杖
2020年11月22日 | 禅
「坐禅」を一応手段、方法として、万(ばん)止むを得ず使うことはあります。
それは「法(道)そのもの」に到達する方便として使う場合です。
手段、方法ですから「途中のものです」。
あくまでも途中のものとして、そういうものがあっても差し支えないという事です。
何も無ければ、何も分からないからです。
手段、方法というものは、自由に一人歩き出来るまでの「杖」の様なものなのです。
「本当に坐れた時」とは「坐(ざ)が無くなった時」です。
形ある物を消滅させていかなければいけないという事です。
これを「法(道)を求める」と言っています。
「禅」は私たち衆生の「今の事実(状態)」です。
その他に特殊な物事はありません。