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21世紀文明研究セミナー受講―“地球温暖化に関する経済学の視点”

今回もまた先週開催された(公財)ひょうご震災記念21世紀研究機構主催の“21世紀文明研究セミナー”を紹介したい。先週は下記2講座の内①を紹介したが、今週は②である。
①〈共生社会〉“地域資源を読み解き活かす”山崎義人(兵庫県立大学大学院地域資源マネジメント研究科准教授)
②〈環境〉“地球温暖化に関する経済学の視点”新澤秀則(兵庫県立大学経済学部教授・環境経済研究センター長)

この②の講演“地球温暖化に関する経済学の視点”は その実際の内容がパリ協定についてであって、この“21世紀文明研究セミナー”では実は既に以前紹介したNPO気候ネットワーク・研究員の講演“COP21パリ会議を読み解く”の2番煎じとなっていた。しかしその講演と違って、さすがに経済学者の解説は意義あるものだったと感じた。つまり、パリ協定には環境経済学の喫緊の課題がてんこ盛りになっているので、必然的にその解説とせざるを得なくなっているのだ。
講師の新澤秀則氏は、現在は兵庫県立大学経済学部教授だが、経歴を見ると阪大の環境工学出身で、工学博士のようだ。その後神戸商大に移られ、“環境”を切り口に環境経済学を専門にされたようだ。理系から文系への転換には相当な努力が要ったのではないかと想像する。

先ず、“緩和策”が“取引可能”であり、“適応策”は“取引不可能”である理由についての経済学的解説があった。
最初にグローバルな“温暖化対策”という“緩和策”がすんなり進展しない理由について簡単に説明である。それはCO2削減の便益がグローバルで非排除的(地球人全てが享受できる)なので“タダ乗り動機”が働き、誰もやる気にならない。或いは、CO2削減が行きわたっている日本で対策をするよりも、中国でした方が容易に大きな成果を出せる。ならば日本人が一生懸命する気がしない。つまり、“公平な負担に関する合意が難しい”ことになる。 しかし、便益がグローバルであるが故に“取引可能”となる。
一方、変化した気候への“適応策”は実施した所に便益が生まれる、つまりローカルであるので“進めやすい”ことになる。例えば“六甲山の治山の便益は地元で享受できる”ので対策は“進めやすい”。しかし、対策・便益共にローカルであるが故に“取引不可能”となる。

CO2には本来価格が付いていない。これを価値あるものとして、価格を付けて取引するという合意が前提となるが、それが難しい。(私は、CO2の価値はマーケットによって、有益な(プラス)価値があったり(例えば、ドライアイスの原料)、損失(マイナス)価値となったりするので評価は取り分け難しいのではないかと思うがいかがだろうか。)
また、減らす対象によって削減コストが異なるのでコスト・ミニマムで効果の大きい所から優先的に削減して、遂には“全ての排出源の削減限界費用が均等化すれば、全体として排出費用が最小化する。”このための適切な環境税、排出権取引は有効である。

世界の森林伐採対策について2つの対応策がある。一つは森林伐採する国(例えば、ブラジル、インドネシア等)に環境税を課税する。もう一つは、伐採された木材の恩恵を受けている国(例えば、日本)がコスト的にただのりせずに、恩恵に応じて森林所有者に環境補助金(PES:payment for ecosystem services)を支払う。リオ宣言では前者の考え方が主流だったが、パリ協定では後者の考え方が入って来ている。

CO2輩出目標について、京都議定書ではcommitmentとしたため、米国をはじめ離脱する国が出てきてしまった。パリ協定ではこれを、「各国が自主的に決定する約束草案」INDC(intended nationally determined contributions)として各国の考え方の自主性にまかせて目標設定することを許容した。但し、それは“工業化以前と比べた気温上昇が2℃を十分下回る水準にして、1.5℃に抑制するように努力する”ことが前提となっている。この目標を5年ごとに提出(shall要求)し、長期炭素発展戦略を作成・提出(should要求)する。この全体進捗を5年ごとに評価する、こととなった。
この狙いは、米国と中国の積極的参加を促進することにある。実は、米国は以前エネルギーは石炭が中心だったが、シェール・ガス開発によって、ガス化が進展するだけで十分改善可能であり、中国は従前技術の活用で対応可能な大気汚染対策を実施するだけで改善可能と見られていて、彼等の参入障壁は非常に低くなっている。それでもなお、米国の加入締結の実現を息をのんで見ている状態である、という。

日本のGHG排出量目標について、先ず 京都議定書の目標達成は既存の森林の寄与と排出権取引によって何とか達成したというのが実情だ。その後については、省エネ法の強化によって家電等の省エネは革新されて成果となっている。しかし、業界ごとの自主規制目標は見込み違いが有ったりして達成できていない状態である。*
長期エネルギー需給見通しでは、原子力と再生可能エネルギーが補完関係で設定されており、合計で44%にするようになっている。(原子力は、使用済み燃料の廃棄処理コストが見込まれていない。再生可能エネルギーは安定供給や瞬時の対応変更が困難等の問題を抱えている。両者のこうした状態を前に、長期エネルギー戦略が定まっているとは言えない。)今のところ、エネルギー政策の多くは電力システム改革に期待せざるを得ないが、“電力料金を安くすれば、省エネ動機が損なわれる”というジレンマも抱えているのが現実だ。
*日本のINDCはGHG排出削減目標は、2030年までに2013年度比26%減(2005年度比-25.4%)

こういう日本の現実は、ヨーロッパ特にドイツと違って、人間社会における実現するべき原則は何かという哲学、つまり明確な価値観が定まっていないためにエネルギー戦略すら漂流しているのではないだろうか。軍国少年が戦後民主主義の成果も無視して、戦前回帰を目指すかのようなアナクロ安倍首相では、21世紀に世界の先端に立つことなど期待することが無理なのだ。だからこそ、現政権は実効が伴わない口先ばかりの政策で誤魔化そうとしているのだ。現政権のあらゆる政策が口先オンパレードになっていて、現実との齟齬がいよいよ目立ち始めている。

COP21は何とか決着したが、実は約束された各国の自主目標では2℃低減は不可能と見込まれる、ということだった。こうした状態に立ち至ったのは、地球上の資源全ては本来誰のものかという本源的問題に、人類が適切な解を共有していないからではないか、と思うのだ。天然資源は各国の領域内に存在すれば、その国のモノであり、その土地の所有者に相当な恩恵があり得るという考え方を変えなければ、解決しない問題でないかと思うのだ。地球上の資源は人類共有のものであるはずだし、土地の私有すら本来あり得ないのではないか。土地の私有は、開墾したという労働価値によって承認されるという経済学開闢以来の発想を転換しなければならないのではないか。
これは個人の才能についてすらも言えることであり、それはついにはイェス・キリスト的発想ではないかと思うのだが、いかがだろうか。何故ならば、才能そのものは個人の努力で得られたものではなく、正しくgiftつまり神からの贈り物だから、人類の共有物であると考えるべきではないかと考えるのだ。そのような過激な見解の是認はいきなりは無理としても、少なくとも従来思考の基準や価値観は見直すべき時が来ているのではなかろうか。

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