011年1月)【白馬江】『南島』(1991年刊)P78
       参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、T・S、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:佐々木実之
      まとめ:鹿取未放
                 
 ◆レポーターの佐々木実之さんには既に亡くなられていますが、ご遺族から掲載の許可を頂い
   ています。
                                   
   日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
    ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
         へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。

263 敗れたる百済のをみな身投げんと出でし切崖(きりぎし)の一歩また二歩
     (レポート)
 前回261参照。660年(白村江の戦いの4年前)、新羅・唐の連合軍に敗れた百済の宮女は、白馬江の崖から身を投げた。その数三千。その身を投げた様を落花に例え、身を投げた岩を落花岩と後世呼ぶ。(出典未詳)実際に戦ったのは男であるが、男が敗れると必然的に女も敗れることになる。女は戦いにおいて受け身の立場とならざるを得ない。その宮女に唯一主体的な選択として残されているのが「死」であり、その選択を「一歩また二歩」と決断していく切迫感が伝わってくる。
 261では「宮女三千」、268では「女ら」となっているが、この歌では「をみな」はひとりであるところにひとりの決断に絞り込んだ効果がある。また、一連の詞書からも分かるように太平洋戦争を根底に意識している。これにより「バンザイクリフ」「ひめゆり部隊」といったつい最近の出来事が想起され、千何百年も昔のこともリアリティを持って読者に迫る。(実之)


      (当日発言)
★「をみな」の語の選択がよい。「をみな」は若い女の意で、古くは美女のことをいった。この
  語によって、いっそうの哀切感が伝わる。261番歌について、身を投げたのは自己の意志だ
  ったかどうかと沖縄戦などの関連から疑問を呈したが、ひとりの「をみな」に絞った今回のレ
  ポートでは、死の選択に説得力がある。(鹿取)


馬場あき子の外国詠(韓国) 262

2015年12月30日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の外国詠 (2010年12月)【白馬江】『南島』(1991年刊)P78
     参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、 T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子
     まとめ:鹿取未放
                 
    日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
    ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
       へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。

262 国敗れ死にしをみなの亡骸(なきがら)を生きしをみなはいかに見にけむ

     (レポート)
 テーマだけを投げ出したような一首だが「をみな」に絞られていて、やはり女の側から鑑賞したい。かつて子供を育てながら、時代と時代の子と格闘していると考えたことがある。そうは言いながら、おおよそ人々が時代の子であるのは、子供に限ったことではない。そしてその生は世と親和し、また葛藤している。たとえば風俗、宗教また個の情念に切実に懐疑的に、一方では家族のための衣食住に、ひたすらな生活者であるをみなとして、そのようにありながら女性の側から時代への暴挙など考えられないまま、戦争等圧倒的な時代勢力にのまれてしまったりする(「国敗れ死にしをみなの亡骸」)。また生きしのいだりする(「生きしをみな」)。「死にしをみなの亡骸」とは、その背景の伝統、文化などふくめての生きざまをたどることをせず、ここでは伝聞であろう状態に即するのみの表現として、「生きしをみなはいかに見にけむ」と、時代の負への告発を同時代の「をみな」に託しているのではないか。あまりにもはるかな歴史的事象、無惨に対して、作者は言葉を失っているのか、ひかえているのか、いかがであろう。(慧子)


      (当日発言)
★レポーターの言わんとすることが、私にはほとんど理解できなかったんだけど。宮女三千が身
 を投げたことに対して、作者自身は261番歌で「哀れ」と情を吐露している。次にこの歌で 
 は、では同時代、現場にいて実際亡骸を見た女たちはどう見たのかと問うている。宮女の中に 
 は生き延びた人もいたかもしれないし、庶民は死なずにすんだのかもしれない。そして死なず 
 にすんだ女性たちは死んでしまった宮女たちの亡骸を見て、かわいそう、とか自分は助かって
 よかったとか、そんな単純な思いであったはずはない。
  この歌も、詞書から推して沖縄戦の果て身を投げた女性たちのことが背景にあって詠んでい
 る。そこで生き残った女性たちは言葉を絶したもろもろを心のうちに抱え込んだに違いない。 
   (鹿取)

馬場あき子の外国詠(韓国) 261

2015年12月29日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の外国詠 (2010年12月)【白馬江】『南島』(1991年刊)P77       
      参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:渡部 慧子
      まとめ:鹿取未放
  
   
    日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
    ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
    へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。


261 旅にきく哀れは不意のものにして宮女三千身を投げし淵

     (レポート)
 敗れた側の百済王宮の女性たちは、追いつめられて、死を選んだと思われる。どのような心の状態だったのだろう。敵軍に辱めを受けないためであろう。その数※三千とは誇張されていようが、当時もチマチョゴリに近い民族衣装をまとっていたのか。そうならば淵へ身を投げて、風をはらんではなびらが散るようではないか。哀れは三千という数と共に落花そのものの遠景が見える。

 ※三千 ①数の多いことを表す語。李白の白髪三千丈など  ②白居易の「長恨歌」から、特に
     後宮の女性の数多いこと
      (慧子)


      (当日発言)
★13世紀になってはじめて韓国では「三国遺事」という史書が書かれた。しかし、この書にも「日
 本書紀」にも宮女三千が身を投げた話は載っていない。(実之)
★詞書きからすると、この歌には沖縄戦の折、断崖から身を投げた多くの日本女性の姿が重ねら
 れているのだろう。そう考えると、百済の宮女たちも、レポーターの言うように「追いつめら 
 れて死を選んだ」かどうかはあやしい。飛び込んだ断崖を後世のひとが「落花岩」と美化して 
 呼んでいるのだが、落下するとき衣が花びらのように飜ったとして、それを美しいといえるだろ
 うか。水死はことさら苦しいもので、私には身を投げたひとりひとりの恐怖が思われてならない。
「不意のものにして」と詠っているから、作者はガイドの説明などによって現地ではじめてこの
 話を知ったのだろうか。(鹿取)

馬場あき子の外国詠(韓国) 260

2015年12月28日 | 短歌一首鑑賞
    馬場あき子の外国詠 (2010年12月)【白馬江】『南島』(1991年刊)P77               
        参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:渡部 慧子
         まとめ:鹿取未放

   日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
    ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
         へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。

260 秋の水みなぎるとなく逝くとなく白馬江あかき夕日眠らす

     (レポート)
 私達は旅にあって、大河に落ちる夕日にのぞむとしたらどんな一首を残すだろう。朝日にはたくさんのものをはじき出すような力があるが、メッセージ性の強い赤でありながら、夕日の場合は、没細部的な景となり、充足や安堵へ導かれるだろう。掲出歌は作者と白馬江の距離のためか「みなぎるとなく」「逝くとなく」として静的な大景が示されている。この二つの否定は悠然たるうちに生きていて永遠のような感じを導き出している。また「秋の水」「あかき夕日」の二つのア音のあかるさが働き、「夕日眠らす」という終末ではない大景へ自然に落ち着いている。
 印象深い動詞を3カ所配しながら、どれも邪魔にならず、大きな息づかいのうちに仕上がっているのは、白馬江の名による歴史性へのふかい感慨のゆえであろう。(慧子)


      (当日発言)
★否定語を2度も使っているのに、こせこせしていなくて、ゆるやかな言葉遣いが白馬江の雄大
 な景を見せてくれる。白と赤の対比は、下手をするとわざとらしくていただけないが、ここで
 はさりげなくて成功している。とうとうと流れる大河ではなくゆったりとたゆたっているゆえ
 に、白馬江が夕日を入れる揺籃のようで、作者の感動もよく伝わってくる。(鹿取)

馬場あき子の外国詠(韓国) 259追加版

2015年12月27日 | 短歌一首鑑賞
   馬場あき子の外国詠 (2010年12月)
      【白馬江】『南島』(1991年刊)P75               
       参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:渡部 慧子
      まとめ:鹿取未放
 
 
    日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
    ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
    へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。

259 斉明軍百済とともに滅びたる白村江(はくすきのえ)の静かなる秋

          (レポート)
 掲出歌の意味はよく分かるので、事項を明らかにし、鑑賞にかえたい。

 斉明天皇:第37代天皇。(559~661没)(594~661在位)皇極天皇の重祚、舒明
      天皇の皇后。天智天皇の母。
 百済:朝鮮の三国時代、半島西南部にあった国。4世紀初の馬韓から起こるが、伝説ではその前
    身伯済国の始祖温祚(おんそ)王は、高句麗から移った扶余の系統と伝える。首都は漢山、
    のち熊津。任那の滅亡後、新羅、高句麗と抗争。日本、中国南朝とは友好関係を保ち、わ
    が国には仏教その他の大陸文化を伝える。660年、新羅・唐連合軍に滅ぼされた。
 白村江:村の意を古代朝鮮語で「スキリ」と言い、それが日本書紀に生きていて「白村の江」
     (はくすきのえ)という。地図は省略。
 白村江の戦:天智天皇2年(663)白村江で行われた日本・百済と唐・新羅の水軍同士の
       会戦。唐・新羅連合軍に侵略された百済の救援に向かった日本軍はこの戦いに
       大敗し、その結果百済王は高句麗に逃れ、王族・貴族の大部分は日本に亡命し、
       百済は滅びた。日本も多年の半島経営を断念。
            以上 小学館 国語大辞典
            (慧子)


             (まとめ)(2015年12月)
 『日本全史』(講談社)によると、日本軍が白村江の地で大敗したのは8月28日という。旧暦の8月は当然秋であるが、ここは馬場が旅をしていにしえの戦地、白村江を眺めている秋のことを「静かなる」と形容している。もちろん、663年の白村江の景を二重写しに読んでもいいのだろう。(鹿取)

馬場あき子の外国詠(韓国) 258

2015年12月26日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠 (2010年12月)
      【白馬江】『南島』(1991年刊)P76
       参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:渡部 慧子
      まとめ:鹿取未放

   日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
    こに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
      へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。

258 たゆたひの心しばしば暗かりし韓国に来つズックを履きて

     (レポート)
 どのようなたゆたいなのだろう。日本と韓国の中世から近世へつづくながい確執を思うと作者の生きてきた時間の中に暗く立ち上がる罪意識に似た思いがあったというようなものであろうか。そんな思いを抱かせる韓国にこの度は「ズックを履きて」やってきたのだ。上の句の暗い心とは反対に下の句は旅にふさわしい軽装を言い、一首に明暗を織り込んでいるのだが、「ズックを履きて」暗くなりがちの心を引き立てているのかもしれない。(慧子)


           (当日意見)
★負い目があってのたゆたい。(曽我)
★そうですね、日本人として負い目があるから韓国の旅をしようかしまいか、たゆたいがあった
 が、ようやく決心して旅に出てきた。謝罪の気持ちを表すなら正装すべきかもしれないが、旅の
 移動に楽なようにズックを履いてきた。ますます韓国には申し訳ないような気がする。「日本と
 韓国の中世から近世へつづくながい確執」とレポートにありますが、そこは違います。白村江の
 戦いは古代ですし、明治から続いた韓国併合、戦争中の諸々など20世紀も21世紀も大きな問
 題を抱えて、今なお確執は続いています。(鹿取)


馬場あき子の外国詠(韓国) 257

2015年12月25日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠 (2010年12月)
      【白馬江】『南島』(1991年刊)P75                
       参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:渡部 慧子
      まとめ:鹿取未放


   日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
    ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
       へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。


257 秋の草名を知らざれど手に折りて韓の陽眩しわづか目を伏す 

      (レポート)
 はじめての草なのだろうか。「名を知らざれど手に折りて」が作者にしてはおとなしい表現だが、異国にての行為のゆえか、そこはかとなく味わいがあるのは下の句「韓の陽眩しわづか目を伏す」という消極的な行為の為であろう。思えば「秋の草」は韓国の民、または民に愛されている草のように思う。
 自国と韓国の古代文化のまぎれないつながり、ながい確執など歴史とこの風光の中で、みずからの情緒も含め、「眩し」み「わづか目を伏す」のである。「眩し」の漢字表記は全体を甘くさせない効果があり、三句の「手に折りて」の「折りて」は祈りに似ている。字が似ているだけでなく、掲出歌には祈りにかよう心がある。(慧子)


           (当日発言)
★心の深い歌。結句に思いが凝縮されている。目を伏せているのは韓国だから。(藤本)


     (まとめ)2013年9月
 藤本さんの発言は、作者があとがきに述べているような「長い長い歴史の告発を受けているような悲しみを感じて」目を伏せていたのだ、と言いたかったのだろう。作者は韓国の旅の間中、この悲しみを背負っていたのだろう。(鹿取)


    

馬場あき子の外国詠(韓国) 256

2015年12月24日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠 (2010年12月)
      【白馬江】『南島』(1991年刊)P75               
       参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:渡部 慧子
      まとめ:鹿取未放

日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
    ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
       へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。


256 秋霞濃ゆき彼方に白馬江流るると言へば心は緊まる
 
     (レポート)
 とにかく秋霞が濃ゆくて白馬江はみえないのであろう。一首は実景に迫っているというより、たとえば松を配するのみの能舞台を思ってみたい。掲出歌は舞いながら謡う一人(作者)が思われる。流るると思うでも、流るるを聞くでもなく「流るると言へば」としているところなど、まさしく作者はシテなのだ。「秋霞濃ゆき彼方に」と幽玄を示し、四句「流るると言へば」と自己を顕たしめている。何も見えないところに自分の声が響き、それを聴いている。無辺なうちに「心は緊まる」と焦点を絞り込んだ結句だ。(慧子)


           (当日意見)
★ガイドなどが「見えないけど向こうに白馬江が流れていますよ」とあっさり告げた。そのあっ
 さりさと、自分の思い入れとのギャップを詠っている。まあ、レポーターのいうように自問自
 答でもよいが、いずれにしろ自分の中の白馬江とのギャップが主題。(実之)
★私はガイド説をとるけど。少なくとも声に出して〈われ〉が言ったのではない。この作者は「誰
 か言ふ」などのフレーズが出てくる作り方をよくしていて、そういう場合はいずれも天の声のよ
 うに必要な言葉がいずこからともなくひびいている感じ。
  この歌を読んで前川佐美雄の「春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ」
  (『大和』)が脳裡をよぎったが、それも少し計算されているのかもしれない。(鹿取)


      (まとめ)2013年9月
 いよいよ白馬江にまみえるのかと、名を聞いただけで緊張している場面。
 この一連全体に関係するので作者自身の『南島』あとがきの関連部分を引用する。(鹿取)

    「白馬江」は同年の秋十一月、朝日新聞歌壇が催した歌の旅であるが、詞書にも
   書いたような事情で、私は白馬江に特別な感慨をもっていた。美しく、明るい豊かな
   流れが、夕日の輝きの中をゆったりと蛇行していた景観は忘れがたい。妖しいまでの
   淡彩の優美な景の川に船を浮かべて、長い長い歴史の告発を受けているような悲しみ
   を感じていた。(鹿取注:「同年」とあるのは沖縄の旅をした1987年のこと)
  

馬場あき子の外国詠(韓国) 255

2015年12月23日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠 (2010年12月)
          【白馬江】『南島』(1991年刊)P74
            参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
           T・H、渡部慧子、鹿取未放
           レポーター:渡部 慧子
          まとめ:鹿取未放
                
       日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
        ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
        へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。

255 なみよろふ低山(ひくやま)の木々もみぢつつ韓国(からくに)や炎を発しをれり吾をみて
 
      (レポート)
 わかるようでしかと説明できない※「なみよろふ」については後述する。が、作者の位置からさほど高くない山が並び、それでいて寄るように重なっているとの意であろう。ちょうど「もみぢ」の頃であった。「韓国や」と感嘆しているのは、ただもみじの美しい国としてのそれではあるまい。つづく「炎を発しをれり」とあるように狼煙をあげるにかよい、それは単純な見立てに終わらず、韓国と日本の長いかかわりのゆえに、作者の何らかの意識にはたらきかけるのである。「吾をみて」とするゆえんである。意味から一首を考えたが「もみぢつつ韓国(からくに)や炎を」の三つの事象によって、くれないとかからくれないを想像させる力があって、美しさがそなわっている。

 ※「なみよろふ」を調べてみたが見あたらない。ただ万葉集に「とりよろふ」と詠っている例が
  あり作者の造語ではないかと考える。ちなみにとりよろふは次の通りである。
 とりよろふ「取り具ふ」〈上代語〉語義未詳。草木で装ふの意、足りそなわるの意、都に近く寄っているの意、村山が寄り合っている意などの諸説がある。大山(やまと)には群山(むらやま)あれどとりよろふ天(あま)の香具山(かぐやま)
                         以上旺文社古語辞典

 【補足】大和には群山あれどとりよろふ天の香具山登り立ち国見をすれば国原は煙(けぶり)立
  ち立つ海原は鴎(かまめ)立ち立つうまし国ぞ蜻蛉島大和の国は
     (慧子)


           (当日発言)
★この一連では最初の詞書きが非常に重要で、それを踏まえてレポートしないといけない。「吾
 を見て」とあるが、背景の日本人全体に対して憤っている。(実之)
★朝鮮出兵は秀吉の時代にもあった。(曽我)
★「炎を発しをれり」は直接的には木々の紅葉のみごとさを言っているんだけど、実之さんが言
 われたように韓国の日本人に対する憤りの強さのイメージだと思う。「をれり」は、憤りを感
 じ取ってぎょっとしている吾の痛みの感覚をよく伝えている。作者のいつもの技で、紅葉した
 山(それは韓国そのものでもある)が吾を見て炎を発しているという構図になっていて、スケ
 ールが大きい。
  ところで歌とは直接関係がないが、馬場あき子一行の韓国吟行の旅は1987年11月、大
  韓航空機爆破事件が起こったのは同年11月29日である。帰国後の事件だったのだろう。
         (鹿取)


      (まとめ)2013年9月
 レポーターが引いている歌は万葉集巻1に載る舒明(じょめい)天皇の国見の歌で、長歌である。 ところで、斎藤茂吉の『あらたま』に「朝あけて船より鳴れる太笛のこだまは長し並みよろふ山」
がある。おそらく、茂吉が上記の万葉集の歌「とりよろふ」からヒントを得て「並みよろふ」という語を造ったのだろう。そして馬場あき子が茂吉の語を借用したのだろう。「並みよろふ」はどちらの歌でも「連なって寄り添っている」くらいの意味だろうか。
 結句が10音の破調だが、「吾」を押出さなければ定型に収めることが可能だ。定型を破ってでも「吾」を入れたい強い思いがあったことは、一連全体に掛かる詞書を読むとよく分かる。この歌は序歌としての機能をしっかり果たしていて、次の歌からあふれるように思いが展開される。歌集のあとがきを読むとさらによく分かるが、長くなったのであとがきの引用は明日に延ばす。(鹿取)

   

馬場あき子の外国詠78(スペイン)改訂版

2015年12月22日 | 短歌一首鑑賞
  馬場あき子の外国詠9(2008年6月)
      【西班牙 2 西班牙の青】『青い夜のことば』(1999年刊)P53
       参加者:N・I、M・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:藤本満須子
      まとめ:鹿取未放


78 西班牙より見ればヤジローとザビエルの対座の秋の無月邃(ふか)しも

      (レポート)
 76の歌でも「秋」とうたっている。この時期、日本より少し気温は低いスペイン、マドリッドであろうが、乾燥し、湿度の低いこの地の青空の深さを「秋」とうたわずにはいられなかった作者である。青い空、深い青空は高知の秋の空を思い浮かべるのだが。下の句に作者の深い感慨が込められている歌と思う。
 ザビエルとヤジロー、互いに孤独な二人が対座している。キリスト者としてのザビエルの生き方に強く惹かれ、罪人として逃亡していたヤジローは受洗し、ザビエルを案内して日本に帰るというのである。日本は安土桃山時代、小田信長が天下を取ろうとしていた頃である。(鹿児島藩、琉球、奄美、黒糖専売、密貿易、江戸時代を通じてほとんど一揆がなかった。)結句の「無月」とは?白い月が浮かんでいる天空の様子だろうか。(藤本)


     (発言)
★ふたりが対座した8月15日をうたっているので、作者が旅行した6月の季節を「秋」ととらえ
 ているわけではないと思います。「無月」は、「空が曇って月が見えないこと」と漢和辞典に出
 ています。(鹿取)
★ヤジローとザビエルの対峙を扱ったすごさ。(T・H)


      (後日意見)(2015年12月)
 東洋の一犯罪者であるヤジローとキリスト教国の最高の知性であり情熱を秘めた神父との魂と魂のぶつかり合いを扱って緊張感があり、かつ奥深い味わいがある。「ザビエルとヤジロー」ではなく、「ヤジローとザビエル」である点は、ヤジローへの心寄せの深さであろうか。それはともかく、」ザビエルがヤジローを伴って薩摩に上陸したのは八月十五日、中秋の名月その日であった。無月とは中秋の名月に月が見えないことをいうが、無月の深いふかい闇の中で二人はいのちがけの鋭い議論を交わしたであろうか。ヤジローがポルトガル語を学んだのは二年弱、日常会話には不自由しなくても微妙な教義内容に立ち入ってザビエルと互角に議論できるほどの語学力は持ち合わせていなかっただろう。また、スペイン生まれのザビエルもポルトガル語がそれほど達者ではなかったらしいから、ここでの対座は孤独な魂同士の触れあいを感受すればいいのだろう。もちろん無月も対座も馬場が創造したドラマである。無月という設定によって個としてのザビエルとヤジローがより屹立し、かつふたりの関係の濃さが浮き彫りにされている。(鹿取)