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野村克也著“あぁ、監督”を読んで


野村監督の本を読んだ。そんなに意識した訳ではないが、これまでプロ野球監督経験者の本を結構読んだ結果となった。それは、プロ野球監督の本には ずいぶんとリーダー・シップの本質が書かれているため こうなったのだと思う。
リーダー・シップというものは結構やっかいなテーマのようだ。経営学でも敬遠されるテーマのようだ。なぜなら、そこには精神論が結構入り込む余地があるからで、昔は“ニコポン経営”などと言われたものだ。“ニコポン”というのは、経営者が第一線で立ち働く従業員に向かって“ニコニコ”笑って“ポン”と肩を叩き、声をかけて廻るれば万事上手く行く、などとという発想をいう。少し前によく聞かれたKKDという言葉とあまり変わりはない。“経営学”などという言葉が 耳新しい時代には それが “ニコポン”の延長線上にあるものと思ったりして、神戸大学で経営学部設置などとは、とんでもないもの、と誤解していたりしたものだった。

読み終わってみて“名将、奇将、珍将”という副題に気付き、ここには名将しか 語られていなかったような気がして 少し戸惑ったりした。ここに語られた奇将とは誰だったか、まして珍将とは 誰?だったのだろう。

今まで 川上哲治、星野仙一、渡辺久信、そして今回の野村克也と各監督経験者の本を読んできたが、それぞれ個性があって面白い。そして、それぞれに活躍した時代と 世代を色濃く感じる。ここまで来れば、世界の王貞治氏の著書を読むべきなのだろう。非常に興味がある。

そして 4者いずれもが人を育てることに多くの紙幅を割いている。リーダー・シップとは 人を率いて、率いながらOJTで その人々を教育・育成して行くものなのだ、と納得させるところがある。リーダー・シップとは教育なのか。ならば 学校の先生は 相当にリーダー・シップに長けていなければならない。そうなるとリーダー・シップの欠如した人は、先生になってはいけない、ことになるが、現実はどうなのだろうか。

さて、野村監督は、ここでは“監督”如何にあるべきか、を語っている。それも かなりの自信を持って語っている。
たしかに 同氏には 数々の素晴らしい実績がある。したがって 相当なことを言っても許されるし、説得力はある。だから注目されるのだ。遠慮会釈無く 歯に衣着せず本質を語れる数少ない人だ。そういう意味で貴重だと言える。人々もそれを期待して 読んでみる気になるのだろう。

この本の始めの部分で次のような言葉が登場する。
“「組織はリーダーの力量以上には伸びない」これは、たびたび述べている私の持論であり、組織論の原則である。”
まさに、これは名言だと思う。私もサラリーマンを経験し、様々な会社を見てきて、そのように思っている。そして、組織の性格もリーダーの性格を写した影となっているとも感じている。だから、組織のトップは重要な地位なのだ。
このことを しっかり理解していない 当の“社長”さんが 多いのもどうやら事実のようだ。ある知り合いの社長に このような話をそれとなくしてみて、“ヘーェ、そんなものなんですかねェ。”とおっしゃられて、内心驚いた経験がある。
トップには そういう覚悟が必要だと思うのだ。それを 野村監督は“組織論の原則である。”と言い切ったのだ。

さて、監督の「器」には どういう要素が必要か、が次に語られている。それは「人望・度量」、「貫禄・威厳」、「表現力」、「決断力」だと言っている。
「表現力」が必要とは 野村監督の年代には珍しい見解と言える。私は この現代的発想が好きだ。この表現力を磨くために 草柳大蔵に薦められた本が安岡正篤の“活眼活学”だったという。
また“「決断力」と「判断力」は違う”、と言っている。これが、参謀と監督の違いだ、とも言っている。判断はできても決断は難しいが、“それを実行する「決断」を下すことは、監督の絶対条件”ということだ。
この中で監督自身も自分には無い、と言っているのは「人望」である。ということは、これが最も難しいことなのだろう。並大抵の 努力では身に付かない、というより天分に近いものであり、なお且つ 不断の修養努力も必要なものなのだろう。

それから、選手を動かすファクターとして①恐怖②強制③理解④情感⑤報酬⑥自主的(自発性)を挙げている。かつて誰かが “野球の監督は猛獣使いみたいなものだ”と言っていた。そういう意味で“恐怖・強制”が 主なファクターであり、野球チームの指導者の常套手段なのだろう。どうやら昔は 大抵の監督はこのファクター“鉄拳”で指導していたようだ。
そういうのが普通の状況で 渡辺監督の“寛容力”は“光る”のだろう。ところで、この渡辺監督も西武からヤクルトに拾われた時、野村監督の影響を受け、“野村ノート”を筆記していて、それを持っているようだ。

そして、あの有名なID(インポート・データ)野球という言葉のきっかけとなったエピソードを紹介している。
“私は「気力・体力・知力」のうち、気力だけを重視する精神野球を嫌悪する。”という言葉から始まるが、この世代の人にしては珍しい発言だ。
“(一人前のプロ選手になって暫くして、)天才でない私は、技術的な限界に突き当たったのだ。”“(この「技術的な限界」)を知ってしまえば、残るは頭を使うことだ。そこに気がつくかどうかが、素質にプラスαを加えられるかどうかの分かれ目になるのである。”要するに 「知力」、頭を使ってスコア・データを収集・分析し 対戦相手の傾向、癖をさぐり対策を立てることが 限界を突き破る契機となった、と言うのだ。
そして、“頭を使うこと”に思い当たらず、大抵の選手は“二流で終わってしまうのである。”
ここで言っている「知力」は 生きるための戦略と言っても良いのかも知れない。

最後に 現代では受け入れ難いと思われる言葉を紹介しておこう。それは「人間は、無視・賞賛・非難の段階で試される」という言葉だ。そして、鶴岡監督にどうやら、そのように育成されたというのだ。“箸にも棒にもかからない状態では徹底的に「無視」。少し希望が見えてきたら「賞賛」。そして、一人前として認められるようになったら「非難」する。”
こういう育成法は 現代の叱られたことのない若者には 無理かも知れないと思うのは 思い過ごしであろうか。こういう育成法は 何とか這い上がろうとする者には適用できるのだろうが、そういう自覚と気力の乏しい現代人には無理ではないか。這い上がる前に“ウツ”になってしまう ひ弱さがあるのではないか。あるいは育成する側が “パワーハラスメント”として非難されるのがオチのような気もする。
現代は “ひ弱さ”の文化の中にあるようだが、それが日本だけの状況なのか、世界的共通の現象なのか気になるところである。

その他、週刊誌的な 気になる人間関係や、これも目下気になるWBCの采配についてもかなり 書かれているが、ここでは触れない。
とにかく、気軽に面白く読めて、私にはいろいろ興味深い本ではあった。

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