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福岡城址と大濠公園散策

このところのTVニュースは、未だに既視感満載。自民と立民の党首選。それからオオタニ・ショウヘイ。次にトーンが今度は上がって兵庫県知事のパワハラ疑惑の百条委員会。モウ、エエカゲンにせんかい!?
そしてコメ不足。備蓄米一寸放出すれば値上がりは防げるのではないのか?農水は昔からアホアホやし、もうしょうないデぇ―。
そやけど阪神、どないナットン!?サッカーはジャパン順調!
この国にはジワジワ進歩なのか?世の中は空転しているのではあるまいか?そして、やっぱり兵庫県政は如何に?



さて、審査で博多出張となった。仕事は午後から。神戸本社の会社の博多事業所の現場審査なのだ。審査だけに行くのはオモロナイ。博多事業所の場所を調べると地下鉄・大濠公園駅からタクシーで行くことになる。その大濠公園とは何か。
Webサイトによると、“慶長年間、黒田長政が福岡城を建築する時、博多湾の入江であったこの地を外濠として利用、昭和2年ここで開かれた東亜勧業博覧会を機に造園工事を行ない、昭和4年県営大濠公園として開園したものです。大濠公園は福岡市のほぼ中央に位置し、総面積が約39万8千平方メートルあり、うち約22万6千平方メートルの池を有した、全国有数の水景公園です。公園内には、池の周辺約2キロメートルの周遊道、野鳥の森、児童遊園、能楽堂、日本庭園、および4つの橋で結ばれた中の島や浮見堂、ボートハウス等を配し休養、娯楽や体育の向上に利用されています。”
ここで、ん?福岡城?そこで、Wikipediaによると、“江戸時代初期、関ヶ原の戦いで功績のあった黒田長政が、加増・移封で与えられた筑前国那珂郡警固村福崎の丘陵地に築いた。この際に、黒田氏ゆかりの地である備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)の地名にちなみ福崎を「福岡」と改め、これが近現代の市名・県名にもなった。城郭構造は梯郭式平山城で、明治まで福岡藩黒田氏の居城となった。別名を「舞鶴城」「石城」ともいい、城跡の主要部分は国の史跡に指定され、舞鶴公園と大濠公園となっている。”
黒田氏は秀吉の九州平定で豊前中津を居城とし、その後小倉に移ったと思い込んでいた。事実はそうではなく、官兵衛は息子の長政を関ケ原に派遣し、自らは九州に残り周辺を攻撃し黒田の領地にしてしまったが、徳川方の勝利を見ておとなしく徳川に領地を返納し、謹慎した、とまでは知っていた。家康は息子・長政の武功を目出て筑前を加増・移封させていたのだ。そして元々、商人交易の町・博多と武家の町・福岡が那珂川を挟んで誕生したのだった。明治期に市の名前を決める住民投票で博多と福岡いずれかになったのだが、わずか1票差で福岡に決まったことも知っていた。だが、福岡の呼称のいわれが黒田親子によるものだとは知らなかったのだった。
神戸の町も、古代からの兵庫の津を中心の西の兵庫と幕末から明治期の東の神戸から成り立つ似た構成となっている。

そこで、この出張の旅のついでに、福岡城址、大濠公園散策をすることとした。仕事は午後なので午前中に済ますこととした。散策した実際のコースは概ね下図の通り。この地図を見て分かったのだが、これまた初めて知ったのだが、かつて西鉄ライオンズが拠点とした平和台球場はこの福岡城址東の端にあったのだ。子供時代父親の九州出張に連れて来られて、平和台球場へ行こうとしたのだが、台風が来ていて雨が酷く、見に行くことを断念したことがあったのだった。
以前の会社にいた頃は九州も仕事のテリトリーだったので、少なくとも2カ月に1度は来ていたことがあったが、こうした歴史的背景は知ることもなかった。



ところで当日、新幹線で新神戸から出発しようとしたのだが、スマートEXで予約したつもりだったのだが、何故か改札機が受け付けない。うろたえて改札の女性職員にぶつけたところ、“どうやら交通カードと関連が取れていないようです。もう時間がないのでとりあえずこれで乗って降りるとき清算して下さい。”と新神戸から乗車していると書いた紙片を渡してくれた。
降りるときまた現金を払うのか、二重取りされる、と思わぬトラブルに嫌な気分。そうか交通カードとの紐づけをすれば良いのだと思い直して、携帯で開始。結構時間がかかり、乗車の間ほとんどを費やした。スマートEXをやるのは昨年の横浜出張以来で不安だったが、やっぱりこんな落とし穴があったのだ。だが、スマートEXをやるとき確か紐づけは終わっていたはずだが一々予約毎に紐づけを必要とするのはどういう意図からなのだろうか。こんな面倒なことをしなければならないのは利便性の剥落ではないのか。博多駅改札で事情を申告して紐づけも車中でやったと説明して、料金二重払いは回避できた。



それでも、地下鉄・大濠公園駅は予定通りの時刻で来れた。ひとまず、軽装になるためコインロッカーを使おうとするが、何だか分かり難い。地域ごとにやり方が違うのではないか。前年も小田原駅で戸惑った記憶がある。変なことに、その時は外人が教えてくれた。
とにかく地下鉄から地上に出て、明治通りを堀沿いに東進。やがて堀を横切る橋が見え、その先に立派な櫓があるのが分かった。これが下之橋御門。その向こうにもう一つの橋があり、そこには乗用車がひっきりなしに走っている。城を横切っている舞鶴公園線だ。少々残念な印象。もう少しお城に敬意が払われても良いのでは・・・。
御門を抜け、舞鶴公園線を横切り、平和台陸上競技場の脇を抜けて、福岡城むかし探訪館へ向かう。閉館?否、東端の売店が閉店しているだけで、西端のむかし探訪館は開いていた。



普通無人のものだろうが、福岡市の職員だろうか三セクの職員だろうか受付に女性が複数いた。だが、何をする訳でもなく“いらっしゃいませ”との声かけだけだった。写真撮影OKを確認。
大きな福岡城のパノラマ模型が展示。築城後の様子が再現されていた。残念なことに私には、直ぐには現在との位置関係が分かり難い状態だった。
その外、福岡城に関する説明のパネルや黒田官兵衛の兜のレプリカ、信長が官兵衛に与えられた太刀“へし切長谷部”のレプリカが展示されていた。

次に、旧平和台球場の外縁にそって鴻臚館に向かう。“鴻臚館(こうろかん)は平安時代に設置された外交および海外交易の施設である。前身として筑紫館や難波館が奈良時代以前から存在した。その名称は北斉からあった九寺のうちの外交施設「鴻臚寺」に由来し、唐の時代にその名称が日本に導入された。「鴻」は大きな鳥の意から転じて大きいの意。「臚」は腹の意から転じて伝え告げるの意。「鴻臚」という言葉は外交使節の来訪を告げる声を意味していた。”
この史跡は旧平和台球場の敷地から出土したという。球場のフェンスにそれを示す看板があった。遣唐使とは切っても切れない関係だろう。古代のトイレの遺跡もあったとか。
Wikipediaによれば次のようである。“九州帝国大学医学部教授の中山平次郎が、万葉集の記述などを検討し福岡城址説を提唱した。当時、福岡城址には帝国陸軍歩兵第24連隊が駐屯していたが、1915年の博多どんたくによる同連隊の開放日に中山は兵営内を踏査し、古代の瓦を表面採集。1926年から1927年の「考古学雑誌」に論文を発表した。さらに、同連隊で兵役についていた鏡山猛が弾薬庫の歩哨のかたわら古代瓦の破片を採集したことも中山説の傍証となった。” 旧軍を相手に苦労したのではあるまいか。



鴻臚館から見える石垣を頼りに狭間の緩い坂道を登って行く。少し東進するとまた木立に囲まれた石垣の狭間が現れる。そこに扇坂・扇坂御門跡という表示があった。珍しい扇状の階段となっていたようだ。何も考えずにさらにそこから東進して、結果として二の丸跡をスルーしてしまったようだ。北側からの道路に合流したところで北上すると、やがて石垣に囲まれた石畳の坂があり、いかにも天守台に向かいそうなので、それを上った。やはり、そこは天守台のようであった。
狭い狭間をくぐる。いざ実戦では、ここまで敵勢が攻め込んできた場合に土砂で埋めてしまう仕掛けになっていたそうだ。足止めさせて鉄砲弓矢で応戦することになるようだ。そこをくぐってもその先は狭い桝形になっていて、四方から飛び道具で射殺される。その桝形から石垣を一段上がって、ようやく天守閣の真下にでる。また桝形を経てようやく天守閣に入ることになる。現状では当然、建物は無く鉄製のフロアーが広がっている。眺めはよいが、土地勘がないので適切な方向感か疑わしい。
一旦、石垣を出て、南多門櫓に出る。ここは下から見上げた方が良かったようだ。そこからあっさり、公園を横切る舞鶴公園線に出てしまった。後は、三の丸スクエアに向かうだけ。



三の丸スクエアは、どうやら旧舞鶴中学校の建物をそのまま使っている。何だか、ムリヤリ展示物を並べている印象だが必要不可欠なものとは思えない。それでも受付に女性数名がいた。
入口には千代流山笠人形が展示されていた。詳しく説明は表示されていないが、これは祭りの山車の一つのようだ。大坂の陣での黒田藩の大筒部隊の活躍を現したものだとのことであった。
三の丸スクエアを出て、北側の経路を撮ろうとすると、何だか古い門が見えてきた。名島門だという。残念ながら、どういう歴史的価値があるのか直ちには私は理解できていない。
その経路をそのまま西進して、大濠公園に出た。そこにデメテル像があった。“大濠公園はもともと福岡城の内堀だったものを、昭和2(1927)年開催の東亜勧業博覧会の会場として使用するために整備されてできた公園”で、その博覧会を記念した像だということである。



大濠池に出て視界が広がる。そのまま池を左に見て北上し、施設建物に到着。ロイヤルガーデンカフェでランチとする。
眺めは良好。高いが洒落たランチで過ごす。中々快適である。福岡にこんな所があるのだ。良い町だとの感想を抱く。



昼食後は、大濠池の中州へ行き浮見堂を訪れた。いよいよこの散策を終えて、大濠公園駅に行き、荷物を取り、タクシーを捕まえ、出張の用を済ますだけ。
ところが、携帯で配車要請をしたが、いずれも適切な空車が無いと断られて、困っていたところを目の前に空車の個人タクシーが通りかかり、無事捕まえられた。この散策、何だかトラブルで始まりトラブルで終わったが、無事で何よりであった。
ところで、出張の行き先は“博多事業所”だが、那珂川より西なので、“福岡事業所”が正しい呼称ではなかろうか。



仕事の後、博多駅で壱岐の島の明太子、無着色のを買い、しばらく食べていない“鶴の子”を買った。

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