ちいちゃんのひとりごと

ちいちゃんのひとりごとを勝手気ままに書いています。

64年間ほぼほぼ自分を犠牲にしてきた

2022年10月01日 | 介護
私の人生は64年の中でほぼほぼ自分を犠牲にしてきたと思う。
そもそも物心ついた時から自分の意見は母には通じないことの方が多かったような気がする。
母事態、実母の愛情を知らずに後から来た後妻に育てられた。
女学校を出ると家を出て働きに行った。
働いたお金の中から実家に仕送りもしていた。
弟や妹が生まれると実家に帰された。
後妻は母がいることを知らずに嫁に来た。
幼くして母は姉と実母を亡くし、親戚の家に一時預けられ、その後祖父が(母から見た父)再婚し、母を迎え入れた。
義母は20歳ぐらいだと思う。
いきなり3歳の子供の母親になるのだ。
5年後に娘を産み、その後も子供を数人産むのだ。
母は小学2年生から家事を強いられた。
背中に妹や弟を背負い、遊びに行くことよりも家事を強いられた。
本当の親の愛情を知らずにいたので、子育てをはき違えていたのかも知れない?
娘の私を自分の思うような娘に育てたかったのだと思う。
曲がった道を歩かない。
間違った行いをしない。
私は夜寝る時間も決められ、学校の帰りは寄り道も許されず、休日の過ごし方や服装もチェックされる始末でした。
父は母の家の向かいのお坊ちゃんだった。
末っ子のお坊ちゃんだった。
甘やかされて育った。
家にはばあやや使用人がいた。
私が物心ついた時には父方の祖父はいつも大きな金庫の前の長火鉢のところに座っていた。
母の方が学年では一つ年上だった。
幼馴染の結婚だった。
貧乏な写真館の娘はお金持ちの林業を生業とする実家の父と結婚したのである。
父の実家は金持ちだったが、父にお金はないに等しかった。
実家は兄が継ぎ、父は遺産相続を放棄し、職を転々とし、酒とたばことギャンブルにおぼれていった。
それでもアル中では無かったし、ギャンブル依存症だとも思ってはいない。
家族サービスなどは良くしてくれた。
今にして思えば母よりも飲んだくれのギャンブル好きの父の方が良かったと思う。
学歴はどこを出たかは知らないが、博学であった。
本を良く読んでいた。
看板屋にもいたことがあるので達筆であった。
手先は器用で私が買ってきたジグソーパズルなどは勝手にやってしまうのです。
絵心も文才もあり、歌も上手く、民謡などが好きで良くテレビの民謡番組を見てました。
時代劇と相撲と野球は巨人で、格闘技が好きな父だった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする