ちゃちゃ・ざ・わぁるど

日記と言うよりは”自分の中身”の記録です。
両親の闘病・介護顛末記、やめられないマンガのお話、創作小説などなど。

なんでそんなにオトコマエ?!

2010年07月20日 09時40分48秒 | ジュリー・・・思い出雑記あれやこれや
いろいろ伝説の多いヒトではありますが・・・印象に残っているお話を少し。

通常、大きなコンサートホールの会場には警備のヒトがいらっしゃいます。
モロ警備員という格好はしていませんが、通路の要所要所に立って、
開演までは会場の案内や見回りを、
開演後は前に押しせようとするファンの防波堤として、
会場内の安全を見張っておられます。

が、ジュリーのコンサート、少なくとも大阪フェスティバルホールでのコンサートには
警備のヒトが一人もいらっしゃいませんでした。
開演まではいて、案内をしてくれます。
でも、開演のブザーとともに退場されるのです。
何故か?・・・必要ないからです。

「ジュリーのファンはマナーがいい。」
私がコンサートへ行っていた頃のファンの評判です。

アイドル時代の全盛期、コンサートといえば盛り上がり熱狂し、
ごく一部ではありますが、席の上に立ち上がったり、
後ろから前に押し寄せてステージにかじりつき、
中にはよじ登ろうとするファンや、歌手に抱きつこうとする人までいる・・・
そんな光景はザラでした。

盛り上がるのは大いに結構なのですが、こういったマナー違反の、
ジコチューでメイワクな人たちが一部にいたのも事実です。
ですから、警備のヒトがたくさん会場内にいるのもいたしかたないこと・・・

でも、ジュリーのコンサートには一切いらっしゃいません。
ジュリーのファンはそんなメイワク行為はしないと信用して貰えていたからです。

それ以前に・・・

マナー違反のファンを一番厳しく叱りつけたのは他でもないジュリー自身でした。
「後ろ下がってください!」
「自分の席でおおいに楽しんでくださいね。」
「他の人の迷惑になるような見方は俺も困るんや。」
・・・・
マナー違反を見ると、途中で歌うのをやめてでも注意しました。
でも逆に、ファンを無理矢理取り押さえようとした警備の人には
「俺がちゃんとするから手は出すな。」
と言ったことも・・・。

「ここ(大阪フェス)は、僕たちを信じて、会場警備の人を引き上げてくださっています。
この信用を続けるためにも、皆さんはマナーを守って見てくださいね。
自分の席では大いに盛り上がってくださって結構です。
でも、席の上に登ったり前に出てきたり、あぶないことは絶対しないでください。
でないと、せっかく信用してくださってるのに、信用をなくすのが一番怖いからね。」

ある年のお正月公演でのことat大阪フェス。

和やかに楽しくジュリーのおしゃべりを聞いていた時。

余談ですが、ジュリーのMC、しゃべりは面白いことで有名でした。
ベタベタの関西弁で、美しい衣装とお化粧で、めちゃめちゃアホな話をするのです。
紅白歌合戦の内幕、楽屋裏の話や、レコード大賞をとった時の心理、
他のアイドルタレントのジュリー的考察、
バンドメンバーやスタッフとのこぼれ話などなど、いつも抱腹絶倒で
20~30分喋くりっぱなし、下手な落語や漫談より面白いと定評がありました。

例えば「勝手にしやがれ」でレコ大取った時の話・・・

「コマーシャルの入る時間は僕らにとってもちょっとホッとする時間なんですが、
あと大賞の発表だけと言うときのCMタイムになった時にね、
・・・女の人がスタンドマイク持ってきたんですよ。
ええ?・・・スタンドマイクですよ~・・・。
・・・『勝手にしやがれ』はスタンドマイクやぞ・・・。
いやいや、そんなはずはない、あそこへ司会者が来て、
『それでは発表します』・・・
いやいやいや、リハーサルではそうはやらんかった。
審査の人からアシスタントの人が何か渡されて、それを司会席に持って行って
司会者の席で高島(司会の高島忠夫)さんが・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・スタンドマイク~~~~~~!!!(爆笑)」

そして大賞受賞が決まった時の話・・・
「『やった・・・!』と思って、ぐっと力が入るのとホッとしたのとが同時でね、
僕は思わず席にぐた~っと沈み込んだんですよ。
そしたら隣に座ってた加瀬さん(元ワイルドワンズ、ジュリーのプロデューサー)が
わあって両手挙げて立ち上がってね、で、ふと見たら自分だけ立ってるのよ、
僕はぐ~っと沈み込んでるし、大野さん(「勝手に・・」の作曲者、大野克夫さん)は
隣の井上さん(井上堯之さん)と握手してるし、
で、慌ててホッと僕を立たせて、大野さんも立たせてね(笑)・・・!」
と、その時の加瀬さんを再現して手を挙げたり、臨席の自分を立たせる身振りをしたりで
会場内は大爆笑の嵐・・・

とにかく面白かったんです、ジュリーのMC!!

ところがそういった楽しいおしゃべりのさなか、
1階のたぶんかなり後方からだと思われますが、
女性の罵声?と思しき声が飛んだのです。
突然で何を言ったのかは聞き取れませんでしたが、悪口だったのは確か。
会場を埋め尽くしたファンが一斉に声のほうを振り返り、走る緊張の中、
ジュリーが静かに答えました。
「何ですか?」
静まりかえる会場。その人はこう続けました・・・
「いつもカッコばかりつけて!!」
ざわめく会場・・・

うわわ~、周りがすべてジュリーのファンなのによくああいうこと言えるな、凄いな~
・・・じゃなくて!!

みんなの、その人への視線は当然ギラつきます。が、ジュリーは涼しい声で
「ええ、僕はいつもカッコばかりつけてますが?」
ソレが何か?的な・・・? そして続けて
「前へ出てきてください。何か言いたいことがあるんやったら出てきてゆうてください。
そんな、うしろのほうでごちゃごちゃゆわんと。聞きますよ、僕は。
あのね、ゆうときますけど僕は気ぃ強いですからね、ちょっとくらいなんか言われても平気ですよ。
せやから、言いたいことあったら、前へ出てきて堂々と、はっきりゆうてくださいね。
みんなもね、言いたいことあったら言おね。堂々と。
我慢したらアカンよ、言おね!」
会場からは割れんばかりの拍手喝采・・・

その人がその後どうしたかはわかりませんし・・・
そもそも何をしにきたのかもよくわかりませんが・・・
結局ジュリーの株を上げただけだったのかな??

いや、オトコマエですね~、ジュリーって、ホンマ!


ジュリーネタは尽きないのですが、も少しお付き合いを・・・。
次回は必見?「悪魔のようなあいつ」のお話を少々・・・。
コメント (2)
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創作小説 SUNSET CHAPTER 4  PART.3

2010年07月20日 09時38分11秒 | 創作小品
 それにしてもこの人が僕の兄さん? 間違いなくそうなんだろうけど、もちろん僕には実感がない。いままでその存在すら知らなかったんだもの、なんか、夢の中にいるような感覚だ。
 僕が呆然としているので、彼の相手は井上さんが引き取った。
「1年て…謄本取りにいったんなら、そこで住民票の転出届もみたんでしょ? なんで1年も…。」
「はあ、1年前に行った時はその本籍地の住所に住んでいることになってたんスよ。だからそこへ行ってみたら何と誰もいないでしょ? ていうか、謄本見たところで両親も姉も死亡により除籍ってなってたから、この…弟ひとりってわかってたんスけど、そこにはいなくって…。すぐ会えると思ってたもんだから、がっかりしちゃって。あと何も手掛かりなかったし…。」
「あれ…ついこの間甲府市にあった住民票ここへ移したぞ。なんでその…直江津か? 転出になってなかったんだ? 役所の怠慢か?」
「イヤそれがもっかい行ってみたら…つい先週のことッス、そしたら今度は転出なってて…。」
 「あ…それは…。」
それは心当たりあります…。
「僕が直江津を出たのは一年半ほど前です…。でも、住民票を甲府に移したのは半年前で…僕は住民票がどうとかって全然わからなくて気にもしてなかったから、半年前に住み込んだところの人が、移さなきゃだめだからって…。それまでほったらかしだったんです。すみません…。」
「なるほど、そういうことか! なるほど、納得した。」
それから井上さんが続けて聞いた。
「じゃあ、甲府にも行ったんだ。」
「はい! で、また転出なってたけど、一応その住所のところへ行ったら…めちゃめちゃびっくりされて…それ、今朝のことなんスけど。」
「びっくりされた? ああ、そっくりだから…。」
いいかけて井上さんはなぜか途中で切って視線だけ天井へ向けた。
「あ……もしかして生きてたのか的なこと言われた。」
「ええ、そうなんです。オレは兄弟だって言ったらホッとして、死んだって聞いたもんだからって言われて…オレ、真っ青になっちゃって…それで矢も立てもたまらずここまでイッキに来たんスよ!! ああ~よかった、なんかの間違いで!! 生きてて!!」
 どういうこと? あの宿舎の人が僕が死んだと思ってたって?? 僕は井上さんの方を見る…と、彼は手を額にかざして目をつぶっていた。そして
「悪い!! それは俺のせいだ。」
と謝った。
「井上さん? いったい…。」
「いやあ…こないだそこへお前が置いてきた荷物取りに行ったとき、あの男に――俺が話してた相手な、清司本人は来てないのかとか、どこへ移ったんだとか面倒なこと聞いてきたんで、俺はどうせ調べやしないからって思って『アイツは事故って死んだから遠縁の俺が荷物引取りに来たんだ』ってでまかせ言ったんだよ。」
「店長ひどっ…!」
涼香さんがジトっと見る…。
「いや!! ごめん!! 悪かった!! 勝手に殺して。その方があとくされないと思ったもんだから…。ホント申し訳ない!」
 井上さんは平身低頭して謝ってくれたけど、僕は連中との縁をそうして断ち切ってくれたんだと思った。感謝こそすれ、恨みなんかしない。
「いいですよ、井上さん、そんなの。おかげで僕はあのひとたちと切れたんでしょうから。」
 それを聞いて三上さん…兄さんはちょっと神妙に言った。
「よくはわからんけど、なんか苦労してたみたいだな。オレ、その連中――ヤクザかなんかか? 話するだけで超ビビったもん。でも、結果オーライだよ、こうして会えたんだし。ホント、マジよかったあ……。」
 「でも、確かにちょうどよかったな。ここに住民票移したのついこないだだ。キミがコイツ探すの、もっと後に再開してたらその分会えたのも後になってたね。」
「それなんスけどね…。あ、コーヒーいただくッス。ありがとうございます。」
彼はちょっと頭をさげて、コーヒーを口に運んだ。ようやく落ち着いてきたらしいけど、それにしても僕と似てるのに…なんか似てない…。『~ッス』という喋り方は体育会系なんだろうか? そういや僕より背が高いみたいだし、体格もなんか良さそうだ。色は…日焼けはしてないみたいだけど。
彼は続ける。
「うわ、めちゃめちゃうまい! お世辞じゃないッスよ、これはイケテます! いい豆使ってんですね。 ああ、オレんちの近くだったらいいのに~!」
に、なぜかテツさんが
「ほお、わかるかね! たいした舌じゃん。特製のブレンドだよ。この使用する豆の種類と割合が絶妙でね、企業秘密だけど。挽き方にもコツがあってね、微妙な荒挽き加減がまた難しいんだ。企業秘密だけど。」
「お前が言うな。店長は俺だ! ボケ!」
井上さんがテツさんの頭をはたいたので、皆笑って場がすっかり和んだ。まあ、三上…兄さんはなんだかすっかり入りこんでるけど…。人見知りしないタイプらしい。この辺も僕と全然違う…。顔はそっくりだけど…戸籍も見たけどこの人ホントに僕の双子の兄なんだろうか。なんか変。



 この少年は(コイツは青年ぽいかなとも思うが)、顔は確かに清司に瓜二つだが、涼香の言うとおりキャラはちょっとどころじゃない、だいぶ違うみたいだ。あっけらかんとしていて、人懐っこく、それからきっと多分にお調子者かもしれない。イマドキの大学生みたいだ。いや、きっとイマドキの大学生に違いない。明るくて苦労知らず、きっと両親(養父母)に愛されてのびのび育ったのだろう。
 今もうすでに常連客のごとくなじんでいる。
「あはは…。いいなあ、こういう店ってあるんだ。東京じゃ考えられない…地方ならではかなあ~。」
「褒め言葉と受け取っとくよ…。それで?」
「あ、そうでした。あの、ホラ、この店最近テレビに出たそうッスね?」
「あ? あ…まあ、出たって言うほどじゃないがね…。」
この前の小城みゆ希の突レポのことだ。
「あれがきっかけといえばきっかけなんスよ。」
彼はコーヒーをもうひと口飲んで続けた。
「オレは見てないんスけど、何人かの友達から『お前ナニ講義さぼってなんであんな遠くでバイトしてんの?』って言われましてね。まあ、そいつらも講義サボってテレビ見てたんだろうけど、オレじゃないって言ってもそっくりだったぞって言われて、それが一人じゃなかったもんだから、もしかしたらって思ったんス。でも、それがどこだったのかみんな記憶がいい加減で…。湘南のどっかだったってだけで。」
あの時、オンエアの時間はせいぜい5分くらいだったと思うけど、多分画面の端っこに清司がしばらく映ってたんだろう。それが三上君の友人たちを驚かせたということだ。
「湘南っつっても広いしサテンもいっぱいありますもんね。いっそ一軒ずつしらみつぶしにあたろうかなとも思ったんスけど、いくらなんでもそりゃ無茶だし、で、ダメモトでもっかい直江津まで行って住民票調べたら、今度は転出届が出てて…。あとはさっき話した通りッス。すぐにでも甲府へ向かいたかったんだけど、そうそう講義さぼってらんなくて、やっと今日来れました。あ、結局今日の講義はサボりましたけど。」
饒舌にしゃべくるところをみると、まだテンションが下がりきらないようだ。それともこれは素なのかな…。
 「あー、でも良かった! ちゃんとヒットして。長年の肩の荷が下りました。」
「キミはこのことをずっと前から知ってたのか?」
「ええ。中学入った時かな? 親に…、養父母になるんですけど、自分のルーツはちゃんと知っておくべきだからって言われて、お前は実は養子なんだって打ち明けられて。まあ、最初はやっぱちょっとショックだったけど、でも実子同様に育ててくれた今の親の愛情はホンモノだって思いましたから…。じゃあ、実の親はってんで、機会があれば会うことも出来るのかなって思って、気にはしてたんス。ちょうど1年前かな、高三の夏休みに、会う会わないは別として、オレ自身が生まれたところを見ておきたいからって直江津に行きました。そしたらさっきも言ったとおり、既に両親も姉貴もいなかった。ひとり残っているはずの弟も行方不明。…その方がオレが養子だったってことよりもずっとショックでした。だから、弟だけは絶対探し出して会おうって決めた。っつっても、気持ちでは探していても実際どうすりゃいいのかわかんなくて、結局時間が過ぎるばかりでしたけどね。」
「そうか…。そりゃ随分気をもんだろうな…。」

・・・TO BE CONNTINUED.
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KAIGO.介護 巻の三十 怒りのドクターたち 

2010年07月19日 13時52分51秒 | 介護な日々
2008年8月下旬

T先生の指令でOS病院の腎臓内科へ行き、
ついでに皮膚科にまわされて結局疲れて帰った父でしたが・・・

皮膚科のコワ~イ部長ドクターの「皮膚科に行きなさい」という命に従うべく、
いつものかかりつけUI医院、
娘さんである若先生が皮膚科のドクターでいらっしゃるので、
そちらに行こうと思ったら・・・・・・なんとタイミングの悪いこと・・・。
その日から1週間お盆休みで休院ではないですか・・・。

ホントについてないとはこのことです。
それならば他の皮膚科はと言うと・・・
母が入院中のIC病院にも皮膚科がありました。
毎日診療があるわけではないけれど、お盆休みにもかからず、
2~3日中に診てもらえそうではありました。
しかし、父はこの病院にはかかったことがなかったので、
行くとすればまた初診の申し込みから始まって
基礎検査をうけなければなりません。
ここは小さな町病院ですから、申し込みも検査も
そう手のこんだややこしいことはないのですが、
父はOS病院ですっかり懲りたらしく
面倒はもういやだから我慢すると言い張りました。

幸い結果的にはOS病院の部長ドクターのおっしゃったような
大事にはなりませんでしたが・・・
確かに・・・必要なことではあると思いますが、
こういった病院のシステムは高齢者にはかなり酷だなと思います。
病院行ったら病気なるで、というのはこういうことですな。

8月も20日を過ぎると夕方はだいぶ涼しくなってきました。
この夏はなんとかクーラーなしで行ったけれど、
来年は早いうちに設置することにしよう。
父も急に冷え込むのは辛いけれど、日中はだいぶ楽になったようでした。
蜂窩織炎も徐々にましになって行き、食欲も一時よりは出てきて、
ぐったりと横になってばかりだったのが少しは起き上がり、
高校野球や相撲の中継などをよく観戦するようになりました。

少し遡りますが、この夏父は都心の百貨店まで2度も出かけてお中元の手配をしています。
昔人間でそういう礼はそれまでも欠かしたことがありません。
それでも、2回目は心配したちい兄が送っていきました。
でも、帰りは自力で帰ったそうです。T先生の外出厳禁命令など聞いていません。
家族としてはハラハラしどうしですが、
じゃあドコにも行くな、何もするなというのがいいのかというと・・・
それもどうかと思います。
本人のやりたいことは出来る限りさせてあげたいけど、判断は難しいです。

さて、そんなこんなで夏も終わり・・・ませんな、長~い残暑の候・・・。


2008年9月1日(月)

Sセンターへの通院の日。
T先生の指令でOS病院の腎臓内科へは行ったものの
剣もホロロに追い返され・・・(たような気がする)
更に叱られて皮膚科へ行き叱られて帰ったことをT先生に報告。
T先生は相変わ・・・いつもより更に難しい顔・・・怒ってる?
・・・OS病院の対応に少なからずご不満だったのでしょうね。
ともかくそういうことなら腎臓に関しても当面は自分が診ると、
そしていざと言う時はやはりOS病院へということでひとまず決着。
心臓に関しては特に悪化したようすもなく、
このままぼちぼちな暮らしを続けて良いでしょうという見立てでした。

しかし、ここでT先生は貧血の方が心配だとおっしゃいました。
(てか、ずっと前からY先生に指摘されまくってるんスけどね!)
ですから、今度は「血管内科」へ行きなさいとの命令が・・・

ああ、もう・・・・

まあ、さいわい血管内科はここSセンターにあるのでまだいいんスけどね・・・
ったく、内科ってどこまで細分化されてるんでしょう?
そら、より専門的なとこで専門家に診てもろたほうがええのんやろけど・・・
なんかドーーー、と疲れました。
ともかく9月22日に予約を入れて、
今度は血管内科へ行くことになりました・・・トホホだよ~。


しかし、この頃ヘルパーKさんから聞いたのですが、
ついでがあったのでUI医院へ行って父の様子を話すと、
「OS病院にしてもSセンターにしても
こんなに貧血がひどくて一日中しんどい状態でいてはるのに
入院しなさいと言われないんですか?!」
と、I先生Y先生ともに大変ご立腹であったそうです。
いやいやOS病院では確かに入院しろといわれましたが、
でもそれは貧血ではなく蜂窩織炎についてのことです。
何故貧血で入院対応にならないのか、そちらの方が問題とお考えのようでした。
実際私もY先生にお会いして話した時は、相当怒っておられました。

病院には病院のいろんな事情があるのかも知れませんが、
今にして思えば、私はY先生のお見立てが一番正しかったように思います。
大病院の専門医より、家庭の状況や患者の普段を知るかかりつけの先生が
一番正しい判断を下せる・・・当たり前といえば当たり前ですが
かかりつけ医の存在は絶対必要なのかもしれません・・・。
とにかく、親身になって、また真剣に考えてくださっていました。
だからこそ怒ってくださったのでしょう・・・。
今更ですが、I先生にもY先生にも大感謝です。本当にありがとうございます。
と、両先生にもここでお礼申し上げます。


・・・で、その頃母は?
・・・ごっさ元気でございました。
適度に文句をいい、お菓子を食べたがり、散歩に行き、
機嫌も良かったりサイテーだったりするけれど、
暑気あたりなどで時に発熱もあるけれど、マイペースで元気です。
それが救い・・・ですかね。
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60過ぎてもやっぱりジュリー!

2010年07月19日 09時32分19秒 | ジュリー・・・思い出雑記あれやこれや
澤田研二さん――本名は同じと言えば同じですが・・・「さわ」が旧字体で
本当は「研」の字も少し違うのですが・・・変換で出ません。
右のツクリというか、”とりい”みたいな字の、
下の横棒が真ん中でちょっと切れている字がホントだそうで。確か。

1948年生まれ、バリバリの団塊の世代でいらっしゃいます。かに座のA型。
出身は京都・・・といわれていますが本当は鳥取県津ノ井村(現在は鳥取市)生まれ。
お母様のご実家ですな。ご両親お二人とも鳥取のご出身だそうです。
次男で、お兄様とお妹様がいらっしゃいます。

小学校時代はおとなしく、泣いてばかりだったそうです。
でも、早くから運動神経は抜群で、6年生の時には校内イチ足が速かったとのこと。
なのに階段から落ちて右手をついたときにつき損なって捻挫、
当時から野球少年だった研二少年、無理してボールを握っていたらだんだんひどくなり
病院へ行ったら「折れてるで・・・」。で、14針縫う大手術に・・・。
でも、その時は泣かず「野球が出来なくて困る」と、そっちの心配をしていたとか。

中学校ではガラッと性格が変わって強気になり、部活は当然野球部へ。
抜群の野球センスと人を引っ張る性格でキャプテンにもなりました。
4番で主将でエース・・・ではなくファーストでしたが。
「スポーツやってる奴は成績が悪い」といわれて腹を立て、猛勉強、
おかげで成績は音楽3以外4と5ばかりの、学年トップクラスの成績に。
でも、ご本人曰く「あ、俺はやればできるんやな、ということがわかったからやらなくなった(笑)」
ともかく、それまで弱かったチームを県大会で
ベスト4に入る強力チームに引っ張り上げた手腕もなかなかのものでした。
この頃は「番長」なるものが存在した時代です。
一般生徒には手を出さず、番長グループ同志では抗争もあったという、
古い任侠路線が中学生レベルにもあった時代。
研二少年も番長グループに属していたことがあり、ケンカもよくしたけど、
ある時放送室を占拠して勝手にコンサートやらかしたこともあるそうです。
でも、あまりにうまかったので一般生徒には大ウケ、先生も咎められなかったとか・・・。
考えてみりゃ、いい時代だったの・・・かな???
なんにせよその頃から将来の片鱗が見えていたのかもしれませんね。

高校時代はというと・・・
本当はプロ野球選手になりたくて野球の名門・平安高校へ行きたかったそうなのですが、
(熱狂的阪神ファン!!!うん、トーゼンだ!
いつか掛布雅之さんのとこを「僕の舎弟だよ?」と豪語していた。
実際掛布さんにリストバンドをもらったとか何とか。)
だけど諸般の事情でそれはかなわず、
京都府立鴨沂高校(当時は京大進学率ナンバー1といわれた名門の進学校)へ。
当時の同校の野球部は弱小だったので迷っているうちに、
強面のセンパイに引きずり込まれるように空手部へ。
瓦割りなんかも出来るほどそこそこ上達はしたそうなのですが
やはり野球と言う目標を失ってしまったせいかシラケ時代突入のせいか
勉強にも部活にも身が入らず次第に学校はサボりがちに・・・(今で言う不登校)

そうしているうち、友人の誘いで音楽活動を始め、
とあるバンドでバンドボーイとしてコキ使われている(?)時に、
府立山城高校の生徒たちのバンドに誘われてそこへ加入。
それが後にあの、あの!ザ・タイガースになる当時ファニーズというバンドでした。
オーディション等であの、あの!内田裕也さんの目に留まり、高校を中退して上京、
裕也さんの監修のもと、関西出身だから阪神タイガースにあやかってザ・タイガースと改名しデビュー。
それからあとはあれよあれよというまにトップスターの座に駆け上がりました。

ジュリーの愛称の由来は、ご本人が「サウンドオブミュージック」等で有名な女優の
ジュリー・アンドリュースさんのファンだったから。これはご本人が自分で命名。
デビューするとき、裕也さんはジュリーの芸名を「沢ノ井 謙」にしようとしたそうですが、
これは当のジュリー本人がものすごく嫌がったため、本名と同じで行くことになったのだとか。
・・・まあ、ファンには有名なお話です。

1966年秋に上京して、しばらくは裕也さんとライブハウスなどに出演、
当時のGSの晴れ舞台「日劇ウエスタンカーニバル」出演後、
1967年2月「僕のマリー」でレコードデビュー。

その後、出すレコードは飛ぶように売れ、GS時代全盛期の中心グループとして日本中を席巻。
しかしその活動はわずか4年で収束。GSブームはあっという間に去ってしまい、
ザ・タイガースも1971年1月24日で解散しました。

解散後は同じGS仲間で大人気だった、先輩のザ・スパイダースと、ほぼ同期のザ・テンプターズ、
そしてタイガースから2名ずつ参加して出来たPYG(ピッグ)に加入。
↓これは初期メンバーではないですが・・・
 左端はショーケンこと萩原健一さん。右端がジュリーですね。

しかしこの”スーパーバンド”は批判もあり長続きしませんでした。
事務所(渡辺プロダクション、通称ナベプロ)のほうでも、
ジュリーはソロ歌手として活動したほうが良いと意見がまとまり、
1971年秋には「君をのせて」でソロシングルデビュー。

PYGはメンバーチェンジを経て
ジュリーを支えるバックバンド「井上堯之バンド」に自然に変わって行きました。

そして1972年末の日本レコード大賞において「許されない愛」で歌唱賞を受賞。
それからはアイドル・ジュリーではなく歌手沢田研二と名実ともに認められ、
本格的な音楽活動をスタート。
現在に至るまで40年以上に渡って歌い続けていらっしゃいます。

最近は全国的なヒット曲が残念ながらありませんけれど、
昭和年代においては枚挙にいとまないくらいありました。
特筆すべきは1983年ごろでしたか、日本でリリースされたシングルの総売り上げ枚数が
日本一であった時期がありました。それももちろんソロになってからの分のみです。
「勝手にしやがれ」でレコード大賞を、同曲と「危険なふたり」で歌謡大賞を受賞、
日本人で初めてフランスでレコードをヒットさせゴールドディスクを受賞した実績もあります。

一方でテレビドラマや映画の出演も多く、舞台でのお芝居にも出演。
また一時はドリフターズの志村けんさんとのショートコントも大受けするなど、
何にでも意欲的で、全身全霊いつもホンキでぶつかる真面目で一生懸命なヒトでもあります。
「おれは日本一の見世物でっせ~。」と公言していた時期もあり、
また奇抜なファッションや化粧でビジュアル系のハシリを担ったこともあり、
常に時代の最先端を行き、何かと話題を振りまいて日本の音楽界、芸能界を引っ張ってもいました。
・・・・・・・

・・とまあ・・・ウィキでも見ていただければもっとずっと詳しく書かれておりますが・・・

これを参考文献なし、ソラで書いてしまう私はやはり筋金入りの(元)ファンでござります・・・。

が、昨今は、あまり表舞台に出ることはなくなってしまいました。
これは私の思うことですが、今は自分が大事にしたい仕事を中心にされているのかなと思います。

以前はみんなが求めるもの、やってほしいと思うものを率先してやってくれていました。
が、今はそうではなく、ウケを狙うのではなく自分らしさを一番に考えているのかな、と。
その中で、みんなに伝えたいメッセージももちろんあるし、
大事にしたい思いもあるのだと思います。

残念ながら私がジュリーに期待しているものは、今ジュリーが目指すものと違うみたいです。
ですので、私は今はファン活動をぶっちゃけ致しておりません。
でも、ジュリーには、自身が信じていることを、貫き通して欲しいと思います。

いい意味でヒトの言うことなんか聞きゃしない。頑固モノですよ・・・。
それがジュリーだと思っています。
一人の元ファンの願望などほっといてくれていい。
60歳になってもジュリーと呼ばれたいと若い頃おっしゃっていたのは実現しました。
70になっても80になっても、言われてください。
90、100まで言われてください。そしてステージで倒れりゃ本望じゃないですか。

・・・ま、そんなふうに私は思っています。
現役ファンの皆様、
これはあくまで私個人の感想ですので、さらっとスルーしてくださいね。
私はファンしていないけど、だからホントは偉そうに言っちゃいけないんでしょうが、
皆さんは日向でジュリーをがんばって応援してくだされば私も嬉しいです。
私は影でこっそり見守ることにいたします。


・・・・って、お母さん?????!!!!!

(それからどっか間違ってたらご指摘ください。ジンソクに訂正いたします・・・。)

・・・次回はジュリーの小ネタを少々。
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じゅ、じゅりぃいい~~~

2010年07月17日 21時46分00秒 | ジュリー・・・思い出雑記あれやこれや
やっぱ、ちゃちゃめのアーティスト話ににこの人ははずせないでしょうなあ・・・

今はファンというにはおこがましいと言う立ち位置におります。
ぶっちゃけCDも買いませんしライブへも行きません。
藤山直美さんとのお芝居(桂春団治さん役ですな)も見ません。
↓これね。

テレビに出ることがあれば見ますよ、録画するし。・・・でもその程度。
(もっともほとんどテレビ出演はありませんけど。)
もちろん全然キライではありません。
元気で活動されている知らせを聞けばほっとするし、100歳までやってくれと祈っております。
また、現役でファンをしておられる、特に近年ファンになられた方々のファンブログに
毎日お邪魔してはセンパイ面をさせていただいております。
(皆様、いつもエラソーでごめんなさい。)

まあ、ファンOBといったところです。

でも、昔むかし大ファンだったのはホントウですし、
「なんであんなに、あんなん好きやったんやろ?」などと言うような、
別れた元カレに対するような後悔のキモチは一切ありません。
めちゃめちゃ熱心にファン活動していた頃のジュリーは今でも好きです。
ていうか、それは自分の思い出につながるからですけどね。
主に1972年から1984年までが一番熱心にやってた頃で、
モロ青春時代にかぶるわけでして・・・
あ、部活もやってましたよ~、ちゃんと。勉強は・・・ほどほどで。

学校のクラス内でもジュリーファンで超有名で、クラスメートに
「お前うち帰ったら悠木千帆(現・樹木希林さん)みたいにポスター貼って
じゅりい~~てやってんねんやろ?!」としょっちゅう言われた。
(↓TBSドラマ「寺内貫太郎一家」の有名なシーンですね)

自分の結婚式の時、3歳からお世話になっているある恩師に
「ちゃちゃちゃんは、ジュリーの大・大・大ファンで、
いつもたくさんの情熱をジュリーに注ぎ込んでいました。」と、全面的に暴露された。

クラスの友達を半ば無理矢理コンサートに連れて行き、"ジュリー教”の信者を増やしていた。
(実際増えた。←そのうち一人は今も現役でファンしていて私より熱心。)

「今度のジュリーの新曲、なかなかええね。」と言われたら強引にレコードを貸した。
↓特にコレ!

「オススメの歌があったら誰のでもいいから録音して。」
とテープに録音を頼まれたら、必ず全曲ジュリーの歌を入れて返した。

ファン友達とテレビ等から録音したテープを交換し合って"コンプリート”目指した。

学生寮のコンパで、ファンである後輩とアコギで"勝手にしやがれ”を熱唱した。

朝の6時に大阪中央郵便局へコンサートのチケット申し込みにたびたび行った。
(郵送先着順で前から席を割り振られたので。おかげで毎回前から5列目以内でした。)
一度は洛北の果ての学生寮から後輩にバイクで送ってもらって阪急京都線の始発に乗ったことも。

・・・・こんな感じでした。

・・・みんなにはめちゃめちゃ迷惑やったやろなあ・・・。今更反省・・・。
でもねー、当時はジュリーはかなり売れていたので、
必ずひとクラスにひとりやふたりはファンがいたのよ。
ファンまではいかないけど、わりと好きやでと言うヒトもザラにいたのよ。
「キライやけど今度の歌は好き」とか、「ドラマは見てるよ」というヒトも結構多かった。
ファン仲間や、理解はできるというヒトが身近にいた時代です。
だから、みなさん好意的に見てくださってたと思います。

でも、天邪鬼ですから、ファンクラブにはほとんど入っていませんでした。
「FCなんかに入らんでもファンは出来る!!」
と主張していましたが、実は理由は他にありました。
①ライブできゃあきゃあ騒ぐのが苦手。そういうファンだと思われたくない。
 きゃあきゃあ・・・が悪いと言っているわけではありません。
 私はそんなんようせんし、静かに、自分の楽しみ方で楽しみたいと思うだけです。
 FCに入っていると騒ぐファンだ思われる、という思い込みがあったのですね。
 もちろん今は思ってませんよ、コドモのときの偏った考えですのでお許しを。
 それに、上記の行動をみると、いかにもきゃあきゃあ言って、踊りまくっていそうでしょ?
 でも、全っ然そんなことないんですよ。
 「ジュリー!!」なんて声援送ったことはただの一度もありません。恥ずかしくて、とてもようやらん。
 だから、”そういうファンだと思われたくない”んです。違うから。
 要はタダの自意識過剰。
②当時のジュリーのFCは所属事務所全体のFCだったので、いらんタレントもついてきて非効率。
③コドモなのでお金がない。
FCにようやく入ったのは自分で稼ぐようになってから。
それも、突然ジュリーが「休業宣言」を出して公の場に出なくなってから。
情報を得たいと思って、やっと重い重いオシリをあげました。
・・・遅すぎやっちゅーねん、とにかくなんか意地になって入らんかった・・・

FC入らなくても情報は手に入ったし、いい席もとれてたし、
それに歌番組全盛期、毎日どこかで歌番組をやってて、
毎日どこかでジュリーの顔が見られたのです、リアルタイムで。
ラジオ番組もいっぱい出ていたから、毎日どこかでおしゃべりもきけました。

ビデオ(DVDはもちろん論外)も1980年代入るまでは一般家庭にはめったに存在せず
従って録画はろくすっぽ出来なかったし、見逃したらまずそれっきりだったし、
録音はできてもほとんどモノラルばかりだけれど、
インターネットもyoutubeも一切なかったけれど、
出演した映画も、レンタルビデオショップなんてまだあまりなかったから
見たければお金を出して上映期間中に何度も見に行くしかなかったけれど、
または自主上映を探し出して行くしかなかったけれど・・・

・・・でも、今から思えば、すごく幸せだったなと思います。

↑最近のジュリー


・・・て、ジュリーについては何も書いてへんがな!!!

すみません、次回はご本人について・・・
・・・まあ、ご存知の方が多いとは思いますが?!
コメント
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