活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

人間(此の物)の構造 3

2016年02月06日 | 仏教

私たち衆生は、いつの間にか人間(此の物)を自分だと認識してしまいました。

長い間、何か分からない、誰とも分からない 「人間(此の物)」 を自分だと思って来たところに、大きな問題があります。

(詳しくは旧稿、人間(此の物)の構造1,2を参照してみて下さい 2015年 4月10・11日)

 

そこで、道元禅師はこのように言っておられます。

「仏道を習うというは、自己を習うなり、自己を習うというは、自己を忘るるなり

自己を忘るるというは、万法(まんぽう)に証せらるるなり

万法に証せらるるというは、自己の身心 他己の身心を脱落せしむるなり」

 

どういう事かと言うと、

「人間(此の物)と認めて、自己と見做しているもの、それは何か?」

「一体、自己というが、是は何者か?」

という問を参究して行く事が仏道の修行であるということです。

 

「人間(此の物)」 は、自分の象徴にすぎません。

そこで、この象徴をさえ 忘れる事によって、一切のもの(森羅万象・しんらばんしょう・・・是を万法と言っています)

と、隔たりが失くなる、即ち一体になるという事です。

 

一つに成った事を脱落と言っています。

脱落した、一体に成ったという事は、空に成ったという事です。

 

修行とは、「既」に脱落していた、一体であった、空であったと自覚することです。

これから空になって、無になって、一体になって修行するという事ではありません。