10月4日 水曜日。
舵誌の2001年6月号に掲載された、風の旅人たち、ヨットレース人生列伝-3から。
82年から8回ものパリ・ダカール・ラリーに出場し、現在は、日本有数のシーカヤッカーであり、海洋ジャーナリストでもある内田正洋さんの豪快な人生列伝。(text by Compass3号)
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風の旅人たち <<舵2001年6月号>>
文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura
ヨットレース人生列伝-3
砂漠から、海へ。
今回このページに登場するのは、過去2回とは少し毛色の違う人物だ。
内田正洋。シーカヤッカーとして、国内国外を問わずシーカヤック愛好者の人たちの間ではかなり高名な人物だ。
この人はとーっても面白い。
ヨット関係の人たちにはこの人物との接点が今のところほとんどないと思われるので、このページを借りて、このエッセイを読んでくださるセーラーの人たちに彼のことを少し紹介しておきたいと思う。
九州で生まれた内田正洋は高校時代にラグビーで全国大会を戦い、大学ではカッター部に入って東京湾でカッターを漕ぎまくったあと、テレビの海外ドキュメンタリー番組製作チームに取材で使う車のドライバーを派遣する会社に入る。
その会社の仕事で、故・開高健氏の「オーパ!」などの撮影でアメリカ、カナダ、メキシコを8万キロほど走破したあと、中東の砂漠へ向かい、イラン・イラク戦争の勃発に遭遇してビックリすることになったが、ビックリしているだけでなくちゃんと戦争勃発のスクープ映像も撮って日本に送り、ジャーナリストとしての仕事にも目覚める。
仕事を通して、砂漠を旅することにすっかり虜になってしまい、始まってまだ3年めだった「パリ・ダカール・ラリー」に取材も兼ねてナヴィゲーターとしてトヨタのカリーナで出場する。初出場なのにクラス、2輪駆動クラス、マラソンクラスの3部門で優勝。
以後、ある年のレースでは鼻がもげ(取れた鼻を拾って自分でくっつけたらしい。なので、ちょっとゆがんでいるが今も鼻は付いている)、ある年は松任谷由美と共同プロジェクトを組んだりして、6年連続、計8回もナヴィゲーター兼カメラマン兼ジャーナリストとしてパリダカに参加し続ける。ついでにパリダカの映画も作り、その映画はロードショー公開された。三菱パジェロの篠塚建次郎が参入し、日本でパリダカが知られるようになる以前のことだ。「砂漠を旅する」という行為が最初にあってその過程がレースになる、そんな初期のパリダカに夢中になってしまった。
しかし、メジャーなイベントになるにつれてパリダカのレースルールが変わっていき、プライベートで参加するチームが、勝つことはおろか完走することも難しくなってしまったことを機にパリダカを卒業することにし、メキシコのバハ・カリフォルニアで行われている砂漠ラリー「バハ1000」にオートバイで出場するようになる。1000マイルの砂漠を1日で走り切るという、すごいレースだ。
バハ1000を走った後、そのまま南米最南端のフェゴ島までオートバイで走り、その後南米大陸を一周するトランス・アマゾン・ラリーエイドに参加、ついでにそのラリーも取材する。
バハ1000に参加した頃にシーカヤックを知った。その当時、ラリーに出てくるバイク乗りの多くがシーカヤックもやっていて、彼らの影響だ。日本では、野田知佑氏の名前がカヌーイストとして知られるようになった時代。
その頃に知り合ったアメリカ人のニック・ギレットという男が、カリフォルニアのモントレーからハワイ・マウイ島までの太平洋をシーカヤックで、サポートボートも付けない単独行で62日間かけて漕ぎ渡ったことを知って驚き、パリダカよりもシーカヤックのほうが凄いのではないか、と思った。こんな小さな舟で太平洋を渡ることができるなんて!
日大農獣医学部水産学科で漁業を専攻した男の、海への思いが、シーカヤックによって久しぶりに頭をもたげてきていた。
1991年、内田にとって最後のパリダカに出たあと、その年のうちにシーカヤックで台湾から九州までの海を漕いだ。
翌年には、今度は西表島を出発して東京湾までシーカヤックで漕ぎ上がる。ついでにその年は、陸上でもパリ-北京ラリーに参加する。さらにその翌年には、フジテレビの「グレートジャーニー」で知られる探検家・関野吉晴氏をサポートして南米南端のマゼラン海峡をシーカヤックで横断した。
興味と活動の場は、シーカヤックを知ったことで砂漠の旅から海の旅へと移っていった。
砂漠のナヴィゲーター、星の航海師に出会う。
内田は1996年に外洋ヨットを知る。
故・南波誠がやっていた<海丸>日本一周キャンペーンにゲストクルーとして招待され、九州から沖縄までのレグに乗った。
そんな縁もあって、南波が日本への輸入を始めたアメリカ産のディンギー「エスケープ」の担当を手伝うことになった。そんなふうに内田と南波との交流が深まっていき、2000年のアメリカズカップには自分自身がシンジケートを立ち上げて参加しようと計画していた南波に、「内田、ナヴィゲーターとしてアメリカズカップに出えへんか?」と誘われるまでになった。
砂漠を走るパリダカで活躍したナヴィゲーターが、今度は海でアメリカズカップのナヴィゲーターとなることが現実味を帯び始めていた。
そこにあの、南波の落水事故が起きた。
南波を失い、内田はすっかり落ち込んでしまう。
そんなときに、相模湾を見下ろす丘の斜面にある内田さんの家に突然やってきたのが、ハワイ人のナイノア・トンプソンという男だった。
ナイノア・トンプソンのことを知らない人のためにここで少し説明を加える。
ナイノア・トンプソンは地元ハワイでは、古代外洋セーリングカヌーに乗ってポリネシアの古代航法を継承している男として広く知られ、“ザ・ナヴィゲーター”と呼ばれている英雄だ。彼は星の位置関係、うねりの形、海の水温などによるポリネシア古代航法だけを頼りに、一切の航海用具を使わずにハワイ、タヒチ、イースター島の間に広がる太平洋を自由自在に航海することができる。
日本では『ガイア・シンフォニー』という映画でこのナイノア・トンプソンと古代セーリングカヌー〈ホクレア〉のことを知った人もいるかもしれないし、ナイノアを紹介した星川淳氏著の『星の航海師』という本で彼のことを知った人もいることだろう。
先の〈えひめ丸〉事故のとき、現地のハワイ人社会は日本人社会に対して深い哀悼の意を表すために、彼らの伝統のカヌー〈ホクレア〉で現場海域まで出向き、古式に則って追悼の儀式を行なった。
〈ホクレア〉はハワイ人にとって特別な意味を持つ外洋セーリングカヌーだ。ハワイ人の手で造り、ハワイ人の手で大航海を成功させたことで、ハワイ人の祖先の能力を知り、若い世代が失いつつあったハワイ人であることの誇りを思い出させてくれたカヌーだ。その〈ホクレア〉のナヴィゲーターがナイノア・トンプソンである。
ナイノアが内田のもとを訪れたのは、〈ホクレア〉で日本を訪れたいという彼の計画を相談するためだった。
内田は唐突なその相談に乗っているうちに、南波の死で見失いつつあった自分の次の目標はこれなのかもしれないと思うようになった。
ナイノアを通して、タイガー・エスペリというハワイ人も知ることになる。タイガーはハワイではレジェンドとして語られるサーファーだが、〈ホクレア〉のクルーとしてポリネシア圏の太平洋を航海した後、次は日本で“日本のカヌー”を日本人と一緒に造り、そのカヌーに日本の子供たちを乗せてあげたいと考え、鎌倉に移り住んでいた。カヌーという言葉は、現代の日本人が一般にイメージする意味とは違い、ハワイやポリネシアでは漕いだりセーリングしたりする船全般をさす。少し前まで八丈島では船のことをカノーと言っていたが、それと同じような意味だ。
経済活動ばかりに興味を持ち、経済で勝つことそのものが唯一の価値観であるようなこの国のほとんどの人間から見ると、つまらないことに情熱を傾ける人たちがいるものだという感覚かもしれないが、内田はこういった活動に身を削る人間に何か、不思議な魅力を感じ取った。ハワイ人であるタイガーが、日本の子供たちに夢を与えようとしているのに、日本人である自分がそれを手伝わないわけにはいかないじゃないか、と思うようになった。
太平洋を渡ってハワイから日本を訪問する〈ホクレア〉を、これから造ろうとしている日本式カヌー〈カマクラ〉で出迎える。そして、数年後には〈カマクラ〉で育った日本人ナヴィゲーターとセーラーが自分たちの力で太平洋に乗り出す、内田はこんな計画を立てている。
かつてオートバイに乗って大陸の風を切り裂いていた砂漠の旅人は今、古代から吹き続ける風を使って太平洋を自由に行き来してきた海の旅人たちの仲間に入る日を夢見て、その準備に精を出している。
舵誌の2001年6月号に掲載された、風の旅人たち、ヨットレース人生列伝-3から。
82年から8回ものパリ・ダカール・ラリーに出場し、現在は、日本有数のシーカヤッカーであり、海洋ジャーナリストでもある内田正洋さんの豪快な人生列伝。(text by Compass3号)
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風の旅人たち <<舵2001年6月号>>
文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura
ヨットレース人生列伝-3
砂漠から、海へ。
今回このページに登場するのは、過去2回とは少し毛色の違う人物だ。
内田正洋。シーカヤッカーとして、国内国外を問わずシーカヤック愛好者の人たちの間ではかなり高名な人物だ。
この人はとーっても面白い。
ヨット関係の人たちにはこの人物との接点が今のところほとんどないと思われるので、このページを借りて、このエッセイを読んでくださるセーラーの人たちに彼のことを少し紹介しておきたいと思う。
九州で生まれた内田正洋は高校時代にラグビーで全国大会を戦い、大学ではカッター部に入って東京湾でカッターを漕ぎまくったあと、テレビの海外ドキュメンタリー番組製作チームに取材で使う車のドライバーを派遣する会社に入る。
その会社の仕事で、故・開高健氏の「オーパ!」などの撮影でアメリカ、カナダ、メキシコを8万キロほど走破したあと、中東の砂漠へ向かい、イラン・イラク戦争の勃発に遭遇してビックリすることになったが、ビックリしているだけでなくちゃんと戦争勃発のスクープ映像も撮って日本に送り、ジャーナリストとしての仕事にも目覚める。
仕事を通して、砂漠を旅することにすっかり虜になってしまい、始まってまだ3年めだった「パリ・ダカール・ラリー」に取材も兼ねてナヴィゲーターとしてトヨタのカリーナで出場する。初出場なのにクラス、2輪駆動クラス、マラソンクラスの3部門で優勝。
以後、ある年のレースでは鼻がもげ(取れた鼻を拾って自分でくっつけたらしい。なので、ちょっとゆがんでいるが今も鼻は付いている)、ある年は松任谷由美と共同プロジェクトを組んだりして、6年連続、計8回もナヴィゲーター兼カメラマン兼ジャーナリストとしてパリダカに参加し続ける。ついでにパリダカの映画も作り、その映画はロードショー公開された。三菱パジェロの篠塚建次郎が参入し、日本でパリダカが知られるようになる以前のことだ。「砂漠を旅する」という行為が最初にあってその過程がレースになる、そんな初期のパリダカに夢中になってしまった。
しかし、メジャーなイベントになるにつれてパリダカのレースルールが変わっていき、プライベートで参加するチームが、勝つことはおろか完走することも難しくなってしまったことを機にパリダカを卒業することにし、メキシコのバハ・カリフォルニアで行われている砂漠ラリー「バハ1000」にオートバイで出場するようになる。1000マイルの砂漠を1日で走り切るという、すごいレースだ。
バハ1000を走った後、そのまま南米最南端のフェゴ島までオートバイで走り、その後南米大陸を一周するトランス・アマゾン・ラリーエイドに参加、ついでにそのラリーも取材する。
バハ1000に参加した頃にシーカヤックを知った。その当時、ラリーに出てくるバイク乗りの多くがシーカヤックもやっていて、彼らの影響だ。日本では、野田知佑氏の名前がカヌーイストとして知られるようになった時代。
その頃に知り合ったアメリカ人のニック・ギレットという男が、カリフォルニアのモントレーからハワイ・マウイ島までの太平洋をシーカヤックで、サポートボートも付けない単独行で62日間かけて漕ぎ渡ったことを知って驚き、パリダカよりもシーカヤックのほうが凄いのではないか、と思った。こんな小さな舟で太平洋を渡ることができるなんて!
日大農獣医学部水産学科で漁業を専攻した男の、海への思いが、シーカヤックによって久しぶりに頭をもたげてきていた。
1991年、内田にとって最後のパリダカに出たあと、その年のうちにシーカヤックで台湾から九州までの海を漕いだ。
翌年には、今度は西表島を出発して東京湾までシーカヤックで漕ぎ上がる。ついでにその年は、陸上でもパリ-北京ラリーに参加する。さらにその翌年には、フジテレビの「グレートジャーニー」で知られる探検家・関野吉晴氏をサポートして南米南端のマゼラン海峡をシーカヤックで横断した。
興味と活動の場は、シーカヤックを知ったことで砂漠の旅から海の旅へと移っていった。
砂漠のナヴィゲーター、星の航海師に出会う。
内田は1996年に外洋ヨットを知る。
故・南波誠がやっていた<海丸>日本一周キャンペーンにゲストクルーとして招待され、九州から沖縄までのレグに乗った。
そんな縁もあって、南波が日本への輸入を始めたアメリカ産のディンギー「エスケープ」の担当を手伝うことになった。そんなふうに内田と南波との交流が深まっていき、2000年のアメリカズカップには自分自身がシンジケートを立ち上げて参加しようと計画していた南波に、「内田、ナヴィゲーターとしてアメリカズカップに出えへんか?」と誘われるまでになった。
砂漠を走るパリダカで活躍したナヴィゲーターが、今度は海でアメリカズカップのナヴィゲーターとなることが現実味を帯び始めていた。
そこにあの、南波の落水事故が起きた。
南波を失い、内田はすっかり落ち込んでしまう。
そんなときに、相模湾を見下ろす丘の斜面にある内田さんの家に突然やってきたのが、ハワイ人のナイノア・トンプソンという男だった。
ナイノア・トンプソンのことを知らない人のためにここで少し説明を加える。
ナイノア・トンプソンは地元ハワイでは、古代外洋セーリングカヌーに乗ってポリネシアの古代航法を継承している男として広く知られ、“ザ・ナヴィゲーター”と呼ばれている英雄だ。彼は星の位置関係、うねりの形、海の水温などによるポリネシア古代航法だけを頼りに、一切の航海用具を使わずにハワイ、タヒチ、イースター島の間に広がる太平洋を自由自在に航海することができる。
日本では『ガイア・シンフォニー』という映画でこのナイノア・トンプソンと古代セーリングカヌー〈ホクレア〉のことを知った人もいるかもしれないし、ナイノアを紹介した星川淳氏著の『星の航海師』という本で彼のことを知った人もいることだろう。
先の〈えひめ丸〉事故のとき、現地のハワイ人社会は日本人社会に対して深い哀悼の意を表すために、彼らの伝統のカヌー〈ホクレア〉で現場海域まで出向き、古式に則って追悼の儀式を行なった。
〈ホクレア〉はハワイ人にとって特別な意味を持つ外洋セーリングカヌーだ。ハワイ人の手で造り、ハワイ人の手で大航海を成功させたことで、ハワイ人の祖先の能力を知り、若い世代が失いつつあったハワイ人であることの誇りを思い出させてくれたカヌーだ。その〈ホクレア〉のナヴィゲーターがナイノア・トンプソンである。
ナイノアが内田のもとを訪れたのは、〈ホクレア〉で日本を訪れたいという彼の計画を相談するためだった。
内田は唐突なその相談に乗っているうちに、南波の死で見失いつつあった自分の次の目標はこれなのかもしれないと思うようになった。
ナイノアを通して、タイガー・エスペリというハワイ人も知ることになる。タイガーはハワイではレジェンドとして語られるサーファーだが、〈ホクレア〉のクルーとしてポリネシア圏の太平洋を航海した後、次は日本で“日本のカヌー”を日本人と一緒に造り、そのカヌーに日本の子供たちを乗せてあげたいと考え、鎌倉に移り住んでいた。カヌーという言葉は、現代の日本人が一般にイメージする意味とは違い、ハワイやポリネシアでは漕いだりセーリングしたりする船全般をさす。少し前まで八丈島では船のことをカノーと言っていたが、それと同じような意味だ。
経済活動ばかりに興味を持ち、経済で勝つことそのものが唯一の価値観であるようなこの国のほとんどの人間から見ると、つまらないことに情熱を傾ける人たちがいるものだという感覚かもしれないが、内田はこういった活動に身を削る人間に何か、不思議な魅力を感じ取った。ハワイ人であるタイガーが、日本の子供たちに夢を与えようとしているのに、日本人である自分がそれを手伝わないわけにはいかないじゃないか、と思うようになった。
太平洋を渡ってハワイから日本を訪問する〈ホクレア〉を、これから造ろうとしている日本式カヌー〈カマクラ〉で出迎える。そして、数年後には〈カマクラ〉で育った日本人ナヴィゲーターとセーラーが自分たちの力で太平洋に乗り出す、内田はこんな計画を立てている。
かつてオートバイに乗って大陸の風を切り裂いていた砂漠の旅人は今、古代から吹き続ける風を使って太平洋を自由に行き来してきた海の旅人たちの仲間に入る日を夢見て、その準備に精を出している。