活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

「坐禅は坐禅なり」再考

2016年02月09日 | 坐禅

坐禅は直に是れ身心脱落です。

道元禅師は中国において、「身心脱落の一声の下」 に確かに身心脱落を体得されました。

其れが直に坐禅の力です。

此の力に前後なしと言うのは理想の上から言っているのです。

事実、境界(きょうがい)の上からは、其の境界に体達しなければ自ら許すことは出来ないはずです。

 

「坐禅は坐禅なり」、坐禅に師なし、坐禅の真師は坐禅なのです。

即ち、坐禅が坐禅を教えてくれるのです。

 

坐禅はもとより、結果にして、手段・目的ではありません。

所謂(いわゆる)坐禅は 「修證不二」 なりと体得するを得るのですから、

最初から丸呑みにしてはいけません。

 

其の間、多少の距離と時間とを要することを忘れてはいけません。

そうしないと 「空腹高心の病」 に墜ちます。

指導者のもとで、百錬千鍛を要することをも忘れてはいけません。

 

しかし、坐禅は仏行ですから、「悟 未悟」 に拘わらず日常茶飯として、

生より死に至るまで坐禅することを忘れてはいけません。

 

経に、「法喜禅悦を食(じき)となす」 というのがあります。

「食なくんば、命なかるべし」 です。

深くこれを思っていただきたいと思います。