ブログ人 話の広場

日頃の生活のなかで見つけたことなどを写真もそえて

一無 二少 三多の精神で

2012-10-25 14:19:47 | 日記・エッセイ・コラム

 友人が面白い教訓を教えてくれました。「一無 二少 三多(いちなし にしょう さんた)」という健康促進のことです。

 「一無」とは、タバコを止めること。「二少」とは、深酒を止めること、馬鹿食いを止めること。そして「三多」は、ほどほどの運動、適度な休息そして人との会話をすることだそうです。 この勧めはリハビリテーション学会のスローガンと教えていただいたのですが、多分確かでしょう。

 それぞれに身に憶えのある項目ばかりで、中には耳の痛い部分もあります。ぼくはおおむね合格ですが、ほどほどの運動は不合格です。

 というのは、足の大怪我をして以来、もう半年になりますが、未だに歩行が思うように進みません。痛みもあります。では今まで何か運動をしていたのか、といわれると何にもしていなかったのです。

 だから大怪我をして、毎日リハビリをしていることが運動といえば運動でしょうか。適度な休息は、ありすぎるほど休息をしています。

 思いがけぬことで、自己反省することの多いぼくですが、少しでも健康寿命を延ばすために心がけを新たにしている毎日です。

 人間というのは、こんなことならすぐにできるよ、といっても、いざとなれば、三日で終わってしまうことが多いものです。続けるということは、大変なことです。

 この友人は、毎朝近くの公園に行き、地域の人とラジオ体操をしておられると聞きました。これとて大変なことです。ことに雪が多く、凍てつくような厳しい寒さの中、しかもまだ夜も明けぬ時間に家を出て会場につくまででも、まるで命がけです。

 ぼくにはとても出来そうもありませんが、さりとてじっと家に閉じこもっているばかりでは、引きこもりになり、不健康そのものです。今年の冬、ぼくにとってはどう過ごすか、思案のシーズンです。するともう一人の友人が「ラジオ体操のテープさしあげましょうか」といわれ、出来るかどうか自分に疑心暗鬼ですが、やってみようかという気を今は起こしています。

やさしいタイガー


若者の武者修行

2012-10-24 11:05:31 | 日記・エッセイ・コラム

 東北に住む18歳の一人の高校球児が、アメリカで自分の腕を確かめたいというのです。花巻東高校を来年3月卒業する大谷翔平君が、プロ野球大リーグに挑戦すべく、日本のプロ野球を断念したとのニュースは、少なからず日本のプロ球界には波紋を投げかけました。

 ピッチャーの彼は、身長193cm、投げるボールの速さは160kmを超えるそうです。160キロというのは今の日本のプロ選手でもいるかいないかのすごいピッチャーなのです。どこの球団も喉から手が出るほどほしい逸材です。

 昨年は東海大学を卒業した菅野というピッチャーが好きな球団に行けないという理由で、意図的に大学を卒業せず、留年の形で一年自主練習をすると宣言して話題になりました。

 どうもスッキリしません。野球界にはドラフトいう制度があり、たとえ好きな球団に行きたくても抽選というシステムのために、思い通りには行かないのです。

 彼は、もし行きたい球団に行けないなら、アメリカ大リーグに行くと宣言しているそうです。これも大リーグのティームが採用してくれての話です。また必ずしもアメリカで成功するとは限りません。ちょっと我がままのようにも見えます。

 一方大谷君の場合はどうでしょうか。彼のとる行動はわがままでしょうか。今までに経験したことのない世界に挑戦することは、とかく島国に育ち、世界を知らない若者にとっては、またとない機会です。彼は、基礎から学び、いつかメジャーリーグに行きたいと言っているようです。

 すぐには大リーグにいけるほど生易しいものではないことを自覚しているのです。このような若者には、どんどん自分を確かめるチャンスに向かわせるだけの大人の度量が問われます。

 野球人である前に、人間たれ、と前高野連会長の牧野氏が言っていることは、けだし名言です。一人の若者が、見知らぬ土地に行き、見知らぬ人と出会い、野球の技術だけでなく、生活、習慣、価値観、そしてコミュニケーションや競争原理を学び、多少鼻が高くなったとしても世界に通用する人間に成長できるならすばらしいことです。期待したいものです。

 このまま大リーグで生活して、日本に帰ってきても3年間は日本のプロ球界には復帰できないというルールがあるそうで、いわば退路をたたれるような進路選択です。この機会に日本の球界が大きな国際的視野をもって取り組んでいけばよいのにと思います。

 こんな優れた選手が日本で見られないのは少々寂しいことですが、決して損失ではないでしょう。この機会に、もっと日本のレベルアップに腐心してほしいし、指導者の識見と高度な技術、人間性によって、しっかりした若者を育ててほしい、と願っています。

 プロ野球の指導者は多くのファンだけでなく、疲弊した政治関係の恥ずかしき指導者をも乗り越えるだけのリーダーシップに期待したいものです。だから喜んで送り出す精神性こそ、これからの社会では必要かつ重要なことでは。一プロ野球ファンとして。

やさしいタイガー 


人口減に合わせる少年の犯罪

2012-10-23 11:06:33 | 日記・エッセイ・コラム

 近頃の少年・少女犯罪は減少しており、保護監察のために生活する少年院はがら空きとの話を伺いました。それはいいことのように思いますが、どうもその背景には人口減、つまり少子化の影響があるようです。人口が多いと、複雑な犯罪が増えていくものです。

 手放しで喜べない事情もあります。近年、いじめの問題を含め、少年たちの犯罪が陰湿になり、暴力化の傾向にあり、同時に命への関心の薄らぎを助長しているようです。

 こうした事犯の発生する原因が、学校や家庭の教育や養育する側の問題にあることを注目しておく必要があります。

 戦後すぐの少年たちは、家庭の生活を助けるために、盗みなどを繰り返してきました。同時に街頭での靴磨きなど生活を支える子供たちだったのです。これもいわば社会の情況にあわせた行動でもあったと思います。

 けれども今は、社会情勢が物質的に豊かになってはいますが、どこか子どもたちは充たされないものを持っています。その一つに自分の存在そのものにだれも注目してくれないという孤独感です。ぼくはここにいるよ、と心で叫び、求めているのに、誰も振り向いてくれないという寂しさの表現として、自傷行為などが目立っているということです。

 大人は、子どもたちの鏡だと古くから教えられてきました。そんな鏡になろうとする大人がいなくなったことは、子どもたちに正しい道を教えなくなったということでもあります。

 政治も経済も、そして教育もみんな好き勝手に自分たちの器の中で争い、よこしまな思いで自利益のみに奔走する姿がよいのだということを鏡に写しているのなら、子どもたちにいくら健全に、といってもたしなめる力にはなりません。

 大人の責任は重いですね。

やさしいタイガー


戦争のない世紀に

2012-10-22 11:11:16 | 日記・エッセイ・コラム

 多くの専門家は、20世紀は「戦争の世紀」と位置づけています。実に多くの国が対立し、戦争を続けてきました。今になって愚かな行為だと自戒し、あざけってきました。

 しかし、21世紀に入って、こうした愚かさを顧みて二度と戦争は起こすまいと誓っている国の為政者が減っているように思います。どうもそう思われない行動が次第に際立っていうrからです。

 シリアは今、内戦状態になり、厳しい対立が続いています。国連は非難決議や制裁を通告していますが、そんな国を応援している国もあるのが現実の社会です。

 では日本はどうでしょうか。原爆の被爆国として、人類史上ありえない大被害を被ってきました。平和を基軸に戦争を遺棄し、曲がりなりにも穏やかな国家を築いてきました。

 しかし、最近一部の政治関係者のささくれ立った発言や行動によって、平和思想をないがしろにする人物が現れています。言葉は時には暴力を誘発します。ましてや大きな責任をまつ立場の人物が無節操に発言することによって、善良な民意を踏みつけてしまう結果を生みだすことを十分承知の上での発言です。

 絶え間なく続く戦争の傷は、癒しがたいものになります。パキスタンのマララという15歳の少女がイスラム原理主義者と称する連中からバスの中で銃で撃たれ、目下治療中とのニュースを知りました。たとえ誰であれ、一人の人間の尊厳をないがしろにする行為は許されません。悲しみより怒りを覚えます。

 これも対立が生む戦争の一種です。戦争は見境なく行われる野蛮な行為だということを、少なくとも国家を担う中枢が十分承知しているはずです。戦争の魅力がどこにあるのでしょうか。

 今世紀こそ、戦争のない互いに相手を尊厳する世紀にしたいと願う人が多いにもかかわらず、どこか不穏な空気を感じるのは辛いことです。

 対立は必ず和解できるはず、と実践している国も多いのです。そのためにこそ、私たち個人が主張をもちながら、赦しの心をしっかりもつことからしか、事が始まらないように思います。そんな世紀にしたいものです。

やさしいタイガー


一人の青年の死

2012-10-21 12:04:09 | 日記・エッセイ・コラム

 大学生の青年は、あえぐような声で119番に電話し、自分の体調がただ事ではない、と救急車に依頼しました。しかし、やり取りから、消防署は行かなくてもよいと判断したのでしょうか、救急車は来ませんでした。青年は9日後に自宅から遺体で発見されたのでした。死因は病死と判断されました。

 なんとも痛ましい出来事です。電話での会話のやり取りをネットで知りました。難しい判断です。

 ぼくはこの4月末に自宅で転倒し、結果的に大が骨頸部骨折という大怪我をしてしまい、119番に電話でお願いをし、無事病院に運んでいただきました。毎日リハビリをしながら、瞬間に体調を崩してしまったことを悔いていますが、それにしても救急車がものの5分程度で来ていただいたときは、これで救われたという思いになりました。

 自分でも、そんな体験をしただけに、この青年の思いは切実だったと想像できます。一方消防署は、よくある呼ばなくてもよい症状や半ばいたずらのような状態で119番に連絡し、どうぜタダだという軽率な判断をする人もいて、慎重に対応しているらしいのです。当然です。

 命に関わるかどうかの判断は、電話では難しいような気もします。ぼくの場合は上半身はしっかりしていましたので、携帯電話でことの次第を正確に話せたし、消防署もきちんと判断していただいたが故に、すぐ飛んできてくださったと思っています。

 今度のやり取りの中で、青年はタクシーを呼んで自分でもいけるかのような返事をしたのが、誤解を生んだのかもしれません。体調が最悪のときに、電話帳でタクシー会社を探すという動きは、気持ちはあってもとても行動には移せなかったのは、よく理解できます。

 結局、青年は力尽きたのかもしれません。一人住まいの心細さ、どうにもできない体調異変、救急だという判断をしてもらえなかった思い、それらは不満や怒りではなく、判断力を失った現実に打ち勝つことのできない悔しさだったかもしれません。

 生きると事と死ぬことの境目は、まさに紙一枚の厚さではないかと思いました。

 それにしても、ぼくは自分の異変に頭がいっぱいで、一言も救急隊員にお礼を伝えるチャンスを逃したことが、いまでも悔やみとして残っています。申し訳ないことをしてしまいました。

やさしいタイガー