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見果てぬ夢を求めて

2006年10月05日 | 風の旅人日乗
10月5日 木曜日。

さて、今日は、舵誌の2001年12月号に掲載された、見果てぬ夢を求めて、ウォーターマンから、タイガー・エスペリ(Tiger Espere)について。彼は、1946年、オアフ島生まれ。カメハメハ大王の末裔であり、ハワイのレジェンドサーファーとして、1976年ホクレアによるタヒチ航海のクルーとしても知られ、伝統工法によるカヌービルダーの第一人者でもあった。

なお、今度の10月8日日曜日、チーム・ニシムラ・プロジェクトの活動の一環として、横浜みなとみらいの、帆船日本丸メモリアルパークで、カヌー型ディンギーによるセーリーング体験を行ないます。先日、このブログでも紹介した伝説的なセーリング・コーチの小池哲生さんや、東京海洋大学ヨット部OBの方々から、セーリングの楽しさを伝授していただきます。東京海洋大学のビートシャークジャズオーケストラによるサンセットJAZZコンサートや、ヨコハマ・シーサイド・フェスティバルとしてのイベントもイロイロありますので、気軽にお越し下さい。
詳細はこちらです。
(text by Compass3号)

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見果てぬ夢を求めて
ウォーターマン
タイガー・エスペリ <<舵2001年12月号>>

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

日本文化に魅せられたハワイアン
ハワイ人の祖先を辿る海の旅を行なうために建造された外洋航海セーリング・カヌー〈ホクレア〉、〈マカリイ〉、〈ハワイ・ロア〉の乗組員として南太平洋に浮かぶタヒチ、イースター島などの間に広がる海を幾度も航海してきた一人のハワイ人がいる。
彼は6歳のときから波に乗り始め、サーファーとしての全盛期にはオアフ島のマカハやノースショアに立つビッグウエイブに次々と挑んだ。
彼の本名はクレムト・キカイリウラ・エスペリ。多くの人たちに親しみを込めて“タイガー”・エスペリという名で呼ばれ、ハワイではレジェンド(伝説)として語られるサーファーだ。
サーファーとして海に出るだけではなく、タイガーはパドル・カヌーにも乗って、オアフ島とモロカイ島を隔てる海峡を何度も漕ぎ渡った。外洋航海セーリング・カヌー〈ホクレア〉の計画を知るとすぐにそれに建造から加わり、ハワイ-タヒチ間をセーリングで渡った。タイガー・エスペリはサーフィンからパドル・カヌー、外洋セーリングまでをこなす、いわゆる本物の“ウォーター・マン”である。
彼はサーフィンの仕事で招待されたのをきっかけに数年前に初来日したが、日本という国と文化に強い興味を抱くようになった。鎌倉では長谷寺の観音菩薩の神々しさに魅せられ滞在中は毎日のように長谷寺に通った。
タイガーはその翌年にも再び日本を訪れ、それからは鎌倉に住むようになった。地元の人たちと親密に接し、時間があれば長谷寺に参拝した。日本の文化に積極的に近づき、タイガーは日本という国、日本人という民族にいつしか強い親近感を抱くようになっていた。
日本人の血を引くハワイアンで、ジェリー・ロペスというサーファーがいる。彼もまた、ある時代のサーフィン文化を築いた、伝説そのもののようなサーファーだ。以前その彼と話をしたときに、まるで禅問答のように思える彼の人生観に触れて驚いたことがあるが、これら伝説的なサーファーの多くがそうであるように、タイガー・エスペリもまた、波や海という大自然と日常的に接することによって世界観や自身の人生観の中にスピリチュアルなものを強く感じるようになっていた。
海を通じて地球と人間とのつながりを深く意識できることの幸せ、〈ホクレア〉や〈マカリイ〉での航海で知った自分たちの民族の誇りを持つことの素晴らしさ、自分自身のアイデンティティーを持つことができる幸福感・・・・。
海に出ることを通してこれらの喜びを知ったタイガーは、日本の人たち、日本の子供たちにもこの幸福感を是非味わって欲しいと考えるようになった。そのための手段のひとつとして自分ができることは、日本で外洋航海カヌーを造って日本各地を回り、日本の子供たちをそれに乗せてあげよう、という計画を立ち上げることではないだろうか、と彼は考えたのだ。
日本の人たちが自分たち自身のカヌーを造って海に出て、海という自然と日常的に触れることによって日本を取り巻く自然に思いを巡らせ、そして日本人という民族、その祖先に思いを馳せることができれば、自分が海で味わってきた幸せな気持ちを多くの日本人と共有できるようになるのではないか、とタイガー・エスペリは夢見た。

タヒチと日本をつなぐもの
そうと決めてからは、タイガーはあらゆる機会を見つけては自分の考えを日本人に伝えて歩いた。一般市民を中心とした草の根活動によってこの計画を実現させようと考えていた。鎌倉市役所、逗子市役所、横浜市役所、神奈川県庁に出向いて、自分の計画を説明した。いろんな市民の集まりに顔を出した。
タイガーはこれらの活動の合間に、サーフィンの雑誌に原稿を書くなどして日本での生活費をひねり出していたが、金銭的にはあまり余裕のない生活だった。情熱だけが支えだった。
そのタイガーの情熱にも関わらず、外洋航海カヌーを造る計画まったく進まなかった。タイガーが熱くなって説明すればするほど、聞いている人々の反応はタイガーの期待とは大きくズレたものになってしまう。
「パドルを漕いで太平洋を渡れるの?」
「それは一体どんなカヌー?」
「で、なんでそんなものを作るんだって?」
ハワイ人であるタイガーの口から出てくる「カヌー」という言葉からは、一般の日本人が全長60フィート以上のセーリング・カタマランをイメージすることはできない。タイガーは日本人と感動を共有できるどころか、日本人との間に横たわる言葉の文化的な壁さえも乗り越えることができないでいた。
資金も全く集まって来なかった。カヌーさえできれば寄付金が集まってくるはずだと考え、オアフ島の実家に頼んで建造資金を調達しようともしたが、これもうまくいかなかった。
タイガーにはまた、もう一つ解決すべき問題が残されていた。それは、タイガーが情熱を傾けて造ろうとしている外洋航海カヌーの名前を決めることだった。タイガー・エスペリが属するポリネシアの民族の伝統に従えば、舟は、舟が造られ始めてから名前が付けられるべきものではない。その舟が存在しなければならない理由と、その舟の名前とがまず最初にあって、然る後にその舟は造り始められるべきものなのだ。
そんなある時期、ポリネシア航海協会の仕事でタヒチに行ったとき、タイガーは自分が日本でカヌーを造ろうとしていること、その計画がなかなか前進しないで苦しんでいること、そしてそのカヌーの名前が決められないでいること、といった悩みをタヒチの老婦人に打ち明けた。彼女は、
「そんなに苦労しているのなら、タヒチで我々と一緒に造ればいいじゃないか」
と誘ってくれたが、タイガーは、自分は日本人と一緒に造りたいのだ、と力説し、その誘いを断った。
「お前は日本のどういうところに住んでるんだい?」と尋ねる老婆に、
「鎌倉という、海に面した美しい場所」だとタイガーは答えた。
彼女は古代ポリネシア語を知っていた。タイガーは彼女からKAMA’KU’RAという言葉の意味を知らされる。古代ポリネシア語でカマ・ク・ラとは、“昇る太陽の子供”という意味をなす。カマは子供、クは昇る、ラーは太陽。
タイガーはこのことに深い意味を感じた。何か強いスピリチュアルな影響を受けて自分が日本で住む場所と選んだ鎌倉は、古代ポリネシア語でも意味を持つ場所だった。カマクラという言葉は、日本では歴史的背景のある街の地名として知られ、ポリネシアに行けば、祝福を約束された子供というような意味を持つのだという。これこそが自分が造ろうとしているカヌーの名前としてふさわしい。カマ・ク・ラという名前の舟は、タイガーが考えていた、“日本で誕生する太平洋の大使”としてのこの舟の存在理由とピタリと合致するではないか。やはりこの舟は必ず造るべき舟なのだとタイガーは確信した。

世代を越えて伝える夢
人類が宇宙へ行きたいと夢見て、試行錯誤を重ね、ついには月まで行けるようになったとき、それを実現させるためには世代を越えて夢を伝えていくことが必要だった。
人類が初めて木を水に浮かべてそれに乗ることができることを知り、丸太をくりぬいてその中に乗り込み、パドルで漕ぐことを覚え、セーリングという技術を磨いて外洋に乗り出していったときにも、海に乗り出すという夢は何世代にも渡って連綿と伝えられ、そしていつしかそれが現実のものになっていったはずだ。
タイガーが考えるカマ・ク・ラもまた、世代から世代へと夢をバトンタッチしていく計画になるべきのものだ。焦ってはいけない、この国の子供たちに夢を与えるために誕生する<カマ・ク・ラ>というカヌー(舟)は必ず海に浮かぶ、タイガーはそう信じている。
将来に不安を抱き、自分の未来に夢を持つことすら出来ない若者たちが増え、その若者たちの悩みに明確な答えを出してあげることはおろか、ヒントさえ提示できないでいる大人たちであふれる現代の日本だが、自分の考えを伝えようと歩き始めた4年前に比べると、現在の日本人たちが「自分たち日本人は一体どこから来て、どこに行こうとしているのか」という問いの答えをより強く求めるようになっている、とタイガーは感じている。

今、タイガーはひとりではない。タイガーの考えを知った人たちの中から、サーファー、シーカヤッカー、セーラーといった“日本の海の民”たちが、タイガーの応援に加わり始めている。また、メディアを職業とする人たちの中にも、そのプロとしての感覚から、タイガーが説く計画の意義の深さや大きさを敏感に察知して、この計画を積極的に支援すべきだと考える人々が増えてきている。
そしてタイガーは、この「カマ・ク・ラ」計画は日本人が中心になって進めてこそ意義があるという考えから、自分が立ち上げて何年も続けてきたこの活動のリーダーを日本人に譲り、そのリーダーを横で支援する立場を選んだ。

今年9月には東京で「カマ・ク・ラ」プログラム応援団が結成され、多くの寄付金が集まった。雑誌でこの計画を知って寄付金を送金してきた人たちもいる。〈カマ・ク・ラ〉を建造するための資金はまだまだ集まらないが、草の根運動でこの計画を進めるというタイガーの考えは、徐々に徐々にではあるが実現しつつあるように見える。
〈カマ・ク・ラ〉は誰か個人が所有するものでもなければ、どこかの組織に属するものでもない。〈カマ・ク・ラ〉は日本人みんなのもの、もしかしたら太平洋に住む人たちみんなのもの、更にもしかしたら人類みんなのものになるべきものだ。タイガー・エスペリはそう考えている。