おシャカ様の場合はおシャカ様以前に「この法」を證明出来る人はいなかったのです。
”無師独悟”だったのです。
しかし、摩訶迦葉尊者がおシャカ様(この法)を證明したのです。
おシャカ様の場合はおシャカ様以前に「この法」を證明出来る人はいなかったのです。
”無師独悟”だったのです。
しかし、摩訶迦葉尊者がおシャカ様(この法)を證明したのです。
それでは何故おシャカ様の教えが正しいことを、誰が印可(證明)するのかという事が問題になってきます。
「此事(このじ)」は皆さんご自身が證明し、印可を受けるのです。
別の言い方をすれば「自分が自分自身を救い、そしておシャカ様の教え(指導者の教え)の正しさを證明し、指導者から印可を受ける」のです。
このことを「法の受授」といいます。
指導者(おシャカ様)が修行者(私たち衆生)を證明し、印可を授けるのです。
このことも「法の受授」をいいます。
そこではじめて「おシャカ様(指導者)」と一体に成れるのです。
禅宗の教えは、おシャカ様の教えの中の「禅、坐禅」を以って修行の方法としている教えです。
禅の特色は「印可證明(いんかしょうみょう)」に有(在)ります。
「以心伝心(いしん でんしん)」とも言います。
「印可證明とは、「一器の水を一器に移すが如く」というたとえがありますが、外に一滴もこぼさずに水を別の茶碗(うつわ)にそのまま移すという事です。
おシャカ様の悟られた内容はそのまま二代目の「摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)」に伝えられインド、中国を経て日本に入って来たのです。
昔、中国では「公案禅、看話禅(かんなぜん)」とか「黙照禅」という「禅」がありました。
そういう「禅」があってはならないはずなのですが、ありました。
「公案」というのが千七百則あり、一応それを学べばそれで終わり(卒業)という事なのです。
それでは、「公案が数限りなくあったら如何するのか」という事になります。
そういう「禅」を教えられ、又「それが禅だと思って学ぶ」という事がありました。
これはあってはならない事で大変な間違いです。
ですから、「今、自分自身が何を求めて坐っているのか」ということをよく自分で考えていただかないと「労して効無し」という事になってしまいます。
「禅を学ぼう」としている、そういう人がいます。
道元禅師は、「禅は習禅にあらず」とはっきりお示しになって居られます。
「禅」というのは学ぶ物(事)ではありません。
「禅」を自分以外の処に立て、そして「禅」に因って自分自身という者を何か自分の思っているような形に変えていこうとするかもしれませんが、「禅」というのは「自分の事」なのです。
ですから、それを何のように学ぶかといっても学びようが無いのです。
また、「禅」を知(識)って、「知(識)っている禅」を何とか自分と一つにしたい、その為に「禅を学んで行きたい」というような事を考えているかもしれません。
これは大変な誤りです。
「禅を学ぶ」、いわゆる「習禅」をしても学び尽くせるものではありません。
坐って功夫するということは間違いです。
思惑の中で坐らないように「祇管(ひたすら)に座り尽くす」という、これが「坐禅の要領」です。
その外のことでは「脱落」という事は、到底夢にも知(識)ることは出来ません。
功夫(坐禅)をして下さい、功夫(坐禅)だけに成って下さい。
「この法」は一歩一歩根気よく歩かない限りは、「坐禅は坐禅なり」という「本当に脱落した中での坐禅・全ての物事が落ち切ってしまった中での坐禅」は、決して出来ないのです。
したがって、一所懸命に「功夫」をして頂きたいと思います。
「功夫」という事は、「坐禅」という事です。
同じなのです。
禅に於ける功夫(くふう)というのは、普通に言う「分からないところがあるから、いろいろ工夫して分かるようにする」という意味ではありません。
「功夫その物」という事です。
「功夫」ということに意味付けや意義付けをしないようにして頂きたいと思います。
「祇(只)管 ”ひたすら”に親切に真心を込めて一呼吸一呼吸、その物その物に成り切って頂きたいと思います。
「只(ただ)自己を忘れて事に当たり、事に当たりつつ、自己を忘れるの一事あるのみ」です。
これが「禅道の原則」です。
別の言い方をすれば「石頭(せきとう)禅師」曰く、「自己無き時、自己ならざるはなし」と。
何時でも分量は同じです。
同じものほど親しきはないのです。
その「根元(本)智」を養うのが「禅」なのです。
道歌に、「我がものと 思えば 軽し 傘の雪」
世の中の成功は「死、迄」に限られていて、結局、大病や大失望の案内者で頼むに足りません。
「真の成功」は、限りなきものでなければなりません。
何時でも、何処でも、何をしていても、その分量が同じでなければなりません。
「無量」は何時でも同じです。
「無辺」は何処でも変わりありません。
「死線」を越える資格を得なければ「成功」とは言えません。
「お金や学問や権勢」は決して頼むに足りません。