かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

原田禹雄の京都大学皮膚特研と本邦雄

2014年08月28日 | エッセー


 「京都大学皮膚病特別研究施設前庭のリラは今年も花開いただらうか。あるひは夙(と)うの昔に木も庭も消え失せてあの真夏もひいやりと翳る空間は私の記憶にだけ存在するのだらうか。」(本邦雄『白き西風の花』解題より、1974年)

 この魅惑的な本の文章を、かりんの勉強会で大井学さんに教えられて以来、「京都大学皮膚病特別研究施設前庭のリラ」をどうしても見たくなった。上記文章はこんなふうに続いている。

 「―中略―『極』の創刊号の生まれたのがその特別研究施設の実験室内であつたことを知るのは当時も今も彼と私だけであり、その編輯校正其他百般にわたる雑務のために週に一度訪れる私を無愛想に実は欣然と迎へてくれた一時期の央部に、リラの花房はあえかに匂つてゐた。」

 それは1960年の冬と春のことで、「思へば私が最もよく生きたのは、真に生きてゐたと言ひ得るのはあの半歳の時間ではなかつたか。」と本は書いている。1960年といえば安保の年だが、本は40歳、2年前に第3歌集『日本人靈歌』を、翌年に第4歌集『水銀傅説』を上梓している。一方の原田はこの年32歳、横書きの第2歌集『錐体外路』を出している。

 原田がらい医学を専攻した若き皮膚科医として京大に勤務していたのは1952年から本と頻繁に会ったこの1960年までらしい。翌61年には国立療養所邑久光明園医長として転出している。(筑摩書房「現代短歌全集」第一四巻)
 
 それでようやくリラの話に戻るが、本が皮膚特研に原田を訪ねて通っていた7年後の1967年から69年の間、私は事務官として京大病院に勤務していた。本がこの解題を書いたのは更に7年後のことである。私が勤務した67年にはまだ皮膚特研の前庭のリラは咲いていたかもしれないと思うと、同じ病院構内の建物なのに見に行かなかったことが何とも口惜しい。
 高校を卒業したばかりの私は、まだ短歌を始めておらず、原田の名はおろか本の名も知らなかった。しかし、結研と呼ばれる結核研究所が近代的な病院から離れてじめじめした敷地に建っているのは見たし、若き日の瀬戸内晴美がそこで働いていたという噂も聞いていた。そして行ってはみなかったが、更にその奥に皮膚特研という建物があるのも知ってはいた。まれに、らいの患者さんが受付にいらっしゃることもあったからである。当時の皮膚特研の建物の写真がないか、ネットで探してみたがうまく見つけることができなかった。
 
 京大病院近辺は京都に戻る度によくぶらぶら歩きをするが、病院そのものも私の勤務時代とは建て変わっている。先日、塔のシンポジウムついでに諦めきれず立ち寄ってみたが、もちろん何の面影もなかった。病院の隣は大きく囲って丈高いクレーンが2台、作業中であった。どうも先端医療の施設が建つらしい。

      

 写真は病院構内西端近くに建つ古びた建物。皮膚特研にはかかわりがないが、夕立の直後でもあり、前庭の樹木の茂りが何だかわびしげで、ふっと懐かしく感じた。もちろん、リラの樹などはなかった。

 サモサタのパウロスを愛したる少年のなれのはてなる髭を剃らん
                        原田禹雄『錐体外路』

【きもの】眼鏡は冷蔵庫を探せ

2014年05月25日 | エッセー
  

      見つかった帯留めと、近所の公園のやまぼうし
   
 一日探し回った眼鏡が冷蔵庫から出てきた、という友人の話を聞いて以来、眼鏡がなくなると冷蔵庫を探すことにしている。そして眼鏡がなくなることは日常茶飯事である。ところが、友人と私では行動様式が異なるので、未だ冷蔵庫から眼鏡が出てきたことはない。

 ところで、この一ヶ月ほど探しつづけていたものに日傘がある。この日傘を差したいために夏きものを着るというほどお気に入りの日傘だった。傘が日焼けしないようにと去年の夏の終わり、どこかに仕舞ったっきり、行方が分からなくなっていた。

 日傘の季節がやってきて、さてと思ったが見つからない。クローゼットや和箪笥の中、押し入れなど探し回ったが見つからない。諦めてデパート巡りもしたが、なくしたお気に入りの日傘のイメージが払拭できず、どれをみても気に入らない。

 我が家では木製の傘立てを二つ玄関に置いている。折りたたみ傘は中に入れてしまうと紛れるので、枠の隅にS字フックをぶら下げてそれに掛けている。昨日の朝、玄関にS字フックがひとつ転がっていた。朝一番の電車で羽田に出かけた息子が、折りたたみ傘を慌てて引っこ抜いてフックを落としていったらしい。S字フックを枠に掛けなおしていると、枠に沿って小さな傘の柄がある。これ、何だっけと取りだしてみたら、くだんの日傘だった。伸縮性の柄で、ちょうど傘立ての木製の上段の枠と同じ高さになっており、同じ木製なので目立たなかったようだ。

 傘は傘立てにあるのが普通なのに、なぜ、ここを探さなかったのだろう。男物や普段使わない
傘を主に入れていた方だったからか?ここに入れる訳がない、という思いこみのせいか?何だか拍子抜けがした。

 最近出てきたもののひとつに、帯留めがある。5年くらい前、友人に貰って、使用もせず、どんな色や形だったか覚えてもいないうちに見失った。友人にどんなものだったか聞く訳にもいかず、そのままになっていた。ところが先日、帯締めの冬物、夏物を入れ替えようと、ついでに何本あるか数えてみようと引き出しの帯締め全て出してみたら、いちばん奥からくだんの帯留めが出てきた。

 夏物の帯揚げ一式は、クローゼットの上段、かばん収納の端に、箱に入って見つかった。
 9年ぶりに見つかった、お気に入りのセーターの話は以前に書いたが、ネパールに行った時のリュックの底から出てきた。

 ともあれ、お気に入りの傘と帯留め、夏の帯揚げも出てきたので嬉しい。傘が見つかったとき、西脇順三郎の次の詩を思い出した。

    昔法師の書いた本に
    桂の樹をほめていた
    その樹がみたさに
    むさし野をめぐり歩いたが
    一本もなかつた
    だが学校の便所のわきに
    その貧しき一本がまがつていた
    そのおかしさの淋しき
     「旅人かえらず」二六 (新潮文庫『西脇順三郎詩集』村野四郎編・昭和48年第十一刷) 

3つ並んだトイレ

2014年02月06日 | エッセー
 2つ並んだトイレが話題になっているが、3つ並んだトイレを見たことがある。
18年前、某国の有名観光地での経験だから目撃した人は相当の人数にのぼるに違いない。

 トイレは水洗だったと思うが、3つのトイレに仕切りは無く、3つのトイレを一まとめにして内側から掛け金で鍵をかけるようになっていた。何の為の鍵か、鍵の必然性についていたく悩んだものだった。

 今は美しくなったが、国の玄関口である飛行場のトイレも鍵が壊れていたり、鍵そのものがあっても無意味な、真ん中だけ囲ってあって頭と足は丸見えというものだった。便座は正面向きなので、若いお嬢さんがこちらを向いて座っていてどぎまぎしたり、とても心許なかった。

 また国立の博物館には広い立派な水洗トイレがあったが、水を流した形跡は全くなく恐ろしく汚れていてとても入れなかった。建物の外にもトイレがあると聞いて行ってみると、遙か離れて独立したトイレが建っていた。男女の間は壁があったが、中はコンクリートで、広い空間にただ一本の溝があるだけだった。

 とはいえ、国にはそれぞれ習慣の違いや事情というものがあるので、某国のトイレ事情を嗤ったり蔑したりするつもりは全く無い。

 これはもう少し昔、40年くらい前、京都に住んでいた時のこと。その頃、タイプライターや社交ダンスや仏教や聖書や、いろんなものを習っていた。その一つが編み物で、下宿から大きな重い編み機を提げて、夜に先生の家に通っていた。ある時、トイレを借りようとしたら外だという。暗い中をようやくたどり着いたのは何軒かで使う共同のトイレだった。ドアはあるが、中は天然の溝(のように私には思われた)に2本の板が渡してあるだけ。その板が薄くて揺れるのだ。厳寒期、底冷えのする京都で、とてもとても恐いトイレの思い出である。それに比べれば、コンクリートで溝が掘ってあるトイレは安定していたものだ。

     ◆◆◆

 公園に鍵の壊れたレストルーム足が見えるといふたのもしさ
           尾崎まゆみ『綺麗な指』
お嬢さん三人並んで開け放つトイレの前に立ちすくみたり
          鹿取 未放

 尾崎まゆみ歌集『綺麗な指』には秀歌がたくさんあるが、関連のある歌を引用させていただいた。結句の「たのもしさ」がいい。私のは意味だけの歌、もちろん歌集には入れていない。

佐々木実之歌集『日想』の已然形

2013年12月21日 | エッセー
     
        
        
【1990年】京大短歌
揚子江川海豚こそ賢けれいくさ見物しに来るもをり 

斃れたるまま天空を渡りゆくオリオンよもはや人を恋はざれ

【1993年】
大きなるものの常とて頓死せる鮟鱇いよよ静かなりけれ

【1994年】
家の名のなき墓石の並びゐる石材店に昼しづかなれ 

【1997年】短歌研究応募
マキャベリを心底愛すといくたびも言ひつのりたる頬豊かなれ
  
  【2000年】
水底は異形のものを容るるなれアメフラシ雨を降らして逃げよ

【2001年】
賢きは懼れやすけれ一頭がなかなかゲートに入らうとせず

【2002年】
船と船すれちがはせて内水はうとましきまで静まりゐたれ

【2003年】
翻る星条旗こそうれしけれ民主主義とは戦争が好き 


【2004年】
文庫本薄きままなれ大正の侏儒は言葉を言ひさして死ぬ

    かりん賞
アヲコ浮く運河の上にかかりたる歩道橋こそわんわん揺るれ
   かりん賞
また一羽飛び来たりては去りてゆく奈良とはつばめの多き町なれ
 

           
【2005年】
漆黒に水のかをりをただよはせ螢は人におぢぬものなれ

旬といふ語のうれしけれぎんいろに包丁入れて秋刀魚の鮨

駅弁のゆかしきかなや安積山花かつみ弁当といふを食ひたれ

【2006年】
守るべきものありてこそおにばすの蕾は太き棘を育め 

朝々を高利貸しこそ優しけれわれにティッシュをひとつづつ給ぶ

はなびらの薄き牡丹を思はしめ寝息をたつる乳房白けれ

信号に盲人用の曲鳴れば少し明るき都市の朝なれ 
 

【2007年】
渡海文殊の獅子の足音ゆつくりと夏真夜中を聞くここちすれ

まひるまの胴をゆつくり回しつつミキサー車道に働きゐたれ


【2010年】
いちはやき八十物部の滅ぶなれ躬づから君の率きたまふを

知人の小説『異郷之情』

2013年11月03日 | エッセー




 大学時代の友人の夫君である日高隼人氏が文芸社から『異郷之情』という小説を出版された。私の友人は、大学卒業後すぐに日本語教師として台湾に赴任し、長く滞在していた人である。それで、小説の舞台である台湾にまずは興味を覚えて読み始めた。
 『異郷之情』は、主に1970年代の台湾が舞台で、古い時代の台湾という私にとって未知の国の社会事情や風俗が活写されている。また、猥雑な台湾の小路に住む人々の暮らしや、まだ貧しかった日本の都会や田舎の生活もリアルに描かれている。読みながら、台湾のにおい、日本の都会や田舎のそれぞれのにおいが正にただよってくるようであった。出逢った一人一人との細やかな交流が、私のこころを暖めてくれた。何よりも台湾人である「劉兄」の人物像が魅力的で、国を超えた人間の魂の交流が熱く語られている。たいへん面白く、いただいた晩から一気に読み上げた。
 しかし、小説をいただいたのは、まだブログを始めていなかった5月のことで、まことに時期遅れになってしまったがここに紹介させていただく。主人公は日台合弁会社の駐在員として台北に赴任するところから始まって、紆余曲折、台湾の田舎町やフィリピンなど放浪することになる。これ以上具体的な内容に触れると、読む意欲を削ぐかもしれないからここでやめるが、興味を持たれた方はぜひ自分で読んで、『異郷之情』の世界を味わってほしい。
 以下にプロローグの一部を引用させていただく。

 他の人と同様、私も人生の途上で、様々な人と出逢い、そして影響を受けてきた。その中に、民族が違うにもかかわらず、私の心を支え、私に未来を与えてくれた人物がいる。私はその人物を、敬意と親しみを込めて『劉兄(リユシオン)』と呼んでいた。
 彼は、異郷の地、台湾の人である。
 台湾は日清戦争から日本の敗戦に至るまでの五十年間、日本の統治下にあった。台湾人でありながら日本人として育ち、日本の敗戦によってまた台湾人となった台湾の人々。歴史に翻弄(ほんろう)された台湾の同胞同様、劉兄もまた戦争に翻弄され人生を狂わされてしまった。

────   中略 ───── 

 これは、戦争によって人生を狂わされた一人の台湾人と多感な青年期を激動期の台湾で過ごした一人の日本人青年との、出逢いと友情、そして二人の人生の物語である。

貧血三態

2013年10月29日 | エッセー
 貧血で倒れたなさけない記憶。いずれもみっともないことこの上ない。
①献血車  ②手指の縫合時  ③青山のレストラン

 ①献血車
 娘と食事の約束をして駅で待ち合わせた。私の用事が早く終わってしまって、駅に着いたときには待ち合わせ時間まで40分もあった。そこに「30分、あなたの時間をください」という声が飛び込んできた。駅前に停まっている献血車の前だ。即決した。
 問診を終わって、200ccでなく400cc採るのか、お腹空いているのにな、とは思ったが、まあいいやと中に入って針を刺された。切迫早産で3ヶ月入院し、毎日点滴をしていたことがあるので針を刺されるのは平気だ。この人上手かなあと針を見ていた間はよかったが、ふと目を移すとビニールのパックに採り出した血液をゆらゆらと揺すっている。それを眺めているうちにだんだん気持ちが悪くなってきた。そして寝かせてもらうはめに。気がついた時には娘との待ち合わせ時間はとっくに過ぎていて、ケータイにいくら電話しても出ないからと娘は帰宅してしまっていた。きっと献血のブラックリストに載っていて、もう献血できないんだろうな。

 ②手指の縫合時
 夜中にカッターナイフで指を切った。資源ゴミに出そうと段ボール箱を解体していて、うっかり空中からガムテープに向けてナイフをふるってしまったのだ。見るからに縫わないと駄目そうな傷だ。外科医がいる当番の病院を電話で聞いて、自分で運転して出かけた。当直の20代とおぼしき男性が丁寧に診察をしてくれ、やはり縫わないと駄目ですねと言う。指に注射を打ってさあという時、息子と同じ歳くらいだけどこの先生縫った経験あるのかなあ、と失礼な考えが頭をかすめた。そのとたんに目の前が暗くなったのだった。

 ③青山のレストラン
 ある記念日におしゃれをして青山のレストランで食事をしていた。ちょうどおいしいお肉を食べている途中で、急に気分が悪くなった。トイレにと立ち上がり、やっとトイレのドアを開けたが個室にはたどり着けず、手前の洗面所のあたりで何も分からなくなって倒れてしまった。気がついたら休憩室のベッドに寝かされていた。見守ってくれていた支配人らしき人が言った。「気がつかれてよかった、お連れの方をお呼びしましょうか。」

もしもし、小樽警察です

2013年10月28日 | エッセー

 数年前、横浜に住む私のケータイに「小樽警察です。お宅の息子さんが……」という電話が入った。夕方、勤めから帰って駐車場に車を止めたところだった。「救急車で病院に運ばれました。」と続いた。半信半疑だったが、「生きているんですか?死んだんですか?」と聞いた。向こうは「生きている息子さんからこの電話番号を聞いて掛けています。命に別状はありません。」と言った。
 小樽港近くのコンビニで倒れて救急病院に入院しているという。
①後で病院の医師から電話がある。
②コンビニの商品棚が倒れて、商品にも被害がありそうだから、電話して補償について話し合ってくれ。
③コンビニに息子さんの車が止めたままになっているので、保険会社と連絡を取って、病院の駐車場にレッカー移動してくれ。

 間もなくして、劇場版オレオレ詐欺みたいに医師と名乗る人から電話があった。
④検査の結果、格段の異状は見つからないので疲労による貧血だったと思われる。明日退院させるが、車で帰すのは病院の責任上困るの で迎えにきてほしい。
⑤本人は今検査室にいるが、そのうち電話させる。

 大学院生の息子は一ヶ月前横浜の自宅を出発して、北海道にフェリーで渡った。先生や仲間達を乗せて宿から研究現場に毎日100キロの距離を往復していた。入院の前日、研究は無事終わったから、明日はフェリーで舞鶴に行くよ、と電話があったばかりだった。(舞鶴港から祖父母が住む綾部に寄る予定だった。)
 本人に電話してみる、という知恵がこの時思い浮かばなかった。ここが詐欺にひっかかるネックかもしれない。この時は、かつて小樽で警察官をしていた知人を思い出して電話し、事の真偽を確かめて欲しいと頼んだ。知人がすぐに動いてくれて事実であることが判明した。

 事実と知って、それからが忙しかった。
○その日の夜出港の小樽~舞鶴間のフェリーをキャンセルする。
○翌日の小樽~大洗間のフェリーを予約する。
○親戚に息子の迎えを依頼する。(翌日はどうしても休めない仕事が入っていた。)
○親戚の乗る飛行機のチケットを予約する。
○コンビニに電話して謝罪、明日まで車を置かせてくれないか交渉する。(若い声の店長さん、たいしたことはないから補償は全く必要ない、駐車場は広いので退院まで駐めてもらっていいですよ、と暖かい返事をいただいた。)
 
 夜中になって息子から電話が入った。院の仲間をJRの駅に、指導教授を飛行場にそれぞれ車で送って小樽港の近くまで来た。コンビニで下着を買おうとして目の前が真っ暗になって倒れた。気がついたら病院のベッドだったという。

 後から考えると不幸中の幸いというか塞翁が馬というか、車を駐めてからコンビニで倒れたというのは非常にラッキーだったと思う。もし先生達を乗せた高速道路で事故を起こしていたらどうなったろう。自分だけが死ぬならまだいいが、先生や仲間達が亡くなったりしたらどうなったろう。また対向車を巻き添えにしていたら、どうなったろう。そう思うと静止した状態で倒れたのは何といってもラッキーだった。
 
 もっとも娘はよくこんなふうに言う。「あの時のママの慌てようったらなかった。あれじゃ、コロっとオレオレ詐欺にひっかるよ」







失せもの  その2

2013年10月26日 | エッセー
 先日、娘と待ち合わせて美術館に行った。やってきた娘を見たら、雨は止んでいるのに長傘を持っている。おまけにその傘ときたら私が出先で雨に降られた折、リサイクル屋に飛び込んで100円で買った物だった。鑑賞する速度が娘とは違うので、先に帰るという娘にくれぐれも傘を忘れないよう言い聞かせて入り口で分かれた。帰りに念のため傘立てを覗くとしっかり傘が残っていた。
 どうするかしばらく迷った。100円の傘だから放棄したかった。黙って帰って後から傘札を送り、傘は捨ててくださいと書いたら迷惑だろうか。傘を取りに来てくださいと言われても困る。結局、正直に申し出て、合い鍵で傘を出して貰い、帰宅してから鍵を送付した。傘札の送付料は120円だった。

 ここのところ雨続きだが、この夏も雨が多かった。着物専用にしているお気に入りの日傘があるのだが、6月7月とさす機会がなかった。8月の下旬になってやっと日傘のお出ましだと思ったが、どこを探してもない。お気に入りだったので他の日傘に買い換えるのは嫌だ。今夏この日傘を差して出た記憶がないのだが、念のため着物で出かけた場所5カ所ほどに聞いてみたがどこにもなかった。どこへ消えてしまったのだろう?

 消えたといえば、夏物の帯揚げが10枚ほど全て消えてしまった。冬物と入れ替えようとして和箪笥の引き出しを開けて気がついた。夏冬両方を入れるとあふれるようになったので、冬物は押し入れにしまっていたのである。幾枚かがなくなったのなら、使用した後アイロンがけしようと別にした可能性がある。しかし今夏使用していない帯揚げだって幾枚かはあるのに、全てがないというのはどういうことだろう。これは病気の入り口だろうか?

 しかし中には出てきたものもある。お気に入りのセーターが長年どうしても見つからなかった。
お気に入りだから捨てるはずはないのに家中探してもないのだ。家で手洗いしていたが、万一クリーニングに出していても札があるはずだ。電話だって掛かって来るかもしれない。どうもそういうこともなく、箪笥にもクロゼットにも押し入れにもない。ほとんど忘れかけていた去年になってひょんなところから出てきた。ネパールで10日間ほど背負って、その後高尾山のふもとで安いリュックを買ってから出番の全くなかったリュックの底に入っていた。買い換えた時、移し忘れたものとみえる。実に9年間リュックの底に眠っていたことになる。 

高尾山とリュック

2013年10月21日 | エッセー


今は亡き佐々木実之さんと二人で高尾山に登ったことがある。10年前の2003年11月の下旬のことだ。その年9月に亡くなったかりんの歌友を偲んでの登山で、実之さんの提案だったが、なぜ高尾山だったかはもう覚えていない。

 高尾駅構内にリュックを吊した臨時の店が出ていた。その時、私が背負っていたリュックは、11月初めにネパールの旅に使ったたいそうなシロモノで、値段も高かったが、大きくて重い。迷わず780円の軽いリュックを買って中身を入れ替えた。

 11月の下旬だというのに山はあまり色づいておらず、美しくなかった。ケーブルカーは使わなかったので、かなり疲れた。持参した日本酒はなぜか頂上では飲まず、麓に降りてきて、どこか田んぼの畦のようなところにレジャーシートを敷いて、そこで飲んだ。寒い日であまりお酒が飲めない私は、いつまでも寒かった。実之さんがほとんど一人で飲み、飲みながら彼はしきりに泣いた。あまり寒いので引き上げて、駅のホームの立ち食い蕎麦屋でコロッケ蕎麦を頼んだ。そこでは私が泣いていて、あまり食べられず、私のどんぶりに乗っているコロッケ2つも実之さんが食べてくれた。

 ところで高尾山で買ったリュックだが、軽くてとても使い勝手がよい。安かったのはたぶんあるブランドのまがい物だったからだが、当時そのんなことは知らず、気にもしなかった。
 高尾登山の翌年、私は勤務先の高校が異動になり、自宅と勤務先が近い者は自家用車通勤が許可されなくなった。それから8年間ほぼ毎日、高尾山で買ったリュックを背負って電車で通勤した。教材を入れ、帰りにはスーパーで買った食材も入れた。勤務最後の3年間はリュックを背負って片道40分を歩いて通勤した。
 このリュック、買って10年後の今も、かなりくたびれたとはいえ日々の買い物に現役で活躍している。

必要な本が無い

2013年10月19日 | エッセー


 (クリックすると写真が大きくなります。) 

 このごろ、大きな本屋さんに行っても必要な本が手に入らない。
写真の本は、もう半年くらい前に買った本だが、当然あると思った近所の本屋さん3軒になかった。

 仕方がないので息子に依頼した。勤務している某大学の正門近くの本屋さんでは職員割引がきくので、時折頼むのだが、これらの本は置いてないという。「源氏物語」に至ってはジュニア版の抄訳ならあるがどうですかと店員が聞いていると電話がかかってきた。大学時代、怠けてろくに勉強しなかったとはいえ、一応国文科の卒業である、まさか今更ジュニア版の抄訳を使うわけがないだろう、と怒った。(月1回開いている「源氏物語を読む会」に全集を持参するのは重いので、文庫本を持って行くのである。)

 れっきとした文学部(まあ、今、文学部は斜陽だが)もある大学近くの書店である。特に専門の貴重書籍でもない、「源氏物語」の文庫本が置いてないなんてけしからんと、息子相手に怒ったら、客も悪いんじゃないかという返事。学生がきちんとした本を買わないから置いてないんだという。そうかなあ?今の学生って「源氏物語」も吉本隆明も全然読まないの?

 ちなみに、「源氏物語」の方は、たまたま出たついでに新宿の紀伊國屋書店で買った。
(ここには、「のだめカンタービレ」のフランス語版が置いてあって嬉しかった。)
 吉本隆明の上下巻は、京都駅で買った。それもおみやげ屋の並ぶ一角にある街の本屋さんに、何冊も平積みで置いてあった。
 やっぱり、大学前の本屋さん、ひどくない?