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『鎌倉仏教のミカタ―定説と常識を覆す』を読んで

“もしトラ”が“勝ちトラ”になった!あんなイカサマで下品のインチキ・ジジィがどうして!?
植民地国・日本の報道は、当然のように本国・米国の選挙戦の報道を熱心にやっていた。もしかして、放送時間はこっちの総選挙にかける時間より長かった?そんなアホな!!
議会もほぼ共和党!ということは、バイデン民主の戦略的完敗!トランプは“労働者のため”というイメージ戦略に成功した!まるでナチスが“労働者のため”というイメージ戦略に成功したのと、そっくり被るではないか。エライ時代になった!中間やや下のボリューム・ゾーンを魅了した!という。中間やや下は概ね賢くないことが多いのだ。
例えば、一般労働者は“以前のトランプの時は景気が良かった!”と言い、アラブ系は“民主党はイスラエルを支援している!”と言っていた。だが事実はバイデンによってコロナ禍で景気を壊さず乗り切っていて、経済は活況なのだ。イスラエルにはトランプは在イスラエル米大使館を世界の反対を押し切ってテルアビブからエルサレムに移しているから、民主党よりイスラエル寄りなのだ。トランプがガザでの戦闘を早期に終わらせるというのは、ガザのアラブ人住民を全滅させてユダヤ人を入植させるための発言ではないのか。こんなことでは、“アホは見~ぃるブタのケェ~ツ!”になりかねないのだ!

トランプの政策は次のようなもの。米国で埋蔵の石油を掘りまくれ!ドル高は大きな問題だ!輸入品に関税をUP!EVへの義務化を止めろ!(パリ協定の無視・再度の脱退?)在日米軍の日本側の負担を増やせ!

トランプはウクライナの戦争を24時間以内に終わらせる、という!どうするのか?きっと支援の完全停止?そしてウクライナが負けて終わりか?そしてロシアが西進して終わるのか?それがMAGA(Make America Great Again。)の正体か?おおいなる矛盾のインキチ!

一方、日本の政治状況は“少数与党は3カ月もたない!”といわれれば、何とも暗い気分になる。一方で国会が正しく議論の場になると歓迎するむきもあるが、何だか弱い議論のような気がする。日本の政権がトランプに振り回されるのか、中国にしてやられるのか、どちらも歓迎できない、際どい所に来ているのは事実だろう。

ここで日本の安全保障が問題になる。対米一本鎗で良いのか。米国の世論は割れて揺れる。そんな国との関係だけに頼るのは危険ではないのか。
トランプは2~3世紀ほどの時代錯誤の男だ!国際外交を親分子分で理解しようとしている。そんな男一人に日本の安全は任せられない!NATOや豪・英との連携、インドとの友好も視野に入れた対応がこれから重要になるのではないか。



このブログに投稿するべく読む本を探していて、書店で見つけた本『鎌倉仏教のミカタ』だった。私としては、このところ法然以降の仏教をお勉強してきているので、鎌倉仏教として俯瞰してみるのは実にタイムリーで絶好の機会とばかりに買ったのだった。
歴史家として信頼する本郷和人氏と宗教家の島田裕已氏の対談によるもの。対談によるものは、議論が他人には分かり易いようになっていることが多いはずと思って読んでみた。何故なら、本の中には自分の論に酔ってしまい、訳の分からないことをクドクド述べている本を読んで頭を悩ましてしまうものがあったからだ。こういう本は質が悪い。
この本を買ったのは6月で、読んだのは9月初め。投稿しようとして長らく経ってしまっている。完全に熱が冷めてしまっている。投稿ネタがあるのは良いのだが、有り過ぎて紹介するタイミングを逸してしまっている。?それにしても折角の“お勉強の成果”を拙くても出しておきたい、ということで紹介する。だが内容をほとんど覚えておらず、何度か読み返す羽目になった。アァ、シンドカッタ!!
先ずは 本の概要説明として、紀伊国屋書店のWebサイトの紹介文を示す。

内容説明
この見方で、日本史の奥行きが広がる。「鎌倉仏教とは近代が生み出した幻想である」。宗教学者の島田裕巳は言う。日本中世史学者の本郷和人は、その主張に驚き、「宗派の枠を外して考える」ことに興奮する。やがて対談は白熱、定説や常識が次々と覆されていく。法然は『選択本願念仏集』を書いていない!?『歎異抄』は親鸞の言葉ではない!?踊念仏は興行!?栄西は「ヨウサイ」と読む!?葬式を発明したのは曹洞宗!?日蓮の予言・奇跡はどこまで真実か!?などなど。日本史の画期である鎌倉時代、その時代に生まれた鎌倉仏教を、これまでとは異なる視点で読み解くことで、日本史がより広がりをもって迫ってくる。

目次
はじめに 日本史における鎌倉仏教
序章 鎌倉仏教の誕生
第1章 法然―穏健で過激!?平安仏教から離れた最初の宗祖
第2章 親鸞―謎だらけの生涯と、巨大教団になった理由
第3章 一遍―踊念仏に、宗教の根源を見る
第4章 奈良・平安仏教vs.鎌倉仏教
第5章 栄西、道元―禅宗から読み解く「悟り」の本質
第6章 日蓮―原理主義を貫いた孤高のカリスマ
第7章 その後の鎌倉仏教
終章 なぜ今、鎌倉仏教なのか
おわりに 宗教の衰退と、今後の日本仏教

著者等紹介・本郷和人[ホンゴウカズト]
東京大学史料編纂所教授、博士(文学)。1960年東京都生まれ。東京大学文学部卒業、同大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。東京大学史料編纂所に入所、『大日本史料』第5編の編纂にあたる。東京大学大学院情報学環准教授を経て、現職。専門は中世政治史

著者等紹介・島田裕巳[シマダヒロミ]
作家、宗教学者。1953年東京都生まれ。東京大学文学部宗教学科卒業、同大学院人文科学研究科博士課程修了(宗教学専攻)。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を経て、東京通信大学非常勤講師(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。

“はじめに”で、本郷氏は“戦前の史学は鎌倉時代に誕生した仏教を高く評価”したといい、浄土宗の誕生、禅宗と武士の結びつき、蒙古襲来を予言した日蓮の激しい布教活動に、鎌倉時代や日本人の精神を知るために鎌倉仏教に注目していた。
これに対し、戦後は権門体制論*により、“中世の精神世界を構成する大きな要素であった仏教の動向もまた、基軸は京都に求めるべき”であり、“仏教の太い幹は依然として天台宗・真言宗の密教であり、鎌倉仏教は枝葉(顕密体制論)である”との主張が主流となっている。

権門体制論:公家権門(執政)、宗教権門(護持)、武家権門(守護)はそれぞれ荘園を経済的基盤とし、対立点を抱えながらも相互補完的関係があり、一種の分業に近い形で権力を行使したのが中世国家であるという論。だが、“鎌倉幕府の成立と維持は朝廷あってのこその動きであり、この時代の展開は古代と同じく、天皇の王権と京都を中心として解析しなくてはならない”との結論に至っている。

それに対し本郷氏は“こうした研究史を踏まえ民衆の側からの視点を取り入れて鎌倉仏教を再評価”したいと言っている。武士というものの存在を地方・地域のリーダーと見なして、地域の農民(庶民も?)を統治するのに仏教の影響を見ていきたい、と言う。当時の武士や庶民の精神世界が彼らの行動を規定しているはずなので、中世世界をより深く知るために、学問としての仏教ではなく、彼らのなかで実際に活きてた仏教に近づくべきだ。そのために、宗教学者の島田氏が宗派の枠組みを外して仏教を考えるべきだとの論に乗るべきである。芸術を一々ルネッサンス派かバロックか印象派か、と言って鑑賞することは意味が無い。まずは仏教各派の祖師(開祖)が説く世界を直接体感してみるべきだろうと言っている。

本郷氏は対談の冒頭に、子供の頃、実は僧侶になりたいと思っていたと言う。しかし、知り合いの僧侶から住職になるのに5千万円出して株を買わなければならないと聞いて断念したと言っている。つまり仏教には子供のころから興味があった。島田氏は、歴史学者の本郷氏から鎌倉幕府と仏教の関係性について教えて欲しいとの希望があった、という紹介から始まっている。

そして、鎌倉時代は末法思想を背景とする政治・社会不安が背景としてあった、という話に移る。“日本の場合、『日本書紀』に書かれた仏教公伝の欽明天皇13(552)年から500年後の1052年以降”が末法とされていたので、平安から鎌倉時代になる頃とされた。そして、仏教の戒律を守って生きていく人は居なくなると考えられていて、その復興を重視しようとするのが主流だったが、親鸞や日蓮はその方向に向かわなかった。
そして、政治を担う人々に末法の意識は希薄に見え、古文書にはそういった記述が見られないと本郷氏は言っている。朝廷や貴族は“古(いにしえ)こそ栄光がある”の考えなので、昔より今が悪いのは当然だと思い込んでいた風があるとも言い、また武士の側にも政治行為を担うと言う意識も発想もなかった、と指摘している。

日本では仏教は先ず都市に伝わり寺ができた。本来は世俗から離れた奥深い山に寺が作られるべきだったが、仏教は最先端の学問として受け入れられた。護国仏教として、国を守るための学問でありそのシンボルが大仏という形になった。752年には仏教公伝200年を記念して、大仏開眼会が行われるが全国から1万人の僧侶が集合。わずか200年でこれほどの僧侶が既にいたのは驚きだが、中国経由で入ってきた仏教なので漢文が読めた日本人には拡がり安かったのだろうと島田氏は言う。
そして、天皇家と結びついた六勝寺(6個の寺)などが栄え、土地の寄進が進んだ。(公地公民は本来虚構だったというのが史学会の主流。)それは土地に関連した権利を保障することにつながっていた。この時は僧兵が武力になった。そして奈良では寺の力が強くなり平安遷都へと進展する。これに上手く乗ったのが最澄だったと。彼は南都六宗をやっつけようとしたのではないか。しかも比叡山を開山したらそこへ平安遷都があり、都から鬼門にあたる山を押さえたという幸運が転がり込む。

一方空海は、密教を修めに大都市の寺を周ったが、日本に帰ると高野山を開いて山岳仏教に戻ったのだが、実は若い頃に四国の山野で修行したことになっているが、それはあとに作られた話ではないかと島田氏は言っている。中国で見つかった史料によれば空海は天皇の勅状を持ちうる身分であり、現代でいえば5千万円ほどの大金を所持していたという。空海は裕福であり私費で留学できる身分ではなかったか、と島田氏は指摘している。こういった状況から山野を跋渉するイメージからは遠い、と。

平安時代の終わりごろは最澄と空海のもたらした密教が盛んになり、本地垂迹説が“密教を媒介として神仏習合が著しく進み、そこで巨大な神話的世界が生まれていたのが鎌倉時代”であったと島田氏は言う。
本郷氏は“古代では緊張感を持ってすごい勢いで海外の文物を学び、仏教を受け入れた。・・・しかし遣唐使が廃止され内向きの時代になると弛緩していった。そして皇族出身の僧侶がトップに就いて、それに仕える上級貴族出身、中級貴族出身と続いて、下には僧兵になるような武士出身・・・・と、俗世とパラレルな構造が聖界にも成立”した。こうして「鎌倉仏教が出てくる前段階に、堕落した平安仏教があった」という前提が成立する、と。
そして島田氏は日本に中国を経由して入ってきた仏教は解脱よりも、成仏を重視していたため、浄土信仰が平安時代に花開いた、となったと言う。そして、南都六宗には日本人の宗祖(開祖)がいないために劇的で興味深いエピソードが無いので訴求力がない。鎌倉仏教はそれに対し、各宗派に属している人々が布教時に開祖たちを称揚してPRすることでアピールしてきた。特に明治期以降、宗派が意味を持つようになり、各宗派の色を誇示するには開祖が偉大である必要があり、そのストーリーがつくられ、神格化していった。そして、戦前には日蓮が、戦後には親鸞が知識人の興味を強く引く結果となった、という。

“法然”では、先ず彼の思想の精髄を著したとされる『選択本願念仏集』について、それが本当に彼の著作によるものだろうかという疑惑を島田氏が指摘している。それは、あの明恵の批判が法然の実像との差が大き過ぎてのことではなかったか、という。
“『選択本願念仏集』を作る作業は法然と弟子たちによって行われている。その現場に法然もいたことになっているが、書き手は明らかに違う。3~4人が分担して書いている。そうなると、法然の思想というより、弟子の思想となる。また明恵は他人から聞いた話として、法然は文章を書くのが得意ではないと述べている。実際『選択本願念仏集』のなかで法然の手による部分は表題と名号(南無阿弥陀仏)ぐらい”であると言うのだ。
このような法然が世に知られるようになったのは、九条兼実に見込まれたことが大きかった。その兼実が法然に期待したのは祈祷ではなかったかと島田氏は言っている。
そして法然の思想には、他宗を排除するような傾向があり弟子の中には過激な行動をするものも出てきて、法然自身も法難に遭っている。それに対し『七箇条制誡』で法然は、“他の仏や菩薩を誹謗するな、無知であるにもかかわらず知識のある人に諍いを吹っ掛けるな、などと戒めた。この戒めに背く者は門人ではないと叱責”しているので穏健派であることは間違いない。
鎌倉幕府の初期には武士の側に統治意識は希薄だったが、5代執権・北条時頼から撫民意識が出てくるが、そこには浄土の教えの影響が大きかったのではないかとも指摘している。
法然が日本史上に果たした役割は、既に巨大な既得権勢力となった“比叡山から離れて新しい教団を作り、武士や庶民など、既存の仏教が相手にしなかった様々な人々”に教えた。“その法然をそのまま真似ることはしないが、同じような経緯を辿る宗教者が続き”、それが鎌倉仏教と総称されるようになったことだろうと島田氏は言っている。

“親鸞”では、先ず親鸞は決して法然の高弟ではなかったという島田氏の指摘から始まる。先の『七箇条制誡』での署名の順序に全体190人の内の87番目で、その後90番目に武士の熊谷直実の署名が認められるという。また法然は高弟だけに『選択本願念仏集』を筆写させる権利を与えているが、そこに親鸞は含まれてはいなかった、という。親鸞の筆者本は出て来ていないという。法然が流罪になり、そこに彼の高弟も含まれていたが、親鸞の名は出てはいない。親鸞は“流されたのではなく、難を避けるために越後に行った可能性がある”という。しかも“高弟だったと言っているのは本人だけ”だというのだ。日蓮も流されたことがあり、その経緯と原因について何度も考察して『開目抄』などまで書いているが、“親鸞は自身の流罪について何も語っていない”と言うのだ。“親鸞にすれば、自分の所属団体のトップや幹部が検挙されてやばい状況になった”、そこで“(身近に居た)恵信尼に「あなたの実家は越後(の有力氏族)だったよね」と言った”(そして結婚した)と本郷氏も同調して想像を巡らしている。さらに、法然は後に赦免されて京都に戻るが、親鸞は直ちに戻ってはいないので、“もし親鸞が高弟であれば、法然のもとに戻ってもよさそう”と本郷氏は駄目押ししている。

そして、親鸞の聖徳太子信仰の端緒が他の真言僧の逸話とそっくりであり、なお且つ法然の教えには聖徳太子信仰はでてこないことから、法然には“その思想に一本、太い幹がある。でも、親鸞にはそれがないというより、よくわからない”と本郷氏は指摘する。島田氏も“親鸞は法然の教えを継ぐ人とされます”が、『本願寺聖人親鸞絵伝』でも“法然の考え方をそのまま正しく受け継いでいるのは親鸞だけとなっているが、では「どう受け継いだのか」は説明されていない”という。それも怪しいのか。では親鸞とは何者?

親鸞が越後から関東にかけて潜伏し、布教活動をしていた時、3代執権・北条泰時が政子の十三回忌の際、一切経(大蔵経)を園城寺に奉納することになったが、その写本を集成して異同を校正する校合ができる信頼できる僧として、法然の門弟である親鸞が見いだされた、と島田氏は指摘している。
親鸞は西国では折伏も困難なので、布教が容易な東国の武士に狙いを定めたという。事実、親鸞の弟子の多くは東国武士だという。これから、親鸞は東国で学僧として評価されていたのだろう、とのことである。ここで、鎌倉幕府と親鸞はつながった。

親鸞の妻帯について、近代になって性の解放運動を自ら実践したとして親鸞が高く評価されたが、それを親鸞が意識したことではなかった、のではないか。それは妻帯の意義評価を全くしておらず、また当時も既に僧侶の妻帯はそれほど珍しいことではなく、絶対に不可能なことではなかったという島田氏の指摘がある。
そして、親鸞の子孫がずっと教団のトップとなる世襲の歴史が続くことになり、儒教の影響が強くなり戒律が厳しくなる江戸時代ですら教団トップは例外として認められたという。

ここまで来て、改めて鎌倉時代の旧勢力、奈良・平安仏教の状況を示している。決して沈黙・沈滞していたわけではなく活発に活動していたと言う。貞慶、明恵、叡尊、忍性などが代表例である。
北条泰時に律令のような法に依拠した政治が必要だと気付かせたのは、華厳宗のあの明恵であったという。明恵の父親は平重国、母親は武家の湯浅氏であり、貞慶の祖父は平治の乱で自殺した藤原通憲(信西)という武家、というように武士家系であったり、時の政権や政治との関わりのある本流の家系であった。
さらに、“鎌倉仏教(新仏教)の開祖たちは禅宗を除いて中国に渡っていない。実際に行動を起こして事業を行い、社会にダイレクトに影響を与えているのは、渡海歴のある旧仏教の僧侶たちであり、その流れの中で窮民やハンセン病患者の救済に力を尽くした忍性”などが出てきている。
たとえば“確かに法然は社会的に大きな影響力を持っていた。・・・しかし、具体的に社会に対して何をしたかというと、寺を建てた訳でもなく、窮民の救済に力を尽くした訳ではない。親鸞も同様である”の島田氏の発言は一寸言い過ぎだが、改めて社会的に大きな影響を与えるような寺は建てていないかも。“重源や貞慶のほうが、より社会に対してダイナミックに働きかけた”としている。相対比較の問題か・・・!
“「戒律の復興」も大きな課題だった。・・・その軸に沿う形で、鎌倉時代に真言律宗が形成されて行く。真言律宗の開祖・叡尊の父親は興福寺の学僧であった。つまり、彼は破戒の結果として生まれながら、戒律復航を掲げた”のだと、島田氏はいう。だが、日本の仏教の主流は大乗仏教の流れであったとも言えるのではないか。だから、“叡尊や忍性は”おまけ”のように感じてしまう。「思想は古いけど、優秀な人がいた」というように”思われても仕方ないのではないか。
一方では、鎌倉時代は“神仏習合が大いに進んだ時代でもあった。仏教によって神を解脱させるという考え方が非常に強くなり、八幡神が僧の姿になって座る僧形八幡神像が作られ、快慶作が有名”である。
重源は天照大神の夢を見て、その援助のために伊勢神宮に東大寺の僧が集団で参詣し、大般若経の転読をした、という。天照大神は太陽神なので、大日如来と習合する。仏教側も伊勢神宮に関心を持つ。貞慶も叡尊も伊勢神宮とかかわりを持ったという。伊勢神宮の内宮と外宮の正体は曼荼羅の金剛界と胎蔵界であると叡尊が解釈したのだという。
中世人にとって、仏教は技術総体と一体であったと、島田氏はいう。“雨を降らせる祈祷の作法も、石で塔を築く技術も、当時の人にとっては等しく「技術」だった。最先端の仏教思想も最先端の土木技術も区別はなかった。中国に「学ぶべきもの」として受け止められていた。”だから、“中国の進んだものを学ぶために渡航した。公の仕事をするために、中国への渡航歴が大きく作用した。中国人との人脈が重要だった。・・・様々な技術を使って結果を出すことが、幕府でも朝廷でも重要で、ありがたく高邁な思想を説くよりも目に見える形ですごいもの、美しいもの・有用なものを現出させるほうが評価につながった。”
“中国に渡り、学識も豊かで、その知識・人脈を駆使して社会貢献活動を行う。さらには法力を持つ。これが、鎌倉時代の奈良仏教・平安仏教の僧侶、特に高僧の姿”だ、と結論している。

ここで禅宗の話に移り、“栄西は禅と天台教学と密教の兼修善であり、道元は天台・真言とははなれて学ぶ純粋禅であり、純粋禅の方が格が高い。そうした評価が学界では強いようだ。・・・天台宗はもともと様々な教えを持っていて、法華経信仰もあり、密教もあり、禅もあり、山岳修行もあり、戒律もあり、それらの要素を包含したトータルなものが仏教である”という立場である。“栄西の兼修禅もそうした仏教理解から”のもの。しかし、“禅宗はその教えに特化してほしい。でなければ五山派の腐敗を批判できない。”という本郷氏に島田氏は、“曹洞宗も勢力を広げるために、仏教式葬儀のやり方を開拓したり、密教の儀礼を取り入れて発展したことが大きかった”という。“曹洞宗では雲水の葬儀をもとに、俗人の葬儀をつくった。雲水は僧侶になる前の段階で、俗人と同じである。その雲水の葬儀を原型にして、故人を剃髪し、戒を授け、仏弟子(釈迦の弟子)に連なる証として戒名を与えるという、日本の葬式の原型をつくった。”“道元は越前志比荘の地頭・波多野義重に招かれて寛元2(1244)年に永平寺のもとの寺を開き、そこから日本海を伝い、東北地方に拡げていった。”と本郷氏は言い、島田氏は“東北地方の曹洞宗は、葬式仏教の典型みたいなところがある”と応じている。
次に、『正法眼藏』は分かり難いの議論となる。その心は、“道元は「修行を始めることが即悟りになる」と言った。もちろん修行を始めた時にはまだ悟ってはいないのだが、修行を始めた時点で、すでに悟りへと至る道の上にいる。そして修行をしていくなかで、自分の煩悩や、さまざまなことに気が付く過程を経て、この世に存在しているものに膨大な経緯が凝縮していると感じるようになる、ということ”ではないかという。“結局、『正法眼蔵』が難解なのは、悟りを開いた道元が「悟りとはいかなるものか」を説明しているからであり、、「どうすれば悟りにいたるのか」という過程についての解説ではないから”だと島田氏はいう。“「悟りとは何かについては、悟った人間の立場で書くしかない。初心者に解説することはできない」と開き直ったのかも知れない”と。

次に、日蓮。日蓮の映画は多いの話になり、キャラがたっているためではないかの話になっている。漁師の子と言われているが、比叡山で学ぶ資格は得られないと両氏とも指摘する。彼が身延山に隠棲してからは、日本各地の信者に援助の礼状を沢山書いている。それは懇切丁寧であり、そこへ仏法の教えを書いている。仏典や中国の古典からのエピソードを交えるが、同じネタは無い。仏典や古典に通じていることが分かり、丁寧に物事を説いていることに日蓮の人間性を感じると、島田氏は言う。
日蓮は他の開祖と比べてカリスマ性はあった。それは「蒙古襲来を予言して的中させた」経歴によるものだろうという。“日蓮が蒙古襲来の根拠としたのは、薬師経でそのなかにある「七難」にもとづいていた。それは「疫病」「他国の侵略」「国内の反乱」「星々(天空)の異変」「日蝕・月蝕」「季節外れの風雨」「旱魃」を指すのだが、当時、この内の五つは既に起こっており、「他国の侵略」「国内の反乱」が残っていた。”それを『立正安国論』に書いて、この予言が文永11(1274)年の蒙古襲来で的中“してしまった。
この話の中で、“法華経はたとえ話が豊富で、都市住民向けのエンタティメント性があった。つまり教えを聴いてもおもしろい。”というくだりがある。だから、江戸時代になると“日蓮宗の僧侶は天台教学を勉強していて、それを説いていたところ、それが町民たちの不興を買い、日蓮の教えに帰るべきだと言われるようになった。・・・おもしろくない学問ではなく、立場が明確な日蓮の教えに帰れ、話がおもしろい法華経に帰れ”となったという。“「南無阿弥陀仏」は音が低く、ともすれば暗い印象”だが、“「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えるのは明るい”という指摘もある。
現代にまで“日蓮の法華経解釈が大きな影響を与えるようになり”、“創価学会がまさにその影響下にある”という。

終わりに本郷氏は総括的に次のように言っている。“中世には神と仏が混淆し、キリスト教神話にも匹敵する巨大で混沌とした精神世界が成立していた。だから鎌倉仏教は宗派ごとにカテゴライズするのではなく、さまざまな要素が入り交じるものとしてとらえたほうがいい。”これには島田氏も同意している。
また、本郷氏は次のようにも言う。“西洋には連綿と続く哲学者の系譜がある。しかし日本には、残念ながらそのような人物が存在しない。だから開祖たちを持ち出して、その役割を担わせた”、と。
現代は“既成の文化の力が弱まって、それに対抗しようとする力も衰えている。・・・だから今、土俗的な民族音楽や民俗芸術が息を吹き返している。それらは長い伝統があるから強い。”とも島田氏は指摘し、本郷氏は“現代が混沌とした時代だからこそ、混沌とした時代に誕生した鎌倉仏教を学ぶことはとても意義のあることだ”といって終わっている。

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