逸話3
2016年06月02日 | 禅
ある人が病気で危篤に陥り、
“俺は最早死ぬ人間だが、安心(あんじん)出来ない。
日頃からお付き合いのあるお坊さんを呼んでくれ”
と、身内に頼みました。
お坊さんが来ると、安心(あんじん)の道を尋ねました。
すると、そのお坊さんは大喝して、
“馬鹿野郎、この期(ご)に及んで安心(あんじん)とは何事ぞ。
死ぬる外に何の安心がある、安心を求る処地獄に入る如じゃ。
この馬鹿野郎”
と、怒鳴りました。
ところが、「はっ」 と、それで悟ったということです。
安心(あんじん)という白粉(おしろい)をつけようとするから悟れないのです。
道元禅師は 「死は仏の御命なり」 と言っておられます。
「死」 を嫌うは 「仏」 を殺すことです。
“散る時は散るなり 花なり” です。
死すべき時に死ぬるということが直ちに 「阿弥陀様」 なのです。
この 「生」 はこの 「死」 の賜わりで、「死」 を通ってこない 「生」 はない
ということが判ったら、「死」 は「生」 を生み出す母であることになるではありませんか。