活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

浄潔の病1

2016年12月09日 | 坐禅

私たち衆生の一人一人が、どんな考えをもって

どういう坐禅の状態であっても、みんな 「今」 のことです。

 

何もない世界に居ながら、何かに偏っていたり、

「位(くらい)」 に住しているということですから、

「そうかな」 といって、また他に求めることが無い様にして

頂かないといけないということです。

 

「祇管(ひたすら)に坐る」 ということが、間違えられて

「祇(只)管打坐」 というひとつの 「坐禅形」 を認めるように

なってしまいました。

 

そして、「悟るものも、得るものもあってはいけない」

という、「無所悟、無所得」 が強調され、その結果

「祇管(ひたすら)に坐る」

ということから、もうひとつ意識が沿って、

「祇(只)管打坐をすればいい、只、坐ればいい」

というようになってしまいました。

 

これはあくまで 「結果から見た言葉」 です。

確かにその通りなのですが、残念ながら

「只」 というものが、どうしても残って行き詰まって

しまうのです。

 

「只、只」 と、それだけなのです。

それでは、所謂仏教でいうところの、「空」 でも

なければ、「無」 でもありません。

 

「只」 というものを自分で取り扱って、いつも

綺麗なところにいるということになります。

 

これを 「浄潔(じょうけつ)の病」 といいます。


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