私たち衆生は、いつの間にか人間(此の物)を自分だと認識してしまいました。
長い間、何か分からない、誰とも分からない 「人間(此の物)」 を自分だと思って来たところに、大きな問題があります。
(詳しくは旧稿、人間(此の物)の構造1,2を参照してみて下さい 2015年 4月10・11日)
そこで、道元禅師はこのように言っておられます。
「仏道を習うというは、自己を習うなり、自己を習うというは、自己を忘るるなり
自己を忘るるというは、万法(まんぽう)に証せらるるなり
万法に証せらるるというは、自己の身心 他己の身心を脱落せしむるなり」
どういう事かと言うと、
「人間(此の物)と認めて、自己と見做しているもの、それは何か?」
「一体、自己というが、是は何者か?」
という問を参究して行く事が仏道の修行であるということです。
「人間(此の物)」 は、自分の象徴にすぎません。
そこで、この象徴をさえ 忘れる事によって、一切のもの(森羅万象・しんらばんしょう・・・是を万法と言っています)
と、隔たりが失くなる、即ち一体になるという事です。
一つに成った事を脱落と言っています。
脱落した、一体に成ったという事は、空に成ったという事です。
修行とは、「既」に脱落していた、一体であった、空であったと自覚することです。
これから空になって、無になって、一体になって修行するという事ではありません。