活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

獅子身中の虫1

2016年12月21日 | 語録

「獅子身中(しししんちゅう)の虫」 というお言葉があります。

辞典では次のように説明しています。

 

「仏弟子でありながら、かえって仏法をそしり、

仏法を滅する悪比丘のこと、また、内から

生ずる禍のたとえ。

獅子が死ぬと他獣はこれを喰わないが

ただ獅子の身中に自ら虫を生じて

その死屍を喰うということから、仏の正法は

他から破壊させることは出来ないが、本来

仏法を信奉するはずの比丘が自らこれを

壊滅させることにたとえる」

と。

 

ですから、仏教のお坊さんは外から見れば

落ち着き払っていかにも生死、煩悩、あるいは

俗世間でいうところの欲を超越したかの如くに

見えても、心中はなかなか穏やかではなく

煩悩がちらちら動いているものです。


人法(にんぽう)

2016年12月20日 | 

「自分は全部空になった、空じることが出来た」

という人がいます。

 

しかし、「自分だけが空に成ったけれども

よそのものが邪魔になる」

という様な事はあってはならないはずです。

 

しかし、そういうことが事実として

大変ある訳なのが現状なのです。

 

自分も 「法」 ならば自分の他に 「法」 が

あるはずがないので、「法」 も空に成らなければ

ならないのです。

 

「人法(にんぽう)=空」 というお言葉があります。

人も法も空に成って始めて許される事です。

 

しかし、それでも、「もともと人も法も空のものである」

という事から言えば、「今、空に成った」 という事だけ

間違いなのです。

 

という事から、これも一つの大きな 「病」 であるという事を

言わざるを得なくなるのです。

 

こういうのは全部 「真常流注(しんじょうるちゅう)」 です。

悟りという病、仏性という病、不知不識のうちに

流れ出て来るのです。

 

「祇(只)管」 とか 「このまま」 というような事は

全部 「病気」 なのです。

 

「無常」 から言えば、そういうものにつかまれないはずです。

しかし、それがなかなか

「自分のものに成らない」 という事です。


柔軟心を得たり2

2016年12月19日 | 道元禅師

道元禅師は柔らかに成っただけだというのです。

それでなければ衝突します。

 

一人柔らかに成ったということは、

世界が柔らかになるのです。

 

関係が大きいのです。

「一人」 は宇宙と種々関係しているからです。

 

もし人が、「我」 を瞋らせようとする時、

「我」 はどいういう 「覚悟」 をして防ぐか

ということがあります。

 

それは、「大馬鹿者」 に成らなければなりません。

そういう時は笑って迎えるのです。

 

とにかく一つのものです。

これによって 「貪欲」 も 「瞋(いか)り」 も出ないものです。

 

私たち衆生は 「瞋らぬ」 という 「柔軟心」 を

誓おうではありませんか。

 

それでなければ 「唯物知り (物識り)」 に

なっても何にもなりません。


柔軟心を得たり1

2016年12月18日 | 道元禅師

道元禅師が中国から帰った時に、どういうことを

得たかと質問した人がありました。

 

すると、禅師は只

「眼横鼻直(がんのうびじょく)」

と、抹香臭いものは何にもないと答えました。

 

「何の不思議もなかりけりだ」 と答えました。

 

それでは何の効果があるのかと、又、

問われたのに対して禅師は、

「唯少(しばら)く、柔軟心(にゅうなんしん)を得たり」

と、ただ近頃心が軟らかになったぞ、と言ったのです。

 

柔らかに成らなければ駄目なのです。

「柔軟心を得たり」 ということは、

「塊り」 がなくなったということです。

 

「氷」 がとけて 「水」 に成ったのです。

それが、「修行の結果」 です。


自分のこと

2016年12月17日 | 坐禅

坐禅は止めれれることではありません。

自分のことですから。

 

もし、

「自分はとてもこういう坐禅というようなことは、

難しいことだから止めよう」

と、思う人は自らの目を閉じること、

自らの耳を塞ぐことになります。

 

「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」 を全部

閉鎖してしまうことになります。

 

そういう事を考えあわせて、

「坐禅というものは止められるものではないんだ。

しかも、手段や方法を用いられるものではないんだ」

ということを考えて頂きたく思います。

 

「坐禅の功夫」 も同じです。

出来るとか出来ないとか、分かるとか

分からないとか、是非善悪とか、そういうものが

出て来てはいけないのです。

 

本当に 「坐禅の功夫」 だけになるというふうに

務めて頂きたく思います。

 

そんな是非善悪を考えるような余裕があっては

いけないということです。

 

それくらい、「功夫だけになる」。

そういうふうに功夫をして頂きたい、

坐禅をしていただきたいと思います。


坐禅修行の三要件4

2016年12月16日 | 

「戒法の護持」 を別の言葉で言えば、

「現成公案(げんじょうこうあん)そのままになっている」

ということです。

 

「現成(今の事実)」 に少しでも手をつけたり、

守るべきものが出たり、「こうあるべきだ」

というものが出て来るということは、これはすべて

「戒を破った(破戒)、戒を汚した」 ことになるわけです。

 

それほど、私たち衆生は

「すでに戒の中の生活をしている」

ということです。


坐禅修行の三要件3

2016年12月15日 | 

その第三番目には、「戒法の護持」 ということです。

「今という、手の付けられないところ(今の事実)」

を、守っていくということです。

 

それぞれの人が、それぞれに一杯一杯なのですから

どんな状態であろうとも、それぞれの人にとっては

「それそのもの」 ではありませんか。

 

「法」あるいは、「認識以前の自分」 というものが

キチンと現成(げんじょう)しているのです。

今度は自分が坐って

「実證(理論においても事実においても證明する)」

をするのです。

 

そいういう坐禅をしていただかなければいけないということです。


坐禅修行の三要件2

2016年12月14日 | 

その第二番目には、「法」 を実際に

「成る程、その通りだ」

と、修行して自分自身でうけがうことです。

 

それを、「坐禅功夫」 といいます。

「ただ坐っているだけではいけない」

ということです。

 

それには、「祇(只)管打坐・公案功夫」

この二つのみが真に解脱する道です。

 

道元禅師も

「意根を坐断する(意識の根源を坐って断ち切る)」

と、はっきりお示しになって居られます。

 

自分の知識や考えでもって坐っているだけでは、

それは 「ただ、そういう事をしているに過ぎない」

ということです。

 

それでは、いつまでたっても 「法」 を明らめることは

出来ません。


坐禅修行の三要件1

2016年12月13日 | 

坐禅修行をする上で、三つの大切なこと(三要件)を

知らなければならないと、言われています。

 

その第一番目は 「参師聞法(さんしもんぽう)」 ということが

あります。

「師に参じて法を尋ねる」 ということです。

 

自分は、

「東に向かって歩いている」

と話しても、師から

「いやいや、とんでもない。あなたは今、西に向かって

歩いているんだよ。」

と、言われたならば、ただちに 「自分は間違っていた」

ということを 「自覚」 しないといけないのです。

 

しかし、師がそう指摘しても、なかなかそれがしてもらえない

ものです。

 

どれだけ誤りを指摘しても、自分の考えを持って、そのように

聞いているだけなのです。

 

ですから、「参師聞法」 ということは、どうしても必要なことです。

「法を求めて師に聞法する」 というそういう姿勢がないと、

「自分の考えでもって坐禅をしている」 ということですから、

それでは、いけないということです。


坐禅の意義2

2016年12月12日 | 坐禅

禅とは実證です。

実證とは、「事実を示すこと」 です。

 

「事実を示すこと」 とは、「理(理論)」 においても

「事(事実)」 においても證明することです。

 

私たち衆生の日常生活において、

「腹を立てる、非常に悔しい、不安だ、等々」

これらはみんな 「自分の事実」 ではありませんか。

 

みんな本当のこと(事実)を出している訳です。

みんな 「自分の今の事実」 です。

 

この 「今の事実」 のほかに私たち衆生は一体何を

「事実」 として探し求めなければならないのか

ということなのです。

 

「今の事実」 を徹底してそのまま、そのことを

親切に自分のこととして受け止めていくのです。

そうすると必ず 「実證」 というものが出来ます。

 

「禅」 というのは、今の人間(にんげん)の生活、

私たち衆生の日常生活そのもの 「事実そのもの」 を

言っている訳です。

 

ですから、そうしていく以外には人が「安心(あんじん)」

するようなことは絶対に出来ません。