かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男の一首鑑賞 360

2016年10月31日 | 短歌一首鑑賞

      渡辺松男研究43(2016年10月実施)『寒気氾濫』(1997年)【半眼】P147
          参加者:泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
           レポーター:泉 真帆
           司会と記録:鹿取 未放


360 再会の山毛欅の樹幹を抱くときのその悦びのぐぐぐぐと春

     (レポート)
 渡辺松男歌の魅力は、情動を歪めず一首に気分をのせられるところだと思う。読者はそこをたのしめる。「ぐぐぐぐ」というオノマトペで、悦びがだんだんと実感として迫ってくる様が表現されていると思う。視角的にも「ぐ」を重ねてたのしい。「再会」に心情が込められていると思う。(真帆)


       (当日意見)
★別に山毛欅でいいけど、まあ恋人との二重写しになっているんでしょうね。作者は山毛欅だけと
 とってほしいのかしら。(鹿取)
★あくまで山毛欅に再会できた喜びじゃないですか。違う?(真帆)
★真帆さんの解釈はいいと思いますよ。でも二重写しというのもありだと思う。(鹿取)
★一連を読んでいくと人との再会だから、ダブって読んでもいいと思います。誰かを抱きたきとか
 も出てきましたから。ただ、松男さんは木が好きだから、うまく言葉が斡旋されている。あんま
 り人を前面に出してもあれだし、批評を書くのが難しいですね。(鈴木)
★私はどちらかというと、この歌は山毛欅のことだけと採りたい気分なのですが、素肌、白蓮の下
 で待つ、うつそみを恋うの後に置かれた歌だと思うと、どうしても恋人を重ねて読むことになっ
 てしまいます。(鹿取)
★でも、「ぐぐぐぐ」って松男さんしか使えないですね。(鈴木)
★素敵ですね、気分が出ていますよね。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞 359

2016年10月30日 | 短歌一首鑑賞

      渡辺松男研究43(2016年10月実施)『寒気氾濫』(1997年)
        【半眼】P147
         参加者:泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:泉 真帆
         司会と記録:鹿取 未放


359 白蓮(はくれん)の花咲くしたで待つこころ行き違いさえみずみずとして

      (レポート)
ハクモクレンの花は、葉の出る前に花だけが咲く。曇り日であれば幻想的だし、青空の日なら白い鳥か蝶がいっぱいとまっているような楽しさがあるだろう。前の歌でうつし身の春のめざめを詠んだが、心の方は体と違い恋人との行き違いでさえ瑞々しく感じているというのだ。身体よりも自由な「心」、と詠んだすがすがしい一首だと思う。(真帆)


       (当日意見)
★「行き違いさえみずみずとして」という言い方が魅力的だと思います。普通は行き違いには何だ
 と嫌になるけど、春だからそれさえみずみずとしている、美しい白蓮の下の春の気分がよく出て
 いると思います。身体と比較してどうのとは思いませんが。(鈴木)
★美しい白蓮の下で恋人を待つだけだと、甘い歌謡のようになりますが、「行き違い」を入れたこ
 とで甘さが抑えられて、歌に奥行きが出たように思います。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞 358

2016年10月29日 | 短歌一首鑑賞

      渡辺松男研究43(2016年10月実施)『寒気氾濫』(1997年)
           【半眼】P146
           参加者:泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
            レポーター:泉 真帆
            司会と記録:鹿取 未放


358 口中に咽飴まろくとけてゆきわがうつそみはうつそみを恋う

     (レポート)
 樹々に春が来るように、作者のうつしみにも春の気分がやって来た。口の中に咽飴をころがしながら溶かし舐めていると、甘味とともに現世に生きるわが身体が異性の身体を恋いはじめた。春のめざめの一首だろう。(真帆)


      (当日意見)
★「わがうつそみはうつそみを恋う」が綺麗だと思いました。これは自分が自分を恋しているんだ
 と思います。自分で自分の中に入っていく感じがしました。(慧子)
★私は、あまり身体とか肉体を求めるという感じはしなくて、この世にある私が同じこの世にある
 別の人を思うというふうに取りました。喉飴を舐めてほっこりとした気分で、生きてる自分が他
 の生きてる温みを求めている感じ。(鹿取)
★喉飴を舐めるということは何か引っかかりがある訳ですよね、それが解消された。自分を恋うの
 か人を恋うのかは分かりません。(M・S)
★誰がとか誰をとかではなくて、現実を現実として受け入れますよということ。感覚として喉飴が
 口の中にあるということは現実をそんなふうにして味わっているわけです。だからもっと広いん
 ですよ。(鈴木)

渡辺松男の一首鑑賞 357

2016年10月28日 | 短歌一首鑑賞
 
     渡辺松男研究43(2016年10月実施)『寒気氾濫』(1997年)【半眼】P146
         参加者:泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:泉 真帆
         司会と記録:鹿取 未放


357 春一番に揉まれ揉まれてきらめけり樹々には素肌あるものなれば

      (レポート)
 なごり雪も絶えいよいよ季節は春。梅の花の香りとともに空気も緩んでくるころ、南からの強い風が吹く。冬の間厳しい姿をしていた樹々も樹皮の下には生木がある。春一番にもまれ生気を吹きかえすようにきらめいている。そんな歓びをうたったのだろう。(真帆)


     (当日意見)
★春一番の頃って木がよく乾いていて光るんです。(慧子)
★「樹皮の下には生木がある」とレポートにはあるけど、これは樹皮のことを言っているんでしょ
 う。皮を剥いて現れるんではなくて、皮の表面がすべすべしている。(鈴木)
★最初、下句の意味が掴めなかったのです。(真帆)
★素肌ってどの部分を指しているんでしょうね。前の月、その前の月にも松男さんのエッセーを引
 用したのですが、351番歌「行く雲の高さへ欅芽吹かんと一所不動の地力をしぼる」にも 
 書いたのですが、そのエッセーでは、木の大部分は死んでいて、木の表面にほんのうっすらと生
 の部分があるっていうようなことを言っています。そこから考えると一皮剥いた部分が煌めいて
 いるとは考えにくいのですが、表面はごつごつしていて素肌っていう感じではないし困るのです
 が、どこかで私の認識が間違っているのでしょうか。(鹿取)
★若木と老いた木は違います。また、確かに年輪があって木の内側ほど古いんだけどそこを死ん 
 でいるとは言えないんじゃない。古くなって分厚くなっている。木の表面はごつごつしているか
 もしれないけど新しいわけです。一皮剥くとか剥かないとかは関係ない。また、あんまり細かく
 分析していっても仕方がない。全体としてみてゆけばいい。(鈴木)


馬場あき子の外国詠10 (ロシア)

2016年10月27日 | 短歌一首鑑賞

        馬場あき子の旅の歌1(2007年10月実施)
         【オーロラ号】『九花』(2003年刊)140頁
          参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、Y・S、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
          レポーター:K・I
         まとめ:鹿取未放


10 王妃の馬の額を飾る大きなるルビー諧謔として人を見てゐる

     (まとめ)
 値段もつけられないような高価な大きなルビーは、もちろん庶民には縁のないものだが、それが王妃が乗るからという理由でかつて馬の額を飾っていた。それが今展示されていて観光客が「へえ、馬に飾ったんだって」などと言って驚いて見ているのである。
 この歌は主客をひっくり返して、ルビーが諧謔として人を見ていると歌っている。このルビーは王朝の歴史、ひいてはロシアの歴史的背景すべてを背負っているのである。
 こんなふうに人から見られるはずのものが、逆に人を見ているという歌い方は、この作者の一つの特色をなす方法である。思い当たる歌を歌集の新しい順に少しあげてみよう。

 今帰仁(なきじん)のノロの勾玉かぐろ玉ある日わが眼に入りて世を見る 『世紀』
 夕雲は静かに窓に近づきて少し眠つたのちの吾を見る『飛天の道』
 あたたかきぶあつき体にふれしめて少し不似合に馬の眸がみる『青い夜のことば』
 蛸はみるまろくかぐろく陰惨にわたつみの底をみし眼もてみる
                   『青椿抄』
人間はいかなる怪異あざあざと蛸切りて食ふを蛸はみてゐる
烏数羽黒きビニール裂きゐしが静かなる迫力に吾を見つ
 
 また最近の「かりん」(07年1月号)にも次の歌が載る。
 ヘラ鮒を沢山釣つたあとの沼静かに鉛色の眼に吾れをみる

最後の歌、吾れにヘラ鮒を釣られてしまった沼の恨みと悲しみの入り混じったような眼が、あるはずもない沼の眼が見えるようである。(鹿取)


     (レポート)
 これも前記の場所で見たのでしょうか。しかし馬の額にルビーというのは想像できなくて異様な発想、それ故に諧謔とみたのでしょうか(K・I)

   

馬場あき子の外国詠9 (ロシア)

2016年10月26日 | 短歌一首鑑賞

       馬場あき子の旅の歌1(2007年10月実施)
         【オーロラ号】『九花』(2003年刊)139頁
          参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、Y・S、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
          レポーター:K・I
          まとめ:鹿取未放


9 ロマノフ王朝の宝石はざくざくの乱反射青い光赤い光深く野性的

     (まとめ)
 下句の破格の詠い方が魅力である。3句めも「大判小判がざっくざくざっくざく」などと使い古された感のある擬態語だが本来のイメージ力をもって迫ってくる。それほどふんだんに宝石類が使われ、見飽きるほど展示されてもいたのだった。宝石類は、エルミタージュ美術館でもエカテリーナ宮殿でも見たが、この場面はモスクワ、クレムリンの武器庫のものであろう。
 「ロマノフ王朝」は、1613年、ミハイル・フョードロヴィッチ・ロマノフがツァーリとなった時から1917年ニコライ二世がロシア革命で廃位されるまで300年余り18代続いた王朝。
ワイルドな詠い口が、ロマノフ王朝自体のもっていた野生をそのまま掴んでいるようだ。それゆえに苦しめられた民衆のことはここでは考えなくていいのであろう。(鹿取)


     (レポート)
 博物館などでみた旧王朝の遺品でしょうか素晴らしかったでしょう。(K・I)

   

馬場あき子の外国詠8 (ロシア)

2016年10月25日 | 短歌一首鑑賞

      馬場あき子の旅の歌1(2007年10月実施)
       【オーロラ号】『九花』(2003年刊)139頁
        参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、Y・S、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:K・I
        まとめ:鹿取未放


8 繰りかへしゴルビーが好きだといふ時を高揚しをりロシアガイドは

         (まとめ)
 ゴルビーはゴルバチョフ大統領の愛称。1931年生まれ。1985年、ソ連共産党書記長。1986年のチェルノブィリ原発の大事故による社会的政治的危機を打開し、国の停滞を打破しようとペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を推し進めた。マルタ会談で東西の冷戦を終結に導き、アフガンから軍を撤退させた。1990年、ソ連大統領就任。同年、世界平和に貢献したかどでノーベル平和賞受賞。しかし、ゴルバチョフみずから導入した経済改革と共産党組織との乖離によって体制に大きな揺らぎができ、1991年、クーデターによりゴルバチョフは拘束され、その後は連邦の求心力が弱まりソ連は崩壊、ゴルバチョフは退陣した。
 馬場一行がロシアを訪問したのはそれから10年後の2001年、エリティンも既に去ってプーチンの時代だった。ソ連崩壊後の国はどうであったか、ガイドの言動を通して一国の変遷を詠っている。現ロシアの国情についてはさまざまに取りざたされているが、崩壊後厳しいインフレに見舞われたことは記憶に新しい。しかし、この旅行中われわれにロシアの素顔を見ることは叶わなかった。ある地方都市の市場はわれわれの再三の懇願にもかかわらず見学することを拒否されたし、地方に行く街道沿いの道ばたでは給料不払いで現物支給のタオルやぬいぐるみなどを売っている人々を随分と見かけたりもした。ともあれ、このロシアガイドは現体制に批判的であるのかゴルビーを繰りかえし褒め称えているのであった。Oさんという愛嬌のあるガイドさんで、痩せていたため私は密かに「折れ釘のOさん」と名付けていたのだった。ガイド中はタイミングをみはからって日本のことわざを巧みにおりこみ、われわれは拍手喝采したものだった。(鹿取)

 レポーターは「現体制を喜んで受け入れている」と書いているが、これは間違い。2001年旅行当時、2007年レポート当時、いずれの時点でもプーチンが第2代ロシア連邦大統領(在任2000年~2008年)として体制を率いていた。(この3行は、2014年4月追記)(鹿取)


     (レポート)
 ロシア人ガイドが必ずしもロシア人を代表してはいないでしょうが現体制を喜んで受け入れている。(K・I)

   

馬場あき子の外国詠7 (ロシア)

2016年10月24日 | 短歌一首鑑賞

    馬場あき子の旅の歌1(2007年10月実施)
     【オーロラ号】『九花』(2003年刊)138頁
      参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、Y・S、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:K・I
      まとめ:鹿取未放


7 神を讃ふるうたの静かな暗い渕に金色(こんじき)こまやかな裸形をりたり

     (まとめ)
 6首目と同じ場面であろう。賛美歌が静かに流れている、その暗い渕に金色に描かれた裸形のキリストがいる、というのであろう。
 「暗い渕」は、歌の内容としてのそれでもあり、教会の建物の中の位置関係をあらわすのでもあろう。ロシア正教では像は安置されず壁などにイコンとして描かれるので、賛美歌の歌われている堂の中央に対して、周囲にある薄暗い壁などを指すのだろう。あるいは、凡愚の人智では至るのが難しい教義の深淵であるのかもしれない。金色はその深淵を象徴的にあらわしている色なのかもしれないし、こまやかなのはその造形や彩色の丁寧さをあらわしているのだろう。裸形は幼児のキリストではなく、奥深い精神性をたたえた磔刑のキリストだろう。
 「あり」ではなく「をり」といったところに生きてこころが動いている人格(神格)を感じる。6首目の聖母と同じようにやはり人々を見ているのであろう。七・七・六・九・七と一・三・四句目を字余りにして、流れを滞らせているようだ。(鹿取)


      (レポート)
 実景なのでしょうか心象なのかこれはよくわかりません。(K・I)

   

馬場あき子の外国詠6 (ロシア)

2016年10月23日 | 短歌一首鑑賞

     馬場あき子の旅の歌1(2007年10月実施)
      【オーロラ号】『九花』(2003年刊)138頁
       参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、Y・S、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:K・I
       まとめ:鹿取未放

6 金いろの玉葱形の屋根の下聖母眼を伏せてしづけきロシア

     (まとめ) 
 金いろの玉葱形のドームを持つ教会はロシアのいたるところにある。だからこの場を特定する必要もないのであろうが、その厳しく静謐なイメージから、6首目、7首目はヤロスラブリにある聖母女子修道院を詠ったもののように思われる。
 しかし、下の句の「聖母眼を伏せてしづけきロシア」で、作者は何をいいたかったのであろう。なぜ聖母は眼を伏せているのだろうか。宗教が禁じられたソ連時代のことを思っているのだろうか。(一説には、ボルシェビキは全国5万以上の教会を閉鎖あるいは破壊したそうである。)迫害された民衆の苦悩だろうか。現代の利潤追求にあけくれ、宗教が民衆のこころから忘れ去られていくことをであろうか。また、なぜロシアはしづかなのだろうか。戦争がないからか。政争がないからか。一党独裁で民衆のさまざまな考えが抑えられているからか。「て」を入れなければ7音の定形に収まるところをわざわざ「て」を入れているのはここでたゆたいを出し、立ち止まって読者に何かを考えてほいしからであろう。(鹿取)


      (レポート)
 ロシア正教会の特色ある伽藍形式でしょうか(K・I)

   

馬場あき子の外国詠5 (ロシア)

2016年10月22日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の旅の歌1(2007年10月実施)
     【オーロラ号】『九花』(2003年刊)137頁
      参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、Y・S、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:K・I
      まとめ:鹿取未放
  

5 レーニン像全部倒されしわけでなく旅に六人のレーニンに遇(あ)ふ

     (まとめ)
 「倒されし」の「し」が、過去の助動詞として正統に使われている例。ソ連が崩壊したとき、われわれはレーニン像を倒すシーンを幾たびもテレビで見せられたが、「いやあ、残ってたよ」といういのである。田舎にいくほど残っているといわれているが、ペテルブルグでもモスクワでも確かに見た。ヴォルガ川のクルージング中にも対岸に巨大な像を見たし、スズダリの市庁舎やヤロスラブリでも見た。
 ただし、私はかぞえなかった。かぞえたところに作者のレーニンへの、ひいては革命によって共産主義体制を勝ち得た、そして今はなき「ソ連」という国への濃い思い入れがうかがえる。しかも「七人」だと嘘っぽいが「六人」という数字がリアルである。像を残しておきたいと思っている人が多数存在している、ということでもあろう。(鹿取)


     (レポート)
 ペレストロイカの後にソ連邦という国家体制はなくなったのですが、同時にその為政者に対する批判も起きて。(K・I)
   

     (発言)
★レーニン像に対する共鳴、熱い思い。現体制の一党独裁の恐ろしさ、そのもとでの貧しい民衆に
 対する感慨がある。(藤本)
★六体ではなく六人といっているところが良い。(N・I)