かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

馬場あき子の外国詠14(アフリカ)再

2016年01月31日 | 短歌一首鑑賞

馬場あき子の外国詠 (2007年11月)
           【阿弗利加 1サハラ】『青い夜のことば』(1999年刊)P157
            参加者:崎尾廣子、T・S、N・T、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
            レポーター:崎尾 廣子
             司会とまとめ:鹿取 未放

14 日本人まこと小さし扶けられ砂漠を歩むその足短かし

     (まとめ)
 レポートは少しピントが外れているという指摘が会員から多く出された。日本人が小さいというのは、ここでは優劣の感覚ではないだろう。西洋人などに比べての単純な比較である。日本人が小さいという歌は他の旅行詠でも馬場はよく詠っている。この歌では「その足短かし」などの描写で少し戯画化されているかもしれない。また、「『まこと小さし』『その足短かし』の『し』『し』に作者の実感がこもっている。」とレポートにあるが、この2つの「し」は韻律の上では歌に作用するが、どちらも形容詞の終止形の末尾なのでここに何かの感情をこめるというのは無理である。
 旅の同行者によると沙漠を登るのに駱駝組と徒歩組に別れたそうだが、馬場は歩いたのだろうか。あるいは歩いている人を見て詠んだのかもしれない。ともかく沙漠を歩むのは慣れていないとたいへん難しい。それで現地の人に扶けられながら進むのである。(鹿取)

        【参考】
     ジパングは感傷深き小さき人マドリッドにアカシアの花浴びてをり(スペイン)『青い夜のことば』

     羊のやうに群れて歩める小さき影カラードにして金持われら(チェコ)『世紀』 
                       
       

     (レポート)
 今では体も大きく足も長い人たちをよく見かけるが、およそ日本人は小さく足が短い。ふだんあまり考えたことのなかった日本人の体型のありようを知ったのである。扶けられながらであっても、沙に取られた足を抜くときの力は弱い。不自由さを覚えたのであろう。「まこと小さし」「その足短かし」の「し」「し」に作者の実感がこもっている。読者も日本人の体型の負の部分を知らされる。愛しさはやがておかしきに変わっていったのであろう。(崎尾)

馬場あき子の外国詠13(アフリカ)再

2016年01月30日 | 短歌一首鑑賞

馬場あき子の外国詠 (2007年11月)
           【阿弗利加 1サハラ】『青い夜のことば』(1999年刊)P156
            参加者:崎尾廣子、T・S、N・T、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
            レポーター:崎尾 廣子
            司会とまとめ:鹿取 未放

13 陽出づるは滴のごとき光すと待てば砂漠の風深く冷ゆ

     (まとめ)
 「滴のごとき」とは美しいイメージだ。それを誰が言ったのかで会員の意見が紛糾した。私自身は現地の人がそう感じていることを、ガイドが代弁して言ったのだろうと考える。もちろん言葉としてはもっとざっくりと「一点の光が射して」などだったのを馬場が「滴のごとき」と歌にする段階で翻訳したのかもしれない。ちなみに馬場に同行した人の旅日記によると3時30分起きで、4時15分にランドローバーに分乗してメズルーカという沙漠の入り口に着き、駱駝や徒歩で砂丘に登り6時の日の出を待ったそうである。あこがれて日の出を待っている時、広大な沙漠は「風深く冷ゆ」という状態だった。「冷たい風が吹いていた」などと比べて引き締まった表現になっている。(鹿取)


     (当日発言)
★他人が言っているのか、他人が言ったように詠っているが自分の感じか。(慧子)


      (レポート)
 陽の出を詠った美しい歌である。2句の「滴のごとき光す」が印象深い。渇ききった大地に言葉による潤いを帯びさせている。過酷な地に暮らす人々がもつ心のゆとりが伺える。結句「深く冷ゆ」
によってその一瞬はより美しく透明となり心に響く。冷たかった風が暖かい風に変わり、太陽がしずくのような光となって射す。その時をゆっくりと待つのである。見たことのない沙漠の民が持つ文化の一滴が立ち上がってくる。(崎尾)
    

馬場あき子の外国詠12(アフリカ)再

2016年01月29日 | 短歌一首鑑賞

馬場あき子の外国詠 (2007年11月)
       【阿弗利加 1サハラ】『青い夜のことば』(1999年刊)P156
        参加者:崎尾廣子、T・S、N・T、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:崎尾 廣子
        司会とまとめ:鹿取 未放
    
12 ランボーはサハラに至らざりけるか赤砂の丘に陽の入る時刻

     (まとめ)
 詩人ランボーは複雑な家庭環境の中で神や家庭を呪って成長したといわれている。10代の頃から出奔や放浪を繰りかえし投獄されたこともある。20歳の頃、ヴェルレーヌの招きでパリに出るが文学や思想に失望、ヴェルレーヌと共にベルギーやロンドンに移り住むが2年後、ヴェルレーヌにピストルで撃たれて関係は破局、「地獄の季節」などを表すがその後1、2年で文学に決別したといわれている。やがて各国を渡り歩いて交易に従事、アビシニア(現エチオピア)のハラールにいたが、1891年6月腫瘍でマルセイユに戻って右脚切断手術を受け、11月に死亡。37歳だった。
 高熱を発してマルセイユに戻る時には砂漠を何人もの人足に担がれて港にたどりついた、という伝説もあるが、エチオピアとサハラ砂漠の間にはスーダンという国が間に横たわっている。しかし各国を放浪した時にサハラに足を踏み入れていないともいえない。見渡す限り赤い沙漠に陽が沈んでいく荘厳な光景を見ながら、ランボーの栄光と痛ましさのない交ぜになった激しい生涯を思っている。「時刻」とあるので沈む瞬間に啓示のようにランボーの像が作者を射たのかもしれない。(鹿取)


     (当日発言)
★詩人として馬場はランボーと対峙している。(慧子)
★「赤砂の丘に陽の入る時刻」を見せる方法としてランボーを持ってきた。(N・T)


     (レポート)
 沙漠の一瞬が詠われている。結句の「時刻」に心が留まる。天才詩人と言われたランボーに思いを馳せている。陽の入るサハラの地平は、空は怖さまで感じさせるほど美しいのであろう。「ランボー」によって想像する景はさらに深まり多彩となる。「ランボーはサハラに至らざりけるか」と時の彼方を詠い、「陽の入る時刻」で一点を指し、雄大な裸の地平に時を対比させている。宇宙の音が聞こえてくるようだ。(崎尾)
 *ランボー:フランスの詩人。(1854~91)早熟の天才で感覚の惑乱の中から未知のもの
  を見るという方法に目覚め、現実への反逆に満ちた独自の詩風をきずいた。詩集に「イリュミ
  ナシオン」「地獄の季節」など。(小学館 言泉)
 *サハラ砂漠:アフリカ大陸の北部に広がる世界最大の沙漠。アフリカ大陸総面積の約四分の一
  を占める。大部分は岩石沙漠で、石油、石炭、鉄鉱石などの地下資源が豊富。(小学館 言泉)


馬場あき子の外国詠11(アフリカ)

2016年01月28日 | 短歌一首鑑賞

     馬場あき子の外国詠 (2007年11月)
           【阿弗利加 1サハラ】『青い夜のことば』(1999年刊)P155
            参加者:崎尾廣子、T・S、N・T、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
            レポーター:崎尾 廣子
            司会とまとめ:鹿取 未放
    
11 不愛なる赤砂(せきしや)の地平ゆめにさへ恋しからねどアトラスを越ゆ

     (まとめ)
 「ゆめにさへ恋しからねど」は、逆説であろう。ただ、砂漠の方は人間を拒絶しているだろう。人間や文明が踏み込むことを許さない、侵してはならない自然というものがあるのかもしれない。それでも〈教育された感情の方向から未開の感情の深み〉(辻まこと)を求めて人間は沙漠に踏み入るのである。
 レポーターがこの旅の動機をいろいろ推理しているが、朝日歌壇の吟行の旅なので、いわば仕事である。しかし選びはおそらく馬場の希望を入れたものであろう。すなわち、アフリカは馬場の行きたい土地だった。「不愛なる赤砂の地平」に大いなる興味を持って高いアトラスを越えてゆくのである。ちなみにアトラス山脈の最高峰はモロッコのツブカル山(4,167m)であるが、この旅の一行が越えたのはティシカ峠(2,260m・ティシカは羊飼いの意)のルートだったそうだ。(鹿取)

     (レポート)
 この旅は何かに押されての出発なのか、念願が叶ったのであろうか。「不愛なる」「恋しからねど」と詠っている。サハラに惹かれてはいたであろうが、ひょんなことから始まった旅なのであろう。弱音「不」で始めるリズムは赤砂でひびきを高め、「ゆめ」「恋」と潤いを帯び、結句の「ゆ」によって余韻はさめない。うながされてきた旅ではあるが、いつのまにかこんなに遠くにいると感懐にひたっているのであろう。「アトラスを越ゆ」に作者のそんな思いが伝わる。韻律が印象的な歌である。 (崎尾)
*アトラス:ギリシャ神話の巨人神。オリンポスの神々と争って敗れ、その罰として両手で天を
       支えることを命じられた。
*アトラス山脈:アフリカの北西部の海岸と平行に走る褶曲山脈。褶曲とは地層が波のように湾
         曲している状態をいう。(小学館 言泉)



渡辺松男の一首鑑賞 282

2016年01月27日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究34(16年1月)
    【バランスシート】『寒気氾濫』(1997年)115頁
     参加者:石井彩子、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子
     司会と記録:鹿取 未放

   ◆お断り  渡辺松男の歌の研究をしていますが、参加者の中に渡部慧子がおり、文中で「渡辺さん」
         「渡部さん」と表記すると紛らわしい為、「松男さん」「慧子さん」に置き換えています。


282 トラックの助手席から降りてきし女タオルとともに『フーコー』を持つ

     (レポート)
 ある女は汗拭きだろうタオルを持ちトラックの助手席から降りてきたというからトラックの運送のアルバイトか仕事をしていると思われ又『フーコー』を持っている。女性にはめずらしい仕事をしているが、価値観の云々は別として、ものにとらわれていないことは言えるだろう。リポーターは『フーコー』をとらえられないし、要約も出来ない、ゆえに掲出歌の鑑賞もおぼつかないので、ある書物のあとがきの抜粋をして、これを終えたい。      (慧子)
  【この後に、『フーコー 他のように考え、そして生きるために』(NHK出版)著者である神崎繁のあとがきから
   の長い引用があるが、ブログ掲載は割愛させていただく。】


           (当日意見)
★フーコーは石井さんに説明してもらいましょう。(鹿取)
★フーコーは有名な同性愛の哲学者ですね。ニーチェと同じように「理性」や「真理」という絶対
 的価値観を壊した人です。『狂気の歴史』には「理性」の名のもとに、社会の秩序に合わない人々、
 身体障害者、精神に病を持つ人、同性愛者らを隔離する記述があり、フーコーは「理性」は 
 絶対的なものではなく、単なる解釈、記号にすぎない、この理性こそ狂気ではないか、といって
 います。(石井)
★それで、この歌についてはいかがですか。(鹿取)
★この女性はフーコーの伝記みたいなものを持っていたのかな。そしてその内容にこの女性は共感
 しています。現実に汗水を垂らして生きている、ものを考えたり、そういった世界とは違う世界
 の人の生きざまを詠っていらっしゃるのかなと。(石井)
★石井さんの意見は同性愛者のところが強調され過ぎと思います。『フーコー』は二重カギ括弧だ
 からジル・ドゥルーズという人が書いた本かなと。(鈴木)
★ポスト構造主義の人ですよね。(石井)
★その『フーコー』の中で何を言っているかというと死の権力と生の権力です。死の権力というの
 は中世の頃、国王がいて臣下を支配していた。刃向かうといつ殺されるか分からない。革命以降
 は権力者がいなくなってみんな平等です、自由にやっていいですよと言っているにもかかわらず、
 政治家が権力をもっているわけです。それを生の権力と言っているのです。ジル・ドゥルーズと
 いう人は現代をツリー構造とリゾーム状と2つに分けたのです。ツリー状は権力的なピラミッド
 状、リゾームはウエッブのように蜘蛛の巣状になっていて対等にやり取りできる。そこでノマド
 という言葉が出てきます。ノマドは遊牧地のことで全てが自由に遊べる。ところが私有地として
 囲っていますと一般の人は入れなくなる。そこでドゥルーズは、もともと存在は私有地などに拘
 束されなくてやってこれたと説く。私なりに考えてみると入会権とか入り浜権とか昔はあった。
 自由に山に入ってキノコを採ったり、浜で貝をとったりできた。そんなふうに人間はもともとノ
 マドに逃げていくことが出来るんだとドゥルーズは言っています。この歌では助手席にいるとい
 うことは運転手が威張っているわけです。助手席の女性は使いっ走りのような存在なのですが、
 『フーコー』を持っているからにはノマド的な生き方をしている。解放されている人じゃないか。
 この歌は頭で理解するのではなく、慧子さんが言われたように「感じ取る歌」ではないか。
        (鈴木)
★松男さんは『フーコー』を軽い気持ちで詠んでいるので、さっき石井さんが言ったような同性愛
 者としての見方も面白いなとは思うんですよ。ただ『フーコー』というカギ括弧が付いていたん
 でドゥルーズまで持ち出したのですが。(鈴木)
★理性は人間が作り上げた権力だということを言っています。ニーチェが権力の意志といったこと
 に連なります、特定の視点を絶対化し、それを真実と思わせる理性、それをフーコーは権力だと
 述べるのです。(石井)
★松男さんは以前にもトラックを運転している弟とかキャベツを運ぶトラックとかにシンパシーを
 もって詠んでいます。この歌もそんなに深入りしないでいいのかなと。この歌の女性は助手席に
 乗っているから運転手から搾取されている存在とかは思わなくて、トラックに乗務して働く逞し
 い女性で、価値の転倒ということを考えたフーコーという人に関心を抱いている人だ、くらいの
 意味かなと。(鹿取)
★私もそう思っています。要するに生の権力とか言っても見えないのです。普通の女性がそうやっ
 て自分らしい……(鈴木)
★鹿取さんの言っているとおりと思いますが、『フーコー』を他の題名にしたらどうなんでしょう。
 やっぱりフーコーに 意味を持たせているのでしょう。(石井)
★『フーコー』の感じを分からせたいと思って作者も作っている。生の権力なんて言葉は仰々しい
 けどみんな日頃感じている事です。それをどういう風に書くかです。(鈴木)
★もちろんニーチェではなくフーコーだということに意味はあると思います。97年発行の歌集で
 すが、男女雇用機会平等法が施行されたりした後ですよね。こういう女性に肯定の目を向けてい
 るのでしょう。(鹿取)
★松男さんは男女に拘らない人です。作者の中に男性的部分、女性的部分があるんです。両方の視
 点から見ています。性に拘っていない。同性愛者にも偏見をもっていない。(鈴木)


     (後日意見)
 優れた表現者が両性具有的視点を備えていることは積極的に肯定するし、松男さんもその一人だと思う。しかし、たびたび引用している『寒気氾濫』冒頭の「地下に還せり」巻頭歌は〈八月をふつふつと黴毒(ばいどく)のフリードリヒ・ニーチひげ濃かりけり〉であり、同章内には〈同性愛三島発光したるのち川のぼりゆく無尽数の稚魚〉がある。歌集冒頭で自分のもっているさまざまなものを出して見せていると考えると、両性具有的視点というよりも思想家や作家などの性的嗜好に関心があるように思われる。歌集中には〈赤尾敏と東郷健の政見を聞き漏らさざりし古書店主逝く〉もあり、やはり同性愛者への強い関心の現れだろうか。ただしこの一首の解釈としては、同性愛ということに深く踏み込む必要はないように思う。(鹿取)

      (後日意見)
 「男女雇用機会平等法…」云々という社会状況とリンクさせると、この歌の真価がどうもぼやける感じがします。松男氏の歌は時空を超えています。むしろ存在論的に鑑賞した方がよいとおもいます。(石井)

      (後日意見)
 この一首はフーコーが同性愛者だという認識なしには、鑑賞できない。フーコーは社会の規範、制度といった権力構造と闘い「人はみな、ゲイになるように努力するべきだ」と豪語し、エイズで亡くなった。
 『フーコー』は、遍在し、時空に漂うフーコーそのものだ。フーコーは制度によって男だとか、女といって規定されることを拒否する。運転席には「男」であるフーコーがいる。同性愛は知=肉体の融合という点では、異性愛よりも優っている。「女」と分類された人が持っていたのはタオルだ。タオルはフーコーの精神を具象化したもので、汗→労働→エロスであり、同性愛の象徴でもある。トラックに乗ってあちこち移動することは、定住を拒み必要性に応じて、住処を転々と変える遊牧民族に似ている。それを『フーコー』の作者、ジル・ドゥルーズは「ノマド」といった。かれらは法や契約、制度によって固定化され動きのない社会=領土にやってきて「脱領土化」を図る。これを「ノマド的」という。このように外から運動がやってくることを受け入れることは固定した社会に新しい価値を生みだすことになる。ノマド、あるいは「ノマド的」になることはフーコーにとってもジル・ドゥルーズにとっても理想郷であった。(石井)


渡辺松男の一首鑑賞 281

2016年01月26日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究34(16年1月)
    【バランスシート】『寒気氾濫』(1997年)115頁
     参加者:石井彩子、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子
     司会と記録:鹿取 未放


281 黒というふしぎないろのかがよいに税理士も黒きクルマで来たる

     (レポート)
 税理士が黒いクルマで来た。ということだが、その車を「黒というふしぎないろのかがよいに:となにか物語の始まる気配をただよわせる。税理士の仕事は感性などを離れた数理上のことでそこに不思議はない。だが、作者の色に対する感覚の冴えがおもしろい一首をなした。(慧子)


          (当日意見)
★出版記念会の時、小島ゆかりさんがこの歌がいいとおっしゃっていたのですが、理由は忘れまし
 た。黒って権威の色ですよね、だから裁判官なんかも黒いガウンを着ます。まあ、やくざさんも
 黒いスーツに黒いクルマだったりしますけど。ここでも権威の象徴として税理士は黒いクルマで
 来るわけで、工場主はきっとその税理士にぺこぺこするんでしょうね。黒は圧迫感を与えるわけ
 です。(鹿取)
★税理士だから黒字になるようにと黒に拘っているんじゃないですか。赤字を嫌うわけですから。
 売り上げが伸びるようにと。(M・S)
★工場主はそういうことを信じるかもしれませんけど、ここではもっと一般的な黒ではないですか。
    (石井)
★ハイヤーってありましたよね、権威的な人はタクシーでなくハイヤーを使ったんですよね。足を
 取られないようにという配慮もあったかもしれないけど、政治家などは皆ハイヤーを使った。あ
 れ、黒ですよね。暴力団も黒ですけど。だから黒は立派な人が乗っているというイメージ。税理
 士さんが赤字を避けて黒い車を利用したとは今まで聞いたことがないので。そして税理士さんは
 本来は正しい経理の仕方を指導する人ですけど、雇われているから会社側に都合がいいように不
 正をする。だからかがよいはないですよ。黒には権威のカサを被ったごまかしがある。(鈴木)
★黒に対する一般的なイメージもある。有無を言わせないというような。厳粛でフォーマルな感じ
 もする。特に税理士さんは黒でないと表現できなかったのかな。クルマがカタカナになっていま
 すが、ちょっと揶揄しているのかしら。(石井)


     (後日意見)
 『寒気氾濫』冒頭の「地下に還せり」の章に275番であげた〈土屋文明さえも知らざる大方のひとりなる父鉄工に生く〉と並んで〈もはや死語となりておれども税吏への父の口癖「われわれ庶民」〉がある。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞 280

2016年01月25日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究34(16年1月)
    【バランスシート】『寒気氾濫』(1997年)115頁
     参加者:石井彩子、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子
     司会と記録:鹿取 未放

280 設備投資の算段をして秋の暮小規模工場に情報遅し

      (レポート)
 小規模工場の経営主であろう。設備投資の算段をして腹を据えて何かを待っている。おりしも秋の暮れだという。晩秋なのか、秋の日の暮れ方なのか。情報も待つものにつるべ落としの秋の日をかさねてみた。小さく何かを営むものに必要な情報がまだ届かないというあるさびさびとした状況を表すのに第3句が効果的に置かれていよう。(慧子)


         (当日意見)
★「情報遅し」というのはすごく実感としてわかりますね。どんな時代にあっても大工場に比べて
 中小の企業には情報が遅い。例えばマンションの偽装の問題もそうですね。(石井)
★そうですね、大企業からの声を聞いて行政は計画を立てますからね、中小企業から聞くことはま
 あない。こういった詠み方って土屋文明などがしてますかね。(鈴木)
★土屋文明はもう少し外からの視点で詠んでいるのではないですか。(鹿取)
★外からですけど、そういった経済について土屋文明ってけっこうこういう視点がある。松男さん
 と同じ群馬県の人ですけど、こういった詠み方を昔している。つっこみ方はもちろん違いますが。
    (鈴木)
★松男さんの歌にはこういうリアルな、あるいはリアルに見える歌は少ないですけど、子供の頃か
 ら父親の工場主としての苦しみを見てきたことが反映しているのでしょうね。実際工場主かどう
 かは知りませんけど。CNC旋盤などすごく高価なものだと思いますが、もっと設備投資をしよ
 うと算段しても、情報が遅いばっかりに、たとえば補助金がもらえなかったりとみすみす損をし
 て苦しめられる、そういうことですよね。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞 279

2016年01月24日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究34(16年1月)
    【バランスシート】『寒気氾濫』(1997年)115頁
     参加者:石井彩子、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子
     司会と記録:鹿取 未放

279 鉄を打ち抜くは鉄なり工場にプレスもっとも孤独な機械

      (レポート)
 鉄を打ち抜くのはプレスと呼ばれる鉄製機械であって、様々な作業用機械のある工場でもっとも孤独な機械だという。同胞あいあわれむという意味の逆を詠ったのだろう。(慧子)

           (当日意見)
★「同胞あいあわれむという意味の逆を詠った」ってどういう意味ですか?(鈴木)
★違うもので鉄を打ち抜くなら普通だけど、同じもので打ち抜くのは淋しい。(慧子)
★そういう意味なら同感です。(鈴木)
★人間と人間が闘うのは淋しくて、人間と猿だったら淋しくないかというとそうではないから。
   (鹿取)
★あくまでも物質に収斂させての話だから。(石井)

渡辺松男の一首鑑賞 278

2016年01月23日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究34(16年1月)
    【バランスシート】『寒気氾濫』(1997年)115頁
     参加者:石井彩子、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子
     司会と記録:鹿取 未放

278 CNC旋盤見る見る鉄削る 削られてゆく未来オモエリ

     (レポート)
 旋盤の運動制御をコンピューターによっているCNC旋盤。それが今みるみる鉄を削っている。削られてゆく見える物質。一方で目には見えない未来というものを作者は「オモエリ」という。コンピュータープログラムによって動いているので、そこに人間の勘やためらいはない。それを「オモエリ」と乾いた感じの表記とした。(慧子)


           (当日意見)
★下の句に既視感があって、誰かの本歌取りかなあと思うんだけど思い出せなくて。誰か知りませ
 んこのカタカナの「オモエリ」。まあ未来思えりって誰でも使うような言葉だけど。(鹿取)
★削られてゆくに目が行っているのは、何かが無くなっていくようで。(鈴木)
★工場って何か作り上げるところなのに、何かが失われてゆく。(石井)
★そうですね、失われてゆくものが過去のものではなくて未来に繋げているところ、時の矢が前方
 から迫ってくるような感じが怖いですね。(鹿取)
★何かを作り上げるということは価値のあるものばかりを目指す訳で、そこから排除されるものが
 あるわけです。役に立たないと思われているもののなかに本当はすごいものがあったかもしれな
 いのに。経済成長だけが善という今はいきかただけど、成長しなくてもいいのではないか、そこ
 で失われていくものは何なのか、そういうことを言っている。(鈴木)


渡辺松男の一首鑑賞 277

2016年01月22日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究34(16年1月)
    【バランスシート】『寒気氾濫』(1997年)115頁
     参加者:石井彩子、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子
     司会と記録:鹿取 未放

277 フライス盤に西日当たりてしずかなり無人の時間よどむ日曜
   
        (レポート)
 西日は独特の強さをもって事物を圧倒する感じがある。無機質なフライス盤があってそこには誰もいない。そんな場の日曜日のある時間帯をよどませるほどなのだ。(慧子)


           (当日意見)
★フライス盤ってどんなものか分からないのでネットで調べてみました。写真、こんなのです、見
 てください。(鹿取)
★フライス盤って回転して手で材料を削っていく、そんな機械です。CNCはコンピューター制御
 ですね。ソフトを組み込んで設計道理に作ってくれる。おそらく平日はフライス盤扱う人たちが
 いたんだけど、日曜だから無人であると。(鈴木)