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まったりもったり~自閉症息子のいる暮らし@ちびくまママ

「らしさ」へのこだわり(その3)

2007年07月24日 | 「発達障碍」を見つめる眼
障碍のある子の「成長」を見守る姿勢は、ものすごく大雑把に分けると
大きく2つの考え方に分かれるように感じます。

1つは、「定型発達の子ども」を基準にして、そこに近づければ近づけるほど
「成長した」とする考え方。これは、「『普通の子ども』らしさ」を
求める姿勢とも言えると思います。
確定診断が簡単につくケースより診断名がつかないほうが「良い」、
固定制特別支援学級(障碍児学級)より通級や通常級在籍のまま
支援が受けられるほうが「良い」、
あるいは特別支援が必要でないほうが「良い」、というような
考え方は、特に学校の先生の多くに顕著に見られるように思います。

もう1つは「目の前のその子」を基準にして、その子が日々
刻々と変わっていくこと、時を重ねていくことを「成長した」と呼ぶ考え方。
この場合、その「成長」は周囲にとっては必ずしも望ましい形でないことさえ
あります。
その時その時、この子は何をどう感じ、どういう支援を必要としている
のだろうかということを追求するとき、それは「『その子らしさ』へのこだわり」とも言えるかもしれません。

言わずもがなかもしれませんが、私は「ちびくまらしさ」へのこだわりが
かなり強いほうです。
ちびくまが何か特定のスキルを身につけたとき、他人から「ちびくまくんも
『成長』しましたね」と言われるとなんだかカチンとくるのは、
「普通の子に近づいたのでめでたい」と言われたような気分になるからかも。

私は、自閉っ子への支援というのは、まず今のその子をまるごと
100点満点と受け止めた上で、その子の成長がより意味深く、より
広がりを持ち、より円滑に行くことを助けるための、環境調整を含めた
援助活動だと思うのです。

だから、「指導」によってその子にスキルを身につけさせること、
その子を「変化させる」ことにだけしか目がいかない人は、
自閉っ子の「指導者」や「訓練士」にはなれても、
「支援者」や「援助者」にはなれないのではないかと考えています。

「子どもが軽度だと思って何も努力していない」
「子どもの能力を伸ばすことに消極的」
「子どものご機嫌ばかりを伺って言いなりになっている親」
私はこれまで、何度もこうした批判を受けてきましたが、
私は息子にとっての指導者ではなく、母親です。
私の仕事は「おかあさん」。だから、どんなことになっても、
「ちびくまらしさ」へのこだわりだけは、捨てずにいようと思っています。

1 コメント

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真の援助者とは (魁童)
2007-08-03 22:12:18
いつも拝見しております。
ちびくまママさんの透徹したものの見方に関心し、また同感し、当事者として遠くから安堵の念を抱いたりもしています。
私のように診断されずに成人をむかえ、挫折を繰り返しながらやっとの思いで社会に出ている(が適応には遠い)者は、自分自身で自分に対して「指導者」になってしまっている場面がほとんどなのです。そのことが非常な苦しみとなっていることにすら気づかずに・・・
ここ数回の「らしさ」へのこだわりの文は、読んでいる私にとっても、ほんとうに救いを得たような気がするものです。そして「援助者」として当事者に関わるすべての人が理解すべき核心を述べておられると思うのです。
ちびくま君の真の成長を願いつつ
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