かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

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渡辺松男の一首鑑賞 324

2016年06月30日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究39(2016年6月)『寒気氾濫』(1997年)【明快なる樹々】P135
      参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子
      司会と記録:鹿取 未放


324 世紀末地球の肌に芹・野蒜・土筆を摘みてやるせなかりし

      (レポート)
 春の野に出て草摘みをしていよう。古代ならばうちたわむれたり、男女の愛の場だったりするだろう。掲出歌は現代、地球の抱えている温暖化、土壌汚染を思えば、この行為のひとときの幸を、また摘み取った草々をもふくめて切なく思うのだ。(慧子)
 
 
          (当日意見)
★世紀末に焦点が当てられていますね。「地球の抱えている温暖化、土壌汚染を思えば」とあり
 ますが、そこまで思っているのでしょうか。あの頃、世紀末思想というか、末法思想ではない
 けど悪いことが起きるというようなことがいわれていましたよね、そういう反映かと思いました
 が。(石井)
★私は「やるせなかりし」という部分が最初読んだときよく分からなかったのですが、レポー
 ターの文章を読んで、なるほど世紀末を迎えて破壊されそうな地球の肌を作っている芹・野
 蒜・土筆を自分はまだ古代の人と同じように草摘みをして喜んだりしているけれど、これが
 地球を滅びに向かわせることを切なく思うのだというのがよく分かりました。(真帆)
★草摘みをすることが地球を滅ぼすとは思いませんが。また、「地球の肌」って面白い表現で、
 ここが眼目ですが「地球の肌」から芹たちを摘んでいるのであって、芹たちが「地球の肌」 
 を作っているのではないですよね。それから世紀末思想って19世紀末には終末論が流行 
 って特に芸術上でデカダンの気分が蔓延しましたけれど、20世紀末は少し違う感じだった
 ように思います。2000年問題とかITの世界で深刻な問題があったりしましたが、滅び
 の思想とは質の違うものだったように感じています。だから思想上の問題よりは温暖化、土
 壌汚染の問題の方が作者の頭にあったように思います。(鹿取)
★命を摘み取ることの切なさを、摘む行為、摘み取った草々どちらも切ないと、レポーターは
 解釈されているように思います。(真帆)

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渡辺松男の一首鑑賞 323

2016年06月29日 | 短歌一首鑑賞
 渡辺松男研究39(2016年6月)『寒気氾濫』(1997年)【明快なる樹々】P134
      参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子
      司会と記録:鹿取 未放


323 ぶつけあうこころとこころ痛すぎて樹々のみどりへ眼そらせり

          (レポート)
 場面として2人以上そこにいて、近景か遠景か樹々のみどりがある。意見の相違などとは違ってもっと切実な人間関係、愛などにかかわれるもののように読み取れる「ぶつけあうこころとこころ痛すぎて」から四、五句へ続くのだが、確かにみどりには心の状態を快復や解放へ向かわせる力がある。余談になるが様々な色の花に必ずみどりの葉があり、それらにいつも不似合いがなく、みどりの大きな力を思う。(慧子)
 

          (当日意見)
★この歌読むとさっきM・Sさんがおっしゃった夫婦げんかという解釈が説得力をもちますね。(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞 322

2016年06月28日 | 短歌一首鑑賞
 渡辺松男研究39(2016年6月)『寒気氾濫』(1997年)【明快なる樹々】P134
      参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子
      司会と記録:鹿取 未放


322 木から木へ叫びちらして飛ぶ鵯が狂いきれずにわが内に棲む

          (レポート)
 鳥は憧憬として、あるいは死者の魂、知恵の源、平和への願い等々、さまざまに象徴としてあつかわれてきた。烏、鳩、ふくろう等を思い浮かべる。ここは鵯、甲高い声で叫びちらして木から木へ飛び移るその状態を「狂いきれずに」ととらえる。これはたぶん悲劇性をおびたものとしてとらえられたのだろう。すんでのところですくいとり、そこからたくみに自身のうちに棲まわせた。(慧子)
 

          (当日意見)
★「すんでのところですくいとり」辺りを分かりやすく説明してくれませんか。(鹿取)
★ほっといたら狂ったのじゃないかなと。その手前で救ったという感じがするのですが。
   (慧子)
★鵯を救った後、作者はどうなるのですか?(鹿取)
★作者も狂い切れなくて苦しんでいるわけです。(慧子)
★鵯が発狂してしまったら作者の内面には棲まないだろう。鵯の情景を見ながら、自分の内面
 を歌っていらっしゃる、心象風景です。だから慧子さんの捉え方にも一理あると思いました。
 ただ、「死者の魂、知恵の源、平和への願い」というところは一般的なことだから、この歌
 には関係がないように思います。(石井)
★鵯は鳴き声は甲高いし、「木から木へ叫びちらして飛ぶ」様子は確かに今にも狂いそうに見え
 るかもしれないけど、鳥だから狂わないでしょう。内面の苛立ちが頂点に達したような物狂 
 おしい状態を、鵯の様子に投影して述べているので、狂いそうな鵯を救ってやったから自分
 が狂いきれずに苦しい状態になったというのとは違うと思います。「木から木へ叫びちらし
 て飛ぶ鵯が」までは序詞のような役割なのではないですか。それを心象風景といってもい 
 いですけど。鵯は実景であっても、空想であってもいいと私は思います。(鹿取)
★この歌。渡辺さんの歌だと思わないで読んだら、奥さんが怒って叫んでいて、それをご主人
 が狂わないうちに何とかなだめたけれど今度は自分がいらいらとしてしまう、そういう歌と
 も読めますね。(M・S)


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渡辺松男の一首鑑賞 321

2016年06月27日 | 短歌一首鑑賞
 渡辺松男研究39(2016年6月)『寒気氾濫』(1997年)【明快なる樹々】P134
      参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部 慧子
      司会と記録:鹿取 未放


321 誰よりも俯きてあれわが日々よ俯かざれば時代が見えぬ

          (レポート)
 魅力的で箴言のような一首。「誰よりも俯きてあれ」とは謙虚であれ、自己をよく見つめて忠実であれと戒められているように受け取った。もちろん戒めであろう。だが修身上のことのようにのみは受け取れない。このままではどうも下句に繋がらない。では上句のように俯きていればどうなるのだろう。顔を晒さないことになろう。何に対して?世の中に、時代にということになろうか。つまり時代を表層的、常識的でなく、それらを突き抜けて深くみるために、逆説的に「俯きてあれ」といってはいないか。次のような文章に出会ったことが理解の助けになったので記載する。(慧子)
  しかし人間であっても樹におけるのと同じなのだ。高く明るい処へのぼろうとすればする
  ほど、その根は、いよいよ力強く、地中深くへと進んでゆくのだ、下方へ……(以下略)
             ニーチェ著・原田義人訳『若き人々への言葉』(角川文庫)
 

          (当日意見)
★引用されたニーチェの言葉は魅力的ですが、私は少し違うように感じました。目を伏せるのは目
 を開けて見てしまうといろんなものにまどわされて本当の時代が読めなくなるのでなるだけ心の
 目、自分の考えに従って世の中を見ようという意味なのではないかと思います。目の前で繰り広
 げられる人間関係だったり、テレビニュースだったり情報雑誌だったりいろいろありますが、自
 分の思考を信じていこうと。(真帆)
★私もこの歌とニーチェの言葉はあまり関係ないように思います。(石井)
★ニーチェのことばとこの歌はどう関係するのですか?(真帆)
★逆説的に「俯きてあれ」だから、樹が伸びる為に地下に根を張るのと同じなんです。(慧子)
★私は目隠しじゃないけど、目の前の現実に惑わされないように「俯きてあれ」だと思います。
 内へ内へではないと思います。(真帆)
★そうですか、惑わされるな、というところが読めていませんでした。(慧子)
★「目の前の現実に惑わされるな」は間違いではないと思うけど、そこをあまり強く押し出さない
 方が私はいいと思います。内省的、思索的な姿勢によって時代が認識できるということだと思い
 ますが。その為にニーチェを引用されたので、私は関係があると思います。(鹿取)
★「考える人」のポーズは俯いていますよね。だから時代を真摯に見ようとしたら俯かないといけ
 ないんじゃないかな。慧子さんの「謙虚であれ」も一つの捉え方でいいとは思います。(石井)
★レポート1行目から2行目にかけて「自己をよく見つめて忠実であれと戒められている」の 
 「られ」は、受け身ですか?尊敬ですか?(鹿取)
★受け身です。(慧子)
★それだと違うように思います。松男さんは他人に対して「俯きてあれ」って言っているのでは
 なく自分に対して言い聞かせているんですよね。だから「誰よりも」が前に付くのです。「謙
 虚であれ」も同様で他人に言っているのなら違うと思います。自分の内面をよくよく見つめるこ
 とによってしか時代は見えないんだぞと自分に言い聞かせている歌だと思います。他人に向かっ
 てお説教する態度はこの作者には無いので、レポートの「だが修身上のことのようにのみは受 
 け取れない」も、修身の要素はなくて、それ以外が大切と思います。ニーチェの引用は「宇 
 宙のきのこ」の鑑賞でもこの部分もう少し長く引用しましたし、しばしば樹木関連の歌で話 
 題に上ったところですね。(鹿取)
★この歌の「時代」は過去のことではないですか?今の時代ならまっすぐ目をあげている方が見や
 すい。俯いて見えるのは過ぎ去った時代の事だからでしょう。(M・S)
★それだと当たり前すぎて面白くないです。(石井)
★常識ではM・Sさんのおっしゃるとおりなんですが、松男さんは違う姿勢の方なのでしょうね。
 『寒気氾濫』の出版記念会で、山田富士郎さんがこの歌を褒められたのを覚えています。
     (鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞 320

2016年06月26日 | 短歌一首鑑賞

   渡辺松男研究39(2016年6月)『寒気氾濫』(1997年)【明快なる樹々】P133
        参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:渡部 慧子
       司会と記録:鹿取 未放


320 一ミリに満たざる髭も朝ごとに剃りて制度の内側の顔

     (レポート)
 制度の中のこまごまとした制約、規約があり、また職務としてゆるさよりは明確さが求められるはずだし、さまざまに内的葛藤もあろう。それをかかえる胸中の、それはそれとして、髭はまず一ミリに満たざるものも処理するごとく剃り、朝朝制度の内側へすべり込んでゆく。(慧子)


     (当日意見)
★レポートに「職務としてゆるさよりは明確さが求められる」とありますが、これをわざわざ書か
 れたのには訳があるのですか?(石井)
★わけはありません。「ゆるさ」はいらなかったですね。(慧子)

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渡辺松男の一首鑑賞 319

2016年06月25日 | 短歌一首鑑賞
渡辺松男研究39(2016年6月)『寒気氾濫』(1997年)【明快なる樹々】P133
      参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放 
     レポーター:渡部 慧子
     司会と記録:鹿取 未放

 ◆レコーダーの不調で、2016年5月分を飛ばして掲載します。回復次第、5月分に
  戻ります。

319 天上に白もくれんの花ゆれてわが目わが日々白くくもらす

          (レポート)
 白もくれんの花が咲きゆれて「わが目わが日々白くくもらす」ことになる。ここに示されていないが、くもる以前のくらしをなんらかの色としてとらえていたのかもしれない。そこにあくまで天上的な花の白もくれんがゆれるのだが暮しの色が一変するのではなく、くもるのだと地上の者の声がある。四ヶ所の「く」の音はくぐもった感があり、一首の意図に添っている。(慧子)


     (当日意見)
★「くもる以前のくらしをなんらかの色としてとらえていたのかもしれない」とありますが、
 どこから連想されたのですか?(石井)
★どこからも連想はしていないのですが、くもるからには以前に何らかの色があったのだろうと思
 って。(慧子)
★くもらす前に何らかの認識があったということでしょうか?(真帆)
★「白くくもらす」は白もくれんの白から来た心象に近いですね。だからくもる以前のくらし
の色というのはおかしいのでは。(石井)
★私も石井さんや真帆さん同様「くもる以前のくらしをなんらかの色としてとらえていたのか
 もしれない」に疑問をもちました。白もくれんが咲いたから「わが目わが日々白くくもらす」
 ことになるので、それ以前を別の色として捉えないといけない必然性は無いと思います。  
 天上的な白いもくれんが咲いて自分の目も日々も清らかな白い色で満たされている、そんなこと
 を言っているのでしょう。ただ、それを「くもらす」って捉えたところが独自だと思います。
      (鹿取)

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馬場あき子の外国詠189(中国)

2016年06月24日 | 短歌一首鑑賞

    馬場あき子の旅の歌24(2009年12月)
        【向日葵の種子】『雪木』(1987年刊)127頁
        参加者:K・I、N・I、Y・I、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:T・S
         司会とまとめ:鹿取 未放


189 石の船何に早きぞ朱の揀瓦積みてしづけき蘇州に下る
     (まとめ)
 石の船は排水などを運ぶ用をすることもあるらしいが、現在では飾りのように運河に浮かべているらしい。1983年当時の馬場の旅では煉瓦を積んで働いていたのだ。それがまた石のくせに早いので、「何に早きぞ」(どうしてこんなに早いのだろう)と驚いているのである。自分たちの乗る観光船からの眺めだろうか。併走したのか、もしかしたら追い抜いていったのかもしれない。「濁れる運河」(188番歌)を石の船は快速で走るが、積んだ煉瓦の「朱」が鮮やかである。(鹿取)

      (レポート)
 石の船でありながら何に早きである。馬場先生の目がここから離れない。私はこの「何に早きぞ」に惹かれる。探っていくとさまざまな意見が出るはずだ。石の船が重い煉瓦を積んでいく。石の船を調べようとしたが私の目には届かなかった。(T・S)

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馬場あき子の外国詠188(中国)

2016年06月23日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の旅の歌24(2009年12月)
    【向日葵の種子】『雪木』(1987年刊)126頁
    参加者:K・I、N・I、Y・I、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:T・S
    司会とまとめ:鹿取 未放


188 楊花散りて蘇州春逝く季に来つ濁れる運河一日下りて

     (まとめ)
 「君がみ胸に抱かれて聞くは 夢の船唄鳥の唄 水の蘇州の花散る春を 惜しむか柳がすすり泣く」とある「蘇州夜曲」の歌詞に似た場面である。写真で見ると楊の花は白くてふわふわした感じだが、その花の散る景色を濁った運河を行く船に乗って眺めているのである。芭蕉の「行く春を近江の人と惜しみけり」ではないが、蘇州の運河に楊の花の散る情景はいかにも春を惜しむ旅情をそそられそうだ。「あの春の蘇州は夢のように美しかった」と語った馬場の感慨が伝わってくる。(鹿取)


     (レポート)
 かわやなぎの花。とくに白楊の種から白い綿毛がとぶ。「楊花茫々として人を愁殺す」(李白)
   (T・S)

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馬場あき子の外国詠187(中国)

2016年06月22日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の旅の歌24(2009年12月)
    【向日葵の種子】『雪木』(1987年刊)126頁
    参加者:K・I、N・I、Y・I、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:T・S
    司会とまとめ:鹿取 未放


187 街衢曲れば窓しみじみと歪みたる西安民屋に夜は満ちてゐつ

      (まとめ)
 先月鑑賞した「紺」にも「暗き灯の一つを点し民屋は土間に据ゑたり一つのかまど」があった。ここも同じ場面だろうか。それとももう少し夜が更けた場面だろうか。少し細い路地へ曲がったところ歪んだ窓を持つ民衆の家があった。窓が歪んでいるくらいだから貧しい家である。一軒とも数軒とも書かれていないが、その一角には窓が歪んの家々が連なっていたのかもしれない。「暗き灯の」の歌のようにぼんやりと暗い灯りが漏れていたのかもしれない。歪むの形容が「しみじみと」であるところで歌になった。上から目線ではない作者の嘆息がきこえるようだ。(鹿取)


      (レポート)
 夕刻街を歩いている。みると窓が歪んでいる。「しみじみと歪みたる」歪んでいるのを見て馬場先生がここに心が着くのは決していまいまの歪みではないとの実感があってこそである。「西安民屋に夜は満ちてゐつ」で、さらにこのしみじみの効果を高め内容を深めた一首と言っていいだろう。(T・S)


     (意見)
★T・Sさん、このレポートで何を言っているのか意味不明です。もっと分かりやすく書いてください。(藤本)
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馬場あき子の外国詠186(中国)

2016年06月21日 | 短歌一首鑑賞

     馬場あき子の旅の歌24(2009年12月)
          【向日葵の種子】『雪木』(1987年刊)125頁
          参加者:K・I、N・I、Y・I、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
           レポーター:T・S
            司会とまとめ:鹿取 未放

186 西安の路上に淡く味はひし人民の食(じき)楡の香のせり

     (当日意見)
★これは向日葵の種子の続きなのか?それとも屋台のようなところで何か簡単なものを食べたのだ ろうか?楡の香って、ちょっと分かりにくい。(藤本)

       (レポート)
 馬場先生は香にひどく惹かれるようだ。人民の食、楡の香。そうだここは西安の路上だと改めて実感する。楡の香いい香なのだろう。(T・S)

      (まとめ)
 路上の屋台で何か食べているのではなかろうか。その頭上には楡の若葉が茂っていたのだろうか?または、味わった素朴な食の味を感覚的に楡の香と受け取ったのかもしれない。(鹿取)
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