「事に触れずして知り」の「知」は覚知ではありません。
覚知は小量です。
了知の知でもありません。
了知は造作です。
ですから「事に触れずして知る」のです。
「事に触れずは知」なのです。
その「事に触れず」ということを宏智(わんし)正覚禅師は、「明頭(みょうとう)に来たらば明頭に打し、暗頭に来たらば暗頭に打す」と。
また「坐破す 嬢生皮(じょうしょうひ)なり」と、いっています。
「嬢生皮」とは母親から生まれたままの人ということです。
つまり生まれたままの人に成り切って坐禅に徹しなさいといっているのです。