聞法2
道を求めていく上に於いては「何が道か」ということが分からなければ
尋ねる必要が有(在)るのです。
南泉禅師が言われた「平常心是道(びょうじょうしんぜどう)」。
繰り返しになりますが「平常心」とは、いわゆる「私たち衆生の日常生活そのまま」です。
目に見えないところでは「喜怒哀楽」です。
それを南泉禅師は「道(仏道)」と言われたのです。
道を求めていく上に於いては「何が道か」ということが分からなければ
尋ねる必要が有(在)るのです。
南泉禅師が言われた「平常心是道(びょうじょうしんぜどう)」。
繰り返しになりますが「平常心」とは、いわゆる「私たち衆生の日常生活そのまま」です。
目に見えないところでは「喜怒哀楽」です。
それを南泉禅師は「道(仏道)」と言われたのです。
「聞法(もんぽう)」とは、師を訪ねて「法を問うこと」です。
趙州禅師は「何時何処で何をしていても道の真っ只中だ」ということは、
聞いて分かって居られたのでしょうけれども、本当にはお分かりになって
いなかったのです。
これは「参師聞法が出来ていなかった」ということです。
ですから、南泉禅師に尋ねられたのです。
「如何なるか是れ道」と。
是は当然のことです。
そこを護っていけば私たち衆生は、解脱が出来るのです。
それを間違えないようにしないと「仏教道徳や倫理」というような、そういうものを
認めて、自分を整え「悪いことはしてはいけない、善いことはしなければならない、
徳を積まなければならない」というようなことに堕ちていってしまいます。
しかし、決してそういうものではありません。
間違えると「戒法を護持」していく方が何となく仏道ということの修行をしているような
自他共に間違った考えに堕ちるということです。
私たち衆生は「過去と未来」は看ることが出来ます。
又、「認識する」ことは出来ますが「現在(今)」ということはどんなにしても
自分で知(識)ることは出来ません。
その知(識)らない(手の付けられない)ところを護持していくのが「真の戒法」です。
もちろん「戒法」というのは、「ものを殺してはいけない、ものを盗ってはいけない、
何々をしてはいけない」という、そういうことも「戒法」です。
しかし、「それ以前(決められたことを護る以前)」に手の付けられないところ
即ち「今(今の事実)」が有(在)るのではないでしょうか。
一切のものと一体に成っている状態を「今」といい、「空」といっているのです。
このことを仏法では「法(道)」と言います。
私たち衆生は「法(道)を知(識)らず」に生活している為に、「今」をないがしろにして
過去と未来だけを考えて(思って)いるということが、ものの有り様なのです。
真宗の教えの中に「不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃を得る)」
というお言葉があります。
普通に考えると、煩悩を無くさなければ涅槃(悟り)というものを自分で開くことが
難しい(出来ないだろう)と思われますが、禅宗では「煩悩即菩提(煩悩そのものが
悟りである)」と言っています。
私たち衆生は、「これから修行して涅槃を得る」のではなく、何時でも何処でも
何をしていても涅槃(悟り)の中で生活しているということです。
たまたま人間界に生を受けた者は、どうしてもある時点から「自我の芽生え」
というものが起きて来るのです。
そして、「自分と物」を分けて見るようになるのです。
これは人間(にんげん)として、万止むを得ないことです。
私たち衆生は生まれながらにして、おシャカ様のように「ものを一つに見る」
なんてことは出来ません。
人間界に於いては、その「自我の芽生え」というものを、分別心ができたとか、
認識が出来るようになり自他の区別がはっきりするようになったとか、
こういうように言っていますが、それは大変な間違いなのです。
それでは「何を尊重しなければならないか」というと、おシャカ様の教えでは
「もともと、ものは一つであったものを知らず識らずにか自我の働きに因って
自他の区別を創った(立てた)」ということです。
そういうところから「迷い」が生じたのです。
「諸法は実相なり、実相は無相なり」というおシャカ様の教えというものは
「元(本)が無い」ということです。
「天地と我と同根、万物と我と一体」とは、「ものは一つである、ものには距離が無い」
ということをいっているのです。
ですから、「一体」である以上は、犯すとか犯されるとか、傷つけるとか、迷いとか悟り
というものは本来有るはずはないのです。
そのことをよく承知しておいて頂かなければなりません。
次に「自己を忘るるというは、万法に證せらるるなり」と示しておられます。
「万法」とは一切の「差別(しゃべつ)の法」です。
「證せらるるなり」とは「一つに成る」ということです。
今日相対的なものの見方をしていますが、実はそうではないのです。
元々相対的なものの見方というのは、
「符号の部分と、自分というものが有(在)るからそうなる」のであって、
「一つに成って見れば」相対的なものの見方というのはなくなるのです。
「一つに成れば」間違いなく迷うというものは、なくなります。
それを「證せらるる」というのです。
しかし、本来忘れなければならない「自己」はないのです。
忘れなければならない「自己」はなかったと気付くことが「悟り」なのです。
それが即ち「本来の自己に巡り逢うことが出来た」ということなのです。
間違えてはならないのは「仏道をならうというは自己をならうなり」というと、
今の自分を修行に因って軌道修正をするとか、路線変更をしなければならないと
理解しがちですが、そうではありません。