電車の音を聞くのでも、何ものも聞くという考えはないのです。
「魂」という名を聞いたから「魂」が聞くと思うだけなのです。
「魂」はないのです。
「己れ」はないのです。
「唯因縁に依って聞くという事実」があるのみなのです。
「此方」ばかりでは聞くという「事実」はないのです。
「此方」に聞くものがあると思うのが「迷い」なのです。
「此方」に「魂」があると思うのが「迷い」なのです。
これは余程考えなければなりません。
何故ならばそれを「心」と思っているからです。
「皆我が心なり」といっています。