その第三番目には、「戒法の護持」 ということです。
「今という、手の付けられないところ(今の事実)」
を、守っていくということです。
それぞれの人が、それぞれに一杯一杯なのですから
どんな状態であろうとも、それぞれの人にとっては
「それそのもの」 ではありませんか。
「法」あるいは、「認識以前の自分」 というものが
キチンと現成(げんじょう)しているのです。
今度は自分が坐って
「実證(理論においても事実においても證明する)」
をするのです。
そいういう坐禅をしていただかなければいけないということです。