かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

仏像と河井寛次郎記念館ほか

2014年09月03日 | 日記
 京都散策その2

 26日(火)、平日なので空いていることを期待してお寺を巡ることにした。

 小雨の中、重要文化財の仏像がたくさん安置されている東山のとあるお寺へ。本堂に上がって仏像を眺めていると、入り口で拝観券をちぎっていた寺男(というのだろうか)の方がつと寄ってきて、「奥さん!この位置に立って見てください。目が光っているのが見えますよ。あれ、水晶が嵌め込んであるんです。」と話しかけてきた。はあ?奥さん!私、ひとりでじっくり見たいんですけど……
仕方がないので形だけ言われた位置に立ってみた。さほど広くない本堂に参観者はあと2組ほどいたが、その人たちにも同じ事を言っている。その後、私が次の仏様に移動すると「この仏様はですね……」とまた始まる。もっとじっくり見ていたかったが、私は早々にお寺を後にした。あれは親切のつもりなのだろうか。拝観に来た人に「奥さん!」って呼びかけは失礼じゃないか?何だか着物屋さんの囲い込み商法みたいで、とても落ち着いて見ていられなかった。すばらしい仏像の数々だったのに、ゆっくり拝見できなかったのが残念だ。それにしてもあの仏像、誰かに似ていると思ったが、福島泰樹だった。

 口直しならぬ目直しに、その後、河井寛次郎記念館を訪ねた。こちらは西洋の方らしい家族と私以外に訪問者はなく、暖かみがあっておおらかな器類を眺めて趣のある館内をこころゆくまで見学できた。登り窯というものを実際に見たのも始めてだった。

       

 まだ時間があったので、次は永観堂へ。紅葉で有名だが、今はひっそりしていた。広い境内をゆっくり巡って、多宝塔まで登ってみた。東山一帯が見渡せる場所だが、この日は曇っていて眺望は今一つ。「日想観」の分かりやすく説明板があった。

       
 さっき多宝塔から見えた真如堂、その近くに下宿していたことがあって、懐かしくなり寄ってみることにした。残念ながら下宿屋さんは建て替わっているようだった。写真は京都を離れて10数年後に尋ねた時のもの。背後の窓がある家がその部屋。

         

 その後は期待できないが原田禹雄ゆかりの京都大学皮膚科特研を探そうと、坂を下って東大路通りに出た。通りに面して古くて地味な氷屋さんがあったので思わず入った。道路を挟んで京大病院の通用門が見えている。抹茶ミルク金時という氷を注文、このすぐ裏手の尼寺にも下宿していたことがあるなあなどと考えていたら氷の写真を撮り忘れた。店を出ようとしたらものすごい雨で、しばらく雨宿りをさせてもらう。小降りになったので店を出ようとしたら、傘お貸ししましょうかと言ってくださったが、あの店いつからあったのかなあ。

 雨後の京大構内に入ってみたが、案の定、皮膚科特研はなかった。かろうじてこれに似た面影の建物ではなかったかと撮ったのがこの写真。建物は古いが最先端の医療研究施設のようだ。この右側3つくらい奥には、2011年に建てられた山中伸弥が所長をつとめるiPS細胞研究所があるはずだ。何だかものほしそうで、そこは見に行かなかった。


         

鯖寿司と鱧

2014年09月02日 | 日記
 京都での塔シンポジウムの翌日(8月24日)、夕方まで時間があったので、どこに行こうか思案した。お寺は少々飽きたので、候補は水族館、動物園、植物園。夏休みの日曜日とあっていちばん空いていそうな植物園に行くことにした。案の定空いていて、人っ子一人いない針葉樹林を歩くのは恐いぐらいだった。のんびりと静かさを満喫してお昼近くまで歩いた。写真の3つめは、花の終わったタイサンボク。







 実は鯖寿司を食べに行くのがお目当てだった。しかし、のれんが出るのを待ってくぐったお店で、今日は仕出しがたくさん入っているからお店はやりません、と断られた。地元の人のブログを読んで是非と尋ねたお店だったので、残念!後で考えれば、モノがないわけではないのだから○○さんのブログを見て横浜から尋ねてきました、と粘ればよかったかとも思うが仕方がない。

 地下鉄に乗って、イノダコーヒのとある支店へ。ここは土地の人がほとんどの落ち着いたお店だ。最近流行のコーヒー店とは雰囲気が全く違う。お年寄りの男性や女性がひとりでゆったりとくつろいでいる。サンドイッチとコーヒーの積もりだったが、食べ損ねた鯖寿司のイメージが尾を曳いて、「鱧のエスカベッシュ」というのを頼んでみた。鱧のマリネに夏野菜が添えられたものだが、鱧はかりかりした食感で、コクがあるけど全体にはさっぱりしていて美味しかった。ついでにマンゴーパフェも食べた。濃厚でこちらもおいしかった。


 あとは夕方までぶらぶら歩いてと考えて外へ出たらどしゃぶりの雨。諦めて京都駅に戻り、デパートのぶらぶら歩きとなった。

塔60周年記念全国大会公開シンポジウム

2014年08月27日 | 日記


 8月23日(土)、「塔60周年記念全国大会」の一環として一般公開の現代短歌シンポジウムが京都・新都ホテルで開催された。前半が高野公彦氏の講演、後半が鷲田清一氏と内田樹氏と永田和宏氏の鼎談。

 写真はシンポジウムが始まる直前(800人収容の会場の最後列近い席だったので、こんななさけない写真)。始まる前から会場は活気と熱気で盛り上がっていて、圧倒された。

 講演も鼎談も内容が濃く、それぞれ大いに示唆を受けたが、いずれ「塔」の誌面に再録、あるいはダイジェストが紹介されるだろうし、著作権の問題もあるので具体的に書くのは憚られる。それでほんの一部だけ。

 高野氏は「曖昧と明確のはざま」というテーマで、短歌の読み方について話された。書いてあることだけを読み、書いてないことは読まない、また、初出に戻って読むことが大切とのこと。正岡子規の有名な歌「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり」について「伊勢物語」を背景にして解釈されたのが圧巻であった。

 鷲田、内田、永田各氏の鼎談は、敬愛する鷲田、内田の両氏の生まな姿に初めて接するので楽しみだったが、後方の為、お顔が全く見えなかったのが残念だった。現代短歌にはあまりなじみがない両氏を相手に司会の永田氏がご苦労をされていたが、とてもとても実のある抜群に面白い鼎談だった。
 鼎談のテーマは「言葉の危機的状況をめぐって」。言葉そのものをめぐって鷲田、内田の両氏の深い考察の一部を感じ取ることができた。鷲田氏については冒頭に話された「人の心にさざ波を立てるような、ざらつきのある言葉を大事にしたい」という言葉が胸に沁みた。内田氏については、仕舞を舞台で披露する場面の話だったと思うが、氏の言葉をうまく再現できそうにない。「舞台である時、空間の密度が変わった、ゼリーのようなものが空間に詰まっている感じで、空間に何も無いと感じていた時と違って、全身の運動が精密に行える感じがした。」というような内容だった。年に数回だが、能を鑑賞する私は、なるほどそうであろうと、いたく感動した。

 ところで、京都出身で大学のゼミが一緒、今も付き合っている友人のK・Fの名前を、大会直前、外部参加者一覧の中に見つけてびっくり、(彼女は小説は書くが短歌は詠まない。)それであなたも行くの?と思わずメールしたが、同姓同名だった。どんな人か見てくる、というミッションがあったのだが、直前の受付は大混雑、会場もやっと空席を見つけて坐ったのだが、顔も年齢も知らない人を800人の中から探し出すのは無理とすぐに分かった。開始の1時間半も前に京都駅に着いたのに、自分が宿泊する駅から4分のホテルに、30分も掛かってたどり着いたのも敗因のひとつ。アイウエオ順の受付だったので、受付開始と同時に行って見張っていればあるいは見つけられたかもしれない。

 また、会場にご挨拶したいお顔は何人もあったが、皆さん、お忙しそうであった。「イソヒヨドリ」を教えていただいた永田淳さんにもお礼を言いたかったが超多忙そうで断念。結局、この大会用に作った名刺は1枚しか使用できなかった。

 シンポジウム終了後、大混雑の会場出口付近で「かりん」の8名が合流、京都駅前でさきほどの鼎談等を肴に賑やかに飲んだ。日帰り組の大井、辻と、一木母子を送り、残った松村、中津、私が遠藤宿泊のホテルの喫茶で女子会。一次会の酒の力も手伝ってヒミツの本音トークでおおいに盛り上がった。

ありえーへん!残念なサンダル

2014年08月20日 | 日記


      完全に剥がれた左がわ             踵部分が剥がれた右がわ

ブログを公私に分割しようと検討しているが、今のブログを継続している事だけでも不思議なくらいこういうことは苦手な分野、いっこうに作業がはかどらない。

 ところで、昨日、買い物に出かけてありえーへんハプニングに見舞われた。
夕方、素足で履けそうなサンダルをつっかけて自宅から5~6分のスーパーに出かけた。何だか歩きにくい。そのうちにパコパコと妙な音がする。見ると左の靴底(といっても厚底だが)が剥がれかけている。ツッカケサンダルでも買って、履いて帰るしかないかと、とりあえずスーパーに入った。しかし、スリッパはあるが、土の上を歩けそうなツッカケサンダルは無い。

 踵から先について足を引きずるとどうにか歩けそうだ。何とか家まで持たせようと買い物もそこそこに店を出た。しばらく歩いていると何だか右側もおかしい。公園のベンチにたどりついて見ると、右側は踵の部分が縦に割れかけている。自宅まであと3分くらい、とにかく両足を引きずりながら歩き出した。しかし、あと1分くらいまで来た時、左側の底は完全に剥がれ落ちて、表の薄い皮いちまいになった。右もいっそ同じになればよいのに、こちらは踵部分だけが剥がれ落ちた。仕方がない、左足はペタンコ、右足は前に比重をかけてそーと歩いてやっと自宅にたどりついた。

 その間、お店で、道で、通りがかりの人が怪訝そうに、あるいは可笑しそうに私の足元を見ていたのはいうまでもない。せめて、出かけたのが近所のスーパーでよかった。

 このサンダル、考えたら履くのは2度目。買ったのは2年くらい前で、たまたま寄ったリサイクル屋さん。その時少しヒールの高いパンプスを履いていて足が擦れて痛かった。それで深くも考えずこれを買って履き替えて帰ったのだ。厚底なので娘に履かせようとしたが履かず、それっきり仕舞い込んでいたのだ。先日見つけて、もう履かないから捨てようと思って玄関に出していたのを、素足に履けそうと考えたのが浅はかだった。うーん、ありえーへん!

名刺を作ってみた

2014年08月18日 | 日記






 名刺が切れたので、いろいろ作ってみた。(写真は、わざとぼかしてあります。)


 今週末、「塔」の大会に座談会を聴きに出かけるので使ってみたいが、人見知りの強い私のこと、せいぜい2~3枚使えればいいところだろうか。


 ところで、かりん鎌倉支部の研究報告を載せる目的でブログを始めて1年余り、支部の活動報告と私的なことがらは分けた方がいいだろうとずっと考えている。私的なことがらは全て外してFBに直接書き込むか、全く別のブログを作るか。


 もっとも分類も境界線が難しい。いちばんすっきりするのは、支部の活動報告以外の歌の鑑賞等も全て別枠にすることなのだが。思案中である。


やっとアサガオが咲いた

2014年08月17日 | 日記
        

 今や私の背丈よりも伸びたアサガオにやっと花が咲いた。
先週の大雨の後、小さな花芽を発見したが、昨日根元近くに咲いたのは破れ傘のように裂けていた。今朝も根元近い一輪は破れ傘だが、上の方に何とか形をなした三輪が開いていた。


 背丈の低い方が、微妙な色合いで咲き続けている。

      

 ところで、京都市在住の方の着物ブログに、お精霊さんへのお供物は蕗の葉に乗せるのが決まりだが、自宅の庭のヤツデの葉が我が家流、と書いていらした。私の田舎(綾部)では自宅の仏壇には半紙、お墓には大きな桐の葉を敷いている。これもどの地域まで桐の葉なのか、うちの近辺だけの習わしなのか、調べたことがない。来週帰省予定で、このお盆に帰らなかったせいか、お墓参りをしている夢を見てしまった。

かりん全国大会の歌

2014年08月10日 | 日記
 
 かりんの全国大会からずいぶん時間が経ったが、やっとテープ起こしをした。そのごく一部を紹介する。(うまく聞き取れない部分があって、完璧な再現ではないがお許しください。)ABC3つのグループに分かれての歌会なので、違うグループの歌評が聞けないのが残念なところ。匿名の歌をそれぞれ6人の歌評者が批評を行い、歌会終了後氏名が明かされる形式。私はBグループの司会だったが、全体のまとめの折、米川千嘉子さんがコメントされたCグループの次の歌は、後、馬場あき子の歌と判明。

       あか蟻もくろ蟻も忙しい夏がきてただしんかんと老人は住む     馬場あき子
                    
 老人を見ている立場の歌なのか、それとも作者自身が老人なのかということもあるが、あか蟻くろ蟻は忙しく働いているんだけれども、老人はとりあえず生産の忙しさからは離れてしまってなすこともなく暮らしている、そういう老人のさびしさ。ただの蟻ではなくてあか蟻くろ蟻と限定したことでそれぞれの持ち場で働いているようすが見える。みんながそういう暑さの中で耐えながら働いているのに、老人は暑さからもとりあえず遮断されて無為にじいーとそういう時間を耐えている寂しさ。単に蟻は忙しくて私達老人は暇だというのとは違って、何かじりじりとした老いのさびしさとか焦燥感とかそういうものも伝わっていい歌である。

  
 次に同じBグループに属する次の歌を岩田正先生がコメントしてくださった。作者は米川千嘉子さんと後に判明。この歌に関しては評者の他にもいくつか意見が出されたが、もう一つ核心に触れていなかったので、司会者としてはタイムリーなコメントに感謝。

     自然死のごきぶりを見ずわれと生きていつか死にをりし〈さびしさ〉も見ず     米川千嘉子

 作者はあえてね、誰も相手にしないごきぶりを詠っている。しかしこれはね、人類より歴史は古いんです。そういったものがかたわらで多くね、生きたり死んだりしているのを作者は見ている。ごきぶりの歌はかつて岡井隆が歌ってきわめてクローズアップされたのですが、今、ごきぶりを歌うことには非常に意味があります。現在駆除する以外の何者でもないと世間では思っているけど、それを作者は見ている。ひっそりと自分も生きているけどごきぶりも生きていて、あまたのごきぶりがかたわらで死んでいく。しかし人間はそれを見ていない。そういう生と死という問題を自分にかかわりがあるなしではなく、みつめているというたいへん面白い歌で、いい歌だと思う。

 ところで、次は自分の歌。ある程度、韻律の悪さは意図したものだが、「こよひ」の位置を最後に動かしたのが意図以上に悪くなってしまった原因。せめて〈地球照しるし 世界のラボでこよひマウスが死ぬ二〇〇〇〇匹〉のままにしておけばよかった。

       地球照(アース・シャイン)しるし こよひ世界のラボでマウスが死ぬ二〇〇〇〇匹 鹿取 未放

 動物を殺すことを批判した歌だが、牛は一日に26万頭殺されるので、それに比べればマウスはたいした数ではない、と評されたが、告発の意図はまるきりなかった。もうすこし美的な感じで、むしろラボにいる人間の方を思っていたのだが、最後に数字を持ってきたので、そうとられても仕方がない歌い方なのだろう。司会なので挙手して抗弁することもならず、ちょっっと残念だったが、まあ、あんまりいい歌ではないので仕方がない。

アサガオの花が咲かない

2014年08月07日 | 日記


例年は種をとっているのだが、昨年の大修繕のどさくさでアサガオの種が見つからなかった。

いつもはわざわざ蒔かなくても、こぼれた種があちこちに散っていて、10本や20本あちこちの鉢から芽が出るのだが、全ての鉢を出窓か特設棚に保管していた為、今年は一本の芽も出てこない。

仕方が無く買ってきたアサガオの種2袋、蒔くこと一ヶ月以上経って丈は140センチにも成長したのに花が咲かない。
蕾も全く見つからない。どうしたことか。

先日知人に相談したら、「リンが足りないということもあるかもしれない」確かそんなアドバイスをいただいた。
そこでリン等が混ざった化学肥料を与えること4日め、まだまだ効果は現れない。(きっと、そんな早くには現れないのだろう。




一方、こちらはもう1袋の別の種類だったらしく、2日間留守にして帰宅したら、いきなり咲き始めた。丈は10センチ余りである。肥料はまだ与えていない。

のっぽのアサガオは咲かないで終わるのかな?


少年ジャンプと亀

2014年06月11日 | 日記


 火曜日、久方の梅雨の晴れ間ならぬうすぐもりのなか、近所の川のほとりを散歩していると亀が甲羅干しをしていた。川の中に八の字に張り出したコンクリの上に、六匹ずつかたまっている。甲羅は灰色っぽく、大きさは30センチ弱くらいだろうか。気持ちよさそうである。真似をして私も甲羅を干したくなったが、目指すはコンビニ、甲羅干しをする暇はない。

 外国に出張中の息子に頼まれた少年ジャンプを買いに行くのである。(息子は三〇代半ば、親ばか、過保護という非難が耳に振ってくるが、とりあえず約束なので行く。)月曜日、メール便を出しにコンビニに寄ったがジャンプは荷物になるので買い物を終わった夕方にと思ったのが間違いだった。夕方、コンビニに寄ったら売り切れていた。
 で、火曜日の午前中、別のコンビニを目指して、亀の甲羅干しを横目に見ながら歩いているのだ。結果は、近所のコンビニ5軒まわって、どこも売り切れだった。

 ところで、表題とは何の関係もないが、冒頭の写真の鳥、何という名前でしょうか?
4月下旬、京都駅伊勢丹の屋上で見かけた。ベンチで友人とおしゃべりしていたら一羽でやってきた。ちょこちょこと動き回って一刻もじっとしていないのを、やっと撮った一枚。


樗の花

2014年06月07日 | 日記


 5月31日、鎌倉支部の歌会前に毎年の習いで〈樗〉(おうち)の花を見に行った。

 「枕草子」の「木の花は」の段に、「木の様憎げなれど、あふちの花いとをかし。枯れ枯れに様ことに咲きて、必ず五月五日に逢ふもをかし。」と褒めています。

 今年の5月31日は旧暦でいうと5月3日、果たせるかな、樗の花はちょうど満開でした。ちなみに去年は6月8日に行ったので、「マッチ棒の先くらいの小さな緑の実がぶら下がっているのがかすかに見えました。」とこのブログに記している状態でした。花は満開とはいえ、ここ数年の間に下の方の枝が伐られたらしく、花の匂いをかぐのも、花の写真を撮るのも難しい状態でした。

場所は、鎌倉駅から宮大路に沿って由比ヶ浜方面に10分ほど歩いた鎌倉体育館の前。
 樗の樹は3本あって、一本は10メートルはあろうかという大木。





一本は枝が伐られて何の木だか見分けもつかないような哀れなもの、かろうじて花を撮ったのは中くらいの樹、葉っぱに天道虫がとまっている。

 「木の様憎げなれど」というのは、樹の姿がちょっと曲がっているせいでしょうか。



左端に曲がっているのが、哀れに枝を伐られた樹。手前に大きく曲がっているのが、花と天道虫を撮った樹。